発病と裏切り
発病と裏切り
その頃、広島ではさまざまな出来事が起こっていた。
まず、進士の原子爆弾症が発症した。なにげなく髪の毛に櫛をあてたら、ごそっとひと束、髪の毛が抜け落ちてしまったのだ。
「あなた、ふざけてるんでしょう。ちょっと櫛を当てただけで、そんなに禿げるはずがありませんわ」
妻の初子は、コロコロ笑っている。冗談だと思っているらしい。ふだんの心がけが悪いとこうなるのだと進士はちょっと、初子をうらめしく思った。
髪の毛がぬけてから身体がだるく、腕に斑点のようなものが見えていた。その現状を見て、さすがの初子も顔色を変えた。
「―――これはなにかしら?」
「噂じゃ、原爆症らしいわよ」
小夜子はそう教えると、したり顔で話してくれた。
これが出る人たちは、遠からず死ぬという、原因不明の病気。患者のほとんどが原爆に遭っていることから、『原子爆弾症』と呼ばれるようになった謎の病気。
進士は、病院に入れられることになった。
医者は、ハッキリしたことは言わなかった。
「この病気の原因が原爆なのか、そうでないのかはなんとも言えません」
医者は、腕組みしながらうなった。
「もう少し、データがほしいですね」
ABCC(放射線影響研究所)の研究結果待ち、ということになるのだろうか。だが、ヤツらは研究だけして治療はしない。決して。
自分たちはモルモットだ。
声を大にして言いたかったが、禁じられている。
統治されるとは、こういうことなのだ。
踏みつけにされても、立ち上がる力がない。
そのうえに、第二の事件が発生した。これは、仕事がらみの事件であった。
朝、目覚めて朝食をベッドで食べていると、バタバタと大きな足音が近付いてきた。
いやな予感がしたが、朝食をさらに食べ続ける進士。
がちゃっと扉が開いた。
「副頭取、大変です」部下の橋本が、病室に駆け込んできた。背後で看護婦が、
「いま、目覚めたばかりですから、落ち着いて」
と部下をなだめている。
橋本は、息をハアハアさせて、若い瞳を心配で曇らせていた。スーツを買う余裕がないため、まだ学ラン姿である。あごにはぽつぽつと無精ひげが生えており、鼻は団子っ鼻。幼さが見られるが、これでも進士の頼りにしている一番の部下である。
黙っていろと看護婦をねめつけた進士は、部下のすがりつくような目を直視した。
「どうしたんだ」
「GHQの命令で、預金が封鎖されました。インフレ対策なのだそうです」
進士は、ガバッと身を起こした。ガチャーンと茶碗が床に転がった。砕け散った茶碗と、それを載せていたお盆を眺めながら、看護婦が聞こえよがしのため息をつく。
「なにっ!」
「興奮しないで。落ち着いてください。橋本さん、あなた当分出入禁止になりたいんですか?」
看護婦と医師が、同時にそれぞれの言葉を放っているが、橋本は一向気にしていない。
「このところの狂乱物価と、それにともなう預金の引き出しに対応するためだそうです」
橋本は、原稿を朗読するアナウンサーみたいな口調であった。
「そんなことをすれば―――」
進士は、身体の奥の寒気が、全身を覆い尽くす気がした。
「―――庶民は、食べるものを買えなくなるでしょう」
橋本は、結んだ。
初子と進士の顔は、紙のように白くなった。
お互いに眼を見合わせる。
「ちくしょう……」
進士は拳を握りしめた。ベッドの上でなにもできない自分が、歯がゆくて仕方なかったのである。時に昭和二十一年二月十六日土曜日、営業の終了した午後一時三十分、突然「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」が交付、発令されたのである。いわゆる「預金封鎖」と「新円切り替え」といわれたものであった。
預金封鎖の前から、若者を中心に、相手に暴力を振るったり、石を投げつけたりという自暴自棄に駆られた人々がいた。もちろん原爆の直撃を受けてそのこころに傷を負った、というのもあるが、なにより将来に希望を持てない人たちが多かったのだ。
周囲はバタバタ死んでいく。物価はどんどん上がっていく。職は見つからない。食べ物もない。これでどうやって希望を見つけていくのか。
二月一日に進士が入院すると同時に、関谷が血を吐いて死んだという知らせが、やっと初子の口からもたらされた。
親友が。
あの、まじめ一本槍のバカ関谷が。
あんないいヤツが―――関谷がいなくなった。親友の死とその葬儀に隣席できず、ベッドの上の進士はもだえてくやしがった。
「葬儀に参列できなかった」
進士は、初子の細い瞳を見上げて、恨めしげに言った。
「あなたは病気なんです。かえって遺族の方々にご迷惑です」
と、初子。
「花の一つも手向けてやりたい」
進士はポツリと言った。
「病気が治ったら、ね」
初子は言った。
「なんだ。いつも俺がおまえに言ってる言葉じゃないか」
進士は憮然として言った。
「言われてみてわかることって、いろいろありますわねえ」
コロコロと初音は笑った。
時代は変わっていく。おカネは信用されるべきものではなくなった。
『終戦とともに軍関係の施設への全工事は打ち切られた。軍当局は早急に打ち切り工事の代金支払い請求書を出すよう、関係土建業者に指示してきた。ところが査定もそこそこに、片っ端から現金を支払ってくれたので、経理担当者は請求書の作成に追われ、受け取った札束をリュックサックに詰め込んで背負って帰った。
手持ち現金は急増したが、資材購入の見通しは全くたたず、再建のメドなどつかみようがなかった』、と、ある建設業界の会長がのちに語っている。
のちの人々は、戦争直後はモノはなくても希望はあった、という。しかしいま現在、将来は真っ暗闇であった。七十年間草木も生えないと言われた広島で、いかにして生き残るべきか。その手探りの道筋を妨害するかのように、現金封鎖が行われたのであった。
インフレ対策である、とGHQはうそぶく。終戦時から二十年十二月までの五ヶ月に、全国の事情を見ると、財政支出総額は五百五十億円にも達したが、財政収入は四百億円に過ぎず、この不足分が国債の発行と日本銀行からの借り入れでまかなわれた。しかも国債発行の七○%以上が日銀引受けによっていたのである。このようなインフレ状況の中にあって、その防止策として貯蓄増強が進められた。
ところで、食糧の絶対的不足、生活物資の欠乏等、国民生活の物質的窮乏化は、食糧価格をはじめとする一般物価の高騰をもたらし、生計費支出のため預金の引き出しが激増することになった。
「財産税が実施されるかもよ」
「えらいこった、財産はあるうちに使わにゃ損だな!」
そんな予想が、預金引き出しにいっそうの拍車をかけた。個人はもとより、企業は従業員の解雇手当、債務整理、物価高による賃金引き上げ、などにより膨大な資金需要をかかえていた。金融機関の貸し出し増加と預金の減少、それに対応して日銀退出の急増と通貨の膨張により、インフレは進行していったのである。
どれだけ政府が無能だったのかが、よくわかる話ではある。
とはいえ、むちゃな戦争の直後である。有能な官僚や政治家たちは、戦犯として処せられてしまっていた。現時点では吉田茂ぐらいしか、GHQの総司令官であるマッカーサーと対等に話せる人間がいない。官僚も政治家も、人材不足の感は否めない。
ワンマンで有名だった吉田茂首相には、面白いエピソードがある。
インタビューする記者に、「普段なにを食べてますか?」
と聞かれて、
「人を食ってます」
と答えたというのだ。そのとおり、あの強面のマッカーサーと交渉して、さまざまな物資や援助を取り付け、子どもたちに夢と希望を与えたのは、吉田茂の功績であるが、それはまた別の話である。
敗戦直後には、政府も国内も大混乱であった。物資が不足していたので、生活するので手いっぱいという状況だった。その上、インフレが追い打ちを掛ける。国民も企業も、お先真っ暗の状態だったのである。
狂乱としか表現できない物価の上昇で、庶民も企業も苦しんでいた。昨日買えた卵が、今日は買えないなんてザラだった。だから「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」が出たのは、政策としてはアリかもしない。庶民の迷惑を考えれば、手前勝手な命令だと言えるのだが……。