二
あの日、夜の校舎で出会った彼女は、わたしの心をがっしりと掴んで離さなかった。世界の全てが色褪せて見えるようになってから、彼女――赤い瞳を除いて真っ白な彼女だけが、皮肉にも色鮮やかで美しく見えたのだ。同性同士の恋愛に興じる趣味はないが、多分、これが一目惚れというやつだったのだろう。弁明をすると、あくまで絵のモデルとして惚れ込んだのであって、恋愛感情を抱いているわけではない――と思う。そう、これは恋じゃないんだってば。
彼女をモデルに絵を描きたい。浦島水江の『竜宮』は、幻想の風景の美と脅威を完璧な形で表現した作品である。それに勝る絵を描けるかもしれないという希望は、同じく現実離れした美を持つ、あのアルビノの妖精という題材以外にはなかったのだ。
こうして、長らく萎えていた創作意欲に火が点いたわけだが、前途は多難だった。彼女とお近づきになり、絵のモデルになるよう頼める程度の関係を築かなければならないのだ。しかも、もうすぐ転校するらしい相手だから、厳しいタイム・リミットまである。
わたしは内心焦りながら、彼女を求めて遮二無二走った。奇妙なことに、あれからどれだけ彼女の姿を求めても、見つけることができなかった。三年生の先輩に尋ねても、そのような人物は知らないという答えが返ってくるばかりである。二年生、一年生の教室で聞いて回っても、結果は変わらなかった。
これは実に奇妙なことである。明らかに外国の生まれで、しかもアルビノの美人と来たら、良くも悪くも目立つはずで、知らない人が大多数を占めているということは、実に奇妙なことのように思えた。こうまで誰も知らないとなると、まるで、あの夜のことが夢であったかのように思えてしまう。
わたしの熱心な追跡行為(ストーカーめいていることは認める)の成果が表れたのは、およそ半月が経った頃だった。彼女の名前はシャルロッテ・モルゲンシュテルンといって、学年は二年生、ドイツのヴィスボルクなる田舎町から来た留学生だということがわかった。病弱で、学校を休みがちであり、知り合いだという人が殆ど居なかったのは、まあそういう事情があったのだと判明した。となると、殆ど学校には来ていないのだから、会おうにも会えないのだ。なんということだ!
しかし、これで諦めるわたしではない。わたしが探したのは、昼の教室だけだ。あのときと同じ状況、つまり夜の校舎という、ある種の異世界めいた空間については、まだ探していない。現に、彼女と初めて出会ったのは、夜の教室であった。あのときと同じ状況を再現すれば、もしかしたら、また会えるのではないか――そう思ったのだ。
それでも、会えない日は何日も続いた。徐々にタイム・リミットが迫る中、わたしはあのときの状況を本当に再現できていなかったことに気付く――実のところ、これは後から気付いたことで、図らずもその日は再現してしまっていた。
その日も調理実習で派手にやらかし、包丁で怪我をした。大事には至らなかったものの、またかと呆れられたものである。そう、彼女と初めて出会ったあの日と同じく、手に出血を伴う怪我をしていた。
彼女は居た。あのときと同じ場所に、全く同じ姿で立っていた。どこか憂いを秘めているような微笑み――つまり、あのときと全く同じ状態の彼女が居たのである。
「あっ、あのっ」
今度はわたしの方から声をかけた。彼女に用事があるのだ。そう、大事な用事があるのだけれど――そう、あのときは普通に話ができたのに、今回は不思議なほど、ひどく緊張する。
「しゃ、シャルロッテ・モルゲンシュテルンさんですよね?」
「ええ、そうよ。わたしに何かご用?」
「あの、その、えっと……」
ひとたび、この人をモデルに絵を描くと決めてから、改めて見ると、本当に綺麗な人だと思い知らされる。どういう男の人だったら釣り合いがとれるだろうか? わたしは画家を志す者として、それなり以上の想像力はある方だと思うが、彼女の横に立って様になる男の人の姿は、全く想像できなかった。
あのときと同じ柔和な笑顔は、やはり深い憂鬱を秘めているように思える。それがたまらなく美しく見える。
胸がどきどきする。前よりも距離が近い。
「えっと、あの……」
どうしよう。会って間もない、それどころか名前さえ知らない、赤の他人も同然の相手に、いきなり絵のモデルになってくれなどと頼めるものだろうか? そのために追い求めていたのに、いざ彼女を前にして萎縮するとは、なんとも情けない話である。
「お、お茶とか、どうですかっ!?」
ああ、やはり緊張する。緊張のあまり、変なことを口走ってしまった。なんというか、こちらに下心があると、それだけ負い目を感じるのだ。断っておくが、わたしは初対面の人物が相手だと、必ずこうなる訳ではない。事実、彼女とよく似た雰囲気の浦島水江と初めて出会ったときは、こんなにも緊張はしなかったはずだ。あちらの方が幾分か気さくな性格であったせいもあるが。
「……ふふっ」
笑われた。いや、常に憂いを湛えた表情を見せていた彼女から、図らずも笑顔を引き出すことができた。
「いえ、ナンパなんてされたの、初めてだったから。それも、年下の女の子相手に……ふふっ」
妖精はクスクスと渡った。それは、本当に笑顔らしい笑顔であった――白いからか、余計にその笑顔が眩しく思えた。憂いを湛えた表情を見て、本当に美しい人と思ったが、彼女の本当の笑顔は、それをも上回る感動をわたしに与えた。わたしはますます、この人を描きたくなった。
「良いわ。丁度暇でしたから、お茶にしましょう。良い店を知ってるのよ」
それから、わたしと彼女の奇妙な付き合いが始まった。
付き合ってみて判ったことは、まず、見た目ほど気難しい人物ではないということだった。確かに、最初に会ったときの第一印象の通り、内気で大人しい人物で、あまり自己主張をしないタイプではある――するまでもなく目立つことは想像に難くないが、本人はあまり目立つのが好きではないらしかった。総じて、このような姿でなければ、きっと周囲からは埋没するであろう人物なのだ。その点はわたしと同じである。わたしも普段は口数が多い方ではないし、ましてや自分から目立とうとすることはしない。絵画のコンクールなんかでは別としても。
しかし、奇妙なことがないわけではない。
まず、シャルロッテは昼間には会えない。わたしが学園中で聞いて回った際、彼女の知り合いだという人物になかなか出会えなかったのは、恐らくそういうことだったのだろう。居ないものは知らないのだ。
「そういえば、先輩は昼間は全然見かけませんけれど、どうしてですか?」
すると、彼女は悲しそうに答えた。どうやらマズいことを聞いてしまったらしい。聞いてから、こんな質問はする方もする方だと思った。本当に不躾だった。
「……日の光が毒なの。そういう病気よ。お医者様のお墨付きは出ているし、学校の方も事情は理解しているわ」
確かに、アルビノは色素の欠乏のため、紫外線に対して脆弱だと聞く。このため、日焼け止めクリームが手放せないのだという話だ。また、視力も弱く、日常生活に支障がしばしば出るのだとか。
彼女の場合は、更にそれ以外にも別の病気を抱えており、太陽の下に出ることはほとんどできないのだという。
「ごめんなさい。聞いてはいけないことでしたね」
「いいえ。わたしも、この体質には悩んでいるのよ。悩みが打ち明けられて嬉しいわ」
シャルロッテは本当に優しい人だ。わたしがこんな不躾な質問を投げかけても、柔和な笑みと態度で応じてくれた。そんな彼女だからこそ、わたしの言葉によって傷つけてしまったのではないかという心配は、どうか杞憂であってほしい。
わたしとシャルロッテの関係が劇的な変化を迎えたのは、わたしが学園祭の準備の最後の仕上げで、本当に夜遅くなったときのことだった。
夜が更ければ更けるほど、街は危険になるものである。治安が良いとされる日本でさえ、それは例外ではない。最近物騒よねえ、という近所のおばさんの言葉が思い起こされる。その日はたまたま、その言葉を真に実感させてくれる、親切な方が居た――そう、サングラスとマスク、それにマフラー、毛糸帽子――まさしく絵に描いたような不審者が、ずっと一定の距離を保ちながら、わたしの後ろからついてくるのだ。
わたしは恐ろしくなって、小走りに自宅へと急いだ。すると、相手はわたしよりもわずかだけ上の速度で追いかけてきた。
そんな訳で、わたしは今、変質者から逃げている。息を切らしながら、必死に走っている。とはいえ、文化系の部活に籍を置き、運動は大の苦手であるわたしが、大の男から逃げおおせることは困難だった。そればかりか、途中で転ぶ始末である。
「うう……」
転んで擦りむいた膝が痛い。何かしらの乱暴される前から、もう泣きそうになる。
「へっへっへ、お嬢ちゃん」
「ひっ……」
嫌らしい変質者が、毒牙にかけようと手を伸ばす。わたしの服を引き裂き、肢体を味わいやすいよう、あるいはわたしの抵抗の意思を挫くため、その手には刃物が握られていた。
ああ、わたしはきっと、これからこの人にいいようにされてしまうのだ。世にも恐ろしい陵辱の限りを尽されるに違いない。このときばかりは、わたしの想像力が恨めしい。
だが、そうはならなかった。
「……その子から、離れて」
男の背後に、シャルロッテが静かに佇んでいたのだ。彼女の私服は白を基調とした上品なワンピースで、いつも以上に、彼女自身の白さが際立っていた。白馬の王子様ではないが、それに似た気高さが、今の彼女にはあった。
シャルロッテは素早く暴漢の手首を掴んだ。
「何を……ッ!? お、おおっ!?」
奇妙なことに、彼女は男の手首を掴んで睨みつけているだけだったが、にも関わらず、変質者の表情に恐怖の色が色濃く見えたように思える。体格からして、明らかにこの男の方が強そうであるし、簡単に振りほどけそうなものである。ましてや、彼女の行為は武術の心得とは無縁の、ただ単に掴んでいるだけの状態にしか見えない。ただそれだけで、大の男にあそこまでの恐怖と苦痛を与えられるものだろうか?
「その子から、離れて!」
二度目のその台詞は、普段のシャルロッテからは想像もつかないほど、強く、激しいものだった。確かな怒りが感じられる。初めて見るシャルロッテの怒りは、助けられる立場であるわたしでさえ、かなりきつい恐怖を覚えるほどだった。
「ひっ、ひいい」
シャルロッテがその手を離すと、暴漢は悲鳴を上げながら逃げ去った――どんな
種類の恐怖が彼を襲ったのかは、わたしには想像できない。なにしろ、印象的な暴力などは一切用いずに、ただ手首を掴んで睨むだけという行為に過ぎないのだから。単に威圧に怯んだだけのようには、到底思えなかった。
「大丈夫?」
「は、はい。ありがとう、ございます……」
情けなくも腰を抜かしているわたしの手を引き、その身を起こそうと手を差し伸べてくれた。
わたしが握った彼女の手は、ひどく冷たかった。晩秋の夜ともなれば、確かに手が冷たくなるほどに冷え込むこともあろうが、それを差し引いても、彼女の手は異常な冷気を帯びていた。
「……」
しかし、わたしを助け起こそうとしたその手の動きが、急に止まる。彼女の目の焦点は、どこかあらぬ方向を向いていた。わたしの顔ではなく、丁度、膝の辺りをまっすぐに見つめていた。彼女の視線を追うと、わたしの膝に擦過傷があり、出血していたのだ。逃げる途中で転んだせいで、膝を擦りむいたのだろう。その傷口を、彼女は熱の篭った目で凝視していたのである。
彼女は助け起こそうさしのべた手を払い退けて、逆にわたしの太股を両手で強く掴んだ。晩秋の夜風よりも冷たい、ひんやりとした感触が脚を伝い、思わず鳥肌が立つ。
「あ……何を……?」
「もう、駄目……我慢できない!」
そして、わたしの膝の傷口にいとおしげに舌を這わせた。
「んっ、れろ……」
舌特有のざらざらとした感触が傷口を撫で、鋭い痛みが継続的に繰り返された。
どれくらいの時間をそうしていただろう。彼女は口を離し、それから暫く恍惚とした表情――真っ白だった頬を赤く染め、焦点の合っていない瞳で虚空を見つめた後、やっとわたしの存在を認識したようだった。
「やだ、ごめんなさい。わたしったら……」
吸血鬼、という言葉が思い浮かぶ。一般的に流布した彼らの特徴と、彼女の性質はまさしく一致する。夜になると姿を現し、生き血をすする怪物。怪力で、しかも触られた場所が痺れてしまう。幽鬼のように青白い肌。近年の吸血鬼は、魅力的な美男美女に描かれることが多い。これらの特徴は、シャルロッテ・モルゲンシュテルン以外の何物でもなかった。
「……ごめんなさい。あさひちゃん、今日のことは忘れて。お願い!」
シャルロッテは踵を返し、一目散に走り去ろうとした。
「先輩!」
わたしは逃げるように立ち去ろうとしたシャルロッテの手を掴んで呼び止めた。ここで彼女と別れてしまうと、もう二度と、彼女とは会えない――そんな気がしたのだが、彼女の態度を考えると、そうなることは間違いなかった。
わたしが握った彼女の手は、やはり冷たかった。
「今夜、わたしの家に来ませんか?」