48話 橘加奈の決意 その3
48話 橘加奈の決意 その3
加奈さんは、口を閉ざした。腕で覆った瞳から涙が流れ落ちる。
私は加奈さんのもとへと歩み寄った。
彼女の頭に手を添えて、ゆっくりと抱きしめてあげた。
驚いた彼女は、体をぴくんとさせた。
「話してくれてありがとう」
「ひっく、抱き着くな。恥ずかしいだろ。グス」
そうはいっても離れる様子のない彼女。
頭をそっと撫でてあげる。
私は彼女の話を聞いて確信した。彼女がどうして生徒会に立候補することをこれほどに躊躇っているか。どうして自分が思ったことをここまで口にできなくなってしまったか。
「生徒会長選に立候補することをあんなに悩んでいたのは、雄一郎さんや穂波さんに迷惑を掛けたくないからなんだね」
「迷惑を掛けたくないのとは違う。面倒ごとを増やしてしまって、それが二人の重しになることが嫌なんだ」
加奈さんが部活動に入らず、授業が終わり次第そそくさと家に帰る。そして穂波さんの夕飯の手伝いをしていることはそういうことだった。
「あなたが、どうして生徒会長選に出ることで雄一郎さんたちに迷惑をかけると思うの? 何も迷惑をかけることなんてないと思うよ」
加奈さんは暗い顔を私に向けた。
「私は引き取られて間もないころ、自棄になって家出をしたことがあった。家出をしたといっても七時半には家に帰ったんだが、穂波さんも雄一郎さんもすごく心配して、とても怒った。ああまで心配させたことは今でも私にとって最もつらいことだ」
「加奈さんはその時のことがトラウマで、早く帰るようにしているの?」
彼女の辛酸をなめたかのような表情から、相当にきつく叱られたようだ。
「私は、あの時の雄一郎さんと穂波さんの姿を見て思った。篠原夫妻にとって仲が良かった私の両親がいなくなったことと、家出したときのことが彼らに重なって見えたのかもしれないんじゃないかって思ったんだよ」
加奈さんが二人にかけた心労。
その時の様子を今でも鮮明に覚えているんだ。
彼女は、学校に行って、授業が終われば早く元気な顔を彼らに見せて安心したいのだ。私は何も辛い思いなんてしていない。大丈夫だって。
そうすることが彼女にとっての義務となっていた。帰るのが遅くなれば彼らは心配してしまう。そしたらまた、あんな悲しい顔をさせてしまう。
生徒会に入るのを躊躇う理由もそれだろう。
この歳になればそんな心配はしない。ただ、彼女にとって潜在的な恐怖になってしまった。
「当時と今じゃあ、だいぶ違ってくるでしょ。あなたにとって今やっていることはただのまじない。昔あったことを今の状態に当てはめてはいけない」
「それは、……」
加奈さんは下を向いて黙り込んでしまった。このまま陰鬱な状態じゃ何も解決なんてできない。
私は話の方向を変えてみる。
「ねえ、加奈さんは知っているかな。『まじない』って言葉は漢字で書くと『呪い』って書くんだよ」
「のろい?」
「そう、呪いだよ。それであなたは自分を慰めているつもりかもしれない。でもね、それによって他の人が悲しむこともあるんだよ」
私は穂波さんと病院で診察待ちをしていた時の話を思い出す。
「加奈さんはいつも早くに帰って穂波さんの家事手伝いをする。でも穂波さんは、それによってしたいことも我慢しているんじゃないかってことを私に話してくれた。あなたがやっていること、それってあなたのためになっていないし、むしろ二人を心配させてない?」
「私が、ふたりを心配させる?」
「そう我慢しているんじゃないかっていう心配」
思うところがあるのだろう。
加奈さんは顔をハッとさせると、胸に手を置いて考え込んだ。
教室に隙間風が入り込む。むき出しとなっている足にそれが触れる。
加奈さんの形相も穏やかなものへと変わっていった。
「私は、啓二君や雄一郎さん、穂波さんの役に立ちたいと思っていた。彼らの優しさに触れると、私はとてもうれしくなる。だから何か返したくなる。それでいろんなことをしてみた。料理に洗濯とか。でも私の行き過ぎた気づかいや行いが、むしろ彼らを心配させてしまったんだな」
「加奈さんは、よくできた人だと思う。人の感情の機微に鋭いし、なんだかんだ言って面倒見もいい。その優しさをもう少し自分に向けてあげないといけないんじゃないかな」
彼女は大きく目を見開くも、納得したようでこくりと頷いた。
去り際に私の胸に拳をとんとあてた。
「ありがとう。お前のお蔭で素の自分を晒すことができた」
彼女の表情は幾分晴れやかなものになっていた。
「なあ有紀、この後はもう帰るだけだろ。私と本屋によらないか?」
「うん、いいよ。加奈さんの好きなジャンルとか知りたいし」
私たちは学校を出ると、駅前のショッピングモールにある本屋へ行った。私はさっさと純文学の本をまとめておいてあるコーナーに行った。加奈さんは、本屋へ着くと腕時計を頻繁に見やっている。
普段の早く帰る癖の影響だろう。
私は彼女の様子を特に心配することもなく、以前よりほしかったものがないか探す。十分ほどして、加奈さんの様子を窺った。
彼女は本屋の一番隅のほうで何やら雑誌を読んでいた。
「何読んでるの?」
ポンと肩を叩くと加奈さんはびくっとさせた。
「ちょっと、驚かせないでよ。立ち読みして怒られたと思ったじゃないか」
「ごめんごめん。それよりさ、加奈さんの見ているやつは?」
「ああ、これね」
加奈さんは先ほどから熱心に読みふけっていた本を私に誇らしげに見せた。
「えっへん、これは爬虫類の生態に関する雑誌だ。今月は蛇に関するものが取り上げられていてな。な、可愛いだろ。この目がチョー可愛らしいんだ」
私は二頁にわたる蛇の写真を見て、背筋に寒気が走った。ぬるっとしたあのうろこを見て私は嫌悪感を覚える。
「へ、へび……」
「うん、私さ、爬虫類全般が大好きなんだな」
「あ、そう」
加奈さんは私に見せた蛇を食い入るように眺めていた。
「ああ、一度でいいからこういうのって飼ってみたいんだよ」
「そんなことしたら、穂波さんが発狂するんじゃない」
想像にたやすいことだったようで、加奈さんはため息をついた。
「私さ、前に動物園で爬虫類を触れるイベントに行ったことがあった。その時に蛇とかカメレオンとか触らせてもらったんだけど、私を見るあの小さな眼がどうしようもなく可愛いんさ。体はひんやりして気持ちいいし。蛇を肩にのっけた時はもう興奮しっぱなし」
「蛇を怖がらないとか、すごいよ」
私が呆れてそういうと彼女は機嫌よさそうだった。
「まあ、その後で蛇に首を絞められたんだけどな」
……。
ああ、この人やっぱスゲーわ。
一度蛇に殺されかけてんのに嫌いになるどころかさらに好きになっていやがるよ。
本屋へ行って加奈さんの趣味をさりげなく知ることはできた。でも加奈さんの趣味は私には到底受け入れられるものじゃなかった。
私はそーっと彼女から離れると、料理本のコーナーに逃げ込んだ。
結局、加奈さんはその本を購入した。
「まあ、欲しい本があってよかったよ」
「うんうん、今日はいい日だ。胸の中もすっきりしたし、有紀、また誘ってくれよ」
「是非ね」
加奈さんについての新たな発見。
無類の蛇好き。
素の彼女はしゃべり方が男っぽい。
帰宅後、加奈さんは早速夫妻に自分のしたいことについて話した。
その時、彼女たちはリビングにいた。
私は部屋にいたので、事の仔細をしらない。ただ加奈さんがこれからしようとしていることについて、何も反対されることはなかった。
むしろ応援された。そして雄一郎さんからあることを言われた。
遠慮なんていないでいい。良識の範囲内でやりたいことをやればいい、と。
夫妻と話し終えた加奈さんは胸の中のつっかえが取れてとても気分がよさそうだった。