22話 灰色の時間 その5
22話 灰色の時間 その5
入院して三週間が経過した。
点滴は今朝に外された。ずっと腕に刺さって不快なことこの上なかった。抜かれた時には、腕を曲げたりの制約がとれて本当に、気持ちよかった。
学校の制服姿になった私は、入院している間に使ったタオル、歯ブラシに歯磨き粉と本をカバンの中に詰め込んでいく。
病室のドアが開くと、顔なじみの看護師さんがひょいと姿を現した。とても気さくな人で、よく私が不安になった時は元気づけてくれた。
「有紀ちゃん、体の調子はどうですか? もし、手伝ってほしいことがあったら、遠慮なくいって」
「はい、ありがとうございます」
私は荷物を片付け終えると、鞄を床に置いた。ベットに座ると、看護師さんの葉環さんが私の耳に体温計を差し込む。
「体温は問題ないようね」
クリップボードに私の体温を記入した彼女は、これからの通院に関するスケジュールの説明を始めた。
「有紀ちゃんは、今日をもって一応退院となります。学校へ行くことも問題はないという事ですけど、行動する際には誰かと一緒が好ましいとのことです。また、週に一回は検査で通院、検査入院も月に一回」
「……やっぱり、私の状態ってあまり好ましくないんですね」
「それは先生の方で聞いていただいてね。私の口からは何とも言えないわ」
やっぱり不安だ。
私が病院で覚醒してから一週間後には、視力、脳に体の機能も回復した。しかし、再び視力低下を起こし、体が思うように動かなくなったことも考えれば、もう以前ほど無茶なこともできない。
思う存分体を動かしてはいけないのだ。
あのどん底からさらに一週間、入院して三週間たった今、またあんなふうになったらという恐怖が心の中でくすぶっている。
「退院前に、一度先生から説明があると思うので」
「はい、あの、葉環さん、今までありがとうございました」
「いえいえ、では私はこれで失礼しますね」
彼女が病室を出ると入れ替えで、祖母が入ってきた。
主治医は私を診察すると、何やら不安そうな顔をしていた。
先生は私が退院するのを、どうしてもやめてほしいようだった。やはり、脳に大けがを負って、死に直面してからまだ一か月もたっていないのだ。心配なのだろう。
「二条さん、退院できなくはないです。ただ懸念事項が多いので、少しでもおかしなことがあればすぐに病院へ来てください。週一回の通院は絶対。月に三日間の検査入院もしばらくは必要です」
「先生、私の状態はどうなっているんですか?」
「そうですね。回復の早さは驚異的ですが油断なりません。気をつけてください」
私はその言葉に素直にうなずいた。
荷物を運ぶかばんはキャスター付きで、あまり力はいらない。
先生と葉環さんが病院の玄関まで見送りに出てきてくれた。一患者のためにここまでしていいのだろうか、と私は思った。でも正直言えば大切にされているようで嬉しくもあった。
「先生、私を助けていただいてありがとうございます」
「私からも、本当に有紀を助けていただいてありがとうございます」
私は祖母と共に頭を下げた。
「いえ、とにかくここまで回復して本当に良かった。ちゃんと通院は忘れないように」
「はい」
先生の隣で控えていた看護師の葉環さんが、両手を後ろにして何かを隠しているようだった。病室から玄関まで、ずっと私たちより前を歩くことなくとろく歩いていたのでそう思ったのだ。
その葉環さんが、私に駆け寄ると黄色やオレンジなど明るい色合いの花束を渡された。私は、目を丸くした。
「有紀ちゃん、退院おめでとうございます。元気にね」
「葉環、さん」
私は目頭が熱くなった。でもここで泣いちゃだめだ。右手でこすって、彼女に笑顔を向ける。
「ありがとう、葉環さん。私ちゃんと元気になるから」
私たちは彼らにお辞儀して病院を後にした。
「おばあちゃん、私寄っていきたいところがあるんだけどいいかな」
「どこさ」
「弟のことろ」
私の弟は不慮の事故にあってからずっと昏睡状態になっている。弟の見舞いは私が週に何回かしていた。毎日毎日、表情は変わらないまま。視線を合わせてもくれないし、言葉も交わせない。
それでも私はその日どういうことがあったか、彼に聞かせた。
反応がないのだ。怖くなって毎回ちゃんと息をしているのかも確認した。
入院中、祖母から弟のことに関して何も聞いていない。弟の容体は回復していないという事だ。
祖母が大事を取って、私は弟の病院までタクシーで向かった。
病院につくと祖母をほったらかして、弟のところへ向かった。病院内で走るのは厳禁だけど抑えが聞かず、途中から駆けていた。
病室で弟の顔を拝む。
前に会った時と何ら変化はなかった。安心と同時にやっぱりかという落胆をした。
私は祖母と共に、一度自宅に帰った。そこで軽く昼食を済ませると、病院から持ち帰った荷物をほどき、今日から居候させていただく先で必要な荷物の準備をした。
居候先の篠原宅には午後の三時に伺うことになっている。遅れるわけにはいかないが、だからと言って早すぎるのも先方に迷惑をかけてしまう。
「長いこと、誰もいなかったから結構汚れているね。……掃除しよう」
私は家の窓をすべて開けた。
本棚に軽くはたきをかけて、掃除機をかける。祖母は、一階のリビングから、私の部屋へやってきた。
「有紀、体の調子があんまりよくないんだし、掃除なんてしなくても」
「その通りなんだけどさ、当分帰ってこないしね」
そうこうしているうちに時間はみるみる過ぎていった。
私は家のブレーカーを落とし、鞄を肩に下げた。玄関を出て、施錠した後に家をじっくりと眺めた。
そして私はぽつりとつぶやく。
「さよなら。私の『家』」
篠原宅は学校からおよそ三十分、私の家からは二十分の距離。
私は篠原宅の玄関にて、夫妻にお辞儀した。
「こんにちは、二条有紀です。今日から、お世話になります」
「うん、よく来てくれたね。疲れているだろうし、まずは荷物を片付けようか。ハルさんもお疲れでしょう。お茶でも飲んでくださいな」
祖母は苦笑する。心配事が多すぎるせいで、数週間前に見た時より、かなり老けた感じがする。そりゃあ、もうおばあさんだし、ふけるなんて言い方はピンとこないかもしれない。ただこのやつれようは、悲しくなった。
「うん、そうさせてもらうよ」
私と祖母は穂波さんにリビングへ案内された。
リビングでは部屋の隅っこにとある人物がいた。不器用なのが印象的な、私の友人だ。
「こんにちは、二条さん。体のほうはどうです?」
「心配してくれてありがとう。橘さん。おかげさまでだいぶ良くなったよ」
橘加奈、彼女は薄い笑みを浮かべた。