君と僕とエトセトラ
「君、リュウノスケ君?」
すべてが溶けるほど暑い夏、涼しげな顔をした少年が龍之介に声をかけてきた。
「何?」
龍之介は近くの神社の階段に腰かけていた。七月になったばかりなのに、炎天下が続いている。
階段の数段下から、端正な顔立ちの少年が龍之介を見ていた。田舎の少年とは思えない上品な物腰をしている。
「あの雰囲気の良い別荘に住んでる子だよね?」
別荘じゃねーし。龍之介は、
「さあ」
と答えた。セミがジーッ、ジーッとあっちこっちで絶え間なく鳴いている。
「君のお母さんと、僕のお母さんが仲良くなってね。そうしたら、僕と同い年の子どもがいるって。君のことだろう? この辺りはみんな顔見知りだから、知らない顔はすぐわかるんだ」
少年は大人びた口調で言った。龍之介は黙っていたが、少年がずっとそこにいるのでかなり遅れて言葉を返した。
「俺のことを聞いたってことは、俺がもうじき死ぬってことも知ってるんだな」
少年は涼しい顔を歪めたりはしなかった。知っているのかいないのか、その表情から読み取ることはできなかった。少年は階段を一段一段上がって、龍之介と同じ段で止まった。夏だと言うのに少年は全然日に焼けていない。
「僕、神条ユキ。夏休みになったら一緒に遊ぼ」
龍之介は答えなかった。ユキは愛想のない龍之介の態度を気にすることはなく、
「じゃあね」
と言って階段を上がって行った。龍之介は心の中で母親に対して舌打ちをした。余計なことを言ったに違いない。きっと「あの子の話し相手になってほしい」とか、「この町で良い思い出を作ってほしい」みたいなことを言ったんだろう。
龍之介は立ち上がって、階段を下りた。空が赤く染まりはじめていた。日暮れまでには帰らないといけない。でないと、母親がヒステリーを起こす。龍之介は歩き出した。セミのジーッ、ジーッ、ジーッ、と鳴く声が、帰路につくまで、ずっと聞こえていた。
家に帰ると、まず家事手伝いの藤田さんが龍之介を迎え、それから母親がパタパタとスリッパの音を立ててやってきた。自分の息子を見る目は常に心配そうで、過保護。はたから見れば献身的な母親という印象を受けるだろう。ただ、当の息子である龍之介には、この母親は自分のことをこの上なく哀れな息子という風に扱っている気がして、好きではなかった。
母親と二人での食事は正直苦痛だった。母親は何か会話をしなくてはいけないという、おかしな義務を持っていて、食事中、当たり障りのない話題をぽつぽつ出してくる。龍之介は軽く相づちを打つ程度。話すことがないなら無理して喋らなくてもいいのに。自然体でいてほしい。なぜこんなに自分に気を遣うのか。それが息子への愛っていうなら完全に空回っている。息子のせいっていうなら、それは合ってると思う。病気が悪化したせいで母親の隠れていた不自然さが表面化した。父親と離婚したせいも多少あるかもしれないが。
龍之介は夜更かしを許されていないので、夕食が終わったら風呂に入り部屋で寝る以外何もできない。昼にかいた汗をお風呂で流して、龍之介は部屋に行った。藤田さんがいるおかげで、部屋はいつも綺麗だった。閉まっている窓を開けて網戸にする。外から夏の香りと微かな風が入ってくる。が、龍之介は夏の夜風よりもベッドのそばにある古びた扇風機の風の方が好きだった。
扇風機を回し、ベッドに横になった。明日から母親は仕事で都会に戻る。しばらく藤田さんと二人だ。その方がいい。離れていれば、お互いを哀れに思わなくて済む。
◇◇◇
翌日も炎天下だった。
母親はもういなかった。本当なら四六時中龍之介のそばにいたいと思っているのだが、龍之介がそれを拒んだ。毎日あんな同情の目を向けられて過ごすのはごめんだ。朝食は藤田さんと二人で食べた。藤田さんは龍之介をちゃんと扱ってくれた。無理な会話はひとつもなくて、良い朝食だった。食後に薬を飲む。気休めだ。
食器を片付ける藤田さんを尻目に、龍之介は部屋に戻った。扇風機がブゥンという音を立てて左右に動いている。龍之介は窓のそばに寄り、草がぼうぼうに生えた庭を見下ろした。ふと、小さい頃、父親と川釣りに行ったことを思い出した。夏がはじまったばかりのある日、父親は石の上で竿を垂らし、龍之介は網を持って目を凝らして魚を探した。父親は魚を何匹も釣り上げ、龍之介も大きい魚を一匹網ですくうことができた。
それから父子で一緒に遊ぶことが増えた。母親は龍之介の外出を顔をしかめて反対した。両親の不和はそこからはじまっていた。二人とも、龍之介の病気との向き合い方は、それぞれ違っていた。
父親と公園でキャッチボールをしていた時、父親の投げたボールが龍之介の正面から大きくずれた。龍之介はそれを捕ろうと勢いよく走ってしまった。急激に胸が痛み、ボールをつかむことはできなかった。救急車で運ばれて、両親は喧嘩。一年後、龍之介の病気が悪化するとともに離婚。それから四年。父親とは会っていない。会いたかった。
母親は離れている間も、二日に一度は藤田さんに連絡をして、龍之介の様子を報告させた。
「お母様はいつも龍之介君のことを思っていて……。良いお母様をお持ちねえ」
藤田さんが言った。
「そうだね。良い母親だよ」
たぶんね。
七月下旬。家に訪問客がきた。
「こんにちは」
神条ユキ。初めて会った時と変わらない涼しい顔をしている。龍之介の部屋に入り、床に腰かけた。すぐに藤田さんがジュースとお菓子を持ってきた。
「ありがとうございます」
「ゆっくりしてくだざいね」
藤田さんは部屋を後にした。ユキはすぐにジュースを飲みはじめ、そのままの勢いでお菓子に手をつけた。階段で出会った時の洗練された雰囲気とは違い、今は普通の、年相応な感じだ。
「何か用なの?」
龍之介は、まだ知り合ったばかりのユキと向き合って座るのがなんとなくできず、少し斜めの位置に座った。
「君、食べられないものってある?」
ユキが言った。
「そうだな。冷たいものと辛いもは食べないようにって言われてる」
「じゃ、アイスはダメなんだね」
「そうだな。かき氷もダメだ」
夏に食べる定番のものが食べられない。もう慣れたけど。
「何でそんなこと聞くの?」
「学校の近くによく行くアイス屋さんがあってさ。よかったらと思ったんだけど」
「そりゃ悪かったね」
「別にいいって」
ユキは上品に笑った。それがその辺の女の子よりも可愛くて感じが良かったので、龍之介は少し戸惑った。
「八月二五日、予定ある?」
そう言って、ユキはお菓子の袋を開けた。
「ない」
「神社でお祭りがあるんだ」
「ふうん」
「君と初めて会った時、階段に座ってたろ? あの上」
「へえ」
「一緒に行かない?」
「お前と?」
「そう。僕と」
なぜ一度しか会ったことがない自分を誘うのか、理由はわかっている。気遣いを受け入れるべきか、拒否するべきか。龍之介は斜めに座る少年を見た。クッキーをもぐもぐ食べている。
「僕が嫌なら無理にとは言わないけど。それともお祭りが嫌?」
「そんなことはないけど」
「じゃあ行けるね」
「まあ、うん」
ユキのペースに流されて、お祭りに行く約束をした。ユキはお菓子を全部食べて帰って行った。その日の夜、藤田さんは母親との電話で、龍之介に友だちができたことを嬉しそうに報告した。
その翌日、龍之介は体調を崩した。体がだるくて食欲もなかった。一日ベッドの上に横たわり、薬だけ飲む嫌な日になった。昨日、龍之介のことを嬉しそうに母親に話していた藤田さんが一転、龍之介より顔色を悪くして母親に細かく症状を話した。三日後には回復したが、藤田さんの視線もあり、部屋にこもって大人しくしていた。こういったことには慣れている。父親がいたら、気晴らしに車でドライブに連れて行ってくれたことだろう。そしてその場に母親がいたら、「ドライブ? 馬鹿なことを」と言って軽くヒステリーを起こすのだ。
部屋にある扇風機の前で風に当たっていると、ドアをノックする音がした。
「龍之介君。電話ですよ。神条君から」
龍之介はドアを開けて、藤田さんから電話を受け取った。
「もしもし」
「もしもし、神条だけど」
「何で電話番号知ってるんだ?」
「君の家に行った時、藤田さんに電話番号を聞いたんだ」
「ふうん」
「体調はどう?」
「絶好調だ」
「そっか。明日、予定ある?」
「ない」
「明日、公民館で演劇があるんだけど、観に行かない?」
「演劇?」
「そう。僕は出ないけど、学校の同級生やOBが色々イベントをやるんだ」
「へえ」
あまり興味が沸かなかった。それにそういのは身内の地元民だけで楽しむものだろう。
「学校の同級生を誘わねーの?」
「誘いたい子が特にいないんだ」
「友だちいないってこと?」
「そうだね」
そういうことなら付き合ってあげてもいいか。
「公民館って遠いのか?」
「バスを使えば二十分だよ。君の家からバス亭までは歩いて十分くらい」
「わかった。行くよ」
「じゃ、明日、君の家に八時五十分に行くから」
「うん」
電話を切って、藤田さんに明日出かけることを話した。藤田さんは自分もついていくと進言したが、龍之介は拒否した。
◇◇◇
七月最後の日。炎天下。そろそろユキがくる時間なので、龍之介は玄関に腰かけて待っていた。藤田さんが鞄に水筒や常備薬、救急箱を詰めて龍之介に渡してくれた。
「暑いですから私の日傘を持って行ってください」
そう言って、藤田さんは愛用のピンクの日傘を差しだしたが、龍之介は頑として断った。
「では、できるだけ日陰を歩いてくださいね」
「バスで行くから大丈夫だよ」
その時、家のチャイムが鳴った。龍之介が立ち上がってドアを開けると、ユキがいた。
「じゃ、行ってくる」
「二人とも、熱中症には気をつけてくださいね」
家を出ると、セミのジーッという鳴き声とひどい熱気が襲いかかってきた。
バス亭まで十分がものすごく長く感じた。その間、龍之介とユキは一言も喋らなかった。暑すぎるせいだ。汗を流しながら歩いて、バス停で七分ほど待った。バスに乗ると、備え付けのクーラーによって二人は生き返り、軽い談笑ができた。
「夏休みが終わっても、君はあの家にいるの?」
「わからない」
生きていたら、とは言えなかった。母親は自分の余命を知っている。去年の秋、病院で先生から聞いたはずだ。廊下で泣き崩れているのを見た。目を腫らして、顔をぐちゃぐちゃにして龍之介が傷つかないような言い方を必死に選んで入院生活をさせた。あの態度からして、自分の余命は限りなく短いと悟った。病院のベッドの上で冬を越し、今年の春の終わり、病院側は手を尽くし切った。それでも母親はこのまま入院を希望していたが、治療を受ける龍之介本人が強く反対した。鼻チューブや強い薬の服用、点滴生活にうんざりしたのだ。病院特有の陰鬱な空気にも、母親の打ちひしがれた醜い顔も嫌だった。
龍之介の反対に、母親は二日粘った。龍之介は点滴を振り回した。母親は泣く泣く引き下がった。
今、自分は奇跡的に普通の生活を送れている。だけど、それが次の季節まで続くとは思わない。
「あ、あれだよ」
ユキが窓を指差した。見ると、学校の体育館みたいな木造の建築があった。あれが公民館のようだ。バスを降りる。すぐ目の前なので、歩かなくてほっとした。
中は清潔で、同い年くらいの子たちや保護者らしき大人、地域のお年寄りが集まっていた。受付でパンフレットを配布していて、二人をそれを受け取り、隅のベンチでパラパラとめくった。演劇、ダンス、地域の人たちのジャズ演奏などがあった。会場は結構広くて映画館のような座席がずらりと並び、前には演台がある。
「おう! ユキ」
明るい声で話しかけてきたのは、学校の同級生と思われる四人組の男子たちだった。いかにもスポーツやってる系で、日に焼けて、坊主で、騒がしそうだった。
「きたのかよ。こっち座れよ」
「友だちときてるから」
と言って、ユキはクールに遠慮した。そっけない言い方でも悪く感じないのは、ユキが持つ不思議な魅力だろう。断られた男子たちは、ユキの見慣れない友だち、龍之介に興味を持って、好奇の目を向けながら話している。
「あ! ユキ君」
次に声をかけてきたのは、二人組の女子だった。きゃぴきゃぴしているが、あまり可愛くないと龍之介は思った。二人はユキに手を振っている。
「リカのダンスを見にきたんでしょー」
「セクシーに踊るよー、リカ」
オホホと、手を口に当てて冷やかした。それからもリカが好きなんでしょーと茶々を入れてきたが、自分たちもダンスを踊るんだ、と振りをちょっと見せたり、ダンスの衣装はアラビアンなセクシー系だとか言って、途中からリカという同級生のことは一切口にしなかった。要するに、ユキに話しかける口実がほしかったのだ。二人組が離れると、すぐに別のグループの女子がユキに話しかけてきた。その様子を離れた座席で苦々しい顔をして見ている女子たちがいる。
ユキがもてるのはよくわかる。ルックスはもちろん、やはり少し大人びている。女子はそういう男の子が好きなのだ。当のユキは相変わらずポーカーフェイスで、女子に笑顔を振りまいたりはしなかった。
イベントがはじまると、会場は薄暗くなり、演台にスポットライトが当たる。みんなの目がそこに集中した。演劇の内容は有名な童話のパロディで、不思議の国に迷い込んだおじさんが、国を支配している傍若無人の子どもにビンタして説教する話だった。演者の中にユキの学校の先生が何人かいたらしく、ユキは隣りで声を上げて笑っていた。結構面白かった。
地元民のジャズ演奏は出だしから不協和音で会場の笑いを誘った。子どもには何を演奏しているかわからなかったが下手なのはわかった。大人たちは曲を知っているからこそ、完成度の低さがウケた。
女子たちのダンスは見事だった。メンバーが入れ替わりながら四曲ダンスを披露した。背が高くてひときわ美人なのがリカだろう。堂々のセンターで体をくねらせて喝采を浴びていた。
午前中の演目が終わった。午後は大人向けで、落語やお年寄りの歌謡曲の発表会をやる。興味がない子どもたちは続々と会場を抜け、会場は一気に高年齢化した。
龍之介とユキも会場を出た。すると、広間ですぐにユキの名を呼ぶ声がした。同級生たちである。ひとりはどっかの売店で買ってきたのか、アイスを食べている。
「この後、ボウリング行かない? コージの親父が連れてってくれるって」
その時、ユキの隣りにいた龍之介をちらっと見た。一緒に誘うかどうか決めかねているようだ。この時点で自分は良い印象を持たれていない。
「気分じゃないや」
「行ってこいよ」
たまらず、龍之介が言った。できるだけ不快に思わせないように、穏やかな口調を努めたが、ユキののような口調とは程遠かった。
「君は無理そう?」
「ああ」
ボウリング云々(うんぬん)より、目の前の輪に入れそうにないと思った。ユキは両方の空気を読んで、ボウリングに行くことにした。
ユキから離れると、ダンスメンバーの女子たちがユキを囲んだ。彼は人気者だった。電話で友だちがいないって言ったのは嘘だったのか。そこまでして自分に気を遣ったのか。病気の自分に。母親と同じだ。
急に動悸が激しくなり、呼吸がしづらくなった。龍之介はまずいと思い、すぐにトイレを探して中に入った。幸い混んでなくて、個室のトイレに座ることができた。少しの間、じっとして息を整えようと努力した。こんな時、誰よりも孤独を感じる。
誰かがトイレに入ってきた。数人の声。ユキの同級生だ。もう、次の遊ぶ予定の話をしている。
「プールはどこにする?」
「学校は?」
「タクミが嫌だって」
「何で? 金かかんないのに」
「ビキニ着た女が見たいんだろ」
プールは地元民がよく行くらしい場所に決まって、ユキの同級生たちの声はトイレから消えた。プールなんて生まれてから一度も行ったことがない。
龍之介の心臓は正常な動きを取り戻しが、念のため鞄から薬と水筒を取り出して、喉に通した。トイレから出て、広間に戻ると誰もいなかった。受付の人もいない。龍之介は隅のベンチに腰かけた。顔を上に向けて、深く酸素を吸って、吐いた。
ユキは同級生と一緒にプールに行くんだろうか。そう思って、不意にユキと一緒にお祭りに行くのが嫌になった。同級生と行けばいいんだ。みんなだってユキと行きたいはずだし。
窓から差し込む強い光に、龍之介は目を細めた。
すでに龍之介にとって最期の秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が過ぎた。
最期の夏――はまだ終わっていない。
◇◇◇
八月上旬。ギラつく太陽が猛威を振るう中、龍之介は家で母親と電話をしていた。来週、会いにくること、猛暑が続いているからあまり出歩かないこと、愛していることを伝えてきた。
「うん。ありがとう」
龍之介は素直に言って、電話を切った。それから心配そうな顔をしている藤田さんに悪いと思いながら外に出た。暑い中、何をするでもない。ただ、歩けるうちに歩いて、外の景色を見ていたい。最期の夏の過ごし方はそれで充分だ。
ゆっくり歩いた。照りつける日差しに、肌がひりひりと痛むような感覚があった。住宅はぽつりぽつりとしか見当たらず、山や木々の風景ばかりが続いた。木立から聞こえるセミの声は鳴いているというより、狂ったように喚いている感じだった。
人と全然すれ違わない。みんなこの暑さにしょげて家にいるのか。それともプールや海に行ってるんだろうか。龍之介みたいにぶらぶら散歩している奴はいないようだ。
少し先の方で声が聞こえた。広い空き地が見えると、日陰でキャッチボールをしている四人がいた。すぐにユキの同級生だと気づいた。げんなりする暑さにめげることなく、元気に遊んでいる。
坊主頭の少年が投げたボールを、野球帽をかぶった少年が軽くバットにかすめ、ボールは軌道を曲げて龍之介の足元まで転がってきた。
「おっと、すいませーん」
野球少年らしい元気な声がした。無視するわけにもいかず、龍之介はボールを拾い上げた。空き地では少年のひとりがミットを掲げ、ここにくれ、と示している。龍之介はボールを下からコロコロッと転がした。ミットを掲げた少年は、一瞬、微妙な顔をしてボールに近づき、ミットに入れた。
龍之介はみじめな思いでその場を去った。きっとあの三人は龍之介がボールの投げ方を知らないと思ったに違いない。
近くの公園で、日陰になっているベンチに腰かけた。額の汗を手でぬぐう。
キャッチボール。龍之介は心の中で呟いた。目に浮かんだのはあの思い出。手からボールが離れ、弧をえがいて父親のミットに吸い込まれる瞬間。自分が左手のミットでボールをキャッチする音。無心でボールを投げ合った、幸せな時間。今はもう、幻のような過去。その幸せは龍之介が発作を起こして終わった。もうすぐ、何もかも終わる。
龍之介は顔を上げて空を見た。夏の青空に少しだけ涙が出た。
それからの日々は龍之介にとって憂鬱だった。体がだるい日が続いた。食欲が減り、だるさが増した。
八月中旬。雨が降った。夏の嵐が近づいているらしいが、この辺りには上陸しないそうだ。雨の中、母親が龍之介の様子を見にやってきた。喧嘩になった。龍之介の体調が下降気味だと知ると、母親は入院という言葉をしきりに口にした。泣きながら再び説得を試みようとした。病院に戻るのは絶対に嫌だった。今死んだ方がマシだ。
「結果は同じなんだよ」
投げやりに言って、母親から逃げるように外に出た。玄関で母親が自分をヒステリックに呼ぶ声がした。
雨の音しかしない道を、走った。すぐに胸が痛くなって、走れなくなった。それでも歩くことを止めなかった。ヒュッ、ヒュッ、とおかしな呼吸を繰り返しながら、あてどなく歩いた。このまま心臓が止まっても構わなかった。死の匂いがする病院でゆるゆる弱っていくよりも、このまま雨に打たれて死ぬ方がずっと良い。
もう歩けなかった。龍之介は雨に打ちひしがれる子犬のように、その場にしゃがみ込んで夏の雨を背中に受け続けた。
「リュウノスケ君?」
雨と一緒に声が降ってきた。背中に落ちてくる雨が止まった。龍之介は顔を上げなかった。体が重い。何かに反応できる体力も気力も残っていなかった。
「龍之介!」
後ろの方で母親の声がした。龍之介の意識が朦朧としてぐらりと倒れたが、その体はユキに支えられた。傘が落ちたが、すかさず母親がむせび泣きながら持っていた傘を二人の上にかざした。龍之介の意識はほとんど夢に近い感覚だった。おぼろげに、あの涼しげな顔をした神条ユキが、顔を真っ青にし、震える目をしていたのを見た。
◇◇◇
龍之介の瞼が開いた。ぼうっとした意識の中、最初に思ったことは、まだ生きてる、だ。仰向けの体を動かす元気はなく、しばらく天井を見つめていた。顔を少し動かすと、点滴袋が見えた。チューブが自分の腕にくっついている。少し離れたところで、扇風機が首を動かしていた。顔を真横に向けると、襖があった。ここが病院ではないことに気づき、龍之介はとても驚いた。病院で感じていた薬のような独特の匂いはなく、代わりに清潔な畳の匂いがほのかに香っている。
まだ、夏だよな。あれからどれくらい眠っていたんだろう。意識がはっきりして、夏の暑さを体に感じはじめた時、襖がそっと開いた。ユキだった。龍之介が目を覚ましたのを見て、静かに目を輝かせた。
「おはよう」
龍之介は横になったまま、軽い笑顔で返した。ユキは龍之介のそばに座って、龍之介のいくつかの質問に明快に答えた。
「ここ、どこ?」
「僕の家さ。君は二日間眠ってたんだよ」
「俺が倒れた時、お前の家に連れてかれたの?」
「ううん。救急車を呼んで、近くの病院で診てもらったよ」
ユキはポケットから小さな折り紙を取り出して、青い紙を一枚抜いた。
「病院の先生が話のわからない人でさ。君を拉致するって言うんだ。じゃあ僕は君を病院から誘拐するしかないと思ってね。見事成功させたよ」
龍之介はすぐに返す言葉が見つからなかった。ユキは真面目な顔で小さな折り紙を器用に折っている。龍之介は、小さい声でありがとうと言った。すると、ユキは折り紙からふっと顔を上げて、静かに笑った。綺麗な笑顔だな。
「何でそこまでしようと思ったわけ?」
「君は病院の匂いより、畳の匂いの方が好きだと思ったから」
そんことを言いながら、せっせと紙を折る。
「そうだな。わかんないけど」
「そうそう。君のお母さんのことだけど、この二日間、様子を見にきてたよ。仕事を休んで、しばらくこっちにいるって決めたみたい」
「ふうん」
「他に聞きたいことは?」
「今何時?」
「朝十時五分」
そう言って、ユキは折り紙で小さな鶴を完成させた。それを龍之介の枕元に置き、お大事に、と言って襖の向こうへ消えた。龍之介は折られたばかりの青い鶴を見た。ユキのイメージに合っている。涼しげで、品が良い。
夏の嵐は龍之介が倒れて眠っていた間に過ぎ去っていた。雨は止み、空には眩しい太陽が戻っていた。
その後、龍之介の目が覚めた知らせを聞いた母親が一度やってきたらしいが、龍之介は眠っていて気づかなかった。顔を合わせたのは夕方だった。お互い、話すことはあまりなく、ぎこちない空気が最後まで漂った。お盆に軽い食事を乗せたユキがきてくれて、少しだけ空気が和らいだのが救いだった。珍しく、母親が空気を読んで退室した。
ユキの家で療養生活が続いた。最初は迷惑を考えて、龍之介は母の車で自宅に帰ろうと思った。しかし、ユキにせっかく誘拐したんだから、大人しくしてなさいと言われ、龍之介は大人しくお世話になった。ユキは龍之介の隣りに布団を並べ、夜はお喋りをしながら眠りについた。お互いの両親の話、傷ついた思い出、とりとめのない話もした。
「花火をやりたいんだ」
ある日、ユキが言った。
「花火?」
「そう。夏の定番だろ? お店で買った花火セットがあるんだ。一緒にやろう」
「どこで?」
「そこで」
ユキが縁側を指差した。その奥は広い庭。確かにうってつけである。日が沈んだ頃、ユキが水の入ったバケツを用意して、それから持ってきたロウソクにマッチで火をつけた。
歩けるようになった龍之介は縁側のそばに腰を下ろした。ユキが袋から花火セットを出し、そのうちの一本をロウソクの火につけた。勢いよくバチバチバチっと音を立てて点火された花火は、青緑色に光って夜を華やかに照らした。
龍之介はユキとは違う種類の花火を選び、火につけた。激しい赤い閃光が噴き出した。小さな火花がパチパチと地面に落ちていく。ユキは次の花火を火につけていた。緑色のシャワーみたいな噴き出しが面白くて、龍之介は次にそれを選んだ。シュウゥと空気が抜けるような音と同時に、緑一色の光が丁寧に噴き出した。
龍之介はセミの鳴き声と暑さ以外ではじめて夏を感じた。アイスもかき氷も食べられず、プールも行けない。キャッチボールなんか論外。でも、花火はできた。
「煙、大丈夫?」
白い光に照らされたユキが言った。
「うん」
正直、大丈夫かどうかはわからない。けど、どうでもいいやと思った。そう考えたらきっとアイスもかき氷も食べられるだろう。そこまで欲張らないけど。花火で充分だった。一通りやり終えて、線香花火だけが残った。
「あのさ、もうすぐお祭りだろ?」
手に持っている線香花火が静かに光り、龍之介のぶっきらぼうな顔を照らしている。
「うん。一緒に行こうね」
ユキは龍之介を見ずに、線香花火をじっと見ながら言った。
「お前と一緒に行きたい同級生はいっぱいいるだろ? 何で俺なの?」
色々してくれたけど、自分に同情しているだけなら龍之介は少しがっかりした気持ちで夏祭りを断ろうと思った。
「君を誘うのは変?」
「ちょっとな」
公民館に行った時、ユキが学校の同級生に囲まれていたのを思い出しながら言った。
線香花火が落ちて、光が消えた。次のを火につける。
「僕、この家の養子なんだけど」
「そうなの?」
「うん。両親とは血が繋がってない。僕がこの家に引き取られたのは、神社の跡取りが必要だったから」
ユキは言った。
「神主になるために引き取られたから、それ以外の将来は認められてない。両親に反抗すれば、ああやっぱり血の繋がらない他人の子を引き取るんじゃなかったって失望されるし、生活を保障してくれなくなるかもしれない。それで、空気を読みながら器用に育った。学校の子は僕が何でもできる子みたいに勝手に色々期待した目で見てくる。それだけだよ。でも、期待に応えるのは結構得意。好きではないけど」
ユキの声は静かで、線香花火みたいに儚げな感じがした。
「クラスの同級生は、何でもできるように見えるユキが好きなだけさ」
「それでもいいじゃんか。慕ってるってことだろ」
「勝手に慕ってくる分には構わないよ。でも友だちっていうのは、両想いじゃないとなれないんだよ」
最後の線香花火の灯が、地面に音もなく落ちて消えた。
「君といると落ち着く。君と僕の間に流れる空気は全然特別なものじゃなくて、本当に普通のものなんだ。他の同級生は少し息苦しい。僕自身のせいかもしれないけど」
龍之介は、ユキの言葉を頭ではく心で理解しようとしていた。
「俺たちは友だち?」
龍之介が言った。
「君がお祭りに一緒に行ってくれるなら、そうだろうね」
ユキの柔らかい声は、夏の夜に深く染みた。龍之介の心にも。
言うべきことは、ひとつしかない。言葉に心を込める。
「お祭り、楽しみにしてる」
ユキの表情は暗くてよく見えなかった。でも、あの綺麗な笑顔をしているんだろうと思った。二人の間に見えない幸福の空気が優しく流れ、闇の中で混ざり合った。お互い、手に入れたかけがえのない宝物を、そっと心の中に入れた瞬間だった。
「花火、またやりたいな」
龍之介は幸せを飲み込むように、深く息を吸った。
◇◇◇
ユキは両親と一緒にお祭りの準備を手伝っていた。龍之介は邪魔にならならい位置に座って、屋台が増えていく様子を眺めていた。ユキは、近所の人からわけてもらった饅頭やおかきを龍之介のところに持ってきてくれたり、ただ隣りに座って時間が過ぎていくのを心地よく感じていた。
ユキと一緒にいると、龍之介は自分のことを忘れることができた。あの夜、大事なものを手に入れたのと同時に、龍之介の中にあり続けた空虚な悲しみが、どこかにいってしまった。夏の夜に溶けてしまったかのように。そして、龍之介の心には、暖かいモノが宿ったのである。
そのおかげか、母親と顔を合わせた時、龍之介は気まずさや煩わしさというものを感じることがなかった。
「明日、ユキとお祭りに行ってもいい?」
龍之介は母親の隣りで、静かに言った。
「ええ、いいわよ」
母親は龍之介の細い肩に手を回し、我が子を引き寄せた。龍之介が顔を上げると、母親は泣き笑いの顔を浮かべていた。龍之介はその顔がとても好きだと思った。
お祭りの日。神社は人で埋まった。母親は藤田さんを連れてきていた。一緒にユキの両親に挨拶をしている。ユキは青い浴衣を着ていた。女子を惹きつける魅力が増したと思う。現にお祭りにきていた女子たちが、ユキに熱い視線を送っていた。女子の中には浴衣を可愛く着のこなしている子もいたが、ひときわ美人な子がいて、それがダンサーのリカだった。大人っぽい花柄の浴衣に、洒落た髪飾りをつけている。ユキを見つけると、とびっきりの笑顔で手を振った。
「話してきたら?」
龍之介が言うと、ユキは首を振った。
「好きじゃない」
「どのへんが?」
「主張が強い。私が、私が、って感じ」
確かに、リカの目は男子の意見をねじ曲げる強さがありそうだ。
「ユキの好きなタイプって?」
「君だよ」
「わからん」
龍之介とユキは、屋台でリンゴ飴を買った。食べ終わるとユキはダーツに興じ、的のど真ん中を決めた。周囲から歓声が上がり、一等の大きなぬいぐるみを手に入れた。それを羨ましがる小さな女の子にプレゼントすると、見ていた女子たちがうっとりした表情になった。これでユキの評価はますます上がった。
「お前はほんとスマートだな」
「そう?」
「うん」
屋台でお菓子の詰め合わせを買って、階段近くの隅っこに腰かけた。色んなタイプの女子たちがユキに声をかけ、男子もダーツのコツを聞いたりしていた。人気者のユキだが、彼等よりも付き合いの短い自分の方がユキを大切に思っている。これからもそうだ。
お菓子をあらかた食べて、屋台でゲームをし、クレープを食べた。こんなに普通の食欲があるのが不思議で、嬉しかった。ユキは周りにお願いされて、もう一度ダーツをやった。また決まった。黄色い歓声。すごい。ユキは景品のぬいぐるみを強く欲しがるリカにあげた。
「わがままな女王様に」
ユキは聞こえないように、リカに嫌味を言った。お祭りの終盤、リカや一緒にいる女子たちは名残惜しそうにユキと話していた。本当は最初から一緒に行動したかったようだが、龍之介という弊害がいて思い通りにいかなかったのだろう。せめてリカはユキに浴衣姿を褒めてもらいたいようだ。龍之介がわかるのに、ユキがわからないはずがない。思った通り、ユキは話の流れでリカに似合うよと言った。リカは満足して、じゃあ学校で会おうね、と言って帰って行った。
「好きじゃない子を相手にするって結構大変だな」
「面倒、だよ」
ユキは肩をすくめた。それでも、そっけなくしないユキは偉いと思った。だからリカを含め、女子は勘違いするんだろうけど。
「君、好きな子いないの?」
ユキが言った。
「今は母親かな」
「君の方が優等生だ」
屋台の照明が消えはじめ、集まった人々が神社から去って行く。疲れてしまった龍之介は、ユキに体を寄せて、少し支えてもらった。神社からは徐々に人の声や音がなくなり、やがて完全な静寂になった。龍之介とユキは黙って立っていた。もう、夏の虫の声しか聞こえない。祭りの後の寂しさは感じなかった。二人とも、とても満たされた思いでいた。
そばにあるユキの顔がそっと動く気配を龍之介は感じた。自分を見ているのだ。
「楽しかった?」
「うん」
ほんの少し、笑い合った。二人は手を繋いでいた。手を伸ばしたのはどちらだったか、わからないが、そんなことはどうでもよかった。心地良かった。しっかりと、優しく握り合った手は、互いに深い安心感を与えた。
そうか、人はこの幸せを感じるために手を繋ごうとするんだ。龍之介は思った。襲ってくる悲しみ、抱えている不安を和らげ、何か大丈夫な気にさせる。何か言葉を発するよりも、ずっと確かに感じる結びつき。ユキの手。好きな人の手。
龍之介の目に、静かに込み上げるものがあった。繋いでいる手が、とても温かい。
この後のことについて、語れることはほとんどない。でも、少しだけ――。
龍之介がどんな気持ちで眠ったか、知りたい人だけに。
◇◇◇
あの夜、龍之介がまた花火をしたいと言ったことをユキは覚えていた。二人はもう一度花火をした。そばには母親がいた。何も言わず、でも目が合うと微笑んでくれる。
ユキとは七月に出会い、八月に友だちになった。そして夏祭りを一緒に過ごした後は、もっと深い絆ができたことをお互いに理解していた。世間はそれを親友と呼ぶだろう。
「お前の人生はどうとでもなる。俺にはわかる。今は子どもだからどうにもなんないことも多いけど、お前の未来は絶対良くなる。親友の俺が言うんだから間違いない」
夏の終わり、龍之介はユキに言葉を遺した。
ユキと別れたくなかった。ユキも泣いてくれた。
繋がっている手。ありがとう。
でも、ごめん。先にいく。ユキのおかげで、良い夏だったよ。




