63話 言えない苦しみ、何もできない悲しみ その1
言えない苦しみ、何もできない悲しみ その1
夕食を終えた私は、部屋で音楽を聴いていた。食器の片づけをしていた時、ふと思うことがあったので聞いてみた。
「こんなことを聞いていいのか、私には測りかねますが、その……」
洗剤のついたスポンジで皿をこする私は、穂波さんと目が合わないようにする。私は、篠原夫妻の面倒にならないように、踏み込んだ内容のことは聞いてこなかった。いや、まったくしていない訳ではない。ただ、憚られるのだ。
「加奈ちゃん、気にしすぎよ。言いたいことがあれば、臆せずいうこと。これはいつも言っていることでしょう」
「あ、はい。では、遠慮なく聞かせてもらいます」
私はお風呂に入っている有紀のことを一瞬考えた。
「穂波さんにとって、一番辛いことは、……その、今まででどんなことだったんですか」
私は言ってから、やっぱりこんなことを言うべきでなかったと後悔する。
今までで一番辛いことは何か、なんて質問は普通しないでしょ。何非常識なことをしているんだろう。
この心情、山の小川に流れる冷たくて綺麗な水を飲んでから、おなかを壊してしまう時みたいだ。
私は恐る恐る、彼女の様子を窺う。穂波さんは、お皿を手に持ったまま、じっとしていた。瞳は遠いところを見ていた。その時の彼女の表情ほど尊いものを私は忘れていた。
「ずうっと昔の、話になるかなあ。啓二が物心ついた時くらいだった」
――私たちは、それなりに充実した生活をしていた。啓二とっても可愛くて、本当に今思い出すと甘やかしすぎたんじゃないかって思うくらいだった。そんな可愛くて可愛くて仕方ない啓二が、ある日に熱を出してね。なかなか引かないから心配になって病院で精密検査を受けたのよ。検査しても原因は不明。ただ白血球数と炎症反応が高まって危険な状態になっていった。日に日に弱っていって、ご飯も食べられなくなっていった。毎日、病院へ通っては本を読み聞かせて、不安に潰されないように、手をつないで一緒に寝てあげた。
入院して一か月。呼吸機能が低下した。酸素マスクを装着させてバイタルが常時チェックされる。手には点滴の管が通っていて、見ていて可哀想だった。私は日に日に恐怖が増していった。この子の前では、気丈を振る舞って元気づけていた。反面私の内面は、迫りくる死神からこの子を隠したい、そういう願望が沸き起こった。その時の私は心が壊れそうだった。泣きわめきたかった。ずっと夢にまで見た子供を授かった。目に入れても痛くない、可愛い子にこれでもか、というように愛情を注いで育ててきた。幼児用品を雄一郎さんと探すのも楽しかった。こんなかわいい子のはしゃぐ姿、それらすべてを見逃したくなくて、この子ばかり見ていた。
そんな可愛い子が、病室で管をつながれ、マスクを付けられ、動くこともかなわない。こんなの酷いじゃない。なんで私たちはこんな目に合わないといけないの? ねえ神様教えてよ。
私は、天に向かって怒りたかった。たとえ届かぬ声だとしても、言わずにはいられない。そうして心が苦痛で歪み、怒りがわいていく。私は壊れたかった。いっそズタズタに壊れてしまったらどんなに楽だったろうか。
でも、できなかった。
私が啓二のお見舞いに行けば、あの子は嬉しそうな顔をする。何もできない母なのに、私の顔を見て、喜んで。そんな顔を見たら、私は、意地でも壊れてたまるかって気持ちになる。こんなに可愛らしい笑みを浮かべて、私が来たことに喜んでくれる子に対して、壊れるなんて愚行は許されない。だから、私はあの子が良くなること、元気になった時のことを想像して頑張った。今の状態は一過性の物だって、決して永遠の物じゃないって思って。
啓二の容態が悪化したときも、それを忘れなかった。今を耐えろ。今を頑張ったら、次には明るい先が待っているんだから――。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
私は、穂波さんを抱きしめる。ギュッと私の肩に彼女の顔が当たるように。
私は謝った。謝り続けた。しんしんと涙だけ流して語る彼女の姿を見て、私がどれほど酷なことをさせていたかを自覚した。そして、篠原穂波という一人の女性であり母親のしたたかさをこの上なく知らされた。
私は、自室のベッドに腰を掛ける。
ふとテーブルに飾っていた写真を手に取り、眺めた。篠原夫妻と啓二クンに私が、正月に神社の前で撮った写真だ。今から何年前だろう。啓二クンの幼顔からは、苦しみや悲しみが見て取れない。私は私で、唇をキュッと結んでいる。あまり可愛げのない顔だった。
誰かがこの写真を見たら、私たちのことを純粋無垢な可愛らしい子供たちというだろうな。私も啓二クンはそんな風に見えた。
だけど、穂波さんの話を聞いて、彼は彼なりに苦しみを知ってしまっているんだ。
「そういえば、啓二クン、自分が小さい頃の話をしてくれたことがないな」
写真を部屋中心に置いてあるガラステーブルに置いて、私はベッドに横になる。目元を腕で覆う。
聞くべきじゃ、なかった。
どうして、あんな変な質問をしたのだろうか?
そして穂波さんは、なぜ、あんな辛い話を私に言って聞かせたのだろう?
思い出すだけで、とてつもない苦痛を伴っただろう。私はあんなに取り乱した彼女をいまだかつて見たことがない。
穂波さん、大丈夫だろうか?
私は階下で今も家事をしている彼女の身を案じていた。
耳元に置いていた携帯端末がピロリと音を発する。発信者が誰かは、特別に設定した着信音で分かった。携帯端末を手に取ると、即座に通話をタップ。
『こんばんは。今いい?』
「別にかまわないが、急用か?」
『大事なことだよ。早くあなたの耳に入れてほしいことだったから』
『飯田君のこと、あなたはどこまで知っている』
「どこまでって?」
急に電話をかけてきたと思ったら、どうしてアイツの話なんだ? この妙に冷え切った感じの声、那岐の奴、何だか変だ。何かあったのか?
さっき穂波さんを意図せずに泣かせてしまった。その経緯から那岐に対しての心配も通常の比でない。私はこいつの話の意図を掴めない。ただ、言葉を選んで話さないといけないと、私は勝手に思ったのだ。
『そんなに深く考えなくてもいいよ。例えば彼の性格なんてどう?』
「ん、アイツ、普段はお調子者だけど、いざってときには……とても頼りになるな。頑張り屋さんで、責任感がとても強くて、それが仇となることもある。勉強はあんまりだけど、その分スポーツに心血を注いでいて、……とても真っすぐだ」
私は、飯田という男子についてすぐに思いつくことをつらつらと言った。自分でも意外なほどに、彼のことで饒舌になっている。確かに友人でも特別なほうだが……。
『とてもよく、見ているんだね』
「……な、何を言いたいんだ!」
那岐の生暖かい意味を持っているだろう言葉に私は驚く。こいつは私をからかうためにわざわざ電話してきたのか? 一瞬怒りを覚えた。それは、次の言葉によって、すっと消えていった。
『私が言いたいことは、すぐに、彼を、……助けてあげて欲しい』
気のせいか。電話口の向こうで、那岐が泣いているような気がした。ただ、ほんの少し声が震えて、息を詰まらせている様子から、私が勝手に思い込んだことだ。ただ、様子が変なのは変わりない。
私は、当然することを那岐に断言し、今いる場所を聞こうとした。
「私もそのつもりだ」
ただ、那岐の問いに答えたというのに、彼女からは電話口からでも怒りを思い浮かび上がらせる熱を感じた。その熱は、大切な人が死んでしまった時、自分が大切な人の苦痛をその目で見た時、失恋したときに発する暴発的なものだった。
『加奈、そのつもりっていうけど、それはいつなの? 明日、明後日、一週間後、一か月後なのかな。ダメだよ、今すぐにでも助けてあげないと。見てられないよ。私、私、彼を見ていると、手首を自分で切っていた時の那岐と重なって、辛くて辛くて、……仕方ないよ』
涙を流しているのだろう。喉が震えて、言葉が途切れ途切れになっている。それでも私に、伝えようとして、言葉を紡ぐ。それは叫びに似ていた。誰も助けない無慈悲な神に対して、糾弾するかのようだった。その非難する叫びには、救いを求めるものが混じっている。
「おい、加奈。どうした? 何があった? 今どこにいる?」
『今は、まだ学校、だよ』
私はすぐ行く旨を伝えて、携帯を切った。




