62話 神宮寺那岐、潜入する その6
神宮寺那岐、潜入する その6
今日の長い長い部活動が終わって、私はグラウンドの整備をしていました。必要最低限の白線ひき。これなんて、雨が降ってしまえば、石灰が流されてもったいないです。翌日の一限目が体育のクラスに、白線ひきを任せればいいのです。
体育用具を倉庫に直して、カギを閉めた私は、陸上部の部室へ足を向けました。倉庫の鍵は藤崎君に渡すことになっています。
「失礼しまーす」
ドアを三度ノックして、扉を開けました。中に入ると、話声が奥から聞こえてきます。入口直ぐのロッカー室から右隣の空き部屋からでした。私はロッカー室の隅に隠れて、奥の様子を覗いていました。
奥で話をしているのは、藤崎煉クンと飯田君でした。
「飯田は顧問に好き勝手言われている。だというのに、どうしてそんなに頑張れる?」
「……部の皆が俺を慕ってくれている。こんな不甲斐ない俺に、何も言わずについてきてくれる。俺は、それに答えないといけない」
私はもう少し、奥へ進む。空き部屋だと思っていた場所には、飾り棚が置いてあった。いくつものトロフィー、盾に、メダル。この部の栄光の証。
「飯田はよくやってくれている。今年、芳しくない結果だったけど、それで自分を責めるのは、見当違いも甚だしいぞ」
「だが、この部で高校生活の大半を捧げてくれたみんなに、大きな大会で喝さいを浴びた時の達成感を知ってほしかった」
飯田君は、おのれの拳をぎゅっと握りしめていました。歯を食いしばって、ぐっとこらえている様子です。普段から、能天気な印象の彼を知っている私として、今の彼はあまりに痛々しく思いました。はっきり言って、こんな彼を見るのは辛いです。
陸上部、入部した生徒の多くは、過酷な活動内容によって一か月も経たずに辞めていってしまうと言われています。高校生なら、部活以外でもいろんなことがあります。友達と遊びに行ったり、仲のいい異性と遊びに行ったり、少し難しい勉強もしっかりとこなしていきます。
やってみたいこと、そのための時間をごっそりとっていくのだから、それだけのものは与えたい、そういうのが彼の想いなんだと思います。
やっぱり、飯田君は傲慢です。こんなことは一学生が悩むことじゃないです。
彼の心に近づいていけばいくほど分かっていきました。彼は大きな誤解をしています。部活が何のためにあるのかを。
我慢できない。
今すぐにでも、彼の自分勝手な思い込みを正してやりたい。
ガツンと一発殴って、みんなにかけている心配を思い知らせてやりたい。
でも、それは私じゃダメ。彼と特別な『彼女』にしてもらって初めて意味がある。私の言葉なんて届かないんだ。
藤崎君が奥の部屋から出てきます。
私は凭れていた壁から離れて、右指でつまんでいる鍵を彼に見せました。体育倉庫の鍵を返しに来た時、偶然中で起こっていたことを耳にしてしまったこと。話さずとも、私の表情ともっている鍵で分かったようです。
部室を出て、扉を閉めると、カギを彼に渡しました。
「飯田君、困った性格をしているね」
「まったくだ。全部自分一人のせいにしてしまう」
私は、足を止めます。
「藤崎君、今日は先に帰ります。ごめんね、鍵任せちゃって」
「いいよ。これくらい。神宮寺、お疲れ様」
私は藤崎君に手を振って、体育館更衣室へ向かいました。
更衣室で、そそくさと着替えた後、鞄からスマフォを取り出して加奈に電話しました。加奈はすぐに電話に出ました。
「こんばんは。今いい?」
『別にかまわないが、急用か?』
「大事なことだよ。早くあなたの耳に入れてほしいことだったから」
私は体育館更衣室すぐ横の校舎に入りました。もう真っ暗な時間だというのに、この校舎内は電気が全くついていません。その校舎の古さと相俟って、まるで廃病院の様相を醸し出していました。
特に人が寄り付かないこの校舎。その窓際に寄りかかります。月光がほのかに私を照らしてくれました。
「飯田君のこと、あなたはどこまで知っている」
『どこまでって?』
私の問いの真意を測りかねているのでしょうか。加奈の声色には戸惑いが感知られました。
「そんなに深く考えなくてもいいよ。例えば彼の性格なんてどう?」
『ん、アイツ、普段はお調子者だけど、いざってときには……とても頼りになるな。頑張り屋さんで、責任感がとても強くて、それが仇となることもある。勉強はあんまりだけど、その分スポーツに心血を注いでいて、……とても真っすぐだ』
話していて、恥ずかしくなってきたのでしょうか。言いよどむ場面が見られました。
今加奈が言った言葉は、私を満足させるには十分でした。私が欲していることをすべてとはいかないまでも口にしてくれました。
「とてもよく、見ているんだね」
『……な、何を言いたいんだ!』
この慌てよう。
やっぱりあの二人の関係は少しだけ特別なようです。
「私が言いたいことは、すぐに彼を助けてあげて欲しい」
『私もそのつもりだ』
「加奈、そのつもりっていうけど、それはいつなの? 明日、明後日、一週間後、一か月後なのかな。ダメだよ、今すぐにでも助けてあげないと。見てられないよ。私、私、彼を見ていると、手首を自分で切っていた時の那岐と重なって、辛くて辛くて、……仕方ないよ」
途中から、私の声は涙声になっていきました。
ただ一人、辛いことを我慢し続ける姿。いつか来る温かく明るい時のために、みんなに奉仕し続ける姿。そのために心を病んでしまうことが脳裏に浮かびました。自傷なんてしたら、私はもう耐えられない。
なんで、私の友達はみんなこんなにも、傷つくことを躊躇わないの?
『おい、加奈。どうした? 何があった? 今どこにいる?』
私の異変を察知した加奈は、きつく命じるように問いかけます。私はそれにポツリポツリと答えました。
「今は、まだ学校、だよ」




