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明日私は、恋してますか  作者: 植村夕月
Ⅳ 孤独な姫君はフライパンを手に戦った。
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76話   手放していくもの その2

   76話   手放していくもの その2


 弟が覚醒してはや二週間が経過した。

 半年以上眠っていて、一切体を動かしていなかったにもかかわらず、泰孝の筋力は補助付きで歩行が可能なレベルまで回復していた。

 私は病院で弟のリハビリに立ち合っていた。患者のリハビリを主としたこの大部屋には、弟以外にも十数人の患者さんがいる。その大半はお年を召した方で、時折弟に話しかける人もいた。

「泰孝君って、いろんな人に話しかけられてますね」

 宮古さんは、私の隣で弟に心配そうな目を向けていた。

 あいつは別に人と接することが苦手ってわけじゃないから、そんな心配はいらないのに。

「彼は、優しそうな印象を醸し出しているからさ、周りからしたら話しやすく見えるんだよ」

 そういうと宮古さんは、遠い目で彼をしばし見つめた後に、明るい笑みを浮かべた。

「そうですね。彼って、いろんな人に積極的に話しかけていくタイプの人だった。傍から見て、話すことが好きなんだなあって思うこともありました」

「あまりに積極的で、時にうざいって思うこともあるけどね」

 私が冗談ぽくいうと、宮古さんも「そうですね」と言った。

 

 今日のリハビリは一時間ぐらいで終わった。

 宮古さんは、飲み物を買ってくると言って、病院一階の売店に行った。

 私は大部屋の隅のソファに腰かけていた。弟も松葉杖を手にこちらに歩み寄ろうとしている。椅子から立ち上がって、弟を手伝おうとする。すると、右手で止められた。

「大丈夫。これくらいは自分でできる」

「そう」

 私は弟の傍で、弟の歩調に合わせる。

 彼はソファにどっかりと腰を下ろすと、大きく息を吐いた。さっきのリハビリは結構疲れたようで、額から汗の雫が零れ落ちている。

「体の調子はどんな感じ?」

「大分、歩けるようになった。もう少しで、杖なしでもいけそうだ」

「……良かった」

 弟の回復状況に私は心の底から安堵した。

 ぼんやり弟の顔を眺めていた。

 私は弟の以前通りと言える屈託のない笑みを見て、心がずきりとする。

 祖母は弟に私たちの家族が置かれている現状を説明しようと試みた。でも内容は外観的状況の説明だけにとどまった。私の父と母は病院で入院している、というだけのもの。父が私にしたこと、母が私たちを見て受けたショックで精神を壊してしまったことは何一つ説明していない。

 それも仕方ないというものだ。

 おばあさんのことを考えれば。

 ただそうなると家族の分裂原因を、私が話さなくてはならなくなる。

「私が、言うのか?」

 ぽつりとつぶやいた。

 弟はそれを聞いて不思議そうに首を傾げる。

 私は、弟に私が追った傷の話から今までのことを順を追って話をした。弟は何を言っているんだ、て疑ってかかった。でも、真剣な私の様子から、彼は信じることが辛いことでも、それを受け止めていった。


 宮古さんが一階に行ってから半時間が経過した。

 未だに彼女が戻らないことに疑問を覚える。病院内を迷ってしまったのだろう。重い話をしている私としては、都合が良かった。

「じゃあ、姉ちゃんはその篠原さんに引き取られたと」

「うん、あの時はおじいさんが体を壊していた時だよ。そんな時に、脳にけがをしている私の世話をすることなんて到底できなかったんだよ」

「そうだったんだ」

 仔細を理解した弟は、深いため息をついた。

 弟は、祖父母の家に行くことになっている。篠原夫妻にもうこれ以上迷惑をかけるわけにもいくまい。私も私で、この身はどこにあるべきなのか、分からない。

 敏い弟は、私の悩みを察したようで、核心的な問いをしてくる。

「姉ちゃんは、どうしたい?」

「私は……」

 ……。

 …………。


 私の本心は決まり切っている。でもそれを言ってしまうことは、弟を突き放すことと同義だ。

 私たち姉弟は、本来ならともに暮らすべきだ。遠方の学校に進学して寮生活に入ったとかならともかく、姉弟でありながら違う保護者の庇護下に入る。そうしてしまうと、もう兄弟関係が切れてしまう。そう思えてしまった。

 苦痛だ。

 どうして私は、こんなつらい目にばかり合わなければいけない。

 どうしてこんな別れの言葉を家族に告げなくてはいけない。

 どうして再開したのに、別れなければいけない。

 傷つけた左手首がうずく。

 唇がわなわなと震えてしまう。変な寒気を覚えた。

 私は、唇をかんでそれから意識をそらそうとする。そして、言うべきこと、言わざるを得ないことを、言った。この言葉は、後に私たち姉弟の間に深い楔を打ち込むこととなるだろう。

 人生、いつも取捨選択か。

「泰孝、私は篠原さんの下でこれからも生活していくよ。ごめん」

 泰孝は一瞬哀しそうな顔を浮かべるも、すぐに笑みを浮かべた。

「そっか、姉ちゃんが選んだんだ。仕方ないさ」

 私は弟と共に暮らすことではなく、篠原夫妻の今の生活を選んだ。


 夜の八時を回った頃、家事を終えた穂波さんがリビングで一息ついている。雄一郎さんは、ごついハードカバーの本を開いて何やら難しそうな顔をしていた。リビングには、私たち三人。

 件の話をするには、ちょうどいい。

 私は居住まいを正して、テーブル越しで向かいにいる二人に話しかけた。

「雄一郎さん、穂波さん、大事な話があります」

 雄一郎さんは、ほんとパタンと閉じて「うん」といった。

「弟の目が覚めて、退院したらおばあさんの家に暮らすことになりました。その時には、私も弟と一緒に暮らしたらどうだ、と。祖母から今後のことを考えておくように言われました」

 この話は、先日祖母から直接二人に話したことだ。

 いくら複雑な環境下に置かれたとはいえ、あまりにも勝手な話だと思った。私の父母が病気で倒れ、私も脳挫傷を負った。危険な怪我のために何が起こるか分からない。突然倒れるかもしれない。そう言う可能性を考えると、以前のように一人で暮らすことはできなくなった。かといって、祖父母の家に行こうにも、当時はその二人ともが体を壊してしまっていた。

 必然的に、私は篠原夫妻の下で暮らすことになった。

 そして、間もなく弟も覚醒した。

 弟は、恢復した祖父母の家に行くこととなって。

 血のつながった姉弟だけど、保護者は違ってしまう。すなわち兄弟の縁が切れるということか。私としては言いすぎな気がする。ただ、なにがしかの大きな溝ができてしまうことに、私も祖母も、雄一郎さんも危惧していたと思う。

 私は今の家にいるべきなのか、祖父母の下へ行くべきか、悩みに悩んだ。それこそ夜に寝るのもままならないくらいに。

 雄一郎さんは、優しい表情で私を窺っていた。

「有紀は、今後のこと、どうしたい?」

 やんわりした口調で問うてくる彼に、私は私の願いをそのまま伝えた。


「雄一郎さん、穂波さん、私をこの家においてください。私は雄一郎さん、穂波さん、加奈と啓二の五人で一緒に暮らしていきたい!」


 私は唇をキュッと閉じて、雄一郎さんを見据える。彼は、右手を私の頭にのせると、優しく撫でた。


「有紀は私たちにとって、娘も同然だ。好きなようにしなさい。当然、この家に住んでいい」

 

 その言葉を聞いたとき、無性に目頭が熱くなった。手の甲で乱暴に吹いた。

 私は嬉しかった。その言葉を言ってもらえたことに。

「ありがとう、ござ、います」

 穂波さんが椅子から立ち上がると、私の傍にくる。そしてゆっくりと私を抱きとめた。柔らかくて、ほんのり甘い。温かな感触。それらは私の心を揺さぶって、私の心の杭を取り払ってしまう。

 彼女の服がグズグズになるくらいに泣いた。

 私は嬉しいと同時に、悲しさに身を焦がしていた。どうしようもなく悲しかったのだ。

 

 私はもう、一人でフライパンを手に戦う必要がなくなったのだ。


 私の守るべき家族はたった今瓦解した。


 弟とあの古い家に戻って、父母の帰りを待つことももうない。


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