序文
広島復興記
事の起こり
「なんだこれは……」
進士平五郎は、呆然として立ち尽くしていた。
頭が薄くて恰幅のいい日本銀行副頭取。スーツを常時着用して、いつも笑顔を絶やさない。有能な人物で的確な状況判断ができる、と評判の男だったが、さすがの彼も目の前の惨状には信じられない思いだった。
シャッターが、その鉄枠とともに、すべて爆風によって室内に飛散していた。内外からの火災によって、鉄筋コンクリートの粗建てだけが残り、内部装飾や備品、什器など一切が灰燼に帰してしまった。鉄製の窓枠や金具類もアメのようにゆがんだり、折れたり、ペチャンコにつぶれたりして、足の踏み場もない状況。この本店内にいた職員の大半が半焼けになり、何課のだれか、判然としないまま死亡していた。
自分が生きているのが、信じられない思いだった。一九四五年八月六日、午前八時一五分。たまたま地下へ行く用事のあった彼は、G銀行の副頭取で、やせぎすの髪を七三にわけているスーツ姿の関谷平雄を隣にして、目の前の惨劇から目を背けたくなった。
―――なにが原因だ。どうなったんだ。
あとでアメリカ軍による新型兵器、原子爆弾が落ちたことを知ったが、その当時はそれがわかるはずもない。強烈な熱線で可燃性のものは至る所で自然発火し、燃え上がったのだと知ったのも後のことである。
一瞬のうちに何もかも燃えてしまった。あとは轟々と燃える火ばかりである。
進士平五郎は、しかし、この銀行の頭取ではなかった。日銀の副頭取だったのだ。関谷平雄はここ、G銀行の副頭取で、ふたりで朝から地下で金庫の話をしていた。アメリカの丈夫な金庫は素晴らしい、国産化してもらいたいものだとこっそり話し合っていたのである(当時、敵国を評価することは、危険きわまりないことであった)。なので、一瞬のうちに変わり果てたこのG銀行を見て、まっさきに考えたのは、
―――うちの日本銀行は、大丈夫だろうか。
ということであった。
原爆炸裂後の店内の状況は、筆舌に尽くせないものがあった。コンクリート立ての内部の壁はすべて剥がれ落ちて荒肌が剥き出し、天井は落ちて窓枠金具は室内に飛散、ガラスは残らず粉砕されていた。
下敷きになって死亡した職員たちは、猛火に焼かれて半ば白骨化している。関谷平雄は、それを見て半狂乱になった。
「鈴木! 大西!」
職員の名を呼び、業火の中に飛び込もうとするので、慌てて進士はがっしと食い止めた。
「やめておけ! ここは逃げるんだ!」
「でも、職員が! 生きているかも―――」
「この火のなかで? 無理に決まってる。ともかく逃げるんだ!」
とるものもとりあえず、二人はスーツの背広を脱いで、火の粉を払いながら戸口へと駆けて行った。
見ると、一階営業室正面にあった金庫の鉄扉(厚さ五〇センチ)は、この高熱のなか、平然と立っている。デコボコにはなっているが、営業には差し障りはなさそうだ。
―――あのデコボコじゃ、あらたに買う必要があるかもな。
心のどこかで、冷静な自分を感じながら、進士は外に出た。
ギラギラ輝く太陽が、目に飛び込んできた。暑さが肌に食い込むようだ。そして、異様な叫び声、家族の名を呼ぶ者、火の付くような泣き声。
一面、火の海である。振り返ると銀行の窓から赤々と天を焦がす火が吹いている。
「こっちだ」
日銀ちかく、住友銀行との境に大きな防火水槽がある。熱をそこでしのごうと、進士は関谷をせきたてて駆けて行く。火はますますひどくなっていった。
そこにいるすべての人々が、まるで以前と違う。異形の人になっていた。ボロボロの布をまとった赤むけの人間たち。服だと思っていたけれど、それは皮膚。衝撃で目が飛び出して、垂れ下がっているひともいた。そのひとは、じゃまな目を引きちぎり、前へと進んでいった……。ガラスの破片が背中に突き刺さって、血をだらだら流している人もいた。みんな幽霊のような姿に変わり果て、血みどろになり、うめき声をたてて苦しんでいた。それでも燃えさかる大火をくぐり抜け、安全地帯を求めて逃れでようと必死である。
道路と道路のあいだから、すさまじい音を立てた熱風と火のかたまりが、容赦なくふたりに襲いかかってきた。息ができない。肺が焼ける。ここは地獄か。俺たちは、どんな罪をおかしたというのか。
やっと自分の銀行が見えてきた。大きな水槽に二人で飛び込む。生ぬるい感触が肌にまつわりつく。やっと人心地ついた、と思って水を頭からかぶり、熱さを防いだ。
しかし火はひどくなる一方である。このまま座していれば、死を待つばかりだろう。関谷はぐったりと水をかきわけ、「海ゆかば」を歌っている。
海ゆかば みづくかばね
山ゆかば 草むすかばね
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ
「みんなでいっしょに死のう」
関谷は、覚悟を決めたように言った。
「まさか! 冗談じゃない、犬死にしろってか!」
進士は関谷を叱咤した。
「じゃあどうしろってんだ。このまま水槽でゆだるのを待つのか」
関谷は絶望にかすんだ声で言った。
「ここを脱出して、西練兵場へ行こう。きっと兵隊さんがなんとかしてくれる」
黒い雨が降り始めた。いくばくか、火も弱くなってきたようだ。なんとか西練兵場へ着いた。しかしここはすでに満員だった。みんな強度のやけどを負っている。頭は腫れ、皮膚はただれ、頭髪は一部分焼けており、ほとんど致命的な大やけどだった。苦悶の声をあげる人々の間を、元気な兵隊さんが鉄かぶとに水を入れて運んでいる。
「水、水」
「どうか水をちょうだい!」
「たすけて」
多くの人々の叫びが、進士の耳朶を打った。この声は、戦後何年経っても忘れられない声になった。
兵隊さんは、水を配ろうと必死だが、大人数のために手が回らない。水をがぶ飲みすると死ぬよと警告するも、みんなたくさん飲むのであった。
異臭がただよっている。髪の毛が、遺体が、生の身体が焼けている(いた)のだ。それを思うと進士はゾッとした。
ただ暑い。八月である。腹の底まで渇き、つばまでひからびてくる。南無阿弥陀仏と念仏を唱え、ひたすら耐えた。
あとで、関谷の銀行の職員たちは、地下室に逃れたものも含めて全員死亡した、と聞いた。
おそらく、炎で蒸し焼きになったのだろう。進士の銀行はどうなったのだろう。進士は心配と暑さで身が焦げそうだった。
雨が上がり、兵隊さんからの水をひとくち飲むと、今度はふるえが来た。
「銀行に戻ろう」
進士は、意を決して言った。関谷は、正気かという目になった。
「あの惨状を見ただろう。銀行はもう、ダメだ。中の書類だって、焼失しているよ」
「だが、キミの金庫は、無事だった」
進士は指摘した。
「この惨状のなかでも、デコボコにはなっていたが、ちゃんと溶けずに立っていたじゃないか。俺のところだって―――」
「無茶だっ」
関谷は、がばっと進士の腕をつかんだ。
「いま帰っても、やることはなにもないぞ! 幽霊を相手に仕事をするつもりか」
「幽霊か……。それがお客さんなら、仕事はしなくちゃな」
進士は、パタパタと腕を上下させ、関谷の手を振り払う。
茫然自失の関谷を置いて、進士は自分の職場である日銀に帰ろうとした。
炎は少し弱まっていたが、惨状はますます明らかになっていった。
道行く人の皮膚はたれさがり、顔や身体の区別もつかないありさま。道に敷かれたむしろの上に横たわり、虫の息、うめき声。このありさまでどうしていきておれようか。生殺しである。
あれだけたくさんあった家屋は壊れ果て、五キロ以上は先にある己斐も見えるか、という状況であった。電車は線路上に、自動車は路のあちこちに焼け焦げたままだった。
やはり帰るのは無謀だろうか。
吐き気がこみ上げてきた。思わず吐くと、黄色い汁が出てきた。
頬がひりひりする。いつのまにか、負傷していたらしい。この分では髪の毛のほうも、傷んでいるだろうな。
猪突猛進だけが勇気ではない。もう少し様子を見て、現場に当たった方がいいかもしれない。
悔しいが、現実を受け入れるんだ。
奮起するチャンスは、必ず来る。
数時間後に帰ってきた進士を見て、関谷はとても喜んだ。
「やはり戻ってきてくれたか! そうでなきゃいかん。キミは広島の銀行にとって、なくてはならない人間なんだ。無茶をして寿命を縮めちゃ、奥さんに叱られるよ」
ハッとして口ごもった。
「奥さんは、疎開しているんだよな?」
「ああ、白市にいる」
「心臓は……?」
関谷は、妻の心臓の病を知っていた。この惨状を見ては、病にさわると気遣ってくれているのだ。
「心配するな。広島には当分来させない」
「ならよかった」
それにしても、このようなことにそなえてあらかじめ自家発電、機動揚水(当時陸軍は、非常用に揚水を必要としていたのである)、消火設備、救急医薬など完備し、人的配置も万全にそなえていたはずなのに、この現実への無力感。銀行の炎火を目前に、死傷行員の横たわる中、つったったままなにもできないもどかしさ、この恨めしさ。一生忘れるものか。進士はしっかりと胸に刻み込んだ。
進士とその心臓病の妻
翌日(七日)、兵隊さんがやってきて、遺体(軍民死体)の処理に当たった。一方、市民の避難者、疎開者も帰還。親戚知古の加勢、郡部近郊からの応援などで、死体の捜査、埋物の発掘、清掃整理に着手し、気の早い人は復興準備にとりかかるものもいた。
先立つものは、カネである。「欲しがりません勝つまでは」というスローガンが当時あったが、それでわかるように物資も不足していた。戦争保険金の支払い、非常時預金引き出しなどの、急を告げる声も聞こえてくる。保険会社も銀行も例外なしに罹災壊滅状態、従業員の死傷おびただしく、混乱を極めていた。
幸いにして、日銀支店は焼失していなかった。ただ、玄関の階段に、なにか影のようなものが刻まれていた。ここに人が座っていたのだ。そして、人は消えてしまい、影だけが残った……。
進士は、再び吐き気を感じた。
金庫はまだ少し、あたたかかった。六日には触れないほど熱かったという生き残った行員の証言を考えると、無理もないと進士は思った。しかも七日はまさに戦場である。
「ここに瀕死の負傷者がいるぞ!」声が飛べば、
「担架で運び出せ」と、進士。
「けが人がいる? 軽いなら薬を処方しろ」
テキパキ指揮を執って、処理に当たった。
本店に集まった行員たちが、ボソボソ復旧作業のことや、これからのことなどを話している。
「おい、ここ、どうやって片付ける?」
「そうだなぁ。箒はあるか?」
「そんなもん、燃えちまったよ」
「ガラスもあるし、手で拾うわけにはいかないよな」
「紙ですくってみるか?」
「紙なんてあるのかよ。全部燃えちまっただろうが」
「それより、この壁や机をどうする。やけただれているから、客が来ても対応できないかもしれんぞ」
「お客さん、来るのかな」
「来たら来たでたいへんじゃないかな。大挙して押しかけてきたら、対応できるかどうか」
「東京や大阪は、どうなってるんだろう。たしか東京は、三月に空襲があったんだよな」
「それから五ヶ月経ってる。なんとか援助が来るはずだ」
そこへ、三次支店の行員さんがお見舞いにやってきた。
「はい、おむすび」
差し出されたおむすびに、その場の全員の目の色が変わった。銀色の貴重な米をふんだんにつかったおむすび! この非常時に、なんとありがたい!
みんなが、餓鬼のようにムシャムシャ食べているのを見ながら、進士はそのおいしさと、涙を含んだそのしょっぱさを、いつまでも覚えているだろうと思った。
日赤病院へ行くことになった。そこに支店長がいるという。この混乱のなか、これからのことを話さねばならない。復旧しなくては、お客さんに迷惑がかかる。復興にも影響するだろう。雑草のように立ち上がってやる、と鼻息も荒く、進士は病院のなかをのぞきこんだ。
ロビーは悲惨な状態だったが、病室はわりときれいだった。
「各行の責任者はだれだ」
進士は、ベッドの上の支店長に聞いてみた。理事でもある支店長は、重い怪我を負っていた。ベッドに横たわって、か細い声で、
「それが、このありさまですから……、連絡がつくかどうか」
「生死不明ってことか」
「ありていにいえば」
進士は日銀の副頭取である。副頭取としては、どうしようもないと手をつかねているわけにはいかないのである。
「あの、わたしが責任をとりますので、再開しましょう」
支店長は申し出た。
「何を言う。俺が副頭取だぞ」
だてに責任者じゃないのだ。部下に押しつけて知らん顔なんてできない。
「よし、じゃあ、話し合いをつけよう。この非常時だ、だれかが動かねばならん」
というわけで、各行の責任者、またはそれに準ずる人間を呼んで、明日にでも日銀を開こう、ということになった。
「しかし、罹災後幾日は開けてはいけないというルールがありますが」
反対意見もあった。
「そんなことを言っていたら、現金も行印も、諸通簿もだせぬではないか。俺が責任を持つ、各行再開せよ」
進士はそう命じた。
預金の引き出しにしても、戦争保険金の代理払いにしても対象はすべて罹災者であった。証書もなければ印鑑もない、片方があっても不揃いだ、いろいろ不具合はあった。この人が、ほんとうに預金を預けていたのか、判別するのはたいへんな手間がかかる。なにしろその認定法は、千差万別類型多岐にわたったからである。
なのに、ふだん「これがそろわないと、預金が下ろせません」
とけんもほろろな各行が、このときばかりは歩調を合わせ、支払いを滞りなく行った。その態度の真実明察なこと、市民たちはたいへん感動して、語りぐさにするほどであった。
さて、日銀が再開したのは八日からだったが、新聞やラジオなど、マスメディアが罹災して中断してしまっていたので、市民たちはなにも知らなかった。金融機関がこのように早く開店するとは、当時の惨状から推して予想もしなかったであろうし、また家事の整理もあったであろう。ちょっと拍子抜けしたことは、八日のお客さんはひとりのみ。
正直、張り合いがない。
食べ物が、ほしい。
水が、ほしい。
便所はもう、下痢や嘔吐で悲惨だった。清掃が間に合わない。
七日からは広島のチンチン電車が、国鉄(いまのJR)は九日には復旧していたので、進士は九日、無理を承知で行動した。つまり白市に行って妻の容態をみていた。心臓の病を抱えた彼女は、最初、彼の頬の傷に驚いたが、軽い傷だと知って安心している。
九日には、毎日新聞が東京からやってきて取材をしたらしいが、進士の気持ちとしてはインタビューに答えている場合ではなかった。
来客が頻繁になったのは十三日の月曜日からであった。雑事も含めて、仕事がめちゃくちゃ、忙しかった。市内の交通事情も当然ながら充分ではなく、銀行の執務机の上で、蚊帳にくるまって寝泊まりしていた行員も多かった。
「おい、松本。おまえ、奥さんが出産日じゃなかったか」
「家に帰ってやりたいが、この忙しさじゃ、泊まり込みだな。家のことは仕方がない」
傷だらけの行員たちのやりとりに、やるせない思いの進士である。
日銀では、来客のほとんどは無印鑑無通帳扱いで占められていた。その当時、顔見知りの行員が認定し、拇印と念書を徴求の上適当な額を払い戻ししていた。
そのやり方には、批判もあった。この戦争のどさくさにまぎれて、サギを働く人が出てくるのではないか、というのがその意見であった。
「あなた……、大丈夫なの? 人を信じすぎて銀行が傷を負ったら、あなたも銀行も立ち直れないわ」
進士平五郎の妻、初子は、病でやつれた顔で心配そうに尋ねた。
白市のその農家で、働くこともできず、重荷になっていることを気に病んでいる初子。布団に横たわり、いつも地味な着物を着ていて、「わたしにはこれで充分です」とかすかに笑うのが弱々しい。そんな初子がいとおしい平五郎である。
「いいかい、初子。銀行ってところは、どういうところだと思う?」
平五郎は、妻に尋ねた。
「お金を貸すところでしょう?」
即座に答える初子。
「いや。信用を貸すところだ」
平五郎は、言葉を吟味するように言った。
「どんなに地位があっても、信用がなければ市民からお金を預けてもらえない。また、どんなにおカネを貸しても、その相手に信用がなければ貸し倒れになる。俺はカネで買えないものを、いま、買ってるんだ」
「お金で買えないもの……」
初子は、噛みしめるように言って、ほほえんだ。
「あなたの理想が、実現するといいわね」
ああ、と短く言って、平五郎は照れたように笑った。傷だらけの頬が引きつって、
「いてて」
と彼は頬を押さえた。初子はぷっと吹き出して、
「赤チンを塗りましょう」
と立ち上がろうとする。
「ガキじゃないんだから、それぐらいできる」
憮然として答えると、平五郎は部屋の奥へと立ち去っていった。
「しょうがない人」
初子は、小さく呟いた。