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明日私は、恋してますか  作者: 植村夕月
Ⅱ 夜空の姫君は再生を願って
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27話   橘加奈という少女 その4

   27話   橘加奈という少女 その4


 六限目は数学の授業のはずだった。

担当教師が風邪をこじらせて欠席したため、この時間は自習となった。しかも見張りの教師はいないときた。教室の中は瞬く間にざわつき始める。まあそれもクラス委員の那岐ちゃんに注意されて静まったが。

「なあ有紀、数学で分からないところ、教えてあげようか?」

 背中をツンツン突ついてきた彼は、教科書片手にそういった。三週間入院していた私からして、正直彼の言葉は願ったりかなったり、とてもありがたかった。

「うん、ぜひお願いします。篠原センセ」

 そうして私は、椅子を反転させて教科書とノートを彼の机に置いた。

 入院中に進んだ授業については、まったくわからないというわけではない。病室で体調がいい時に、効率よく教科書の内容を勉強していた。

「たぶん、応用力が欠けていると思う」

「応用力って、有紀は病院でちゃんと勉強もしてたのか」

 彼は半ばあきれた表情でそういっていた。

 

 さて、三十分が経過。

「三角関数は数値を覚えるだけじゃなくて、図で書いてどうしてそういう数値になるか覚えないといけないよ」

「お、おう」

「啓二、それはsin²θ+cos²θ=1の公式を使うんだよ」

「えっと、どうしてこれで1になるんだ?」

 どうして私が教える立場になっている?

 啓二は結構頭がいいはずだと思ったんだけどな。……私、数学は得意科目だけど、まさか立場が逆転するなんて思わなかった……。

「悪いな有紀、お前の力になれたらいいと思ってたんだが」

「別にかまわない。私、数学は強いけどそれ以外はみんな君の方がよくできると思う」

 啓二はペンを手放すと、後頭部に手を組んで何か考えている様子。視線は天上のほうを向いていた。

「そう言えば、有紀とはまだデートしたことないよな」

 私は唐突に振られた話に、ドキッとした。

 啓二と私は、一応付き合っている。それは体育祭の後、キャンプファイヤーを囲んでダンスを踊る皆から離れてのことだ。あの時、私は、彼に告白してそのまま恋人同士になったのだ。

 彼のある一言を聞いて思う。

 『デート』なんて言葉を失念していた辺り、私は恋人としての自覚が足りないのではないかなって。

「……ここじゃあ、話しにくいし帰ってからにしない?」

「そうだな」

 私は椅子を反転させる。

 いい加減にしないと、委員長からの視線に私は焦げ付いてしまいそうだった。


 放課後、私は啓二と彼の家まで帰った。加奈さんはどうやら用事で帰るのが遅くなるという。帰りは特にデートのことを話すことはなかった。ただの雑談程度。

 帰宅後に、家事で何か手伝えることがないかと探していた。穂波さんが夕食の準備で忙しそうにしていたので、ちょうど手が空いていた私が手伝おうとしたのだけれど、啓二に止められた。

「病み上がりだし、しばらくは安静にしていろ」

 そういって、私がしようとしていたことは彼が代わりとなってくれた。

 私は自室で机に向かっていた。

 静かで下からとんとんと包丁がまな板を打つ音が聞こえる。その音は一定のリズムを刻んでおらず、扱い手の不器用さを思わせた。たぶん、啓二が包丁を握っているんだろう。慣れないことをして苦心する彼の様子がたやすく想像できる。

「私だって、簡単なことならできるんだけどなあ――」

 そうやって何か手伝いたいって思って、その思い自体もお節介になりうるかもしれない。

 本当に、なかなかうまくいかないなあ。

 

 入浴後、午後八時を回った頃に私は啓二の部屋に向かった。

 彼の部屋は私の部屋から一つ部屋を挟んで隣にある。

 私は彼の部屋の扉前で身だしなみのチェックをした。といっても黒いジャージ姿に、少し湿った髪を後ろでしばった程度の女気のない姿だ。

 扉をノックすると、すぐに彼が扉を開けてくれた。

「よっす。まあ中に入れよ」

「うん」

 私は彼に促されて、男の子の部屋に初めて入った。私はてっきり男の人の部屋は散らかっているものだと思っていたが。予想は外れた。彼の部屋は面白みがないほどに何もなかったのだ。

「啓二って趣味とかないの?」

「そんなことはないが、どうしてそう思った?」

 私は訝しげな啓二の視線からプイと顔を背けた。彼の部屋には、机が一つで私のところのように無駄なテーブルがあるわけではなかった。

 ポンと私は彼のベッドに座り込む。

 炊事洗濯掃除などの家事をほとんどしない毎日。あまりにも手持無沙汰で、罪悪感ばかりが募っていく。私の存在価値は、もともとあの二人、父さんと母さんを支えることだった。特に母さんのために、いろんなことを覚えて毎晩ご飯を作ってあげていた。結局、それは役に立つことがほとんどなくて。

 その代わりと言っては失礼だけど、啓二が私の作ったものを食べてくれた。

 忙しいことが当たり前だった。

 忙しいことが私の使命だった。

 忙しいことが私にとっての生きがいだった。

 今の私には、そんなことをするだけの体力もなくて、何もしていないのに疲れる。

 啓二は作業机の下にしまっていた折り畳みの椅子を引っ張り出してそこに座る。

「入ってくるなり、人のベッドに座るなよな」

「嫌なら、引きはがせばいいじゃない。それで、いつにしようか」

「そうだな、今度の日曜日にするか。土曜日は用事があったと聞いているが」

「そうだね」

 こうやってのんのんと好きな人との時間を過ごすことができる。そうやって忙しくなくなったことが、かえってある人を忙しくさせているとしたら。

 胸がきりきりする。彼の傍にいることが幸せでその幸せが私を怖くさせる。

 私は彼に「おやすみ」と言ってそそくさと彼の部屋を出ていった。

 去り際、彼は私の急な行動に驚いた顔をしていた。

 でも仕方なかった。それ以上そこにいることが辛くなっていたから。



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