第十六話 作戦の夜
日が没する。メアリは本を閉じて立ち上がった。
「さてお嬢様、参りましょうか」
「……うん」
少女も固い表情で立ち上がった。メアリについて歩き、塔の入り口の真下で立ち止まる。
元の大きさに戻った黒い蜘蛛が、するすると石壁を上っていくのが見えた。
「あの蜘蛛がお嬢様のお身体に糸を巻き付け、引き上げます。私は先に上におりますから、ご安心ください」
それだけ言って、メアリは鴉の姿に戻り、頭上へ羽ばたいていった。
少女は遙か上を見上げる。月が小さく覗く暗い空。あの外へ出られる日が来るなんて、未だに信じられないことだった。
本当に出られるの。
本当に、出ていいの。
高鳴る胸を押さえながら、そんなことを考える。
今か今かと首を痛くしながら見上げていると、視界の向こうから小さな点が降りてきた。点はどんどん大きくなっていき、目の前に降りてきた頃には手で掴めるほどの太さの金の糸になっていた。よく見ると細い糸が幾重にも絡まり合ってできているのがわかる。
垂れ下がった糸の端はどんどん伸びて、まるで意思を持つかのように少女の身体に巻き付いていった。身動きが取れないほど頑丈に、しっかりと固定される。
次の瞬間、足先がふわりと床から離れた。
「わっ」
口から思わず声が漏れる。垂れ下がる糸に慌ててしがみついた。そのまま身体が持ち上げられ、どんどん引き上げられていく。
不安定な浮遊感に強い恐怖を抱いた。今にも落ちるのではないか、糸が切れるのではないか、そんな不安にかられてしまう。
恐怖を感じながらも、湧き出る好奇心は抑えられず、少女はおそるおそる下を見た。石の床が薄闇に紛れて見えなくなっていた。人生の大半を過ごしてきた、そしてこれからも一生を過ごすはずだったあの闇の中から出て、自分は今、遠い遠い月明かりに向かって昇っている。
だんだんと、出口に近づく。見上げれば小さかった遠い穴が、今、目の前で大きな口を開けている。もう少し、もう少し……。心臓が激しく高鳴る。はやく、はやく。待ちきれなくて、少女は思わず身をよじる。
ついに、『塔』の出口から少女は顔を出した。
辺りは見上げるほど大きな木々に囲まれた、鬱蒼とした森であった。地面に生えた草も花も、少女の頬を撫でる風も、鼻腔をくすぐる湿った土の匂いも――全てが新鮮で、初めてだった。
黒蜘蛛がするすると糸を吸い込み、少女の身体を持ち上げる。前脚と触肢で引き上げて、その身体をふわりと大地に横たえた。
少女はおそるおそる身を起こし、きょろきょろと辺りを見回した。
金色の鴉と、金色の蜘蛛たちが辺りを取り囲んでいる。
「えっと……」
戸惑う少女の目の前で、一匹の鴉が姿を変える。
「お嬢様」
メアリが微笑んだ。
「お帰りなさいませ、地上へ」
「……うん」
胸が詰まって何も言えなかった。
吹く風に目を細める。夜の森に満ちた豊かな香りを肺いっぱいに吸い込む。何より、月がこんなにも近い。闇に慣れきった目には眩しいほどだった。その全ての感覚が愛おしい。
小さな金の蜘蛛が進み出てきて、その身体を大きく変えた。
――準備は、よろしいか。
流れ込む蜘蛛の意思。あの時話した偉い蜘蛛だ、と悟る。
少女の表情がこわばった。
「お嬢様、大丈夫ですよ。お見せしたあの石を探してくださるだけで良いのです」
メアリの手が少女の肩に触れる。
「どこか、森の木立に切れ間がありませんか? 私が解雇された後、本格的に鉱石が埋め込まれてしまった様子で、私が出入りしていた森の出口が見当たらないのです。お嬢様の目には、鉱石の力は及びませんから、我々とは違う景色が見えるはずです」
改めて、少女は首を巡らせた。
暗い木々に囲われて鬱蒼としているが、木立の中に一カ所だけ、ぽかりと口が開いている。
おもむろに一歩踏み出した。草や枯れ葉の重なった地面が足を柔らかく受け止める。
一歩、また一歩。初めての感触に戸惑いながらも、大地を踏みしめていく。そして、たどり着いたその場所から見える光景に、少女は小さく息を呑んだ。
暗い森が終わり、広々とした丘が広がっている。森と丘とを隔てるように細々とした川が流れており、その向こう、遠くに小さく見える、赤茶けた屋根のついた白い建物は――
理性を保てなければいつまでも眺めてしまいそうだった。それが何の建物なのか、少女にはわかっていた。
あそこに自分は居たのだ。メアリや、母と一緒に住んでいたのだ。
首を振って無理矢理視界から外す。早く役目を終えなければ。石はきっとこの辺りに埋め込まれているに違いない。しゃがみこんで、大地にそっと手のひらを這わせる。柔らかく湿った冷たい土。白い指先をずぶずぶと押し込みながら、あちこちの感触を確かめていく。
やがて、爪の先が硬いものを探り当てた。
そのまま土を掻き、掘り出していく。黒く湿った土の合間から、くすんだ薄緑色の石塊が姿を現した。
指先で摘まんで引っこ抜く。石は、メアリが見せてくれた絵のままの姿をしていた。少女は手のひらに握った石を迷いなく川の水へ落とした。
ぽちゃ、と小さく音をたてて、石は流れていった。どんどん小さく、やがて姿を消したのを見届けて、少女は森の中を振り返る。
メアリが駆け寄ってきた。迷うことなく真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「お嬢様……!」
メアリの温かな腕が少女の身体を包み込む。
「うまく、できた?」
「ええ。ほんの一瞬の出来事でしたわ。瞬きの間に、景色が姿を変えたのです。まさに、かつてお嬢様の元へ通っていた出入口が見えましたわ」
抱き合ったまま、二人は森の外に広がる景色に目を向けた。
月明かりが二人を照らす。風がそよぎ、二人の身体を柔らかく撫でていく。
「ああ、そうですわ。いつまでもこうしてはいられません」
メアリはそっと身体を離し、少女の背に手を当てた。
「さあ、ここからは我々の仕事です。お嬢様はこの者とお戻りください」
この者、と差した先に黒蜘蛛が立っている。迎えに来たのだ。
「でも」
あくまでも食い下がろうとする少女だったが、メアリは優しくその背を押した。押しやられた少女の身体を、蜘蛛は巨大な触肢でふわりと受け止める。
メアリは金色の鴉に姿を変えて、群れの方へ戻っていく。
少女は不安げに蜘蛛を振り返った。
「本当に、何もしなくていいのかしら」
蜘蛛は答える代わりに、少女の身体を優しく抱き取った。そのままするすると『塔』の入り口へ戻っていく。
糸を身体に巻き付けられながら、少女は群れの方をじっと見ていた。少女が開けた森の向こうへ出ていく者、出口の傍で待機する者。蜘蛛と鴉の群れは一斉に動き出している。
少女の身体は糸によって再び『塔』へ降ろされた。
遅れて黒蜘蛛も降り立つ。
少女は塔の入り口を見上げていつまでも立っていた。首が痛むのも構わず、じっと立ち尽くしたまま動かない。
ふと、太股の後ろに何かが当たった。振り返る。いつの間にか、真後ろに揺り椅子が置かれていた。傍に控えた黒蜘蛛を見上げる。
「ありがとう……」
少女は揺り椅子に腰掛けた。
きぃ、きぃ、とわずかに揺らしながら、遙か上をいつまでも眺めていた。
蜘蛛の毛むくじゃらの身体が少女のむき出しの肩に触れる。寒くないように身を寄せてくれているのだろうか。
「ねえ……」
ぽつりと、呟いた。
「本当にお屋敷に帰れたら、あなたは、来てくれるの」
蜘蛛の身体がわずかに揺れる。
少女は上を向いたまま続けた。
「とても迷惑をかけてしまったから。無理はしてほしくないけれど……」
温かな屋敷に戻り、森の危険性やひもじさから逃れられても、傍に蜘蛛がいないのは、例えようのないほど心寂しかった。
蜘蛛の黒々とした脚が後ろから伸びて、少女の身体を包むように優しく抱いた。
「来て、くれるの……?」
尋ねる声はどうしようもなく震えていた。
「わたし、あなたに食べてもらいたくて、たくさん、食べたわ。でもずっと、貧しいままで。あなたが傷つけられたのも、きっとわたしのせい。わたしのせいで、あなたばかり、迷惑かけて」
自身でも驚くほど、自責の言葉が次から次へとあふれ出す。蜘蛛の脚を掴みながら涙を流した。
「あなたは、優しすぎるわ。わたし、きっとあなたに甘えて、またどこかで、あなたを」
傷つけてしまう、と言いかけた言葉は、紡げなかった。
後ろからするすると伸びた糸が、少女の口を柔らかく塞いだのだ。
メアリと呼ばれる鴉から言われた通りに、蜘蛛は少女を守っていた。今頃は蜘蛛と鴉たちで、少女を迎える準備をしている頃だろう。
少女は塔の入り口の真下で突っ立ったまま、じっと動かない。いつもなら眠っている頃合いなのに。しんどくはないのか、つらくはないかと心配になってしまう。おまけに、入り口からは冷たい夜風が吹き込む。鉱石のせいなのか、地上の風と違って『塔』の風はひどく冷えているのだ。
蜘蛛は揺り椅子を動かして少女の真後ろにつけた。全く気がつく様子がないので、とん、と軽く押してみる。少女はやっと腰を下ろした。
少女はずいぶんと負い目を感じているようだった。自分のために他者が動いていることを憂うあまり、不安そうに眉を寄せて、上ばかり見上げている。
「本当にお屋敷に帰れたら、あなたは、来てくれるの」
唐突に投げられた言葉。
尋ねられるまでもなかった。
それに、これから屋敷で起こることを考えれば、尚更少女の傍にいて、何があっても受け止めたいと強く思うのだ。
自分も共に行く。傍にいて、いつまでも守ってやる。そう伝えたいのに、この黒く呪われた身体は何も言うことができない。胸の内を焼き焦がすような切なさで息苦しくなる。脚を伸ばし、少女の身体を後ろから抱くことしかできなかった。
少女は目から大粒の雫をこぼしながら、震える唇で延々と自分を責め続けていた。違う、そんなことはない、そう心の中で訴え続けたが、とうとう耐えられなくなって、彼は糸を吐いた。
どうかそれ以上、あなたを傷つける言葉を聞かせないでほしい。
口元を痛めないように、極力優しく、ふわりと塞いだつもりだった。
少女は何も言わなくなった。ただ肩を震わせて泣いていた。
思えば、自分の前で彼女は泣いてばかりだった。少女の目から水滴が流れ出るとき、判別しがたい複雑な感情が濁流のように蜘蛛に押し寄せてくるのだ。少女の抱えた深い闇と、繊細過ぎる心が、彼女自身を苦しめているように感じる。
やがて少女は力尽きて、瞼を閉じた。目尻に残った水滴を、伸ばした触肢でぬぐい去る。
メアリによれば、人間は眠っている間に映像を見るという。それは記憶から紡がれているそうだ。彼女はどんな夢を見ているのだろう。時折苦しげに息を吐いたり、胸を強く抱きしめる時がある。
この少女は産まれた時から忌まれ、親の手によってここへ閉じ込められたらしい。そんな彼女の記憶が紡ぐ夢は、どれほど暗く、苦しく、自らを苛むことだろうか。
どうか、これからは、心地の良い記憶で満たしてほしい。いつか夢で見る映像が、自分を愛する者たちで溢れる日が来るように。
やがて蜘蛛も、意識を手放した。
少女の白い身体をしっかりと抱いたまま、眠りの中へ誘われていく。
閉ざされた意識の中、一瞬だけ、少女の綻ぶ顔の映像が見えた気がした。





