75話 手放していくもの その1
手放していくもの その1
「私は、どうするべきなんだろうね」
掻き毟るように擦れた紅い光が窓からさしてくる。差し込む光は空間の明暗を分かつ。大半は、暗い影で、残りが優しい蜂蜜色で色付けされている。まるで終末の一時を切り取ったような空間に私は、啓二と共にいた。
「なんでいつも、喜ぶべきことが起こってもこんな複雑な感情にさらされないといけないのかな? これじゃあ、いつどんな時も心が休まらない」
「……」
啓二は、唇を固く結んでいる。
彼は、今回ばかりは私の力になってはくれない。いや、私のために力になれないのだ。彼だって、私に何らかの手助けをしたいと思ってくれている。きっとそうだ。彼は私を考えてくれているなんて、とんでもな自意識過剰だ。だけどここ数日の彼の表情を見れば、そう思えるのだ。
「啓二、私はさ、今の生活がとても幸せなんだよ。穂波さんと雄一郎さんには、とてもよくしてもらって、加奈も君も優しくしてくれる。居心地がいいんだ」
「俺たちは少なくとも、お前を家族として迎え入れている」
「うん、私も家族として見てもらえることが嬉しい」
生みの親との関係が破たんして、当時行く先がなかった私を今の篠原宅が引き取ってくれた。その時から、私には新しい家族ができた。そこは以前よりもずっと私を大事にしてくれる。篠原夫妻は私を娘として見てくれるし、啓二や加奈は兄妹として接してくれる。
だからこそ私は、忘れてしまっていた。
いつかは破たんした家族との関係に何らかの決着を付けなくてはいけないことを。
弟の泰孝は半年の間、病院のベッドに眠り続けていた。お見舞いに行くたびに、体の硬直を少しでも緩和させようとマッサージなどしてあげた。週三回、本当なら毎日してあげたいくらいだった。でも当時は忙しくてそれが限界だった。
筋肉が固まらないように、という思いから続けていたそれはそこそこに効果があったらしい。覚醒してからすぐに、リハビリを開始できたのだ。
医師曰く、臓器や脳に問題はないらしく一か月程度で退院ができるらしい。
「弟は退院できたら、祖父母の家に行くことになると思う。そしたらこれから先、弟とはずっと離れて暮らすことになる。おばあさんはそれはダメだと思ったんだよ」
「家族は、一緒にいるべきだもんな」
「うん。そだね」
私は机に乗っかると、足をぶらぶらさせる。
空を飛ぶ飛行機は、その尾より長い雲を描いてゆく。廊下を歩く生徒がいないみたいで、足音が一つとして聞こえない。空いた窓から冷たい風が入ってくる。風は子供の様に、駆けまわって、部屋のカーテンを荒らして、廊下に転がるバケツを蹴り飛ばしていく。
私は、目を閉じた。
昔は、人の声という声が大っ嫌いで、自然の奏でる音、無機質な機械音を寧ろ好んでいた時がある。これらのみの音を耳に入れることだけ許して、人の混ざり歪んだ声を拒んでいた昔が懐かしい。
「懐かしいって言っても、ここ一、二か月の話なんだね」
私はぽつりとつぶやいた。彼はそれを気にするそぶりは見せない。視線を下に落として、腕を組んでいる。
彼が何も言わないので、私も何も言わなかった。
しばらくそうしていると、彼が唐突に私の頭を撫でだした。
「有紀が俺たちの家にいたいならずっといて構わないんだ。親父におふくろ、加奈もそう言ってくれる。自分の、本当はどうしたいのかっていう思いのままに行動したらいい。俺たちは、それを受け入れる」
彼は荒っぽく私の頭をなでる。ごつごつした手で、少し痛い。でも、こうされるとほんの少し落ち着いた。
まったく、啓二に撫でてもらうことが私にとっての安定剤になってしまっているよ。
呆れて笑ってしまう。
「ん? どうした」
「いや、ちょっとおかしくてね」
彼は不安そうな顔をした。
変な意味に解される前に、ちゃんと言っておく。
「思い出し笑いだよ。それよりね。ありがと。啓二」
私は、にーっと笑う。
未来について明るく、あまり難しく考えないようにしようとする私の意図をくみ取ったのか、彼も笑ってくれた。
「気にするな。お前の悪いところは何でも悲観的に考えてしまうところだからな。……もっとゆっくり考えたらいい」
「うん」
啓二は私の手を取ると、一緒に下校した。
家ではいつも通りに穂波さんの手伝いをして、みんなと夕ご飯を食べて、加奈と雑談なんていう感じで普段と変わらない時間を過ごした。




