20話 灰色の時間 その3
20話 灰色の時間 その3
私の体。
覚醒してすぐは全身が全く動かない状態だった。字も読めず話している内容すらも理解できなかった。しかしそれは数日の間に改善され、松葉づえがあれば歩くこともできるようになった。
ただ改善されないのが、視力。
左目は見えないままで、よく見えた右目はだんだん見えなくなっているような気がした。
ぞっとした。
徐々に輪郭を、色を失っていく世界を前に。大切な人との思い出を作り上げた場所。
友人、家族、恋人の顔も見えなくなってしまう恐怖。そんなことを考えたら、胸がとても痛くなった。胸のあたりをぎゅっとつかむ。
頭にはどっと酸っぱく鉄臭くてぬめぬめした液が漂っていく。いろんなものがそれにからめとられていった。私は引き込まれていく。そしてそれに捕らわれて、逃げること能わず。真っ暗の何もない世界に引きずられていく。すがる光もなければ、暖かな感触もなくて、優しい匂いもない。
ああ、ああ、あああ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
「有紀ちゃん! 有紀ちゃん!」
大きな声で揺さぶられ、私はハッとする。頭の中で連環する負の感情は、目の前の少女によって一時的になりを潜めた。
必死に涙をこらえている親友に対して私は、とにかく安心させる言葉を探した。本当は自分で手いっぱいだけど。
「心配かけちゃったね。ごめん。ちょっと嫌なこと考えてしまって、それで不安になっちゃってね。でも那岐ちゃんの顔見たら安心したよ」
「そんな、……私は、私は何もできないよ」
那岐ちゃんは私の頭をギュッと抱きしめた。どのくらい抱かれていただろうか。彼女の満足がいくまでそうさせた。
離したくないのだろう。腕に込められた力から、伝わってくる。ただそろそろ苦しくなってきたので、開放してもらいたいな。
私は那岐ちゃんの手を叩いた。
すると彼女は頭からそっと手を離した。
「でも、いつの間に来たの?」
「扉をノックしたんだけどね、中からなんの返事もなかったから気になってね」
そしたら錯乱する私がいたと。
でも彼女が来てくれてよかった。苦しい感覚からすぐに解放されて、私はとてもほっとしている。
那岐ちゃんは、パイプ椅子を私のベッド隣において、そこに座った。彼女はキイキイなる椅子が気になっているようで、折り畳む部分を覗き込んだりしている。
「椅子が気になるなら、ベッドに座ったらどうかな?」
「えっと、別に私は大丈夫だよ」
「壊れて床に落下しちゃうかもよ」
那岐ちゃんは苦笑する。いやいやいくら何でもそんなことはないでしょっていう顔で。
私も言っておきながらに、それはないかと思った。
さて、私の親友神宮寺那岐ちゃんもよく見舞いに来てくれる。ただ、来る時間がいつもと違った。
「どうしたの? まだ十時回ったところだけど」
「ああ、いつも平日に来てたからね。今日は土曜日だし、早く有紀ちゃんの顔が見たくて来たんだ。まあ、用事も込みでなんだけど」
私はロフストランドクラッチを左腕にはめ、ベッドから立ち上がる。鬱陶しい点滴棒は空いている右手でつかむ。最近ほとんど体を動かしていないから、筋肉が硬直してしまっている。ただ、麻痺が発生しているわけではない。
時々軽い運動くらいはしないと。
「こんなところにいるのもなんだからさ、中庭のほうへ行こうよ」
「えっと、大丈夫?」
「大丈夫です。もし困ったことがあったら、那岐ちゃん助けてくれるでしょ」
「そりゃあ、当然ね」
病室を出ると、那岐ちゃんが左腕を絡めて先導してくれる。
目の調子があまりよくないから、こうしてくれると本当に助かる。
ナースステーチョンに向き合うようにあるエレベーターに乗り込む。ボタンは彼女が押してくれた。
「中庭がどこか、ちゃんとわかる?」
「うん、問題ないよ」
エレベーターを降りると病院の総合受付所がある。受付を通り過ぎ、しばらく暗い廊下を歩き続けると、視界の右側から眩しい光が差し込んできた。
彼女は扉を開ける。
「段差があるから気をつけて」
「うん、ありがと」
病院から一歩外に出る。
ずっと病室にいると息がつまるというか、囚われた感じがする。だからこんな風に外に出るとだいぶ心がゆったりとした。
彼女に中庭の隅に導かれる。お洒落な木製のベンチが設置されている。この時期、こういうモノは冷え切って使うのが躊躇われるだろう。今の私は疲れやすいから、お尻が冷たくなることなんて気にしないで、それに座った。
「あ、有紀ちゃん。その敷くものがあるんだけどどうかな?」
「ああ、別にかまわないよ」
那岐は私の隣に座る。
私は、目前にある葉っぱのない樹を眺めていた。季節相応の痩せて辛そうにしている植物。陽光がこんなに降り注ごうと、肥え太ることはない。冷たさによって落とした葉はとうに土に還っている。
この時期は本当に寂しい。
私の置かれた状況を考えるとなおさらに。
「有紀ちゃん」
傍らで名前を呼ばれる。
私は彼女に顔を向けると、笑みを浮かべた。まるで私の名の響きにうっとりしているかのように、温かく甘い声だった。そんな様子から自然とこぼれたもので、もっともっと私は名を呼んでほしかった。
ふふ、でもそんなに呼ばれたらむずがゆくて仕方ないね。
「どうしたの?」
「ちゃんと、元気になるんだよ」
「言われずとも」
ちゃんと学校生活に戻りたいし、何といっても、もう病院食はこりごりだ。
ありとあらゆるメニューから塩分が取り除かれている。あくまでも必要最小限に抑えられたそれは酷く味気ない。豆腐なんか、ちゃんとかけるための醤油がついていて安心したのに、パッケージを見てあっけにとられた。
無塩醤油。
塩分なしで醤油って調味料は出来上がるのかなって、驚いたのを覚えている。
「食べ物もそうなんだけどね、やっぱり病院は娯楽がない」
「一人だと、寂しい?」
「おかしいよね。慣れていたつもりなんだけどさ、最近は楽しいことが多くて、めっきりそういうのに弱くなってしまったみたいだよ」
那岐は黙り込んでしまう。
私は空を見上げた。今日はよく晴れている。雲はところどころにあり、太陽を遮ることはない。私は雲の流れをその目で追う。ぼんやりとしていても動いているのは分かった。ほんの少しほんの少し、動いていくそれ。
病院での退屈な時間を潰すには案外、いい方法だった。
「有紀ちゃん、そのさ、あなたが元気になったらのことだけど、ちゃんと皆考えているから、あんまり思いつめちゃ、ダメだから。ホントに、ダメだからね」
「……うん」
現在、私の両親は共に入院している。父は単なる骨折の治療が目的だったにもかかわらず、意識が消失してしまって重篤な状態。母は精神病院で、退院のめどがたっていない。弟は、別の病院で入院しているし。……たとえ私が退院したとして、もう一人暮らしはできない。
主治医曰く、誰かの監視が必要とのことだ。
私は祖父母の家に置いてもらおうと思っていたのだが、祖父まで病気で入院とは。
私の家族六人のうち、五人が入院ってどういう状況よ!
不健康にもほどがあるよ。
と、ずれてしまっている。祖父が倒れてしまって、その看病をおばあさんがしなくてはいけない。おのずと私の面倒は見れなくなるわけだ。私は面倒を掛けるつもりなんてこれっぽッチもないのだけど、病人とはなんであろうと……いるだけで面倒なのだろうね。
悔しい。
「有紀ちゃんと、こうしてさ一緒にいると楽しい」
那岐から唐突に口にされた言葉。まるで私が思っていたことを理解しているかのようだ。タイミングが良すぎる。ほんとに、優しいなあ。
「少しさ、凭れてもいいかな」
那岐は二つ返事で私を受け入れてくれた。




