進士の信念
進士の信念
ある日、話があるから来てくれ、と関谷から進士平五郎のところへ持ちかけられた。どうしたんだ、と問い返すと、ともかく話があるから、来てくれと言う。関谷はなにを語るだろう? 普段から、罹災することを予防するために努力してきたが、それと関連する話だろうか?
関谷のG銀行へ行くと、彼はすっかり憔悴していた。頬はこけ、目はぎらつき、人が変わったみたいになっている。G銀行は、すっかり片付いていたが、壁はまだすすだらけだった。窓ガラスから、キラキラした光が射し込んできている。ここは執務室である。
「あのとき、より強固な金庫が欲しいって言ってたろう」
関谷は、言った。進士は、この銀行の地下で会話したことを思い出した。アメリカ産の金庫ではなく、国産の金庫が欲しいというためにコソコソと地下室で話し合った。あれがすべての運命の分かれ目だった。万感迫ってきて、声がかすれた。
「ああ」
「焼け野原のまんなかで、一個だけぽつんと金庫を見つけた。周りが瓦礫の山なのに、そいつだけ『でんっ』と立ってるんだ。驚いたよ」
「―――銀行の金庫の強度は、かなりのものだな」
「アレを見て思ったね。人間、命さえあれば、なんとかやっていけるって。私は社員とその家族を失った。しかも、私自身も、あの爆弾で家族を失った。しかし、命がけで得たものは、そう簡単に手放しちゃダメだ。O.ヘンリーの『最後の一葉』だよ」
「……『最後の一葉』?」
「ほら、病気だった主人公が、窓の外の枯れ葉を見て『あの最後の葉が落ちたら自分も死ぬ』と言ったのを、老絵描きがその葉の絵を描いて主人公に生きる希望を与えたってヤツ」
「でも最後は、老絵描きは死ぬんだろ、たしか」
「自分は死んでも、人を活かした。仕事って、そういう面があると思わないか」
「―――お説教は俺ひとりで充分だろう。いつも俺のことを、坊さんみたいだと言っていたくせに」
微苦笑して、進士は言った。
「からかうなよ。まじめに言ってるんだから」
関谷は、少し頬を赤らめる。進士はニヤニヤ笑いながら、
「それで、金庫のなかの書類はどうなんだ? 無事だったのか」
「ああ、だいじょうぶだった。表面こそデコボコだったが、ダイヤルなどには故障がなくてな。比較的容易に開けられた。どういうわけかしらんが、まったく無関係にもかかわらず、その銀行の行員といっしょに、金庫を開くことを立ち会わされたよ。そっちは」
「こっちは、食料と事務用品を調達するのがたいへんだ。書類はだいじょうぶだったが、鉛筆ひとつも貴重でね。もっとも、ほかの銀行に貸し出してしまった、というのもあるが」
「おまえバカか? 銀行から事務用品を取ったら、武器のない軍隊だろうが。どうやって仕事をするつもりなんだ」
「食料は、県北地方に行って調達の約束を取り付けた。竹原の缶詰工場から購入したこともある。衣類や軍隊服の支給を広島市や公団にお願いしたり、あらゆるコネをつかってる。生活用品や事務用品を集めて回るのは部下の仕事だが、お願いするのは俺の仕事だ」
「おまえも苦労するな」
「忙しくしているのが一番さ。金庫が開いたので、諸帳簿類が出し入れできるようになったから、営業活動はできるようになった。けど、掃除が……」
「ああ」
やけただれた建物内を想像して、関谷は顔をしかめる。
「後片付けも、あるだろうな」
「領収書などの諸用紙や文房具類も足りない。グチるわけじゃないが、営業ばかりやっていられないんだ。だけどお客さんが来たら対応しなければならんだろ」
「だんだん、お客さんも増えてきてるしな」
バラックが建ち始めている。異臭は減っていた。燃えていた地面は、いまはすっかり鎮火している。しかしおびただしい死体の山に、まるでゴミの山でも棄てるように、穴を掘って人を埋めたと聞いている。一瞬のうちに、十万人以上死んだそうだ。まるで落ち葉を燃やすように。
恐るべし、原爆。
一段落ついた人々が、預金を下ろしにやってきた。火災保険金の代理払いに関しては、五千円までは無条件で支払われるというので、八月十六日頃から以降はずいぶん来客が多くなり、整理のため番号札を渡してその順番に処理していた。当時中学出身者の初給が四百五十円くらいであるから、五千円の価値がうかがわれる。
火災保険や預金の伝票は十三日には一〇八枚、十四日には九十一枚、十五日には百十三枚となり、十六日には三百三十六枚にまで達した。営業時間は午前一○時から午後三時までの五時間。死傷などにより行員は不足し、出勤行員もおおかたが傷を負っている。血まみれの行員が、ふだんの事務的冷静さを失っていくさまは、進士としては胸の痛む思いであった。
営業開始後しばらくすると戦災者で行内の客だまりはいっぱいになった。あとで部下に聞いた話では、できるだけ便宜扱いはしたが、なかなかはかどらない。
「おい、こっちは被災者だ! 早く処理してくれ!」
客のひとりが怒鳴りつけるのを、たまりかねた行員の一人がカウンターに出て行き、
「戦災者はお互いです。みなさんの血痕を見てください。一生懸命やっているのですから、静かに願います」
と平常時にはとても言えないような言葉を応酬したという。
思わずその行員を注視したら、血の付いたままのシャツを着て仕事をしていた行員が、五、六人はいた。
と部下は話してくれた。
進士は、思わず目を閉じた。こんな目に遭っても、それでも仕事を続けてくれる部下たちに、深い感謝を感じていたからである。この責任感。仕事への忠誠心。みんな、ありがとう。
部下が話してくれたのは数年後の年末の忘年会だったから、この時点では未来の話である。昭和二○年、一九四五年の暮れには福屋百貨店地下一階で『雑炊食堂』も出た。米三勺に野菜などを入れて二合五勺に増やし、箸を雑炊の真ん中に立てて倒れない程度、というのが雑炊の定義だった。百貨店はそういう贅沢もできただろうが、こちらは雑炊といっても米の粒が二、三個浮いている程度、あとはイモ(サツマイモ)である。同じ頃、広島駅の食堂では、パン二個、みかん三個、みかん汁一杯をセットにした食事が一円。買う人がいるのだから成り立つのだろう。どこで材料を手に入れたのかは不明ではあるのだが。
お金と引き替えてくれるのはまだマシで、昭和二十一年ごろになると物々交換が激しくなってくるのである。この頃は、まだものがあったといえるであろう。ちなみに昭和二〇年の前半、白米二等一〇キロが三円二十五銭から三円五十七銭。広島・上大河間の鉄道運賃は一〇銭、広島から坂までが四十五銭であった。
殺気立った客たちをなんとかなだめ、彼らの記憶にしたがってお金を引き出していく。アメリカ製の金庫が丈夫だったことが、このときほどありがたかったことはない。しかしあとでこの金庫を写真に収めた兵士が、
「原爆にも耐えた金庫の扉」
として製造メーカーに売り込んだ、なんて話を噂で聞いて、あきれるとともにその商魂たくましさに驚愕したものであった。
しばらく業務の忙しさと、妻の看病で白市へ行ったりしていた。関谷と再び巡り会ったのは、昭和二十年の十月頃のことである。関谷はますます憔悴していた。病気にでもなっているのだろうか、顔色が悪い。やせていた身体は、骨に皮がはりついているようで、着ている服はぶかぶかになっていた。
「おまえと別れて、原爆投下直後の惨状に直面した」
彼は、重くて低い声で言った。
「路の途中に倒れている人や馬が、路上で死屍累々としていた。飛び越え、はね返して西へと進もうとする人もいた。私は運悪くもまだ生きている四十歳前後と思われる男に足を取られ、
『生きているのに、また難儀しているのに知らぬ顔とは何事か。水を飲まさねば手を離さぬ』とかすれた声で訴えられた。なんという力の強さだったろう。水を取ってくるから離せと押し問答を何十分もして、やっと了解を得てその場を逃れた。次から次へと人がゴロゴロしているのを見て逃れた。その日から、夜中にうなされそうになってな」
進士は、関谷の肩に手を触れた。
「仕方ないんだ。生き残る人間には、やるべきことがある」
「だが、水槽の中で真っ裸になって、二十七、八ほどの美女が救いを求めて叫んでいたんだ。引きおこしてくれっていうんだが、その手を引く勇気がなかった……。火の中でどうすることもできず、水の中だから安全だと答えたときの返事が、これは水ではない熱湯だ、どうにもならないと甲高く叫ぶ声が、夜な夜な私の枕元でするんだ」
関谷は、がっと両手で顔を覆った。
「この悪夢は、いつまで続くんだ? 私の耳に、頭の中に、幻のように浮かんで消える。二度と幸せな生活はできそうにない」
「関谷! しっかりしろ!」
進士は、関谷の肩を揺さぶった。
「人生は続くんだ。廃墟の中をただひとつ残った金庫のことを思い出せ。生き残ったものは、死んだ者の分まで精いっぱい、生きなければならないんだ。それが供養というものだ」
深く心に刻まれた傷痕を抱えて、進士と関谷は生きていかねばならない。どんな艱難辛苦があろうとも、明日はやってくるのだ。
「こんな話がある。ある病院に、死にかけた隣席同士の患者が二人いた。二人の内一人は、自分の脇にあるのが壁であることを不満に思っていた。ところが、その向こうに居る患者は、窓の向こうの景色を生き生きと描写していたという。いま、ツバメが来てさえずっているとか、カッコいい車が通ったとか、通行人同士がキスをしているとか」
「キス? なんてふしだらな。くだらん話をするな」
「まあ、待てよ。窓ぎわの男をうらやましく思ったその患者は、親友が死にかけたとき、看護婦を呼ばなかった。患者は死んだ。ベッドはカラになった。さあ、いよいよ自分が窓の方に移れるぞ、とほくほくしながらそのベッドに移動してもらった。すると、なにが起こったと思う?」
「……?」
「そこもまた、窓がなかったんだよ。あの死んだ男は、たった一人の友人のために、空想で窓の外を描写してあげたんだ。気晴らしになるようにね。それを知った男は、嘆き悲しんだが、後の祭りだったという」
「何が言いたいんだよ」
「悪夢が続く世界でも、いつかは終わる。人のために、カネを流通させるのが俺たちの仕事だ。それが報われなくても、だれかがわかってくれればそれでいいじゃないか」
関谷は、顔を引きつらせた。
「―――それは、理想だよ」
進士は、ゆっくりとうなずいた。
「そうさ、理想さ。理想のない世界というのは、遠からず滅びる。広島がこんな状態になったのは、理想という名の夢に踊らされていたからだ。妻のため、母のためと我慢した結果、友人だった諸外国を敵に回した。だからこそ、男なら、目覚めて新たな理想を見つけ出さねばならない。新しい人生を、始めなければならないんだ。嘆いても、亡くなった人は戻らないのだから」
関谷は黙っていた。その青白い頬に、涙のあとがくっきりと見える。
「さあ、帰ろう。そろそろ新しい情報が入ってくる。これからますます忙しくなるぞ」
進士はくるりと関谷のG銀行の出口へ足を向けた。