12話 別れていくことと新たに出逢ったこと その3
私は目頭を押さえた。
ブルースクリーン用の眼鏡をかけていたのだけれど、長時間画面と向き合っていると、どうしても疲労は溜まってしまう。私は職員室の事務机引き出しから目薬を取り出した。
瞳に冷たい雫が落ちる。冷たい目薬が瞳孔を引っ張るような感覚を私に与えた。
教員の仕事は本当につらい。
もう午後八時を回っているのに、まだテストの添削が終わらない。
私は赤ペン片手に、テストの解答用紙とにらめっこしていたら、けたたましい電話の呼び出し音が鳴った。私は受話器を上げる。
「榎並高校の神奈川です」
「あ、もしもし。神奈川先生、俺です。篠原です」
電話の相手は私の受け持つクラスの生徒のものだった。
こんな時間にどうしたんだろうか?
「えっと篠原君ですか。どうかした?」
「あの、さっき二条から電話があったんですが、何か変なんです」
げっ、またあの子。
私は、以前のリストカット騒ぎを想起した。
最近は、ちょっと調子がよさそうだったから安心していた。深い問題を抱えている子なんだから、すぐに安心するのはダメだな。
とにかく私は彼から用件を聞き出そうとする。
「何が変なの?」
「それが、アイツから電話がかかってきて、出たんですが何も言わないんです。ただ、何かが割れる音、ぶつかる音が響いて、聞き間違いかも知れないんですが、『たすけて』て声がしたんです」
状況が全く想像できない。ただ明らかに不穏な雰囲気が彼の語られる内容から醸し出されていた。彼女はいったいどこで、何をしているのか。その電話はいつかかってきたのか。
「いつ電話は掛かってきた?」
「ついさっきなんです」
私は椅子の背もたれに凭れかかる。目を手で覆う。
幸い彼女の家はここから近い。電話で彼女に無事の確認を取るか、それともここから彼女宅へ直行するか。
受話器を挟んだまま、ポケットから携帯電話を取り出した。二条さんの家へ電話を掛ける。長い間コールしたがつながらない。私は携帯をなおした。
「篠原君、彼女の家にかけてみたけどでない」
「……そんな」
私は受話器越しから聞こえてくる彼の声に混じる深海より深く暗い不安を感じ取った。最近二条さんが篠原君と仲良くしているのは、傍から見ても分かっていた。
私は彼を落ち着かせるように話す。
「篠原君、私は今から二条さんの家に向かう。とにかくあなたは余計な心配をしなくていい」
優しくなだめるように語ったが、むしろ逆効果だったようだ。
男性特有の強い口調が、受話器越しに響いてきた。
「そんなの無理です。俺、今からアイツの家に行ってきますから――」
彼はそういったきり、止める間もなく電話を切った。
なんで家まで知っているのよ。あの子たち付き合っているの!
私は荷物をまとめる。テストの添削は後日回す。テスト返却が遅れるが、仕方あるまい。
職員室に残っている二、三人の先生に言葉をかけて、学校から出た。
暗い夜道、車のエンジン音は聞こえずただキイキイとさびた金属がこすれる音だけが響いた。チェーンは低域的に油をさしている。ブレーキも三年ごとに交換している。タイヤ交換も怠っていない。
とはいえ、私が学生時代から使っているこいつも、遂にガタが来たようだ。ペダルをこいでいると、足がかくんと落ちる感覚に何度も襲われる。もう寿命のようだ。
「はぁはぁ。おえええええええ――」
私は二条さんの途中にある魔の坂を必死に上っている。
カッターシャツが汗でぴったりと引っ付き、振り乱れる髪からは汗の雫が細かく飛んでいく。風はかなり冷たい。
必死にこぎ続けていると、なにやら男の人の姿が目に入った。
私はハッとする。
こいつは、本当に二条さんの家に来ていた。
私は自転車から降りると、彼に文句を言ってやろうとする。しかし息が整わず、「おうええ――」とうめいている始末。若く美しい女性がこんな汚らしい声を出すなんてはしたない。
私は何とか息を整えて、彼を涙目で睨みあげた。
だがそんなことより。
私はインターフォンを鳴らす。聞こえていないのか返答がないので何度も鳴らした。
家の中からはものがぶつかる音が聞こえる。
「篠原君、君が来た時からこの異常な音が続いているの?」
「先生が点いたのは俺のすぐ後です」
私は疑問に思う。
なぜ近隣住民は警察に通報しない。皿が割れる音、家具などを投げているのか鈍い音がして、悲鳴が時折聞こえた。明らかに異常な状態だっていうのに、誰も外へ出てこちらを窺う事をしない。
私は気味が悪くなった。彼女の周りにいる人間どもがどれほど冷徹なのか、どれほど無関心なのか。
携帯を取り出して、緊急通報する。
パトカーが到着して、警官が中へ入ろうとするも鍵が中からされていては入れない。警官はカギを壊して中に入る。警察の制止があったにもかかわらず、私も中へ駆けこんだ。
リビングに足を踏み入れた時に、あるものが目に入った。
私は変わり果てたその姿を見て、頭の中が真っ白になった。
包丁を持った髭面で太った中年男が、私に向かって走ってくる。切先は私を向いていた。
気が付くと私は彼を抑え込んで、技を決めていた。太い男の腕は変な方向へ曲がっている。男はしつこく刃物を握っていた。
私はゆらりと陽炎のように立ち上がる。そして男の骨折箇所を思いっきりふんずけてやった。その手から刃物が零れ落ちたが、私は構わずに続けた。
足を振り上げて再度、踏みつけようとした時に服を後ろに引っ張られた。
私は人形のように不気味に首を回す。そして目に映ったのは歯を食いしばった少年の声なき涙だった。嗚咽を一切漏らさず、ただしんしんと涙を流していた。
「篠原君」
私は、彼の堪え難きを耐えるその姿から正気を取り戻した。
男は警官が抑えた。
傍では麻薬中毒者のように、腐った果物のように崩れた顔をさらす女がいた。涎をたらして、みっともない姿だった。
私の頬を涙が伝う。
辛かったね。助けてやれなくて、ごめんなさい。
自身の無力感を徐々に理解していくと同時に、私の涙腺は壊れてしまった。
私は己の唇を噛み切って、痛みから涙を強引に抑え込もうとする。口から顎にかけて血が伝う。口の中には鉄の味がした。
「ゴボッ」
変わり果てた少女から発せられた音に、私は驚いた。それは篠原くんも同じようだったみたいだ。私たちは顔を見合わせると、すぐに彼女へ駆け寄った。
私は彼女の口元へ耳を寄せた。
かすかだが、呼吸音が聞こえる。
「生きてる!」
私は思わず叫んだ。頭から帯びたたしい量の血が流れているピクリともしない彼女を見て、私は諦めかけていた。土砂降りの雨空から急に雨が止んで雲から天使の梯子がかかるような心地だった。
私は必死に呼びかけた。
「二条さん、二条さん、目を開けて開けてえ」
篠原君も駆け寄って、一緒に声を掛けた。
「有紀、もう大丈夫だからな。先生も俺もいるから」
必死に励ます彼。脳に障害を負った可能性のある者は下手に動かすことができない。それを分かっているのだろう。彼は揺することもせず、ただ必死に声を掛け続けた。瞳を閉じ続けるか弱い少女に諦めることなく。
こんな時に手を握ってあげることもできない。
どうして、どうしてそんなささやかなこともしてあげられないんだ。彼女にばかりどうしてこんな酷いことが起こるんだ。こんな真っ直ぐで優しい子が。
救急隊が到着した。私たちは彼女から離れる。隊員たちは彼女を動かすのに四苦八苦している。彼女が救急車に運ばれる。
救急隊員が私たちに声を掛けた。
「あなた方は関係者ですか」
「はい」
「では、同伴者を一人お願いします」
私は救急隊員に連れられて車内へあがろうとする。その時、不意に袖を掴まれた。
「先生」
「篠原君」
私は彼と瞳があった。剣のように鋭く輝くその瞳。私は彼から強い意志を感じた。彼は言外に俺を同伴者にしろと語っていた。しかし、この状況で未成年を同伴者にするわけにいかなかった。
彼女が助かればいい。
私も彼もそれを願っている。しかし、万が一にも容体が急変したら、その時はどうしてやればいい。静かに眠る彼女のささやかな願いを叶えてやるのが、私の役目だ。
「同伴者、二人はダメですか」
救急車内で、二条有紀さんはうっすらと目を開けた。瞳は私たちのほうを向ける。彼女の恋人はすぐさま小さな手を取り、両手で優しく包んだ。
少女は一言もしゃべらない。いや、喋れない。
眠りに着こうとする彼女は少年を静かに見つめていた。そして瞳をゆっくり閉じた。
「有紀! 有紀!」
篠原啓二君は両手っで包んだ彼女の掌を自身の額へピタッとくっつける。
救急車の中で彼はずっとそうしていた。
病院では即座に頭部CTスキャンが行われ、手術同意書の同意を得るよりも人命救助のために手術が行われた。数時間にわたる手術の後に、手術担当医より状況の説明を受けた。私は二条さんの祖父母と診察室にいた。
「二条有紀さんの状況ですが、脳内の出血がひどく外科手術を優先しました。そのさい人命最優先から手術同意書の記名を後回しにしました。まずは、こちらに記名ください」
有紀さんのおじいさんが皺だらけの手で、しっかりと力強く己の名前を刻み付ける。
「はい、ありがとうございます。えー、二条有紀さんの状況でしたが、血腫は比較的取りやすい場所にあり、手術は比較的短時間で終わりました。現在脳圧降下剤で、内出血した脳の圧迫の改善を試みております」
ここまでの話は比較的冷静に聞くことができた。しかしその後のことは何を話しているのか理解できなかった。いや、私はあまりに残酷な現実を突き付けられ意図的に理解を拒んだのだ。
「言語障害や記憶障害といった後遺症が残る恐れがあります。また視力障碍や半身麻痺といったものが起こる可能性も否めません――」
私の心はガラスのように脆いものだった。対して、彼女の恋人、篠原君は違った。
彼は二条さんの祖父母に詰め寄り、状況の仔細を聞き出した。その時の彼の表情は何か覚悟を秘めた顔で、瞳の中の光が強く輝いていた。
待合席で私は彼の隣に座る。
「篠原君は、強いな」
「……そんなことは、ありません」
私は彼の声を聴いて初めて気づいた。彼は梅雨時の雨のようにしとしとと静かに泣いていたのだ。険し顔をしている。私からしたらそれは怒りの表情だった。
もう日付が変わってしまった。現在朝の四時を回ったところだ。非日常的なことが連続して起こり、ストレスから吐き気を催している。眠気なんてものはそれで吹き飛ばされている。
今日も学校はある。私は受け持つクラスの生徒と普段と変わりなく接しなければいけない。
「篠原君、私は学校があるからもう帰るよ」
彼はこくりとうなずいた。