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明日私は、恋してますか  作者: 植村夕月
Ⅰ 夜空の姫君は見つけた
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8話   あべこべになっていって

   8話   あべこべになっていって


 翌日、私は三時に起きると台所にいって中華鍋をコンロに置く。弁当箱はコンロの向かい側の引き出しから二つ取り出す。今日はチャーハンを作ろうと思う。チャーハンは大火力で一気に仕上げるのがいい。 家庭用コンロは中華料理が要求するほどの火力が出ない。

 だからと言ってぱらっと美味しいチャーハンができないわけではない。

「本当だったら、温かいものを食べて欲しいんだけどな」

 私は冷蔵庫の冷えたご飯を電子レンジで温める。

 その間にチャーシューを細切れに刻む。次に玉ねぎと人参、ピーマンをみじん切りにする。卵を割って適当にかき混ぜる。黄身と白身が完全に混ざるぐらいにしっかりと。

 中華鍋に油をしいて、チャーシューをまず炒める。この時に中華鍋に入れる油の量が少し重要だ。油の量が多すぎると、私なんか胃がもたれる。

「ああ、大火力が欲しい。こんな家のコンロじゃ満足できないよ」

 チャーシューから香ばしい匂いが立ち込める。そこへ次には刻んだ人参とピーマン、玉ねぎを放り込む。そして炒める。次に入れるのは温めたご飯じゃなく、といたタマゴ。軽く熱を通して、半熟状態にする。

 その上に温めた冷ご飯を放り込む。中華お玉で上から軽く押さえつけるようにごはんをほぐし、一気にかき混ぜる。最後にウェイパー投入。

 この時ほど馬鹿みたいに腕力があることをありがたく思ったことはない。

「おりゃああああ――」

 なべを必死に振っていると、どうやら母親が帰宅してきたみたいだ。

「ただいま」

「おかえり」

 母はげっそりとした表情で私を見る。そしてなんということもなく、二階の母の部屋へと上がっていった。

 最近夜勤が続いて相当応えているみたいだ。

 母さんは自分がしている仕事を私に話したがらない。母がしている仕事というのはいささか興味はあるが、聞いたって答えてくれないのだから、それ以上は追及できなかった。

 私は炒めたチャーハンを弁当箱に移していく。今日のは及第点だな。正直あんまりいい出来じゃない。

 チャーハンを入れた弁当箱をそのまま蓋せず、しばらく湯気を飛ばす。

 私なら昼食はこれだけでも十分なのだが、彼にとってしたら心許ないだろう。

 私は冷蔵庫の中をあさる。何か食材があればいいんだけど。あ、ソーセージ発見。ああ、おかずは何かないかー。何かおかずはー。

 まあチャーハンの中にこってりした豚さんが入っているのだからもういいか。野菜はゆでたブロッコリーと人参、生のキュウリにドレッシングを掛ける。焼いた奈須があるんだけど、これには私特性のみそだれを付けてと。

 一品一品を弁当箱に詰めていく。さすがにチャーハンは冷めるとおいしくないので保温性の高い容器に入れる。

 そしてかっちりふたを閉めた。

「はぁ、出来上がりました」

 私はポケットに突っ込んであったスマホを見る。時間は六時を少し回っていた。

 弁当箱を二つ抱え、私の部屋へ行く。

 通学鞄に弁当箱をしまうと、私は両手首にリストバンドをする。鏡で寝癖がないか確認し、とりあえず櫛で髪を梳く。香水をぱっぱとつけて、姿見の前でくるりと回転した。

 特に変なところはないか。

 よし、行きましょう。

 私は鞄を掴み、部屋を出る。母親が家にいるが、私はなにも声を掛けずに、そのまま家を出た。

 最近朝はめっきり冷え込むようになった。それゆえに今日はカッターの上にセーターも着ている。ネクタイというものは男の人が着けるものだと思っていた。しかしこの学校に入って以降は女の人がつけても違和感はないし、むしろかわいく見えることすらある。

 私は丘にある家から歩道を下る。そう言えば最近バカ親父が帰ってきてない。一体何しているのか。まさか、こんな時期に外で寝ているなんてことはないでしょ。

 このように私は心労が絶えないのですよ。


 学校に着いてから私は机の上で突っ伏したままだ。やっぱり生活排水みたいにまじりあった声というものは私にとって苦痛だった。他の人にとって何という事はない。タダ私だけが、苦しんでいる。

 どうして私だけなのか、そう何度も考えてきた。その考える行為自体が不毛であることもちゃんと頭の中では理解している。でもやめられずにはいられない。

 目を閉じて視界をシャットしているなか、後ろからポンと背中を叩かれる。私は怠け者よろしくゆっくり起き上がった。振り返ればやはり彼の姿だ。

「二条、おはよう」

「うん、篠原君もおはよう」

 篠原君は私の顔をまじまじと見つめてきた。突然のことだったので、私は困惑する。

「二条、お前いつも朝はしんどそうだな」

 私が朝辛そうにしていることは、クラスの大部分の人間が知っていることだろう。

 私は彼に耳打ちする。

「私さ、実は人が多いところが苦手なんだ」

「そうなのか、それは大変だな。気分が悪くなったらいつでも言えよ。すぐ保健室連れてってやるからな」

「ああ、その時はお願いする」

 そう言って私はまた机に突っ伏した。机はひんやりしている。腕と額にそれがじかに伝わってきた。耳をふさいでいるのに声が聞こえる。ちゃんとした耳栓がしたいなんて思っていると軽快な声音の少女が私の背中をツンつくして、わき腹をくすぐってきた。あまりのこそばゆさから、私は顔を机から上げて、ケラケラと笑う。

「ちょ、ちょっと止めて、ね。有紀ちゃん。ひゃ――」

「おーおー、可愛い声を出しますなあ。これはドンドン止められなくなっちゃいます」

「ひえ、ちょ、や、止めて。あ、ひゃ。く、くくく。あああ――」

 ちょっとおふざけが過ぎませんかねえ、那岐ちゃん。

 篠原君もさすがにこれ以上はいけないと思ってか、那岐ちゃんを止めにかかった。

「神宮寺、その辺にしとけよ。場所が良くないぞ。二条がちょっとなまめかしい声出すから、クラス中の男子どもの視線が集まってしまったじゃないか」

 彼に指摘されて、那岐ちゃんはクラスを見渡した。皆の視線が痛い。

「確かに、少しやりすぎたかな。まあ、陰気なままだといけないしいい特効薬になったでしょう。おはよう、有紀ちゃん」

 若干涙目になった私は、有紀ちゃんを見上げる。

「お、おはよう。朝からとても激しい。少しは手加減してほしい、那岐ちゃん」

「ははは、手加減したら面白くないでしょうに」

 那岐ちゃんはサンタクロースのような笑い方をしてそのまま教卓辺りに集まっている女子グループへ混じっていった。

「ねえ篠原君、彼女ってパワーが有り余っているのかな?」

「うーん、どうなんだろうな?」

「ああいう、元気な女の子ってモテるんだろうね」

「まあ、否定はできないな」

 教室の仲が少し暗くなってきた。私は外を眺める。熱い雲が青い空を飲み込んでいく。太陽が食われると、一気に外は暗くなった。

 今日の午後からは、雨が降りそうだ。


 四限目終了のチャイムが校内に響き渡る。窮屈な授業から解放された私は、大きく伸びをする。肘とかからパキパキと、木の枝を折るような音がする。

「ああ、やっと終わった」

 私は振り返って、篠原君の様子を窺った。

「こいつ、寝てやがった」

 私は彼を強く揺する。すると何やら寝言を言い出した。

「うー、二条。止めてくれえ―。止まってくれえ。背中が背中が、焼ける。うおおお、熱い暑い死ぬ死ぬ。ハチマキが」

 あ、こいつ。昨日の私が二人三脚で引きずったことを悪夢として思い出しているな。

 これは早く起こしてやらないと。こんなどうでもいいトラウマを引きずられては困る。

「起きて、起きて篠原君」

 揺さぶっていると、うっすら彼の目が開いた。そして私に気付くと、いきなり立ち上がって背中を大きく退けぞらせた。

「そこまで驚かないでも……」

「あ、ああ。すまないな。もう授業は終わったのか?」

 のんきなことを言っている彼に私は嘆息した。

「とうに終わったよ。この様子だと、授業中は爆睡していたようね」

「いやあ、ここまで深く眠るとは思っていなかった」

「まあいい。それより、私についてきなさい」

 私は彼の手首をつかんで、教室の外へ連れ出す。手を放して私は彼の先を歩く。

「どこに行くつもりだ?」

「談話室。昼ごはん食べるときにはなかなかいい場所」

 そういいつつ、私はくるりと翻って、彼の口の前に人差し指を押し付ける。

「談話室のことは内緒。ほとんどの生徒が知らない穴場だからね」

「お、おう」

 

 談話室に着くと私は中の様子を窺う。中から声は一切聞こえてこない。どうやら今日は誰も使用していないみたいだ。そもそも、この談話室がある校舎には生徒も教師も余り寄り付かないのだ。

 ただそれにしてはここの掃除がしっかりなされている。不思議といえば不思議なのだが、初めて来たときからずっとそうだったし、今さら気にならない。

 私たちは扉を開けて中に入る。窓際の席が結構暖かそうだったので、そこで私は篠原君と向かい合うようにすわった。

「こんな教室があるなんて、よく知ってたな。俺はここの校舎がてっきり物置に利用されていると思っていた」

「ああ、それはあながち外れてないと思う」

 私は鞄から用意した弁当二つを机の上に置く。弁当箱は大きいのと小さいのが二つあって、大きいのは篠原君ようだ。

 大きい弁当箱を私は彼に渡す。

「おー、二条、ありがとう。俺、今とても感動しています」

「そんな大げさ」

「いやいや、そんなことはない。こんな風に女の子が俺のために弁当作ってくれたなんて、感謝感激雨あられっすよ」

 思った以上に喜んでもらえている。だって口調がおかしくなるくらいですからね。

 彼は手を合わせて丁寧にいただきますというと、初めにチャーハンをつつく。そう言えばご飯じゃなくてチャーハンだから箸よりスプーンのほうが良かったのかな。ちょっと食べにくいかなあ。

 そう思いながら、彼が頬張る姿を凝視する。その時私の顔はどうしてか緩んでしまった。

「ど、どうかな?」

「おう、すごいうまいぞ。お前って料理がうまいんだな」

 おいしいって言ってくれた。

 私にとってはこの言葉が作ってきた者として一番欲しい言葉だ。自分一人だけのためじゃなく誰かのために作ってそれを食べてもらった今この時の嬉しさは私の人生で比類なきものだった。

 私は弁当箱を開いて、チャーハンを頬張る。

 ふむ、味はそこまで悪くはないか。うーん、少し失敗している。今度はもっとがんばろ。

「お前って、本当に何でもできるんだな」

 彼は感心したように言う。

「いや、そんなことはない。私にできることなんて限られているよ」

 そのあと私たちは、もくもくと食事をすすめた。

 最近になって思う。

 彼と一緒にいるときは、別に話の種がなくなっても気まずいことはないのだ。ただ彼の傍にいるだけで落ち着く。

 ああ、もうこれはいよいよ否定できなくなってきたぞ。参った。どうしようかな。

 篠原君は弁当を平らげると、満面の笑みで、

「ごちそうさま」

「お粗末様です」

 外からざあざあ音がするので、窓の方を向く。すると地面を叩きつけるような激しい雨が降っていた。彼にばかり注意がいって全く気付かなかった。

 この振りようだと、グラウンドは瞬く間に水浸しになってしまうだろう。運動部系は総じて休みになりそうだ。

「今日は練習、できそうにないね」

 私はぽつりとつぶやいた。

「そだな、少し残念だ」

 私はチャイムが鳴るまで、ここで彼と二人きりの時間を過ごした。


 翌日、この日は雲一つないよく晴れた日だった。私は前日同様彼の弁当を用意して、学校へ行く。今日も父は帰ってこなかった。最近どこで何をしているのか、疑問におもうがあんな奴帰って来なくてもいい。

 母は疲れ果てて自室で泥のように眠っている。

 聞こえていないだろうけど、私は小さな声でつぶやいた。

「行ってきます」

 玄関扉を開くと家の前で酔いつぶれているおっさんがいた。父さんだ。まったく情けない。あと少しで家のなかなのに、どうして外でこうも堂々といびきをかいて寝ているんだろう。

 衣類はたばこの臭いが染みついている。飲み屋から帰る途中におう吐したのだろうか、酸っぱくて臭いにおいが鼻を突く。

 私は顔をしかめながら、父の両脇に手を通して玄関に引きずり込む。

「父さん、父さん、外で寝ちゃダメでしょ」

「う~~。うっせえな。べるにおまれはかんへいねえらろう」

 全然ろれつが回っていない。一晩経っているのにこれって、いったいどれだけお酒を飲んだんだか。夜は時折骨の芯まで冷え込むこともあるっていうのに、よく死なないで済んだもんだ。

 私は玄関を上がり、二階へ上がる。空き部屋となっている和室に、来客用の布団一式があったと思う。和室に上がると、私はふすまから、毛布を探す。毛布は布団と布団の間に挟まっていた。布団が崩れ落ちないように私は毛布を強引に引きずりだす。

 毛布を持って降りると私はそれを玄関で寝転がっている父に放り投げた。

 とんだはた迷惑だ。

 私は玄関扉を荒く締める。そして走って坂を下りっていった。

 

 今日の二限目は体育なのだけれど、女子担当の体育教官が急病で欠席している。この学校は体育の授業を男女別で行っているけど、今日は特別に男女合同で行われた。

 体育の授業は面倒なんだ。

 私にとって体を動かすことは特に嫌いではない。しかし体育の授業では、ラジオ体操を覚えろとかただでさえ物覚えが悪い私にそんな苦行は酷くないかと思う。走り込みだとかならいいさ。一番嫌なのは行進するとき足が上がりきっていないとかで、やたらと大声出して怒鳴り散らす教員だ。

 今日も苦行をさせられるのかと私は思う。

 準備体操をして、集まる。

「今日は、体育祭で自分に割り振られた競技の練習を各々でするように」

 あら、今日は面倒なことしないんだ。じゃあ、篠原君と二人三脚の練習でもしよう。

 私は二、三人の男子とだべっている篠原君に視線を送る。すると彼は私のもとへ駆けよってきてくれた。

「篠原君、一緒に二人三脚の練習する?」

「ああ、そうしよう」

 私はふと背後からさすような視線を感じた。まるで刃物で突き刺されたかのように疑似的な恐怖感を与えられた。私はすぐさま振り返る。振り返った視線の先には、やはり彼女がいた。

 橘さん。

 彼女は私と視線が合うと、ぷいと顔を横に向けた。私も視線を元に戻す。

 そして体育祭の競技の練習を始めた。


 昼になるとまた彼と一緒に弁当を食べた。今日は彼だけじゃなくて、那岐ちゃんも一緒だった。仲のいい友達二人と食べる昼食はまたおいしかった。屋上で食べたけど、あまりに楽しかったから寒さなんて特に感じなかった。

 私は今、幸せすぎる。幸せすぎて罰が当たりそうだ。

 

 放課後、篠原君は用事があって終礼が終わるとつむじ風のように姿を消していった。

 二人三脚の練習もなしになった。

 しかし私には私の用事がまたできてしまった。そのために今、グラウンドの一角にあるベンチに腰掛けていた。ここは西校舎の先にあるグラウンドのずっと向こう、グラウンドの端にたてつけてある。

 私をここへ呼び出した人物はまだここにはいない。

 彼女はまるで猫みたいに気ままな人だ。

 彼女が遅れてきても、特に悪びれることなく、

「待たせてしまったわね」

 と平坦な口調で言ってのけた。

 目つきは相変わらず鋭い。射殺さんとせんばかりに私は感じた。

 やはり訂正する。橘さんは猫なんて可愛らしいものじゃない。むしろ獅子の類だ。

「あら、失礼なこと考えているでしょう」

 そして鋭いところも苦手だ。

 私は苦笑してごまかす。

「いや、そんなことは全然。それより橘さんこそ、どうして私をこんなところに」

「ああ、少しあなたと話をしたくてね」

 ……なんかこのやり取り前にもしたような気がする。

「デジャブ?」

 私がボソッとつぶやいた言葉に彼女は唖然とする。

 開きっぱなしだった口を閉じると、私に恐る恐る彼女は聞いてくる。

「もしかして、私がここに来てからの発言すべてが?」

「同じこと、言ってない?」

 彼女は眉間に人差し指と親指を置いてなにやらブツブツと喋る。恐らく、数日前に私と体育館裏で話したときのことを回想しているんだと思う。

 私は考え込む彼女の前に回り込む。そして眼前で手をぶらぶら振ってみたり、変顔してみたり、変な踊りをしてみた。

 しかし彼女は嗜好にふけったまま。

「むう、何にも反応しない。面白くない」

 私の声に反応して彼女は視線を上げた。

「ん? どうしたのかしら、二条さん? 面白くない、というフレーズが聞こえたような気がしますよ。はあ、それにしても、今日も私は遅れてきた。その後の言葉もほとんど同じような気がする」

 橘さんは海より深いため息をついた。

「はあ、これは完全にデジャブっている」

 話を振っておきながら身勝手なことだと思いますが、そろそろ本題に入ってほしいです。いつまでも萎れていないで下さいよ、橘さん。

 私はしびれを切らす。

「橘さん、私はどうして呼び出されたの?」

「ええ、そうね。率直に聞こうかしら。あなた、篠原君に告白するつもりですか?」

 彼女と私の間に静謐な空気が支配する。

 私は胸の内から零れ落ちる蜂蜜のように甘くて、焼けるように熱く、鉄臭いものと向き合う。こいつのせいで、平坦だった私の心にまた感情が蘇った。

 あいつの顔を見る度に、この熱いものが胸からあふれそうになる。声を聴くだけで、後姿を追うだけで、彼と手を握っただけで嬉しくなる。私はこの胸に沸く感情をもう抑えない。

 もう認める。私は彼が好きだ。私を抑制する杭は今この時に、引き抜かれた。

「私はする。体育祭の後で、彼に正直にこの胸の内を、ありのままを伝える」

 運動部がトラックを走り込んでいる。テニスのボールをラケットで打つ音がする。野球部は腰にひもを巻き付けてタイヤを引きづっている。

 みないつもと変わらない日常生活を送る。そんな中私と橘さんは、互いの想いをぶつけ合う。私は人から目を見られると、責められているように感じてしまう。だからこの視線を交わしあうなんて状況は私にとってつらい。

 じっと見つめていたら、彼女は鼻で笑った。

「やっぱり、あなたは強いです。前まで自分以外のすべてを見下しているかのような目をしていたのに、今は暖かくて芯があるいい瞳」

 橘さんは私に初めて笑顔を見せた。

 えっとこれは、どう解釈したらいいのか?

「あの、そんな風に言っていただいて嬉しい」

 私はお礼を言ったが、彼女の表情は深刻なものへと戻った。そして私に対して何か言い淀んでいるようだ。腕を組んだり、おんなじ場所をくるくる回ったり、目をぎゅっと閉じてうーんと唸っている。

 だが彼女も腹をくくったようだ。とつとつと言葉を紡ぎだす。

「人の秘め事はそのままにしておかないといけない。だけど、悪いことと分かっていながら私はあなたにある人の秘密を告げます。人の秘密を勝手にばらすような人間は最低とあなたはそしるかもしれません」

 今から行うことが良くないことと分かっているのに、それを口にすることへの躊躇い。喉元まで出てきているのに、つっかえてしまっている。彼女は橘さんは、私の目を見ると、こくりと頷いた。

 何に頷いたのか分からない。ただそれが彼女の喉につっかえた言葉を吐き出させる契機となった。


「神宮寺那岐さんは、篠原君に、

――好意を抱いています――」


 私は驚いた。私にとって唯一無二の親友も、彼のことが好きだったなんて。

 驚愕する私をよそに、橘さんは何やら嘆いていた。

「はあー、言ってしまいました。悔いのない恋を、なんてお節介なことはするもんじゃありませんね」

 驚きすぎて、思考回路がショートした私の頭を橘さんは壊れかけのテレビみたいにとんとん叩く。

「いた、痛いって」

「よく聞きなさい。あなたの親友は己が恋心を秘めたまま、身を引くつもりなのです。どうして諦めるかわかる?」

 私は彼女の問いに口をつぐんでしまう。分からないからじゃない。分かっているからこそ、余計につらい。

 那岐ちゃんは私の最も大切な友人で、付き合いがかなり長い。互いに何か変化があればそれを敏感に察知する。家族関係が悪化して荒れていた私が、クラスメイトの女子、や友人の自分にすらあまり楽しそうに話さないのに、彼とだけは楽しそうだった。

 そんなものを見たら、彼女はどう思う。

 優しい那岐ちゃんは、有紀ちゃんはきっと彼が好きなんだって勝手に思う。もし行為を抱いていたとしたら勝手に身を引くだろう。

 そんなこと……。

 勝手に恋して勝手に諦めて。親友のために本音が言えないなら、そんな自己犠牲は捨ててしまえばいいんだ。

 でも私は、彼とのつながりを切ることができる? 凛々しい横顔に、真っ直ぐな瞳、そして聞くと安心する彼の声。みんな私にとって大切なモノ。

 彼のことを考えれば、すぐにでも私の思考が浅薄であることに気付く。

 親友の神宮寺那岐ちゃんが、私のために諦めて引き下がってくれるなら、それをそのまま受け取ればいいんだって。

 ついさっき思ったこととはまるで反対の思考。

 欲望のままに他者を顧みない。こんなこと私らしくない。いや、本当なら、学校で一人の男子に親しくしていること自体が私らしくない。

 ……嫌な気分だよ。ホント。

 私は鞄を下げると、橘さんに頭を下げた。

「教えてくれてありがとう」

「別に、なんかあなたってくよくよすると面倒だから」

 私はベンチに腰かけたままの橘さんを背に門のある方へ進んだ。

 

 そして体育祭まで時間は川のように流れていった。毎日篠原君に弁当を用意して、昼には彼とお話しして、放課後には二人三脚の練習をした。

 しかしどんなときにも彼とお会話はぎこちないものとなった。

 

 日が昇るより少し早い時間、私はうるさい目覚まし時計によっておこされた。まだ外は闇に包まれて静かな海のようにすっきりしていた。

「はふう、この時間って一番落ち着く気がするなあ」

 玄関先のポストから新聞を取り出し手ぽつりとつぶやいた。

 新聞をテーブルの上に置いた私は洗面台で自分の顔を見てため息を吐いた。

 那岐は、篠原君のことが好き……。

 私、そんなこと全然知らなかったよ。

 昨日から親友と彼のことを考えると自分の嫌な部分がとめどなくあふれてきて嫌になる。

「那岐ちゃんが振られてしまえばいい」

 例えばこんな風に。

 私は親友に対してなんてことを思っているんだろう。私が家族のことで弱っていたとき、彼女はいつも私の傍にいようとしてくれた。実際には私がそれをお節介に思えていやだった。でも彼女は離れなくて……。

「私をただずっと気にかけていてくれた。そんな子に、こんなこと思うなんて、本当に嫌な子だ。私って最低だ。こんなの」

 私が汚れていく。ただ静かに墨汁より臭く、黒く、ねばっとしたものに覆われる。

 お弁当も失敗した。

 ちゃんと集中できない。素材を丸々ダメにして罪悪感が半端ない。こんなもの、彼に見せるわけにはいかない。

「今日は、パンで我慢してもらうしかないよね」

 

 いつもより早くに家を出て誰よりも早く学校についた。

 鞄を机の横にあるフックにかけて椅子に倒れ込むようにして座った私はそのまま机に上で眠る。

「よう、二条。おはよう」

「おはよう」

 篠原君の声に反射的に応えた。ただ彼のほうを見ることなく机に突っ伏したままだ。

 そんな私を心配して声を掛けてくれる。

「どうしたんだ、二条? 寝不足か」

「普段通り、篠原君には私にとっての普段通りなんてわからないか」

 嫌味っぽく私。

 ああ、ムカつくよ。この黒い感覚。那岐ちゃんに対してあんなことを考えさせる君は本当にムカつく。嫌いだ、君なんか。

 私は席を立つ。

 そしてそのまま朝のショートホームルームを抜け、続けて一限目もサボった。

 屋上のベンチに私は寝っ転がっていた。冬が近づいているのにこんなところで寝るバカはいないだろう。そんな馬鹿なことをする私は馬鹿か?

「バカだよ、ほんとバカだよ。私」

 体を起こして曇った空を見上げる。

「那岐ちゃんを蹴落とすようなことを考えて、私だけ幸せになる。酷いなあ。今の私って本当に欲しいもののためなら、何かを誰かを躊躇わずに傷つけられる。そんな黒くなった私がムカつく。醜くて、腹が立って仕方ない。そんな気持ちを彼は関係ないのにぶつけて、意図的に傷つけるんだから」

 視界がゆらゆら揺れている。ちゃんと空が見えない。目頭が熱い。

 サイアク――。


 そのまま私は昼まで授業をサボった。

 昼休憩時に屋上に一人の男子が姿を現した。やっぱり篠原君だ。彼は心配そうな顔を浮かべている。

「二条、お前どうしたんだ? 授業全部休んでさ。調子悪いのか?」

「いや、ただ面倒だった――」

 私は彼から極力視線を避ける。

「篠原君、今日は弁当が用意できなかった。ごめん」

「いや、そんなの俺のわがままなわけでお前が謝る必要はない。それより本当にどうしたんだ。いつものお前らしくない」

 篠原君の言葉に私は歯を食いしばった。

「いつも通り? ねえ、いつも通りってどのいつも通りかなあ。私が君と頻繁に接するようになってから、それともそれよりも前のこと? 私にはわからないなあ。私と君ってそんなくらいの付き合いだよ。浅いんだよ」

 私は悪意のこもったことを言う。醜悪な笑みを込めて。

 彼は私のそういう言葉に閉口した。拳は握りしめられて、視線は下を向いている。

「でも」

 視線をおもむろに挙げて私を見据える彼に、私は半ばあきらめの意味を込めた目を向けた。私のせい一杯の笑み。この笑みは醜くなっていないでほしいな。

「ごめん、一人にしてくれる?」

「……分かった」

 私は彼が屋上を去るのを見送った。

 そして柵にもたれかかって街の風景を眺める。

「君のことを知って、よく話すようになったってそれはずっと短いんだよ。那岐と出会ってからの時間に比べればずっとね」

 彼を傷つけるだろう言葉を発した。実際それは後悔するものだった。心には禍根がある。同時に私の想い人、優しくて強い男の子を苦しめる感覚に妙な快さを感じてしまっている。

「おかしいなあ、私」

 彼が立ち去った今ここで私は最も醜悪な笑みをさらしているだろう。そのくせ妙に目が熱くてほっぺたがべっとりするけど。


 午後からの授業には参加した。

 終礼が終わって、私は普段通りに体操着に着替えた。

グラウンドの端で私は左足と篠原君の右足をひもで縛る。

「二条、その……」

「なに」

「――いや」

 私は普段より強い口調で彼が何か話そうとしてもそれを遮っている。

 足にひもを巻き付ける間、私はちらりと彼を窺った。

 どろどろとした心の中で、私の好意は変質してしまった。だけどやはり彼を見るとドキドキして切なくなる。何も話すことがなくたって一緒にいたい。彼を見ると苦しい。同時に暖かい気持ちになれる。

「おかしいな」

 彼が気付かない程度の声量でポツリと呟いた。

 その後の練習も、心ここにあらずでうまくいかない。タイミングが合わず何度も転倒した。

 の時刻になった頃、私は彼のほうを向く。


「もう、止めない」

 

 何か別の意味がこもったような言葉に篠原君は頬を強張らせてはいるものの静かに「そうか」と応えた。

 

 そしてその日以降彼のほうからも私に話しかけることはなくなっていった。


 ある日の夕方、スマホの着信音がなった。相手は橘さん。那岐が篠原君に好意を抱いていることを教えてもらった時に番号とアドレスを交換したのだ。通話ボタンを押す。

「えっと、こんばんは。どうしたの橘さん?」

「どうしたのじゃないです。二条さん、あなた一体どういうつもりなんです。ふざけているのですか! そうだったら、許さない」

「あの」

「わかっていると思いますが、あなた、篠原君を意図的に傷つけていますね」

「……うん、そう」

「うん、そうってどうしてそんなことをしたんです。嫌われたいんですか。彼に」

 橘さんの核心を突く言葉にごくりと喉を鳴らした。

「そうだよ」

 その言葉に橘さんは息を押しとめてしまう。三十秒くらい無言だったか、彼女は落ち着いた声で話し始めた。

「遠慮しているんですか、神宮司さんに、そうでしょ」

 私は何も言わない。

「ああ、こんなことだったら言わないほうが良かったか。本当にお節介になってしまうとは。いいですか、私は別に篠原君が神宮司さんか二条さんかそのどちらについてもかまわないのです。……あ、いや、よくないか。て今は私のことは置いておきます。今のあなたたちの関係が生むものなんて何もない。あなたが嫌われるように振る舞ったってあなたは決して彼に嫌われない。ただ彼の心をどんどん削って、苦しませて、私はそれが許せない」

「ねえ橘さん、どうして、私はそんな酷いことをしても彼に嫌われないと思うの?」

「……あなたの、優しさを知ってしまったからです」

「そんなの知ったって……」

 また互いの間で無言の時が続いた。外は曇っていた空から雨が降り始める。それは瞬く間に豪雨となった。

「私も神宮司さんもあなた相手には分が悪い。でも友達とかそういうしがらみを超えてでも本当の気持ちは言わないといけない。言わないとずっと後悔するって私は思うんです。神宮司さんはあなたを思って告白しないつもりでしょうけど、やっぱり後悔は残るんじゃないかって思います。あなたも好きな相手にわざと嫌われるようなことをして、彼を傷つけてとても辛いでしょ」

 私は瞳を固く閉じる。

「そういうけど、あなたはどうして私が告白すると篠原君と付き合う、みたいな前提で話すの?」

「……みなまで言わせないでください」

 窓には雨による雫がたくさん引っ付いている。暗い外、雨が降る音に異様なつめたっさを感じた私は毛布にくるまる。

「そういう、そういうあなたはどうするつもりなの?」

「私? 私にはちゃんと考えが、あります。二条さんと違ってね」

 私は通話ボタンを切るとベットにあおむけになった。

 恋なんて今までに経験はない。そんな私でも思うところはある。想い人が違う人を好きだったとして、玉砕覚悟で告白する人、ある程度の勝算をもってして告白する人、勝算に関係なく付き合うために周りを蹴落としていく人、そして最後に明確な好意を抱いているが何もせず諦める者。

 これらすべてで想いの強さに強い弱いはない。

 例えば私の胸の中にある狂ったようにのたうつ熱い感覚。こんな感覚を那岐も橘さんも持っているのだろう。

 やっぱり今のままはよくない。

 私は間違っている。

 言いたいことはしっかり言わないとだめだ。

 私は今までの愚行を後悔し、明日から自分に正直になることを決意した。


 ピピピとなる目覚まし時計がうるさい。

 私は思い瞼をゆっくり開ける。

 今日は体育祭だったけ。

 ベッドから体を起こした私はしばらく掛け布団をにらむようにして考えた。

「もう、こんなことは止めないと、いけない。こんなの絶対にダメだ」

 私は先日橘さんに教えてもらったことを思い出す。

 那岐は啓二が好き。

 私が好きな人はまた違う人にも好かれていた。私を私だけを見てほしい、私にだけの笑顔を向けてほしい。私にだけの秘密を教えてほしい。私だけが彼の腕の中を占有したい。

 私だけ、私だけ、私だけが彼にとって特別でありたい。誰一人として私以外に彼にとって特別な人がいることを考えることができない。そんなことを考えたらぞっとした。

 私がこんなに好きだって思っている。

 それなのに那岐ちゃんが友人のためとか言って諦められるわけがない。


 やっぱり、彼に選んでもらうしかない。それでもし拒否されたら、その時はどうなるだろう? 泣いてしまうかな? うん、たぶんそうだ。まともな恋愛なんてしたことないからあんまりわからないけど、こんな暴れまわる感情の行きどころがなくなったら、そうなりそう。

 それ以降、彼とちゃんと話せるだろうか。

 分からない。

 分からないことだらけ。

 だけど、もうやらないといけない。そうしないとダメなんだ。


 ベッドから立ち上がり、洗面所で顔を洗った。

 朝早くに起きて篠原君と私の弁当を用意する。弁当をカバンにしまうと、私はパジャマからジャージ姿に着替える。私の高校はスポーツにイベントが行われる際には、制服かジャージでの登校を認められている。

「着替える手間が省けて、とても楽だ」

 家を出るのが早かった。そのために、グラウンドで手持無沙汰にしていたが、テント設営を行っている 那岐ちゃんに手招きされた。

 神宮寺那岐。彼女の顔を見ると先日橘さんから聞いた言葉が頭をよぎった。彼女は普段と変わらず、愛らしい笑顔を周囲に振りまいている。その表情の奥に並々ならぬ苦悩を抱えていることを想像すると、私は彼女のもとに行くことを躊躇ってしまう。

 そんな私の行動が、まったくわからないという感じに首を傾げる那岐ちゃん。

 彼女が苦しいものを抱え込んでいても平然と普段通りにしているのに、私だけ俯き立ち止っているのはおかしい。

 私は彼女のもとへとすぐに駆け付ける。そして何くわぬ様子で彼女に接しようとした。

 那岐ちゃんが私を呼んだ理由は、どうやら三本束になっている鉄パイつが重くて一人で運べないからだ。私は束になった鉄棒の端を持つ。

 那岐ちゃんは、私を見て微笑む。

「有紀ちゃんはやっぱり頼りになるね。とても力強いから」

 私は彼女から意図的に目をそらした。

「いやあ、素直に喜んでいいか分からない」

 やはり私は女子の中でも力がずば抜けて強いようだ。それを周りに認識されないように、重いものは積極的に運ばないようにしてきた。これは時折女の子からラブレターが送られてくる理由の一つになりそうだ。

 ほとんどのテントは前日に設営されている。少しでも残っている課題に進んで取り組もうとする那岐ちゃんはみんなから見ても素晴らしい子だと映るだろう。

 彼女をよく見る人は献身的だという。

 それは悪い意味で言い換えれば自己犠牲的。

 私は彼女のそんな部分を今まで好意的に評価してきた。だけど、今はそれをそのままいい行動と飲み込むことができない。

「那岐、あなたって建前と本心の乖離がよっぽどのものだよ」

 

 現在グラウンドは朝礼台の前にトラック四百メートルが白線で敷かれている。その周りはクラスごとに分かれた生徒が椅子を並べて座るスペースとなる。部活動などで使われるテニスコートや、サッカー場に、野球ベースは規制線が引かれ、生徒、親、近隣住民の観覧者問わず侵入できない。

 しかし生徒は校舎内に関してのみ普段通りに利用できる。

 この体育祭のために、椅子を外へ引っ張り出している。イベントが終わればそれらを各々がクラスへ戻さなければならないからある意味当然だ。

「ねえ那岐ちゃん、時間が余ってしまった。暇だ」

「私も暇だよぉ。ああ、退屈だなあ」

 ぼんやりしていると時間というものはあっという間に過ぎてしまう。

 橘さんが私に打ち明けてくれたこと、私は悶々とそれこそフライパンで焼いてる魚が焦げて到底食べられた代物じゃないレベルまで焦がしてしまうくらいに、考え込んだ。

 考えてばかりで行動できない私の欠点。

 失敗を防ぐメリットがあるが、何も成功しないというデメリトットもある。何をするにも人はリスクを冒さないと相応のものは得られない。

 私は十月に入って、ふろ場で自らリストカットした。

 酒で暴れた父親が怒鳴り散らし、母や私に暴力を振るった。母も母でかなりおかしい。私という存在を忘れてしまったような反応を毎日する。父と母が頭の中でぐるぐる回ると、私は気分を害しておう吐した。

 もう気味が悪かった、あんな連中に付き合っていられない。だからと言って私には逃げる場所もない。私は未来へとつながる道を見失った。

 私は黒い瓶の中へ落とし込まれた。夜の海のように暗い。瓶には水がなみなみと注がれていく。蓋はされていないから、私に何もされていなければ、逃げるのはたやすい。しかし、私の足首にはとても重い鉄球がつながれていた。

 息を止めても限界はすぐに来た。口からごばっと空気を吐き出すと、空気を吸おうとする整理現象が起こる。口に水が入り込んで、気道を通っていく。肺から水を追い出さんと、吐き気が襲ってくる。強烈な苦しみは死ぬまで続く。

 陸まで上がりたいと手足を動かして必死にもがきながら。

 あの時の私はそんな感じだった。

 手首を切って真っ赤な血があふれ出るのを見ると、とても安心した。血は肌を伝う。肌には生暖かさが感じられた。

 この時の私はどんな表情だっただろう。笑っていただうか、泣いていただろうか、怒っていただろうか、それとも特に表情はなかっただろうか。

 血が出る勢いはどんどんすごくなって、いよいよ死ぬんだなってときにやっぱりあなたは来てくれた。


 那岐ちゃん。


 あの日以来、そう長い時間はたっていないのに、私の心のなかはだいぶ変化した。私としてはあの時より明るくなった気はする。好きな男の子もできた。そして間違いなく今は自殺願望がない。

 私はけが人の救護、手当てを行っている養護教諭の隣の席に座っている。

 放送席でマイクを握り生き生きと実況を行っている那岐ちゃんを見て思う。

 本当にいい子だよ。女の私でも惚れてしまうでしょ。

 しかして何の委員会にも所属していない私がどうして怪我人の救護を行う養護教諭の隣の席に座っているか。どうもこれは私の心の状態に変化を与えるためのきっかけづくりらしい。

 私は自身の怪我に対して特に何とも思わないが、他者が傷つくのは耐えられない。他者の怪我と向き合っていくことで自身も傷つけてはいけないという事を先生は私に実感させたいのだろう。

「先生、誰も来ませんね」

「……別にこれはいいことだ。このまま体育祭が終わればいいのだが」

 先生と目が合う。私が半眼になると、先生は目を泳がせた。

「私って特に必要ないと思いますが」

「……そだね。うん」

 私は席を立つ。

 私も最近、沈んでいた心が浮上してきていろんなイベントを精一杯楽しんでいこうと思っている。もう自傷することもない。養護教諭の過保護は私にとってお節介だ。

 それより那岐ちゃんを焚き付ける必要がある。橘さん曰くあのこも篠原君を好きみたいだ。しかも私に変な遠慮をしている。

 そんな譲られるような形で、彼を手に入れるのはダメだ。

 彼女のほうからしたらそれは自己犠牲的なものだけど、私からしたらそれは憐みに捉えられかねないんだよ。何物にも得難いこの想いだけは闘争をもって手に入れることに意味がある。

 悔恨を残したまま、彼を手に入れたとしてもそれは満足のいくものか。

 絶対にそんなことはない。

 自分の持てるすべての力をもって挑んでそれでだめだったら仕方ない。

 全力なら負けでもいっそ清々しい気分になれるだろ。

 やっぱりだ。

 私は真正面から、彼女とぶつかって悔いがないようにしたい。結果として私が降りる形になろうとも。

 私は放送席で舟をこいでいる那岐ちゃんの肩をトントン叩く。

 彼女はとろんとした瞳でこちらを見た。

「うー、有紀ちゃんだあ。どうしたのかなあ?」

「少し話があるんだけど、いいかな」

 私は彼女と西校舎一階の階段裏へゆく。校舎内はしんとしている。誰一人として生徒がおらず、電気も消えている。田舎の廃校みたいな寂しさを感じた。私の心は青々とした木々に中で流れる小川のように落ち着いている。


「正直に答えて! 那岐ちゃんはさ、もしかしたら篠原君が好きなの?」

 

 私の言葉は友にとって雷の轟音のように刺激的だったのか、那岐ちゃんはフクロウのように瞳を目いっぱい開いている。太陽がぎらつくじとっとした熱さの夏に、粉雪が降っているのを目の当たりにしたかのような驚き様。私からそんな言葉は出てこないだろうという確信を持っていたのか。

 その見込みは甘い。私自身橘さんに教えてもらわなければ、知ることはなかった。

 彼女は艶のある髪を手櫛でかき分ける。視線は下を向いてしまった。口はきゅっと占められている。何分経ってもその光景は同じだ。

 私は諦めてその場を去ろうとした時に、彼女のダイヤより硬い口が開かれた。


「……そうだよ。有紀ちゃんが言った通りで、私は彼が好きだよ」

 

 やはりそうだったんだ。人が恋しているって傍から見たら、案外わかるものなのかもしれない。

 私は今日、決死の覚悟をもって行おうとしていることを告げる。恋敵としてフェアでありたい。親友だからこそといえば、そんな事きれいごとだ。本当は彼に告白するとき、禍根なくありたい、ただそれだけだ。

「私は後夜祭のキャンプファイヤーの時に、彼に告白する」

「あ、うん。そうなんだね。有紀ちゃんならお似合いじゃないかなあ」

 彼女の燕のひな鳥みたいに弱弱しい声音。

 那岐ちゃんの言い方は、最初から負けることを前提とした話し方だ。いや、勝負以前に友人のためと言って、孵化するかもしれない心の鳥という卵の可能性を勝手に見限って逃げる。

 だって怖いよね。せっかく温めてきた卵が努力の甲斐なく死んでいくのは。ましてや友と卵の孵化を賭して戦うのは、もっと辛いよね。

 でも恋愛云々で私たちの友情が壊れるほど柔くはないでしょ。

「まるで、諦めているような言い方だよ。私は気にせずに、自身の心のままに那岐ちゃんには動いてほしい」

「そんなことをして、もし私が付き合うことになったら」

「それはそれでちゃんと諦めもつく。私は悔いのない恋がしたい」

 私は一歩一歩と彼女に近づいていく。思わず後ずさりする彼女。

 私の行動に困惑している。

 私は彼女に両手を広げると、おもむろに抱き着いた。そして力のままに抱き寄せえる。

「えっ! えっ?」

 まるでタコさんみたいに顔を真っ赤にさせる少女に、私は耳打ちする。

「たぶん、このことだけは譲る譲られるじゃなくて、獲りあわないといけない。理由はうまく説明できない。でもそうでないといない。だから私はあなたに殺す勢いで彼を手に入れようとする。あなたもそのつもりで私に向かってきて」

 私の最大限の誠意と愛情、本心。

 されるがままの少女は、しばらくすると私の腹を押そうとする。

 何をしようとしているのか疑問だったが、彼女の開口一番に発せられた言葉に納得した。

「く、苦しい。ゆ、緩めてえ。有紀ちゃん、お願い――」

 あ、しまった。力の加減を忘れて抱きしめちゃった。

 まさか握力七十キロオーバーの弊害がこんなところで出てくるなんて。な、なんかぴくぴくしている。

「あ、やっちゃった」

 死にかけた魚みたいになっている親友を解放してあげる。彼女は数歩フラフラしたのちに体性を立て直した。体中から滝のような汗を出している那岐ちゃんを気の毒に思った。

 那岐ちゃんは私の肩を掴んで、鬼のような形相になる。

「ゆーきーちゃーんー。あなたの力は万力並みなの。リンゴだって人参だって大根だって握りつぶしちゃうでしょ。あなたの力は凶器になりうるんだから、……くれぐれも気をつけるんよ」

 話す最中にフーフー荒い息を漏らしながら顔を接近させる少女は、普段の穏やかさを微塵も感じさせない。そして彼女と零距離になる。

「わ、わかった。分かりました、那岐さま」

 怯えのあまり親友を様付で呼ぶ私。目から涙が出そうです。

 私は親友の豹変した姿におびえて、縮こまっていた。まるで天敵に睨まれたリスみたいに。

 そんな私に呆れてため息をついた那岐ちゃんは、真剣な表情で私を見る。私はその様子にごくりとつばを飲み込んだ。

「分かった。那岐ちゃんにそこまで言わせて、私が何もしないわけにはいかないね。告白のチャンスを与えてもらった。体育祭が終わったら告白するよ」

 彼女と私の世界の中で、無粋にもスピーカー音が邪魔をしてきた。

『女子百メーター走、二百メーター走の走者はトラック内部に集合してください』

 ああ、私に割り当てられた競技だ。私は那岐ちゃんの顔を見る。

「那岐ちゃん、頑張って!」

「うん、頑張るよ」

 私は校舎を出て、トラック内部へ駆ける。百メートル走スタートラインの少し後ろで私の番を待っていると、特に短距離を走るわけでもなく、スタートの合図をする係、ゴールラインのテープを持つ役でもない篠原君が勝手にトラック内に入ってくる。

「よ、二条。もうすぐお前の番だな」

 私は自由気ままな彼に半眼になる。

「何、暇で暇で構ってほしいのかな、篠原クン」

「お前、結構嫌味っぽく言うよな」

「ふん、短距離強いってクラスの皆に知られているから無様な姿は見せられないんだ! 邪魔するならさ、ちょっとあっち行っててくれる?」

 ヘラヘラ笑っていた顔も一変、凛々しい表情で私を見る。

「別に茶化すつもりはない。ただ、気負いしすぎていないか心配なんだ」

 優しい言葉ばかりかける男には気をつけろ。本性はとんでもない獣かも知れないのだから。なんて言葉を女子同士の会話で聞いたことがある。

 まあ、確かにあたっている。彼も私にばかり優しい気がする。でも彼は優しいだけじゃない。私を怒ってくれる。

「大丈夫。それより、私の勇姿をよく見ていなさい」

「ああ、頑張れ」

 私は彼とハイタッチすると、スタートラインへ進む。

最近彼との間で気まずさがあったけど、今のやり取りでは感じなかった。すこし気分がいい。

 私の心は高揚する。

 走者は五人。各々がクラウチングスタートの体勢をとる。私は五人の中で一番右端だ。

 息を深く着く。強く拍動する心臓を意識する。呼吸は浅く早くなる。私は前方を睨んだ。ゴールテープを持つ二人の男子が目に入った。

 私はただ一心に向こうまで走ればいい。

 スタートの合図が耳に入ると、地面を蹴って走り出す。走る私を逆風が襲う。風を切る音が耳に響く。

 私はある意味必死だった。一位を取りたいから? まあそれもあるだけど、それだけじゃない。私は走っている時に、無意識にだけど、自分の今の境遇から逃げ出したいという願いがあったと思う。

 太陽が雲の間から姿を現す。一瞬周囲をまぶしく感じた。


 体育祭はいったん昼の休憩が挟まれた。生徒は中庭、校舎で各々が昼食を摂っている。

私の眼前で二人の男子がビニールシートを引いた。私は靴を脱いでその上を上がる。那岐ちゃん、篠原君、飯田君はその上に腰を落ち着かせた。

「ねえ井村君。これ持って」

「あなたまだそのくだりをやりますか? ……もう勘弁してくれ」

 ぼやく飯田君は私から重箱を受け取った。私たちの中心にそれを置いた。手提げからウエットティッシュをを取り出し、彼らに回していく。

 私の様子を飯田君は興味深そうに見ていた。

「こんなに家庭スキルが高いとは、二条はきっといいお嫁さんになるぞ」

「はは、おだてたってなにも出ないから」


 私は思う。

 私が作った弁当をつつきながら、友達が笑いあう姿。

 私が空しく一人で食事していた時に、激しく希求したシーン。

 私が誰かのために作ってよかった、と思える瞬間。

 私は彼らをただ静かに見ていた。

 気が付かないうちに、頬を冷たいなにかが伝う。

 私はみんなから顔を背ける。

 最近私の涙腺はたるんでいるなあ。どうしてこうも私は、料理にこだわっているのだろうか? ただ、腹や舌が求めるものを作り続けていた。栄養を効率よくとること。食欲を満たすこと。私は生理的欲求に従って料理をした。父母の分なんてはっきり言えばその余りものだ。

 父母がまともでないから、自分で何とかしなければならない。結局料理との関係を深めたのはあの二人にあったんだ。

 飯田君は私の様子に何か不穏なものを感じたようだ。

「二条、どうしたんだよ?」

 目ざとい奴め。

 私は涙が出た原因を適当にでっち上げた。

「目に砂が入った。それより、どんどん食べろよ」

 最近言い訳が上手になってきたような気がする。私の本心を隠すためにそうなったにしても、何とも嘆かわしいことだ。嘘を吐くのがうまくなっているなんて、病院で眠っている弟なら何て言うだろうか。

 私は和気藹々とする彼らを少し遠く感じた。


 体育祭の競技種目はほとんど終わった。日は傾いて空は赤みがかかる。

 私は篠原クンの片足にハチマキを巻き付ける。ふと、左手首から痛みを感じた。すぐにそれに目を向けたが、青いリストバンドがしてあるだけ。手首のことを気にしないように、目を背ける。

 私は傍らから彼の様子を窺う。

 前を見据える彼の顔に、淡く暖かい血色の光が差し込む。日暮れ時って終末を何と何し感じさせるのは、私の性だとして、彼がそれを見据える姿はまた……。

 彼を夢中で見ている。ふとその彼がこちらを向いた。私は慌ててそっぽを向いた。

「二条、どうかしたか?」

「別に」

 

 私は彼とつながれた足を見て思う。

 どうして私は彼と走ることになったのか。

 彼はどうして私を二人三脚に誘ったのか。

 私は彼の誘いをどうして受け入れたのか。

 

 火薬の爆ぜる音と共に、足を前に踏み出す。踏み出す足は私の勝手にいかない。ただ導かれるように足は前へと出る。私はただ、それに任せた。どこへ進んでいくともわからない私の真っ黒な未来。そこへふと現れた少年。彼は疲れ切った私を導いてくれる。


 閉会式の後、生徒は体育祭のために準備したものの片づけに奔走する。一部役員のものはテントの解体とそれの支柱となっていた鉄柱をまとめ上げる。学級委員の那岐ちゃんはここにはいない。

 昼に彼女と交わした約束を恐らく遂行しているのだと思う。

 私は鉄柱四本をひもで束ねながら思う。

 私が篠原君に告白するという事をどうして那岐ちゃんに伝えたのか? 

 彼を思い続けてきた神宮寺那岐という少女に対して抜け駆けするのが嫌だったからだ。しかしそれは方便だととらえられてもおかしくはない。この感じだと私は篠原クンには振られないっていうような、へんてこで確実性のない優越感に浸っている女としてもとれる。

 そもそも恋をしたら、傷つくことは覚悟しないといけない。三角関係なんて言わずもがな。

 私はてきぱきと鉄柱をまとめて束にしていく。そしてそれを男子に渡していく。私は運ぶって言ったのに、男子どもは「いい」としか言わない。変に気を使わなくていいのにな。まあ、私の怪力伝説が広がらないから、彼らの善意はありがたい。

 

 トラックの中央にまきが積まれていく。

 体育祭が終われば、後夜祭が行われる。後夜祭なんて普通文化祭の後で行うものだ。私は入学してからこの学校の風習に驚かされた。ま、後夜祭を一年間に二回行うのは悪くないと私は思った。

 それにしても、以前の私なら、学校行事なんて興味を持たなかった。それなのになんて変わりようだろう。

 空はすっかり闇に包まれた。そこに蛍の光のように儚い光が幾多と瞬いていた。

 私はトラックの中央で激しく燃える炎を眺めていた。燃料となっているまきからパチパチと音がなっている。焔によって巻き上げられた火の粉は赤く光っていたけど、熱が冷めると、夜の闇に紛れて消えていった。

 秋ももうすぐ終わるこの時期、寒さが体に答える。

 私は深く息を吐いた。

 体育祭が終わった後の後夜祭を私は彼と過ごす約束を実は交わしていない。彼は来るだろうか、体育祭の高揚が冷めやらぬ今に。

 私は両手首に着けてあるリストバンドを取り外した。

 校舎のほうから、待っている人が出てきた。彼の表情はこわばっていた。歯を食いしばって、拳は固く握りしめられている。

 その様子を見て、私の胸のなかは猛烈に黒いものがあふれた。それに圧迫されるように心臓が苦しくなった。一人の女の子が膝をついて涙を流す姿が浮かんだ。

 俯いた私は自分の頬を両手でばしんと叩く。

 そして彼をしかと見た。彼と視線がまぐわった。

 篠原君はキャンプファイヤーの傍らで佇んでいる私の前で佇む。

「二条、俺と踊らないか」

 がっしりとごつごつした大きな手が差し出される。私はその手を取るか躊躇うが、意を決して掴んだ。

「うん」

 私たちは互いに手を取り合い、踊る。熱く激しく燃える炎を背に狂ったように踊った。

 心が熱くなる。呼吸が荒くなる。汗がとめどなくあふれる。瞳からが涙がにじんだ。

 彼は私の手をおもむろに引っ張り、キャンプファイヤーから離れた。そして彼は私が普段昼に過ごしている屋上へ出た。

 いつもと違う強引な彼を見て、私はこの上なく動揺した。

 まともに前を見ることができなくなって、ちらちら彼を見る。

「あ、の、篠原くん……」

 戸惑う私に、彼は私の手を掴み引き寄せる。

 彼の目はまっすぐに私を捉えている。絶対に逃がすものかと言わんばかりに。

 私は彼に対して好意を持っていた。だから今日という日に告白する決意をした。だけど、彼の様子を見て心が怖気ついてしまう。

 違う。

 これは怖いんじゃない。私は彼を信じているから怖くはない。この動揺は、嬉しさと悲しさによるものだ。

 私のいろんな感情がまじりあった心に彼はさらに攻撃する。

「二条、……俺さ、お前のことが、……好きだ」

 決定的だった。彼が口にした言葉は私にとって取り返しのつかないモノだった。私の理性はこの言葉が藁のように吹き飛ばした。

 私は彼に抱き着き、おもむろにキスをした。頭の中には何もない。ただ目の前にいる人に対してしたいことをした。面倒な理由づけも羞恥心もなくなった。

 ただ、私は目の前の人から私が欲していたもののすべてを吸い取らんとした。


 地上の火が抱き合った私たちをほのかに照らす。闇の中で二つの影が伸びていた。

 


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