34話 二条有紀の不安 その6
34話 二条有紀の不安 その6
すべての授業が終わると、私は加奈さんの断りなく一人で学校を出た。
弟、泰孝の見舞いに今から行く。篠原さんの家に住むことになってから泰孝の見舞いに行く機会が減った。
それは弟に合わせる顔がないというものが原因だった。
「アンタが入院中は家を守っていく覚悟だったけど、もうできなくなってしまった」
連日曇天。太陽は姿を現さない。代わりに月は雲の合間から出てくる。ぼうっとした優しい明かりを放つ。
加奈さんは一人で行動するなという。どこかへ行くなら誰かと一緒にいけと。
でも弟に会う時くらいは、誰にも邪魔されたくない。
とても冷たい。
歩道を歩いていると、小さな公園が目に見えてくる。そこには子供は誰一人いない。歩道で誰かとすれ違うこともなかった。車道には時折二、三の車が通るだけ。みすぼらしくなった木々の中にある病院の玄関を通る。
待合にはほとんど人はいなかった。
「あら、二条さん。お久しぶり。弟さんのお見舞い?」
廊下からこちらに話しかける看護師は、私と数年来の付き合いだ。この人は私のかかりつけ医のところで働いていた。しかし、病院へと職場が変わってからまったく合わなくなっていた。
「ええ、最近なかなか来れなくなっていたので」
「そう。私は受付にいるから何かあったら呼んでね」
私は一礼して、病室へ向かった。
患者がほとんどいないのは午後の診療時間までまだ時間があるからだ。
誰も話声のしない、暗い廊下を歩いていく。私の歩く音がカツカツと響いてくる。時に誰かを助け、誰かを失うこの空間。今この時は、死の印象しか感じることができなかった。
私は弟の病室の扉を開ける。
「こんにちは、泰孝。お姉ちゃん来たよ」
弟を覆うカーテン。私はそれをのけて彼の顔を窺った。
弟にはまだ私たちに起こったことを聞かせていない。もの言えず、ちゃんと聞こえているかもわからない。それでもその日何があったか聞かせるのが日課だった。その日課もずっとすっ飛ばして。
「お姉ちゃんさ、言わないといけないことがあるんだ」
私は弟の眠るベッドの傍らに置いてある椅子に座る。
「今ちょっと大変なことになってね、ある人の家に住まわせてもらっているんだ。お父さんとお母さんは、……体を壊して入院しちゃった。おじいさんも入院、歳かな」
私は苦笑する。
言い訳じみた顔を弟に向ける。家を預かっていた私の不甲斐なさをごまかすように。
「ごめん、私も体を少しやっちゃって。これからは前ほどの頻度で見舞いにこれない」
私は弟の手を握って何も話すことなく病室に三十分間いた。
帰宅後、案の定加奈さんに怒られた。
玄関口で彼女は今までにない表情を見せていた。額に皺が走り頬はこおばって、涙を眼にためていた。悲しみと怒りがないまぜになった表情。
「どうして、何も言わないでどこかへ行ってしまうんです? 私が嫌いだからですか。私が、あなたに啓二君と関わるなといったことが原因ですか?」
「ちがう! それは絶対に違う」
彼女はあらぬ誤解をしている。これだけは絶対にダメだ。そんな勘違いだけはダメなんだ。
私はひときわ大きな声を彼女に放った。おそらく家の隅々にまで聞こえるほどの物だろう。
ただ幸いにも、雄一郎さんは出勤してて、穂波さんも外出中。啓二に至ってはまだ学校かも知れない。彼女はそんなことを承知していて率直に怒りをぶちまけているのか。いや、例え彼らがいたとしてもそうしたと思う。
加奈さんは私にとって苦手。
だからこそ、私はあなたがとる行動を何となく理解もできた。
「何が違うっていうんです」
私は車のエンジンみたく暑くて荒くなった息を整える。
「啓二とかそんなんであなたを嫌いになっていない。私は寧ろあなたを友達だと思っているよ。大切な」
加奈さんは口をあんぐりあけている。瞳を閉じるとその艶やかな頬に一筋の光が流れた。
私たちは、互いに向かい合ったまましばし無言でいた。肩を怒らせていた彼女も幾分か落ち着いたようで、表情もましになっていた。
「そうですか。私の早とちりを許してください。それで、もう一度聞きます。どうし何も言わずにどこかへ行ったんです?」
「それは……弟のお見舞いに行っていて――」
彼女を前にして思うように口が動かなくなった。
「まあ、上がってください。有紀さんも立ったままだと疲れるでしょう」
「あなたは弟さんがいたんですね」
私の部屋で座布団に正座する加奈さん。背筋はピンとしていて、凛としたその姿は実にかっこいい。ただこの鋭い目つきに関しては怖かった。
「私より一つ年下で、名前は泰孝っていうの。交通事故にあってね」
「それは、大変ですね。もし、差し支えなければ私も是非お見舞いに一度は窺いたいです」
加奈さんの優しさには感謝するけど、弟に会わせるべきだろうかな。アイツは口がきけない状態が続いている。加奈さんに変な気を使わせるのはどうかと思うし。
「半年前に交通事故にあってね、それ以来ずっと意識がないままなんだよ」
「それは、……辛いことを聞いてしまいました。無粋な私を許してください」
そういってペコリを頭を下げる彼女。
別にそんなことで謝らなくていいのに。でもこういう風に謝りたいときにしっかり謝れて、怒るべき時にしっかり怒ることができる人って案外少ない。弟はこういう真っ直ぐな人に会わせるべきだろうね。
それに私だけしかあいつに会わないのは、可哀想だ。
だんだん、世界からのつながりが断たれて言っているように見えた。
「私ね、弟に会うときは誰にも邪魔されたくないって思っていたんだ。それで一人で会って、唯一の弟と顔を合わせて、でもね、それって結局は自己満足なんじゃないかって思った。私のそういう行動が、弟の人間関係を壊していくようにも見えて」
「いえ、その感情は確かに自分勝手ともいえますが決して否定できるものではありません。大切な弟さんと邪魔されずに静かな時間を過ごすことに悪いことなんてないです」
加奈さんは最後の部分で語気を強めた。
そうして彼女は、顔を俯かせた。
「むしろ、私の方が勝手でした。あんなふうにどこ行くにも知らせろなんて、自己満足も甚だしいです。ただ、……」
加奈さんは俯いた顔を上げる。ほおを緩ませて。
「あなたの体が心配なのは本当だから、可能な限りは、お願いします」
「いや、こちらこそ。ありがとう。気をかけてくれて」
やっぱり、この人に会わせるべきだ。
私は彼女にずいっと近寄って顔を覗き込む。加奈さんは後ろにのけぞった。
「あの」
「はいっ!」
加奈さんは素っ頓狂な声を上げる加奈さん。私はそれに構わず続ける。
「今度ぜひ、弟の見舞いに来てくれませんか」
加奈さんの目をまっすぐに見る私に、彼女は神妙に頷いた。
「はい、ぜひよろしくお願いします」
どうしてだろう。
胸の中のつっかえが取れた気がする。牛脂をそのまま食べて感じる胸やけ、おう吐感のようなものが話しただけで消えてくれた。
「ただいまー」
玄関から響く穂波さんの声。迎えに行く私は思った。たぶん不安だったんだ。とてつもなく大きな不安を抱えていたんだ。私の体に関する不安とか、壇上で何かを言うときに感じる不安なんてものじゃない。そんなものなんて些細だった。
「おかえりなさい、穂波さん」
「うん、今日は学校どうだった? 有紀ちゃん」
「今日は少し大変でした」
弟と世界とのつながりが断たれてしまうことが不安だったんだ。