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明日私は、恋してますか  作者: 植村夕月
Ⅰ 夜空の姫君は見つけた
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6話   二条有紀のお気に入り

少し長く感じるかもしれません。

   6話   二条有紀のお気に入り


 私は学校の中庭で茫然と佇んでいた。昨日体育館裏で心の内を明かす橘さんとそれを聞いて動揺した私。篠原君への思いが本気であることは、彼女の様子から自明であった。彼女を見て思う。やはり、篠原君に思いを寄せている人は少なからずいる。

『だからどうした?』

 少し前の私ならそう言えただろう。今はそういうわけにもいかない。

 冷たい風が吹く。庭中央の水面に波紋を浮かび上がらせる。枯れた葉っぱもその中へ落ちていった。

 今は四限目で数学の授業が行われている。心がもやもやしていた私は思い切って授業をサボッた。真面目委員長の那岐ちゃんに後で叱られるだろう。まあ、それはそれで仕方ない。

 中庭、ここは私としては結構居心地がいい場所だ。しかし授業中にここいら辺をうろついていたら、教師の目についてしまう。四方を校舎に囲まれているんだし、当たり前なのだけれど。

 私は庭の中央にある池から踵を返す。校舎へ入ると、中は静まり返っていた。ここは科学実験準備室や家庭科室に第二図書室と、生徒があまり寄り付かない場所だ。掃除もあまりしっかりなされていないためにじめじめとして、埃っぽい。

「湿っていたり、埃っぽくても教室や人が多い場所に比べると居心地ははるかにいいか」

 何となしに独り言ちてみた。

 声量をある程度抑えていたのだけど、案外声が響いた。

 学校内でもあまり人気がない場所をふらつくというのはなんだかとても心躍る。あまり来ない場所だから探検しているという子供じみた心持なのだ。

 私はキイキイなる廊下をゆっくり歩く。時折空き教室の中を窺ったりもする。すると、生物学研究室が目に入った。その中の様子は簡単に言えば中学の理科室みたいに人体模型が置いてあったり、生き物のホルマリン漬けが戸棚に並べ置かれていた。ガスバーナーが備え付けられた実験机には書類が無造作に置かれている。教卓にはウミガメの甲羅が無造作に置かれていた。

 管理がなっていないなあ。この教室は授業で使うつもりが毛頭ないと見える。

 私は興味心からこの教室に忍び込んだ。鍵は閉まっていなかった。

 私は戸棚にきちんと並べて置かれているホルマリン漬けを凝視する。数多ある瓶の一つには蛙がポンと漬け込まれていて、その隣には蛇がとぐろを巻いた状態で漬け込まれていた。爬虫類や小動物のあまりの姿に私は目を背けた。

「おえ――、気色悪い」

 私は誰も聞いていないだろうと思っていた。だから私の言葉に思わぬ返答を得たときは驚いた。

「そうかい。まあ、生物の研究に気色わるいのはつきものだけどね」

 軽快そうに話す人物は白衣を身につけた黒いショートの女性。眼鏡との相性が良くてインテリを思わせる。彼女は私の担任、神奈川先生だ。

 私は不思議に思う。彼女は普段白衣なんてものを着用していない。

 先生は私の視線の先にあるものに気付いた。

「ああ、私が白衣を着ているのがそんなに珍しいかな」

「ええ、授業中につけていることなんて、今まで全然ありませんでしたよ」

「そうだね。私は普段こんなものをつけないね。でも本来はこの姿のほうが私にとっては普通なんだよ」

 私はこくりと首を傾げる。先生はその様子を見てか天使のように可愛らしい笑みを向ける。

「二条さん、私はまあ、いわゆるリケジョで。大学在学中についでで数学の教員免許も取得した」

 ついでで高校教員免許ってとれるものなの。と私は心中で呆れていた。

 先生は私の心中を察してか、私の肩をパンパン叩いてけらけら笑う。

「あんまり小さいことは気にするな。私は二つの科目を指導する能力を、この学校では数学教師として私のいどころが収まったんだ」

 そして先生は次にもっともな疑問を私にぶつけてきた。

「それより二条さんは、今授業中だったね。どうしたのかな? もしかしてさぼり?」

 反論の余地がなかったので私は素直に「はい」と応えた。

「うん、正直でよろしい。まあ二条さんはその実験机のほうでくつろいでいて」

 先生が指し示しているのは、比較的書類や実験器具が置かれていない机だった。言われたとおりにそこの椅子でくつろいでいると、先生はガスバーナーの上に500ミリリットルの水が入った大型ビーカーを置き、点火する。

 数分で沸騰すると火を消して大型ビーカーの中に紅茶のティーバックを放り込む。

 その様子を見ながら、私は気になっていたことを話す。

「この生物研究室でしたっけ、ずっと掃除もしていないみたいですし、物があふれかえっていますが、授業で使うこととかないんですか?」

 先生はビーカーを見ている。

「まあね。ここは古いしだいぶ前から使われていないんだよ。まあ近いうちに整理整頓するよ」

 500ミリリットルの大型ビーカーが琥珀色に染まる。インテリ美女教師はピカピカの綺麗なピンセットでティーバックをビーカーからつまみ出す。ゴミとなったティーバックを教卓に持っていくと、教卓の中をあさって二つの小さなビーカーを取り出した。

「ビーカーなんて無骨な入れ物で悪いね」

 そう言いつつ、耐熱手袋を右手にはめてはちみつ色のビーカーを掴む。そしてそれを小さなビーカーに均等で入れた。私はニコニコ微笑んでいる先生からビーカーを受け取る。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 何というかとても変な構図だ。私は授業をさぼってここまで来たのだ。なのに先生はそんな私を怒るようなことはせずに、あまつさえ紅茶を振る舞ってくれた。

「あの、先生。どうして私を怒らないんですか?」

 私のもっともな問いに、先生は顔を曇らせた。

「そうだね。まあ、率直な話を言うと私は君を怒ることが怖いのかな」

「えっ!」

 何を言っているんですかって、私はとても変な顔になっていると思う。

 私の反応を見て先生は苦笑交じりに続けた。

「ごめんごめん。舌足らずだね。もっと詳しく言うとね、あなたは真面目すぎる。成績を見ても、学校の出席率も、掃除当番もしっかりこなしている。ダメなところといえば、クラスメイトとうまく溶け込めていないくらい。家庭が大変だっていうのに、よく頑張っているよ」

 先生は私の頭を荒々しく撫でる。

「そんな二条さんが、授業をでれないなんて普通のサボりなんてものじゃないよね」

 先生は机の上で手を組んでいる。手の甲に顎を載せて微笑む。

 先生が言っていることはなかなか鋭いと思う。そして全く関係ない先生の白い手を凝視していた。

 なんでそんなに綺麗なの?

「二条さん?」

「あっ、はい」

 私が何か違うものを見ていることを察したのか、何かを尋ねるように私の名前を呼んだ。私は視線を手から元に戻す。

「言いにくいこととかあるでしょう。話したくなった時でいい。苦しくなったりしたら私を遠慮なく頼っていいんですよ」

 教会のシスターもかくやと言わんばかりの精神に私は感服した。

「ありがとうございます」

「いえいえ。まあ、あまり重い話をしてもなんだし、何か面白そうなことはないかなあ」

 私たちの話が重いものになりがちの理由は、この教室に太陽光が入って来ないからだと思う。窓はすべてカーテンがかけられている。カーテンの間から漏れる光は微粒子を目で捉えやすくさせる。

 じめじめ暗い中での話なら話の方向性がそうなっても仕方あるまい。

 私は先生に淹れてもらった紅茶をすする。

「先生って紅茶とコーヒー、どちらをよく飲みますか?」

「そうねえ、私は紅茶をよく飲むね。コーヒーは飲むと胃が荒れて気分が悪くなっちゃうのよ」

「ああ、分かります。あれカフェインのせいなのかな。一杯飲んだだけで寝つきは悪くなっちゃうんです」

 先生と話しながら思う事がある。先生は私たちより七、八年歳が離れているのだけれども、同年代の女子のように話しやすい。怖い印象なんてないから、何でも話せる気がする。

 これは失礼なことかもしれない。あくまで、私たちは生徒と教師の関係。同年代の人みたく接することは止めなければと、よく思う。

 しかし、先生と話すと気分が晴れるというかな、すこし心地が良くなるんだ。

「意外ですね。先生がコーヒー苦手っていうのは」

「ふふ、そうなんだ。まあ、誰にだって苦手なモノの一つや二つはあるんだし」

「ところで先生はどうして教員免許を二つも取得できたんですか?」

 私の率直な疑問に、彼女は片手にビーカーを掲げ遠い瞳をする。

「私はね、アメリカの大学に通っていたんだよ」

 そっか、先生って日本の大学へは通っていなかったんだ。

「アメリカの大学って授業料が凄まじくてね。普通の家庭じゃ到底払えたものじゃないんだよ。ではお金に関してどう解決したかだけど、私はね、成績優秀者の特待制度で授業料を工面したんだ」

 へえ、特待制度を活用すると、授業料もなんとかできるんだ。でもその金額ってどこまで行けるのかな。

「授業料の免除はピンからキリまでだね」

 まあ、私の親はあんなだから、大学とかそんな話とは縁がないか。

「あなた、今さ、大学とは縁がない、とか考えなかった」

「えええっ!」

 なになに、先生すごいんだけど。どうして私の考えていることが分かったの。まるで超能力者、こういった場合エスパーっていうのだったか、そういう類の人なの!

「こらこら、そんな目を丸くしない。今のはタダの勘だから」

 初な反応をする私に、先生は失笑する。

「でもね、二条さん。あなたみたいに複雑な事情を抱えている人のために大学ではいろんな制度があって、優秀な学生を埋没させないよう努力しているんだ。あなたも今は大変だろうけどね、すぐに決めつけちゃだめだよ」

 私はだんだん聞きたくない話を先生からされて俯く。最後には聞こえるか聞こえないか位の声で、「はい」と応えた。

 先生は私の様子からこの話は失敗だったかと言わんばかりに深く息を吐いた。

「あまり、気分のいい話ではなかったね」

「いえ、そんなことはありません」

 この時、驚くほど感情のない声が出た。

 ――『いえ、大丈夫です』『そんなことはありません』――

 私に心配を寄せる人に、壊れたレコードのように幾度も同じことを口にした。おんなじことばかり言って、言っている本人自身も疲れてしまった。

 しょんぼりしてしまった私を気遣ってか、先生はあるものを戸棚から持ち出してきた。それは二十に及ぶ蝶の標本だった。

「二条さんって蝶に興味があるかな?」

 標本をピン止めした額縁片手に先生は笑顔で訪ねてきた。

「……少し、あります」

「そかそか、それはよかった」

 先生は額縁を実験机に置くと、ビーカーに入った紅茶を仰ぐ。

 私は額の中身を凝視する。額の中には藍や碧に水色と漆黒の様々な色合いをした蝶が羽を広げて留められている。

「綺麗な蝶ですね。これなんか特に綺麗ですけど、この蝶はなんていうんですか?」

 先生は私が興味を持った蝶が何か知ると、途端にうれしそうな顔をした。

「おお、これかあ。これはね、オオムラサキ。こいつは日本の国蝶に指定されているんだ。ちかちか光る青紫色が綺麗でしょ」

 私は凝視するほどに、美しく見えていく蝶に興奮気味に「はい」と応えた。

「準絶滅危惧種なんだ。こんな美しいものがいつか見られなくなると考えたら、悲しく感じるよ」

「確かにそうですね。やはり美しいとその分、そいつがもろく見えてしまいますね」

 感慨深く見入っていると、先生は「チッチッチ」と人差し指を振る。

「ふふ、実はねこいつは美しいだけじゃなくて強いんだよ。食べ物を食べている時に邪魔をすれば、例えスズメバチでもその美しい羽根で追い払うんだ」

 私は先生の話を聞いて感銘した。綺麗でありながらに強い存在。私がずっと憧れている物をこいつは持っているんだ。

 私は愛おしそうにこいつを眺める。子供のころはよく虫に触れあった。でも年を取ればとるだけ、昆虫採集とかからかけ離れていった。久々に虫をこうも長く見ると、やっぱり感じ方は幼いころと全然違う。まるで生姜湯のように甘くてほのかに辛い温かいものを心に感じる。

 そんなほっこりしている最中、先生からあることが告げられた。

「まあ綺麗な蝶とあまり綺麗じゃない蛾は同じ種別なんだけどね」

 その言葉一つで私の感動はぶち壊された。

 標本の蝶を眺めているうちに、授業終了のチャイムが校内に鳴り響く。私は実験机に備え付けられている水道を使って、先生と私が使った小さなビーカーと五百ミリリットルのビーカーを水洗いする。

 その様子を見て先生が私の傍らに立つ。

「私が勝手に紅茶を入れたんだから、君は洗わなくていいよ」

「いえ、そんなわけにいきません。これくらい大したことじゃないですから、全部片付けさせてください」

「……そか、では頼んだよ」

 先生は標本を抱えると、戸棚のほうへ向かった。私は水洗いしたビーカーをふきんで綺麗に拭き取る。 綺麗になったビーカーを抱えながら私は先生を見た。先生はつま先立ちして戸棚の高いところから何か引きずり出そうとしていた。

「先生、ビーカーはどこにしまいましょうか?」

「あ、ああ。そうだね。そのままにしておいていいよ。私が片づけておくから。それより君はもう教室に戻りなさい」

 私は生物研究室を出て、先生の指示に素直に従った。


 私が教室に戻ると、那岐ちゃんがそそくさと駆けよってきた。その表情は憂いを帯びている。先ほど授業を勝手に抜けたことを心配してくれているのだろう。悪いことをした。

「有紀ちゃん、体の調子が、悪いの?」

「……うん、心配かけたね。ごめん」

 私が頭を下げると、両手をぶんぶん振って大袈裟に反応した。

「別にいいよ、そんなことくらいさ。それより昼ごはんは食べられそう?」

「そっか、なら一緒に食べよう」

 那岐ちゃんの提案に頷くと、私はある疑問を抱いた。昼休憩の時は大概篠原君と一緒に昼食をとるのだけれど、今は彼の姿がクラスの中に見当たらない。きょろきょろする私に那岐ちゃんは怪訝そうにする。

「誰か探しているの?」

「あ、いや。別に」

 私がそう答えた後しばしの間、彼女は腕を組んで考え込んだ。そして彼女の頭上に見えない電球がともった。

「はいはい、篠原君ね。そうでしょ」

「そうだね。まあこの様子だと誰かと昼ご飯を食べに教室を出たんじゃないか?」

 いないならいいさ。彼だって本当なら、クラスの男子たちと馬鹿な話しながら昼ご飯を食べたいだろうし、私とばかり時間を費やす必要だって特にないだろう。以前、屋上で彼から聞いた言葉は、私からして期待を持たせるものだった。

 しかし私は今までの人生に期待という言葉をこれでもかと悉く否定されてきた。もう私は期待を裏切られることに慣れている。

 そもそも、そもそも彼が私に期待を持たせるなんて、そんなこと自体が不本意なんだ。まるで私が彼に『恋』をしているかのようではないか。『恋』なんて雪のように熱に弱く、ケーキのように甘くて脆いものに私自身の心を委ねたくないのだ。

 なのに、私は違うほうへどんどん進んでいっている。

 私は廊下を歩む。那岐ちゃんは私の後ろにぴったりついてくる。那岐ちゃんは私の前に回り込んで、立ちふさがる。彼女はいたずらした子供のように無邪気に笑う。

「ゆーきーちゃん。どこで食べるの?」

 私は彼女のこういう無垢の可愛らしさを秘めたところをほほえましく思う。

「談話室にしようと思うが」

「ああ、あそこね。昼ごはん食べるにはいい場所かも」

 いい場所。

 私にとってはざわざわしている場所や人が多い場所は苦手だ。だから昼食もなるべく人が少ない場所で済ませるようにしている。いつもの屋上はまさしくそうなのだ。人が多い場所がいや、人と話すのも苦手。考えれば考えるほどに、私は極度の社会不適合者であることを認識させられる。

 私は二年生のクラスが集中する東校舎から西校舎にわたる。私の所属する学校は中庭を中心として四つの校舎が囲んでいる状態となっている。校舎はそれぞれ方角にもとづいて東校舎、西校舎、北校舎、南校舎と呼ばれている。このような言い方だと校舎は四つしかないように思われがちだが、実際には校舎は七つ。グラウンドは西校舎よりさらに西側。

 談話室は西校舎にある。西校舎はあまり生徒も教員も利用しないため、掃除が行き届いていない。しかし談話室は例外でいつもピカピカに掃除されている。

「那岐ちゃんはさ、談話室のことについて知っていた?」

「うん知っていたよ。あそこは一部の生徒にとっての秘密の場所だからね。むしろ有紀ちゃんがそこをしっていたのは驚きだね」

 那岐ちゃんにそういわれると少し鼻が高くなる。

「ふふん、私は一応この学校すべての教室を把握したのでね」

 私は家に帰るのが億劫で、放課後に時間をつぶすという目的から学校をぐるぐる回っていた。ここはその時偶然発見した。

 私は談話室前で扉を開けることに躊躇った。教室の中から複数の声が聞こえてきた。別に利用している人がいたっておかしくはないのに、何を躊躇っているのだろうか。私はおもむろに扉を開けた。

 中には五人の男女のグループがいた。

 私は窓が近い席を選んだ。那岐ちゃんは私と向かい合う形で椅子に座る。私たちは弁当を広げる。那岐ちゃんは箸を両手で掲げると丁寧に合掌して「いただきます」という。私はまじめだな、と思いつつも彼女に倣い合掌した。那岐ちゃんはブロッコリーをつつきながら、私に話しかけてきた。

「ここってさ、人が少ないし秘め事とかの話がしやすいよね」

「まあ、そうだと思う。でもそれが」

 那岐ちゃんは私の言葉に反応が薄いといわんばかりに、頬を膨らませる。

「もう、食いつきが悪いなあ。決まっているじゃない。女の子同士の秘め事となったら恋バナでしょ恋バナ。有紀ちゃんはそういうのとかない?」

 私は爛々と輝く那岐ちゃんの瞳から目をそらす。彼女は私の反応から机に身を乗り出した。

「あ! いるんだ。好きな人。ささ、言ってみなよ」

 私は彼女にこのことをどう答えたものか悩む。今私は確かに気になっている人がいる。だけどその人に対して恋愛感情は抱いていない。彼のことについて考えると……なんだか切なくなる。

「有紀ちゃん、今すごく大人な顔していたよ。これはまさにザ、恋する女性って感じにね」

 親友に言われたことが恥ずかしくて、私は必死に否定する。

「いや、そんなものじゃない。私はね、その、自分の心の中でもやもやするものが分からいんだ。これを人に相談すれば間違いなく恋している、って言われるんだと思う。でも……本当にこれは恋しているのか?」

 私の胸の内をたどたどしく語っていく。苦手な英文を単語ごとに少しずつ少しずつ日本語に置き換えていくときのように。よじれて形を成さず雲のように姿を変える心に私は煩わしさを感じた。

 私の苦悩を感じ取ってか、有紀ちゃんの表情も曇り空のように暗いものとなる。

「そうか、有紀ちゃんのなかじゃ、その人は恋しているという表現では、適していないように感じるんだね。あなたがそう感じている人って、篠原君でしょ」

 私は那岐ちゃんの口から出てきた言葉に驚きを隠せない。

「えっと、どうして篠原君?」

 動揺する私を見てあきれ顔を浮かべる那岐ちゃん。

「今さらだよ。有紀ちゃんと篠原君が仲いいのはみんな知っていることだし」

 那岐ちゃんからしたらそう見えるか。でもそう見えるのは私自身はほとんど友人がいないからだ。その為に誰かと仲良くしていれば必然的にそれが目立ってしまっても何もおかしくはない。

 ただ彼女が言うように、私自身は彼にただならぬ想いはある。

「辛いなあ。心がごちゃごちゃしてとても苦しい。私の心が水晶玉みたいに形あるものだったら、どうなっているか簡単にわかるのに」

 那岐ちゃんは私がかつて憧れた母親のように、私を優しく抱き寄せた。

「心が見えたらだれも苦労はしないよ。心はね見えないからこそ価値がある。あまり思いつめずに、じっくり向き合っていこうよ」

「うん」

 親友の胸の中で抱かれるというのは、なんて心地いいんだろう。今の今まで私につらく当たってきた父親と母親に対する我慢も、この温もりを前にしてはさらけ出したくなってしまう。

「はあ、温かいなあ。ホント柔らかくて暖かい」

「そう。私は少し恥ずかしいけど、もう誰もいなくなったから気が向くまでこうしてていいよ」

 那岐ちゃんはそういったけど、幾許の猶予もなく昼休憩終わりのチャイムが鳴った。私たちは慌てる。私たちはまだ弁当に手を付けていない。昼の授業が始まるまでまだ五分残っている。

 私は弁当の蓋をはぎとり、ご飯を口の中に押し込んだ。傍から見たらはしたない姿だと思う。でも見ている人は親友の那岐ちゃんだし問題ない。

「やばい、このままでは授業に遅れてしまう。何か言い訳を考えておかないといけない。有紀ちゃん、何かいい考えはないかな」

 私は口に含んだご飯をごくりと飲み込む。

「いや、特に考えが浮かばない。とにかく、弁当全部口に押し込んで――」

「有紀ちゃん、そんな無茶しないで――」

 結局私たちは授業に遅れた。


 放課後、私は教室をいそいそと出る。そして北校舎のさらに北に隣接する体育館へ急いだ。私の通っている学校はやたらとグラウンドが広い。

 私は教室のすぐ近くにある階段を下る。そして職員室前を通り、北校舎に入る。北校舎は部活棟として機能している。運動部の部室も文化部の部室もすべてがここにある。一階は文化部の部室が多い。部屋の整理もしっかりなされている。運動部は二階にその多くがある。運動部は文化部に対して、部屋の整理がなっていない。掃除がほとんどされていないためか埃っぽくて臭いのだ。ゴキブリとかザラに出てくるらしい。

 私の知り合いに運動部に属する女の子がいる。彼女とはそこまで仲がいいというわけではない。ただ少し聞いた話では、男子が管理する部室があまりに汚く、同じ部の女子部員が、部屋を綺麗にするまで部活をボイコットする事案があったそうだ。

 あんまり先生の目も届かないからこうなるんだろう。

 私は一階北校舎を開けっぱなしの扉から出る。

 すると向かいにはすぐ体育館がある。体育館と北校舎との距離は、大型トラックが一代通り抜けるくらいの幅しかない。

 私は体育館に入ると、体育館二階にある女子更衣室で制服から体操時に着替える。

 実は、篠原君と二人三脚の練習を放課後に行う約束をしていた。

 体育祭までに彼との息を合わせなければいけない。私は結構運動が得意だけれども、彼はどうなのだろうか。

 不本意にも私は数日前に身体能力検査でゴリラ並みの握力を彼に認定された。

「ああ、思い出すと腹立つな。篠原君こそどうなんだ? あんな言い方する篠原君は貧弱と見える」

 私は衣服と鞄の入ったローカーを施錠する。そして更衣室を出た。

 グラウンドのあいている場所は、朝礼台あたり。そこで篠原君が来るまで靴で地面をほじくったり、枝で落書きしたり、まるで小学生がするようなことをしていた。♡マークを書いていると、唐突にかけられた声に驚く。

「二条、待たせたな」

「ひゃっ、ん、あ、篠原君」

 彼の存在に気づいてから、私は地面に書いてあるものを思い出して靴で消しにかかる。

 何を血迷ってこんなものを書いてしまったのか。自分が恥ずかしくて仕方がない。

「どうした? なぜ靴を地面にこすりつけている。何か汚れが付いたのか?」

「違う。そんなことより、あなた来るのが遅いんじゃない?」

「すまん」

 私は仁王立ちしつつ、彼の様子を窺った。かなり罪悪感があるようだ。しおれた花みたいになっている。

 少し可哀想だな。

「まあいい。それよりハチマキは持ってきた?」

「ああ、でも走る前に体をほぐしておかないと」

 私たちは屈伸したり、飛び跳ねたり、開脚にストレッチをして体をほぐす。

 そして私は彼の隣に立つ。彼は右足を私の左足とくっつけ、それにハチマキを巻き付ける。そして何のためらいもなく彼は私の右肩を掴む。掴むっていうよりは、抱かれているっていうほうが状況としては当てはまっている。

 私はかあっと頭に血が上った。胸は太鼓を打つように激しく鼓動する。彼に聞こえてしまう。そんなありえない心配だってした。

「じゃあ、さっそく走ってみるか」

 私はこの状況で手いっぱいだった。ロボットみたいに頷く。

「よし、じゃあ左足からな」

 コクンコクンコクン。

「いっせーのー」

 頭の中が真っ白になっていた私は彼が言うように左足から前に踏み出す。そしてそのまま私はゴールラインまで走った。

「うごおおおおおおおおお、止まれ――、止まるんだ――、二条――」

 ゴールして気付いたが、私ははじめの一歩ですでに足を間違えて彼は転倒。転倒を免れた私は彼を引きずりながら走り続けた。

「うわあああ――、篠原君――、ごめんなさい、大丈夫? 怪我は? 痛いところは? 私が誰かわかる」

「最後のは記憶喪失だろ」

「ナイス突っ込み」

 私は親指を立てて「グッド」ポーズをとる。

「いやいや、何ドヤ顔なの。なんか今日の二条テンション高いな」

 私は彼を見つめる。笑みは自然となくなった。そして地べたに座ったままの彼に手を差し出す。彼は私の手を取ってくれた。そのまま目一杯引っ張って彼を立ち上がらせる。

「篠原君、ごめん。さっきは必死になりすぎて君がこけていることとか気付かなかった。絶対わざとだろ、とか思っているかもしれないけど、本当にわざとじゃないんだ」

「あ、そうなの。何か笑いを取るためにわざとやったのかと思ったぞ」

「いやいや、笑いを取る相手はいないから」

 私は彼と言いあううちにふと思った。周囲から笑い声が聞こえてくることに。彼にばっかり視線が言っていたので、私はグラウンドを見渡した。すると私たちの近くにいた運動部の部員たちが、面白おかしく私たちを笑っていた。

「二条は面白い奴だな」

「えっ、私そのつもりはなかったのに」

 彼はくすくす笑う。

「天然か、さらに素晴らしいぞ」

 グラウンドにいるほとんどすべての生徒に私たちのことが広がったのか、クラブ活動がすべて中断している。

 私っていまみんなに笑われている。でもみんなやさしい笑いで、こういう笑顔をたくさん向けられると心がホッコりした。

「笑われているのに、嬉しいなんて、なんか変」

 傍らの篠原君は、ポンと私の肩を叩きスタートラインへ戻ろうとする。しかしまた転倒した。ハチマキを足に巻いたままだってことは忘れていたみたいだ。

 彼は突っ伏したまま、

「ハチマキを外してくれ」

 そういうので、私は彼の足首からハチマキをほどいた。

 とりあえず私たちはスタートラインへ戻った。私たちの様子を興味深く見ていた運動部員たちも各々の活動に戻っている。

 私は篠原君と足をくっつけてもう一度同じ場所にハチマキを巻き付けた。ふと見上げると篠原君と目が合った。

「なあ二条、どうして四限目の授業受けなかったんだ」

「ちょっとね」

 授業を抜けたことに何食わぬ顔で答える私に、彼はデコピンを食らわせた。

「いたっ」

「お前な、調子が悪かったんだろ。ちゃんとその時は言えよ」

「うん、わかった」

「ところで、今は大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃなきゃ、二人三脚の練習なんてしてないですよだ」

 私は昼前にサボった授業のことを彼から持ち出されてあることを思い出す。それは篠原君が学校ではいつも総菜パンを食べていたことだ。

「篠原君、今日の昼食は何だった?」

「何って言われてもな、普段と変わらずの惣菜パンだ」

 やっぱり今日も総菜パンか。総菜パンは確かにおいしいだろうけど、年頃の男の子にとって昼食としては心もとない気がする。栄養だって偏っているだろう。

「総菜パンって、購買部でいつも買っているの?」

「まあそうだな」

「この学校って大概の設備はそろっているのに、食堂だけないんだよ」

 彼の昼ごはんが習慣的に購買部のパンであることを聞いて、私は思い切ってあることを言ってみよう。

 言ってみよう。

 ……言ってみよう。

 ……言えない。

 もじもじして視線は泳いでしまっている。

 正直あんまり変な姿を彼の前では見せたくない。落ちつけ私。落ち着くんだ。別に今話せないなら後で話せばいいじゃない。何を急ぐ必要がある。まずは私たちがグラウンドに来た目的から行動していこう。

「篠原君、ハチマキを巻いた足を最初に踏み出そう」

「ああ、了解した」

 まずは彼とテンポを合わせる。篠原君が「一、二、一、二」とテンポを合わせてくれる。私は転倒しないように彼の足に必死に合わせる。私は個人競技に強い。しかしこういう誰かと協力して結果を出すのが苦手だ。

 私は本当に協調性がない。

 スタートラインとゴールラインの距離は大よそ五十メートルくらい。この二点を折り返すごとに徐々に歩速を上げていく。

 だいぶ息があってきた。一度スピードを出して走ってみることに。

「二条、大丈夫か?」

「君がこけても、引きずったままゴールはしないから心配しないで」

「いや、そういうつもりで聞いたんじゃないんだけどな。それよりお前、まだ引きずっていたのか?」

 篠原君は呆れた様子で私に視線を向けてきた。私は顔を背ける。

 彼はそんな私をよそに、近くで暇そうにしていた運動部員を捕まえてスタートのサインをお願いした。

「篠原か、別にそんなことくらいいくらでも手伝ってやる。お、二条も何やら普段より元気そうだな。よかったよかった」

 豪快にわらう角刈りの少年は陸上部の副主将。篠原君とよくつるんでいる男子の一人だ。

 私としてはこういう風にアグレッシブな性格をした人間は苦手でありながら、憧れもする。

 無い物ねだりという奴だろうな。

 こういう明るい奴は、クラスでも輝いて見える。

 私は皮肉っぽくいう。

「別に今も普段と同じ」

 私の反応にやっぱりといった感じの角刈り少年。

「ああ、篠原よ。お前もなかなかやるじゃねえか。さすが『夜空の姫』だぜ。こんなに気高くて可愛い女の子に好かれるとは」

 いやいや、今語弊を招くようなことを言ったよ。篠原君を好いているって。好いているわけではないよ。

 ……嫌いってわけでもないけど。

 それより。

「ねえ、『夜空の姫』ってなに?」

 私の問いに、角刈り少年は、よくぞ聞いてくれました。と言わんばかりに胸を張って応えた。

「『夜空の姫』っていうのは学年男子たちでつけられたあだ名なんだぜ」

 私は篠原君に瞳を向ける。言外に『本当なの?』と問う。

「あ、ああ。なんでか知らんがお前のことは学年の男子どもからそういう通り名的なものを付けられているな」

 私は篠原君に問うている姿を見て、角刈り陸上部副主将は怪訝そうにする。

「無自覚だったのか。二条って、結構男子の間じゃ人気が高いんだぞ」

 えー、そんなわけないじゃん、と角刈り少年に対して半眼になる。

「いやいや、本当なんですよ。本当。そんな目にならないでくれよ」

「えー、私って根暗だよ。人付き合いは悪いし」

 篠原君は私の様子にため息を吐く。

「自分でそんなこと言うなよ。でも確かに女子とは折り合いが悪そうだな」

 私は瞳を閉じる。そして心の中で問うた。

 私みたいな人間のどこがいいの? 顔、体、髪、それともこのじっとりした性格? 

「二条よ、そう考えるな。自分が美人という事は自分自身が一番自覚できないことなんだよ。だからそう自信を無くすものではないぞ。自信を持ちすぎるのもどうかと思うが」

 角刈り少年は篠原君に話を振る。

「まあ、そうだな」

 篠原君の言いようから、陸上部の男子が言っていることは間違ってはいないのだろう。それにしても、この角刈り少年。

「ところで、角刈りの君、あなた誰なの?」

 私は単純に知らないから名前を聞いてみた。彼は私の表情から純粋な疑問であることを理解すると、体をよじらせて苦悶の表情を浮かべる。

「くっ、今さら、そんなことを聞くのですか、この子は! ああ、この際しっかり覚えておけ。俺は飯田だ。お前と同じクラスなのに忘れられているとかショックだぞ」

 陸上部角刈り少年、いやいや飯田君はショックのあまり地べたに蹲ってしまった。

 私はあたふたする。とにかく彼を元気づけなければ。

 私は彼の肩を掴んで揺する。あんまり揺すられて気分が悪くなったのか、私の手首をつかむ。そして私の顔を見る。

「えっと、飯田君。しかと覚えた。心配などいらない。私はクラスの女子の名前もほとんど知らないから。君の名前だけ知らないとか、そんなんじゃないからね」

「「いや、それはそれで問題だろ」」

 なんだろう、この二人は仲が良く見える。私と那岐ちゃんが過ごす時間もきっとこんな感じだ。私にとっての友人は那岐ちゃんだけ。だけど篠原君はそうではない。私より仲がいい友人がずっとたくさんいる。

「二人見ていると、……なんだかあったかい気持ちになる」

 唐突な私の言葉に、二人は理解しかねているようだった。

 これはタダの独り言。あんまり気にされては困る。

「篠原君と、えっと……井村君だって」

「飯田だよ。もう忘れてんじゃねえか。記憶力が鳥頭並みだろ。絶対そうだろ。クラスのメンバーの名前覚えられないのそれのせいだろ」

 私は立て続けに言葉を発したために息継ぎできず、ぜえぜえ荒い息をしている飯田君にグッドと指を立てる。

 飯田君も篠原君並みに良いツッコミだ。

 でもさすがに茶番が過ぎた。飯田君は部活動中の貴重な時間を割いてくれているのだ。

 私たちもちゃんと二人三脚の練習に戻らなければいけない。

「篠原、二条。足に巻き付けているハチマキは緩んでいないか確認しろ」

 左足のハチマキをぐいぐい引っ張る私は、飯田君に向かって頷く。

「大丈夫そうだな。準備はいいか」

 飯田君の問いに私たちは「うん」とか「おう」と応える。

 その様子を見て、彼は両手を前に出して、

「よーい、ドン」

 言うと同時に彼はパンと拍手する。

 合図とともに、私たちは走り出した。放課後、練習を始めてすぐは息が合わず、緊張する私は篠原君を引きずったまま走るなんて暴挙も犯した。私と彼とのテンポ以前の問題だった。

 もともと私はいつも一人で楽しくない学園生活を過ごしていた。一人だから、個人競技は強くても、団体競技はできない。そんな私が久しぶりに一人だけではできない競技に挑戦する。

 秋の冷たい風がグラウンドの土を巻き上げる。走っていく私たちにその土は降りかかる。砂が目に入って視界を奪う。私は痛いのを我慢して目を開く。

 私自身永いこと忘れていた。誰かと力を合わせて何かを成し遂げる。それによって得られる達成感。

 母も父も私をまともに相手をしてくれない。弟は神の悪戯のせいで心を持っていかれた。

 つながりのない家族。私はいつも自覚させれる。私は独りぼっちだって。私を守ってくれる人も、助けてくれる人も、愛してくれる人もいない。でもこれは身勝手な思い込みだった。

 私には大切な友達がいる。神宮寺那岐ちゃん。彼女はいつも私を気にかけてくれた。

 篠原啓二、彼は最近何かと私にちょっかいをかけてきた。あんまりにも鬱陶しい。まるで月とか太陽みたいにどこまで行っても逃れられない存在みたいに。だから逃げるのを諦めた。

 そして余興程度に彼と言葉を交わしたり、本屋へ付き合ってやったりした。いや、この言い方はふさわしくない。正確には私が彼に引っ張ってもらっていた。

 二人三脚もそうだ。彼に誘われて私もやることになった。そうして彼に連れて行ってもらった先は、何と美しく輝いて楽しいところなのだろう。

 私たちはゴールする。

 手に膝をついて呼吸を整えている篠原君を見上げる。

 やっぱり、かっこいいな。

「篠原君、私をこの競技に誘ってくれてありがとう」

 彼は予期していなかっただろう。私が発した言葉に。彼と関わって始めのうちは、さんざん邪魔者扱いしていた。だからポカンとした表情をするもすぐに、恥ずかしそうにする。

「そうか、いや、どういたしまして」

 そしてどちらとも口を開かない。気まずくなっていく中、ナイス突っ込みの飯田君が空気を読んだ会話をしてくる。

「二人ともだいぶ良くなってきたな。二条もこれ以降は篠原を引きずったまま走ったりするなよ」

 彼は踵を返すと、陸上部の集団のもとへ駆けて行った。

 その後私は篠原君と三十分くらい練習した。

 ハチマキを撒いている部分が痛くなってきた。紐を解こうとするのだけれど、固く結びすぎて解けない。団子になった結び目は篠原君に解いてもらった。

 地べたに座り込んでいると、篠原君がもむろに立ち上がった。

「ないか飲みたいものでもあるか?」

「えっと――」

 あんまり運動したつもりはないが、喉がどうしてか乾いていたので正直彼の提案はありがたかった。

「そうね。コカ・コーラをお願いします」

「よし、了解した」

 彼が食堂横に設置された自販機へジュースを買いに行っているなか、私は傾く太陽を眺めていた。

 今日も日暮れ時の空は美しいな。傾く太陽は建物や木、人の影を広げる。世界はぼんやりと闇が覆っていく。本来私にとってこの時間は、終末を意味する嫌なものだった。特に何かしなければいけないわけでもないのに、焦燥感に駆られる。

 だが、今日の逢魔が時は私にとって非常に都合がいい。

 私は体育座りする。

「二条、ジュース買ってきたぞ」

 食堂横の自販機から戻ってきた彼が、ジュースの入った缶を私に放り投げる。

「ありがとう」

 宙を舞うジュース缶を右手でつかみ、さっそくふたを開ける。ぷしゅーと炭酸が缶から逃げる音がした。私はジュースを仰ぐ。

「ねえ、篠原君は何にしたの?」

「ああ、俺はホワイトサイダーだ。結構うまくてな」

 篠原君、炭酸系のジュース好きなんだ。やっぱり男子って炭酸好きなのかな?

 炭酸という言葉から、ふとあることを思い出した。

 それはとある資格取得のために受けたテストの帰りに、喉が渇いていた私はジュースを買おうと思った。私は何か変わった炭酸系のジュースがないか探していると、刺激マックスとかいう売り文句のペットボトルに目が行き、それを買うことにした。会計を済ませてコンビニを出た。私は駅のホームでそれの蓋を開けた。臭いは何もしない。一体どんな味がするのか不安と好奇心に揺られながら、私はそれを仰いだ。

 そして私は口の中で意図しない味を感じる。驚いて吹き出しそうだった。だって辛かったんだよ。まさかお酒、なんてことはないと、思いつつ成分表示をみた。すると、炭酸水と表示されていた。

「篠原君、もしものことなんだけれど私のくだらない問いに答えてくれる?」

「別にかまわないけど」

「じゃあ、続けよう。篠原君は無性に炭酸ジュースが飲みたくなった。我慢できずにコンビニに行って炭酸系の飲み物を買おうとする。でもコンビニには炭酸水しかなかった。君はそれを買うかな?」

「うーん、そうだな。あるんなら買うだろうと思う」

 彼は人差し指を顎に当てながらそういった。

「さて、篠原君。君は辛い飲み物は好き」

「また唐突に。……飲み物で辛いのは勘弁してほしいな」

「なるほど。じゃあ、君は買った飲み物を一口含むと驚いてしまうだろうね」

 篠原君は私の言っていることが理解できないといった風に首を傾げる。

「炭酸水でなんで驚かないといけないんだ」

「だって君、辛いのは苦手っていたよね。炭酸水は辛いんだ」

 話の意図が分からず、曇り空のように中途半端な顔をしていた。その表情も、冬に咲く桜を見た時みたいに驚愕の表情へと変えていく。

「え! ど、どういうことだ? 辛いって、何で辛いんだよ?」

 私は彼の反応が面白くて、年上のお姉さんぽく彼に語る。

「炭酸水とはジュースではありません。そのために砂糖は一切含まれていないのです」

「でも、それだったらからくはないだろ」

「いや、炭酸水はそもそも酸性の二酸化炭素を含有していて、その刺激から辛さを感じるのです」

 ほんと、私はあれ飲んだとき、本当に驚いたよ。自分の味覚センサーが壊れてしまったんじゃないかって心配したぐらい。後で調べたけど、炭酸水って、アルコール度数がきついお酒を割ったりするのに使うらしい。

 意図しないモノを買った私は捨てるわけにもいかず、用途をいろいろ考えていた。するとふとあることを思いついた。カルピスは水で薄めるとカルピスウォーターになる。炭酸水で薄めたらカルピスサイダーになるんじゃないかって。

 実際に試してみると、結構おいしかった。

 こんな他愛無い話をして思う。

 こんなどうでもいい話を喜々として語る人物は、那岐ちゃん以外では男でも女でも、一人だけしかいない。

 私は心の中で常々思っていたことを口に出してみる。

「篠原君は昼ごはんさ、いつもパンでしょ。君みたいな男の子は多分あんなくらいじゃおなか一杯にならないでしょ。栄養も偏っている」

 あと一言、ぽつって言ってしまえばいい。逢魔が時の闇はこんなちょっとした恥ずかしさなんて、包み隠してくれる。さあ――。

「弁当、作ってきてあげようか?」

 彼はほんの少し驚いて、瞳をぎゅっと閉じた。目を閉じて数秒後に瞳をカッとひらく。凛々しい表情が私の目の前にある。

「よかったら、お願いします」

「ああ、任せなさいよ。私にとってはどんな料理だってお茶の子さいさい」

 ああ、今の私はどんな顔をしているんだろう。満面の笑み。多分そうだ。自分で言うものなんだが、向日葵のような笑顔だ。

 私は彼に弁当を作ってあげられることが嬉しい。でも彼はなぜか心配そうな顔をする。

「でも弁当って用意するのが大変だろ。朝早く起きないといけないし」

「ああ、問題ない。朝私が弁当を用意するのだけれど、一人分だとかなり余ってしまうんだ。人数が増えても労力は大して変わらない」

「そか、じゃあ明日楽しみにしているから」

「ああ、期待して待っていて」

 私の生活は今日この時をもって明確な変化を迎えた。


  


今回は少し明るめの回でしたがいかがでしたか。少しでもお楽しみいただければ幸いです。

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