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 この最後の崩壊のその瞬間にさえ、伯爵の顔の上に、よもやそんなものがあるとは想像もされなかったような平和の色が浮かんでいたということは、私の終生の喜びになるだろうと思う。

(吸血鬼ドラキュラ、ブラム・ストーカー著、平井呈一訳、創元推理文庫)



「駄目よ、あさひ」


 シャルロッテは強く厳しい口調で、わたしの申し出を拒否した。


「吸血鬼に血を吸われたら、死んでしまうのよ。いいえ、ただ死ぬだけじゃない。わたしと同じ吸血鬼になるの。吸血鬼は、貴女が思っているほど良いものじゃないわ」


 吸血鬼である彼女自身がこう言うのだから、多分、そうなのだろう。人間が吸血鬼の生が苦痛に満ちたものだなどと説いてもリアリティが無いが、吸血鬼自身が言うと説得力がある。


「さっきみたいに、死なない程度に吸えば良いじゃないですか。ううん、先輩になら、殺されても良い」


 わたしは素直な気持ちを打ち明けた。よくある創作物では、吸血鬼には魅了の魔力があるとされることがあるが、わたしもその魔力にしてやられたのだろう。シャルロッテとは、時間にして半月にも満たない短期間の付き合いでしかない。にも関わらず、わたしの心はすっかり彼女のものになっていた。


「夜の世界に連れ出してもいい。ううん、これは先輩へのお礼です。さっきも言ったけれど、先輩のお陰でスランプから脱出して、水江に打ち勝てたんですから」


 わたしは彫刻刀を手に取り、それで指に傷をつけた。そうして流れ出る血を、首の辺りに塗る。


 わたしが彼女に魅せられたきっかけは、彼女の美しさだった。彼女がわたしを求め始めたきっかけは、多分、これだ。最初に会ったときも、二度目に会ったときも、わたしは出血を伴う怪我をしていた。血の臭いを感じ取ったから、彼女は姿を現してくれたのだ。何故なら彼女は吸血鬼だから。


「ああ……」


 見よ、彼女の瞳が赤く爛々と輝いている。真に人外の美が姿を現したのだ。彼女が暴漢からわたしを助けてくれたとき――シャルロッテが白馬の王子様を演じたあのときと同じ、血に魅入られた吸血鬼としての瞳。わたしという人間を見ているのではない。ただわたしの血だけを見つめている。少し寂しいことだけれど、今の彼女は、わたしではなく、あくまでわたしの血が欲しいだけなのだ。しかし、それで彼女が満たされるのなら、それでも悪くないと思っている。


 あの赤い瞳は、獲物を狙う飢えた獣の眼光を湛えている。しかし、その表情は深い困惑と自己嫌悪に満ちていた。わたしは彼女を苦しめているのだろう。人並みの良心を残したまま吸血鬼になった彼女は、本能と理性が常に争っている。普段は抑制が可能であったとしても、自分の生命に関わる血を目にした瞬間、理性の優位は容易く覆ってしまうのである。それでいて、完全に理性を捨て去った獣のようにはなれないのだ。この苦しみは察するに余りある。


「ごめんなさい……っ!」


 シャルロッテはわたしの手首を掴み、指先から出ている血を舌先で舐めとり、そのまま指をくわえた。ひんやりと冷たい手に反応して、わたしの全身が震える。妖精めいた美女が、わたしの指をいとおしげに味わう様は、傍目にはひどく淫靡な光景に映るかもしれない。


「んっ……」


 指先の小さな傷から、わたしの生き血が吸い出される。指先にできた小さな傷からの吸血だ。よもや、これで失血死ということはないだろう。しかし、じきに指から痺れが生まれ、それが腕全体に広がってゆく。彼女の言うとおり、吸血鬼に血を吸われた者は死ぬのだ。たとえ、ほんの少しずつ吸うのであっても、死は着実にわたしに迫っているように思えた。


「先輩――わたしの血、美味しい?」


 わたしには、彼女の飢餓を満たさねばならぬという義務感があった。今のわたしは、卓上に饗された料理なのだ。その役割を自ら選んだのだ。義務を果たさなければならない。彼女の苦しみを真に癒すことはできまいが、せめて彼女の飢えを癒すよう努めなければ。


 わたしの期待通り、シャルロッテは更にわたしを求めた。獣のような本能に従い、じっくり時間をかけてわたしの血を吸った。


「……貴女が、悪いのよ。こんなに美味しい血を流す貴女が」


 わたしの指から口を離したときの、彼女の表情――それはまさに、吸血鬼のものだった。目の前の獲物を貪りつくしてやろうという本能に理性が屈した、吸血鬼シャルロッテ・モルゲンシュテルンの姿があった。しかし、それでも、わたしの心に恐怖の念はなかった。わたしもまた、吸血鬼の魔性の魅力に屈していたのだろう。


 シャルロッテはとうとう、指の傷からの血だけでは満足できなくなり、もっと大胆なやり方でわたしを味わった。多くの吸血鬼映画で描かれているように、ついにわたしの首にその牙を突き立てたのである。


「あぅ……っ」


 わたしは苦痛に悶えた。不思議な気分だった。激しくはないが、しかし長く続く痛み。それはまるで、彼女の苦難に満ちた人生の縮図のようだった。


 苦痛の最中にあってもなお、不思議な睡魔がわたしを襲う。既に夜も更ける頃合だから、眠くなること自体は、別段不自然なことではない。しかし、前述の通り、これは吸血鬼の食事であり、生け贄はただ死を迎えるのを待つばかりなのだ。となると、これは睡魔ではなく、徐々に死に向かう感覚なのだろう。意識が遠のいてゆく。恐らく、次に目覚めることはあるまい。









 どれだけの間、そうしていたのか? わたしたちは、とうとう一番鶏の鳴く声を聞いた。カーテンから陽が射している。不思議なほど心地よいまどろみの中、わたしは陽光のぬくもりを感じていた。


 一番鶏の鳴き声には、そんなまどろみの中にある意識を現実に引き戻す作用があった――つまり、わたしはまだ生きていたのだ。しかし、たっぷり血を抜き取られたからか、いつになく身体が重い。


「――おはよう、あさひ」


 彼女の口から初めて聞いた、朝の挨拶。それを聞いて、わたしの心臓が跳ね上がった。鶏の声などよりも、ずっと強い覚醒作用があった。重大な事実を思い出したからだ。


 吸血鬼は、朝陽によって滅びる。ドラキュラ以降の吸血鬼のお約束だ。彼女自身、招かれなければその家に入られず、鏡にも写真にも映らない、典型的な吸血鬼なのだ。何より、シャルロッテとは夜にしか会ったことがない。きっと、フィクションの吸血鬼と同様に、彼女もまた、太陽の下では生きられないのだろう。


「先輩!」


 わたしははっとして、身を起こそうとした。すぐにカーテンを閉め、わたしを甘美な夢の世界から引き剥がそうとする、あの恐ろしい光を遮らなければ。


 しかし、わたしの手を握る冷たい手が、そうはさせなかった。万力のように強い力で、しかも触れられた部分が痺れてしまう。わたしの試みは、全く功を奏さなかった。そうでなくとも、幾ばくかの血を失い、物質的には軽くなったはずであるにも関わらず、全身が鉛のように重く感じられたのだ。わたしには、人並みの抵抗をするだけの力は残っていなかった。


「先輩、離してください。もう朝ですよ。せめて、カーテンを閉めないと!」

「……ごめんなさい、あさひ」


 彼女は謝りつつも、その手を離すことはなかった。しかし、その力が徐々に弱まっていくのを感じる。


「もう少しだけ、このままで居させて。お願い」


 シャルロッテはわたしの身体にのしかかった。細身の身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。


「やっぱり、貴女はこっちに来ない方が良いわ。わたしみたいな吸血鬼には、貴女は眩しすぎる」


 シャルロッテの身体の冷たさと、彼女自身の拒絶。わたしと彼女の体の温度差は、結局のところ、人間と吸血鬼は相容れないものなのだということを、暗に示しているように思えた。


 寂しかった。短い間とはいえ、彼女との間には確かな友情があったと、わたしは信じていたのだ。その相手が、結局はわたしとは相容れない存在だったのだと思うと、浦島水江を喪ったあのとき以上に寂しかった。


「綺麗。何年ぶりかしら。()()を見るのは」


 更に残酷な事実が突きつけられる。彼女のモルゲンシュテルン(ドイツ語で『明けの明星』程度の意味)という姓や、わたしの名前と()()との発音の一致は、本当に皮肉なものだ。なにしろ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「さよなら、あさひ」


 待って、とも、さよならとも言う間もなく、まるで幻影であったかのように、シャルロッテは消え去っていた。彼女は眩い朝陽の中に消えてしまった。


 彼女の名残は、一握の灰と、わたしが描いた絵だけだった。


 さて、シャルロッテの姓であるモルゲンシュテルンにちなんで『明けの明星』と題した、彼女を描いた人物画であるが、今のところ、誰にも見せる予定はない。確かに、『明けの明星』は画家としてのわたしを構成する上で欠かせない要素であるが、これは他人の目や手に触れさせるべきではないと思う。単に感情の問題で、要するに初恋の人を描いた個人的な思い出を他人に知られるのは、少々恥ずかしいのだ。


 また、彼女が残した灰は、何よりも大事に保管している。滅びという形で永遠の安らぎを求めた彼女には悪いが、シャルロッテ・モルゲンシュテルンには、わたしの中で永遠に生きてもらうつもりである。

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