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 罪なき女が吸血鬼に自らその血を捧げ

 一番鶏が鳴くまでの時を吸血鬼に忘れさせること

 それが吸血鬼の呪いから逃れる唯一の方法である

(吸血鬼ノスフェラトゥ 第五幕より)

 その日もわたしは、自分が多大な時間と労力をかけて仕上げた絵を、ヒステリックに引き裂いた。費やしたものが全て水泡に帰した瞬間であったが、そうしたのは他でもない自分自身である。


「一之瀬さん、またやってるわ」


 かように奇矯な振る舞いは、当初こそ周囲を驚かせていたものだが、日常的にそうするようになってから一月も経つ頃には、もはやいつもの光景として認知されていた。


「悪い絵ではなかったと思うのだけれど、何が気に入らないの?」

「何がって? 全部に決まってるじゃない」


 わたしは苛立ちを隠すことができず、つい部活の仲間に当たってしまう。


 どのような形態であれ、芸術に関わる仕事をしている者にとって、スランプは付き物であろう。


 わたし、一之瀬あさひは、幼少の頃から絵を描くことが好きで、小、中、高と一貫して美術部に籍を置いていた。しかし、高校の時分には筆を折ろうかと思うほどの、酷いスランプに陥っていた時期があった。


 激情に任せて自らの作品を破壊した後、わたしは部室に飾られた、一枚の油絵を見た。


 スランプの直接の原因は、この『竜宮』と名付けられた作品に端を発する。描いたのは浦島水江といって、わたしの一つ上の先輩にあたる人物である。浦島に竜宮とは、なかなか出来過ぎた偶然だと思う。彼女自身、狙ってそのタイトルを付けたのだろう。


 浦島水江とは先輩と後輩という間柄ではあったが、互いに技術を切磋琢磨し合うライバルであったし、それを抜きにしても親友であったと思っている。


 ただし、ライバルとは言ったものの、わたしの才能は、浦島水江には遠く及ばないのも事実である。それを思い知ったのが、先述の『竜宮』という作品だった。この世ならざる風景を、写実的なタッチで描ききった手腕は只者ではない。ずっと見続けていると吸い込まれそうな絵と評判であったが、それだけの迫力の有る絵であったことは、きっと誰もが認めることだろう。


「一之瀬さん、最近変よ。前まで、絵を描くのがあんなに楽しそうだったのに。その……浦島先輩のことは、お気の毒でしたけれど」


 そうなのだ。浦島水江と『竜宮』は、わたしの一つの目標であったが、肝心の彼女は、若くしてこの世を去ってしまった。憧れの先輩であり、越えるべき目標であり、貴重な友人であった彼女の死による喪失感は、未だかつて経験したことのないほど大きいもので、それ以来、長らく不調が続いている。


 水江の死後、改めて『竜宮』を見ると、彼女と自分の才能の差を痛感する。そればかりか、作品が持つ美と迫力――ある種の魔力に圧倒され、いつの間にか、この世のどんなものにも美を見出せなくなってしまっていたのだ。わたしのスランプの原因は、まあこんなところである。


 わたしはスランプを克服するため、あるいは友人の死による心の傷を癒すため、絵画以外の様々な分野の芸術に触れてみることもした。彫刻、文芸、音楽、映像作品――しかし、これらは表現技法の参考にはなったが、わたしが直面している根本的な問題の解決にはならなかった。やはり『竜宮』のような、この世ならざる気配を感じる作品には、ついぞ出会えなかったのである。


 また、生きている人間や動物、現存する風景等に美を見いだそうと試みたこともあった。わたしが通う比良坂女学院は、地元ではお嬢様学校で通っている。小高い丘の上に築かれており、校内や周辺には風光明媚で知られる場所がいくつかある。また、人物画のモデルにも困ったことはなく、要するにわたし自身とは対照的な、華やかな美人が数多く居たとも記憶している。しかし、これらはあくまで現実のものであり、所詮はこの世のものでしかなかった。もはや、目に映るすべてのものが色褪せて見えるようになってしまっていたわたしにとって、丘から見下ろす絶景からも、華やかなりし美少女からも、芸術性を見出すことはできなかった。


 スランプから抜け出そうと努力をすればするほど、わたしは『竜宮』とその作者、浦島水江の呪縛から抜け出せなくなっていった。彼女とその作品を越えようと足掻くほど、自分才能の無さや、友人の死による喪失感に打ちのめされるのである。この悪循環を断つには、もはや筆を折って彼女のことを忘れるしかないと思ったことは、一度や二度ではない。


 思うに、『竜宮』は、魔力を秘めた絵であったように思える。良くも悪くも、わたしに多大な影響――この時点では明らかに悪影響しかなかったが――を与えたこの作品は、聞く話によると、他にもこの絵から何らかの重大な影響を受けた人が居ると聞く。それについては、また別の機会に語るとしよう。


 そうして不調に陥ってから二ヶ月が経ち、友人の死をようやく現実のものとして実感し始めた、十一月のある日のことだ。その日は学園祭の準備で帰りが遅くなった。季節は晩秋、日が暮れるのも随分と早くなっている頃であるが、その一方で、学園祭という一大イベントのため、遅くまで学校に残る生徒も多い。


 授業に続き、学園祭の準備の勤めを終え、じっと手を見る。調理実習で包丁の取り扱いを誤ったため、すっぱりと鋭利な切り傷を残しており、血が滲んだ絆創膏がそれを覆い隠している。大した怪我ではないが、最近はこのような生傷が絶えない。朝食の添え物の林檎の皮を剥けば、二回に一回くらいは手を怪我するくらいだ。このように、スランプの影響は未だ根深く、芸術分野のみならず、日常生活にまで深刻な不調が見られるほどだった。


 わたしが学園祭の準備の作業を終えて帰る途中、すっかり暗くなった廊下を歩いていると、灯りの消えた教室に見慣れない人影を見た。背の高い、細身の女性だった。髪も肌も白く、傍目には幽鬼のように見えた。しかし、よく見ると妙に整った顔立ちで、ネガティブ・イメージのつきまとう幽鬼という言葉は、いささか不適切であるので、早々にこれを撤回することとする。


 馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、わたしは妖精、あるいは天使の実在を確信した。ウェヌス像に生命を吹き込んだが如き美貌に加え、大理石像さながらの白い髪と肌をも備えており、その姿は月光によく映えていた。ただ立っているだけで、この世ならざる幻想的な雰囲気を醸し出す人間など、そうそう居るものではない。それは確かに人間の形をしてはいたが、よもやこの世の人間だとは、にわかには信じられなかったのである。それが現実に存在するアルビノの少女だと判ったのは、数秒ほど見入ってからだった。


 彼女の姿を見て、わたしは亡くなった浦島水江のことを思い出していた。水江もまた、彼女と同じアルビノの美人で、妖精めいた雰囲気の人物だった。ただ、目の前の彼女の顔立ちは、明らかに典型的な白人のそれだったので、実際には似ても似つかないのだが、どこか浮世の存在ではないような雰囲気は共通していた。


「ごきげんよう。良い夜ね」


 不意に、件の妖精に話しかけられた。優しげな、人を安心させようと努めていることがわかる声である。しかし、こちらをしっかりと見つめるその瞳を見て、心臓が跳ね上がるような驚きがあった。赤く、爛々と光る目――白いウサギがそうであるように、アルビノの生き物の瞳はしばしば赤色であるが、彼女の場合は、どこかそれ以外の超自然的な要素があるように思えてならなかったのである。


 人目を引く容貌とはいえ、こちらは不躾にまじまじと見つめていたのだから、彼女の気に触っていないかが懸念された。幸い、柔和な笑みを見る限り、その心配は杞憂のようだったが。


「……こんばんは。貴女も、文化祭の準備ですか?」


 流石に初対面なので、ここは敬語を使う。わたし自身が緊張して、萎縮しているせいもあった。少なくとも、初対面でこういうタイプの人物に親しげに話しかけられる人は、どちらかと言えば少数派だろう。


「そうでは、ないのだけれど……」


 彼女の返事は、歯切れの悪いものだった。大層な美人ではあったもの、おどおどとしており、自分にあまり自信が持てない、気弱なタイプの人物に見える。そういう意味では、彼女に似た雰囲気を持つわたしの友人とは対照的と言えた。


「忘れ物を取りに来たの。それに、もうすぐこの学校ともお別れだから」


 彼女はそう説明した。ということは、彼女は三年生か。わたしよりも二つ上の先輩ということになる――と、ここが何処であるのかを思い出して、それが間違いである可能性に気付く。ここは一年生の教室なのだ。


「転校ですか」

「……はい。丁度、一ヶ月後に」


 そう答える声もか細く、お世辞にも明るい印象は受けない。本当にただ転校するだけなのか、もっと深刻な悩みを抱えてはいないかと、初対面ながら不安になるほどだった。彼女から受ける儚げな印象は、明らかに見た目だけが原因ではないように思える。


 出会って五分と経たずに、わたしはこの人物のことが気になり始めていた。印象的な美人というだけでなく、外見から受ける印象においても、立ち居振舞いから感じられる気品や儚さにおいても、亡き友人を思わせるものだったのだ。とにかく記憶に残ったのである。


「えっと……それじゃあ、先に帰りますね」


 しかし、彼女に別段の用事がある訳ではないので、ここらで別れの挨拶を告げる。


「……ええ、さようなら」


 純白の妖精は、今にも消え入りそうな声で応じた。どんな表情でわたしの背中を見つめているのだろう? あるいは、わたしなどは見ていないのかも知れない。


 わたしと彼女の出会いは、このように素っ気ないものであった。この時点で彼女がわたしをどう思っていたのかは、今となってはわからない。しかし、わたしの方はというと、初対面の時点から、既に彼女に心を奪われていたのだろう。何より、何かを見て美しいと思ったのは、本当に久しぶりのことだったのである。

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