第二十五話 手記 三
衣服がほつれてきた。身体の成長は止まっているので替えずとも平気だと思っていたが、日々の生活の中で目に見えない摩耗が積もり積もっていたようだ。
町へは極力出たくなかった。しかし、生きるのに困窮するくらいなら行くほかない。
心配そうにこちらを見上げる小さな蜘蛛に微笑み掛けながら、彼女はコートを羽織って外へ出た。
辺り一面が彼女の肌のように白く染め抜かれていた。厚く降り積もった雪にブーツの跡が深々と刻まれては消えていく。小麦粉を思わせる細やかな雪は彼女の頬に吸い寄せられて、白い肌に同化するかのように溶けていった。
コートの胸ポケットに蜘蛛を入れていた。人間の町を一度見てみたいと懇願してきたのだ。彼は臆病な性格をしていていつも仲間からいじめられているのだが、好奇心は旺盛なようで、魔女と一緒なら怖くないと懸命に主張した。
いつも共に過ごしている生き物が傍にいると心強い。用事を終えてすぐに帰ってこようと互いに言い合い、町へと下りていった。
森を抜けて、商店が立ち並ぶ方へ歩いていく。町へ出るのは随分と久しく、まるで余所の町に来たような雰囲気を感じる。
突き刺すような冷たい風に頬を切られながら、少し背を丸め気味にして歩いた。フードは目深に被っている。傍から見ただけではどこぞの旅人だと思われるに違いない。
歩を速めて行きなれた店へと急ぐ。胸ポケットの蜘蛛が寒さに凍えぬよう抑えながら扉を開いた。涼やかなベルの音を聞き、恰幅の良い中年の女がいそいそと出てくる。
「ああいらっしゃい、うちの生地はなかなか丈夫だけど、お安くしてあるよ、これなんか――」
言い終わらぬうちに、こちらを見て顔を引きつらせた。
「な、なんだ、あんたかい。い、いきなり来て、驚かせないでおくれよ」
足を震わせながらも噛みつくように言う。
気にしないように努めながら、魔女は小瓶を取り出して秤に乗せた。
「これだけください」
透明な瓶になみなみと注がれた油に女の視線が釘付けになる。今は寒風吹き荒れる冬の季節。ただでさえ不足しがちな油はより高価なものとなる。
「ふん、まあ、そこにあるのを適当に持って行きな」
小瓶を鷲掴んで、女はのしのしと後ろへ控えていった。
魔女は台に並べられた生地を丁寧に観察し、臙脂と濃い青を選び取った。備え付けの鋏で裁断して女の方へ見せる。女は一瞥するとふいとそっぽを向いた。その目に走った強い怯えを魔女は見逃さなかった。
屋敷にやってくる獣たちへの土産も買おうと、いつもは通らない出店の並びへと足を運ぶ。予定にない動きに不安覚えたのか、胸ポケットの蜘蛛がかりかりと内側からひっかく感触がした。宥めるように外側から優しく撫でてやる。
「大丈夫よ。以前はもっと色々買い物をしていたのだから」
綺麗な石を展示した出店があった。屋敷でとりわけ働き者の鴉には、少しばかり奮発して小さな宝石でも買ってやろうと思った。小瓶を手に取りながら、幌の下の店主に近づく。
「あの――」
遠慮がちに声をかける。眼鏡をかけ、小刻みに石を磨いている男が目を上げた。
「いらっしゃいませ」
機械的に呟いて、ぎょっとしたように目を見張る。
フードを被っていても、正面から顔を見れば彼女の人間離れした風貌は一目瞭然である。店主の男は磨く手をぱたりと止め、信じられないものを見るような目で凝視していた。
「すみません、この、紅い石をよく見せていただきたいのですが」
屈んで、石の一つを指さす。男はがたがたと震えながら手を伸ばし、透明なケースの蓋を開けた。その様子を気の毒に思いながら彼女はじっと見守っている。
その刹那、後ろから何かに思い切りぶつかられ、彼女の身体が前へ倒れかけた。
「あっ――」
すんでの所で横に倒れ、男に激突するのを回避する。間一髪だった。男も石も無事だった。
尻餅をついた彼女の目の前に、小さな少年が立ち尽くしていた。まだ二、三歳頃だろうか。辺りに薄らと足跡が散らばっている。走り回っていたようだ。可愛らしい目をぱちくりと瞬いて、ぶつかった相手をじっと見ている。
そこで気がついた。倒れた拍子にフードが捲れて、白い容貌が露わになってしまっていた。咄嗟にフードを被りなおしたが、周囲に立ち尽くす人々の視線が痛いほど突き刺さる。
「だ、大丈夫? ごめんなさいね」
魔女は慌てて笑みを取り繕いながら立ち上がった。
「怪我は、なかったかしら」
身体の小さな少年を気遣い、屈みつつ手を伸ばした。
「触らないでっ!」
鋭い一喝と共に、ものすごい勢いで少年の身体が連れ去られる。上等なコートを羽織った女が少年を庇うように立ち、こちらを睨みつけていた。火のような息づかいである。魔女はこの女に見覚えがあった。領主と川辺で思いを交わしていた、あの女だった。
魔女は女と、後ろからそっとこちらを覗く少年を交互に見て、全てを理解した。
「……もう、子まで生していたのね」
「なによ」
女が身構える。魔女は首を振って、踵を返した。
振り返らずとも気配でわかる。女はいつまでもこちらを睨みつけていた。姿が完全に消えて安心できるまでは、微動だにしないつもりなのだろう。
歩きながら、形容しがたい黒い感情がふつふつと湧き出てくるのを感じた。白い雪を力一杯踏みつけ、深々とブーツの跡を刻み込みながら、森へ向かっていく。
ポケットから蜘蛛が少しだけ顔を覗かせた。酷く怒っているようで、小さな牙をむき出しにしている。人間の町への漠然とした恐怖心に気圧されて縮こまっていた彼も、あまりの仕打ちに我慢ならなくなったらしい。
「……もう、町を覗こうなんて、思わない方がいいわよ」
指先で蜘蛛を宥めながら、魔女は力なく笑った。
そういえばお土産を買うのを忘れていたと思い出した頃には、もう屋敷が見えていた。
それから彼女はますます気むずかしくなり、部屋に閉じこもってふさぎ込むようになった。ねずみたちが服を縫い上げ届けにいくと、ありがとうとはにかみはするのだがその目は死人のようであった。
月日は流れ、まだ底冷えの残る空気に、微かに芽花の匂いが薫り始める。雪解けの水が流れ込む川を越えて鴉が部屋へ舞い降りた。いつものように、町での噂を教えてくれるのだ。
「――戦争?」
眉をひそめる魔女に、鴉は一声鳴いた。
「そう。わかったわ。ありがとう。台所で食事をしていきなさい」
鴉はその言葉に従い、部屋を出ていった。
独り残された魔女は、揺り椅子の上で膝を抱え、今し方聞いた情報を整理する。
近年は比較的穏やかで争いの気配は無かったが、確かにこの森の外では度々戦いが起こっていた。西と東に別れた領土戦争である。
ここに棲みついてから何十年もの間どちらにも手を貸すことなく傍観していたが、両者の間に力の差はみられない。ほぼ互角である。毎回多くの被害を出して、その度に協定を結んで和平解決としているが、川のここからここは西側のものだの、田畑の地はここまでが東のものだの、細かな規定が定められるたびに、今度はそこを争点としてまた争いが起こるのだ。
これから行われる戦いは、一つ前の協定で分け合われた川が原因のようだ。領主と女が抱き合っていた忌々しい光景を思い出す。
魔女からしてみれば、とっとと滅びればいいとすら思えるのだが、生活を考えるとそうもいかない。
「鎮火するまで、引きこもらなくてはね……」
独りごちて、皮肉めいた嗤いを浮かべた。
しかし、魔女の想定は大きく覆されることとなる。
人間が一人でここへやってくる!
一階で獣たちが騒ぎ立てた。兎も蜥蜴も蛙も蜘蛛も、屋敷で春を迎えていた生き物たちが皆一斉に慌て出す。
「なに、どうしたの」
部屋から顔を出して、吹き抜けから下を覗き込む。獣たちがわたわたと騒々しく走り回っている様子を見て、ようやく事態を悟った彼女は、部屋に戻ってベランダを開け放した。
凍てついていた丘に薄らと緑が差している。そこをぽつんと一人の人間が、こちらへ向かって歩いているのが見えた。
目を細めてじっと見つめる。そして、ああ、と口を開いた。
「鴉のみんな、お疲れのところ悪いけれど、もう一つ用事を頼まれてくれるかしら」
たちまちばさばさと足元に鴉が集合する。真っ黒な毛玉のようなものが固まり蠢く様は異様だった。彼女は白い瞳を窓の外に向けたまま言った。
「領主様を、丁重にお迎えしてね」





