こんな異世界の王都には・2
事故なのか、天変地異か。はたまた病気か何かで一回死んでしまったのか。
何がきっかけなのかはわからない。
原因なんて、もっとわからない。
ただ、気が付けば木乃香はだだっ広い荒れ地のど真ん中に立っていた。
鞄ひとつ持たず、適当な私服を身に着けただけの、頼りない姿で。
―――ああ、これは夢かな。夢だな。
そう思った木乃香を、誰が責められるだろうか。
露店でカナッツという揚げ菓子を受け取り、思わずにんまりと笑みがこぼれる。
このドーナツによく似た食べ物が、木乃香は大好きだった。
甘い蜜をからめた表面はかりっと香ばしく、中はもっちりと食べ応えがあって、食事代わりにもなる。ハーブやドライフルーツ、チーズなどを生地に練り込んだものも美味しいが、彼女は雪の結晶のような砂糖をまぶしただけの素朴な味のものがいちばん好きだった。
とはいえ、この国では白い砂糖が手に入りにくく高価なので、並んだ揚げ菓子の中ではいちばん値の張るぜいたく品である。「素朴」とか言えば目の前のおばさんに目を吊り上げて怒られそうだ。
おばさんの少し、いやかなりふっくらとした体型を見ると糖分と油分たっぷりの揚げ菓子は控えなければと、ちらりと思う。
だがそれは一瞬。仕事のストレス解消に甘いものを求めて何が悪い、と開き直る。
それに、少し前まで材料となる小麦や砂糖に不当な関税をかけられたり、さらに誰かが買い占めて値を釣り上げたりということが横行していたので、ふたたび露店でこのカナッツが手に入るようになったのはほんとうに最近なのだ。
もっともひどかった時期は、広場に露店が並ぶどころか人の気配すら途絶えていた。
袋の膨れ具合をみると、おばさんは少しオマケしてくれたらしい。
硬貨を渡しながら、木乃香はふと思う。
他国に攻め込まれた後の王都って、こんなに平和でいいのか。
カナッツなどの屋台だけではない。野菜や果物、日用品やちょっとした雑貨、装飾品など、様々な品物を扱う露店が広場には並んでいた。中央付近では大道芸までやっていて、陽気な音楽や歓声が聞こえてくる。
ふと周囲に視線をやれば、広場にも隣国の兵士はちらほらと歩いている。
彼らが善良な一般庶民に危害を加えないことは、皆が知っていた。
自国の兵士のように、妙な言いがかりをつけて露店の売り物を取り上げたり、壊したり、力を誇示するためだけに魔法で火を付けたり凍らせたり空高く放ったりはしない。
ああして広場の隅に立ってくれるだけで強盗や万引きの件数までが激減するのだ。迷惑どころか「ありがたやー」と拝む商人までいるほどである。
攻めてきたサヴィア王国の兵士たちは、この国で略奪も不当な暴行も行わなかった。
少なくとも、市井にはほとんど迷惑をかけていない。
しかも以前より物流が良くなって物価が下がり、暮らしが楽になっている。
下から搾取することと上に取り入ることしか頭にない自国の貴族たちより、彼らのほうが庶民に受けがいいのは当然のことだろう。
ちなみに木乃香の給金も、少しながら上がっていた。
だから休み時間を利用して、この露店に足を向けたのだった。
平和なのはたいへん結構。結構、ではあるのだが。
平和すぎてつい、なんとなく首をかしげてしまう木乃香である。
「オーカちゃん」
呼ばれて顔を上げれば、縦はともかく横に大柄なおばさんのにやにや笑いにあたる。
この世界に迷い込んでなぜか言葉に困ることはなかったが、どうやら彼女の本名はこちらの人々にとって呼びにくいものであるらしい。
ごく一部を除いて、「宮瀬木乃香」は「ミアゼ・オーカ」と少し舌足らずのような訛ったような、微妙な呼び方をされていた。
いまでは本名で呼ばれるほうが違和感を覚えるほど、この呼び名にもすっかり慣れた。
「久しぶりだねえ。元気そうでよかったよ」
そういえば、この前はおばさんの娘さんが売り子をしていたのだった。
お気に入りのカナッツの露店が再開していると木乃香が知ったのはつい最近で、再び買いに来れるようになったのはさらに最近である。
「おばさんこそ。元気そうでなによりです」
「しばらく顔を見ないから、クビになったか生まれ故郷に帰ったのかって話してたんだよ」
「あー、なんか慌ただしかったみたいですしね」
「……他人事に聞こえるのはなんでだろうね」
事実、木乃香にはどこか他人事だった。
事件は目と鼻の先で起こったのだが、木乃香はただいつもの仕事をしていただけである。
それくらいに迅速かつスマートなクーデターだったのだ。
その後、不正を働いていた上司や先輩たちが次々と解雇されたり処罰されたりということがあったが、至極真っ当に職務にあたっていた木乃香には関係がない。
まあ、随分と隙間の多い職場になって風通しは良く、非常に仕事がやりやすい環境にはなったかもしれない。ただし抜けた人員のぶん受け持ちの仕事は増えたので、忙しさはあまり変わらないが。
「職場に残って得したことって、休み時間におばさんのところのカナッツを買いに来れることくらいじゃないかなあ」
「……褒めたってこれ以上はオマケしてあげないからね」
おばさんは呆れたようにため息をつく。
そして木乃香に向けて人差し指をびしっと向けた。正確には、彼女の装いそのものに。
白に近い灰色の地に銀糸のつた模様が刺しゅうされた厚手のマントと、そしてそれを胸元で留める、同じくつたの意匠を凝らした銀の留め具。
これらは、フローライド王国での身分証明。
彼女が王城で働く、下級魔法使いであることを示していた。
「もうちょっと自慢したらどうだい。城勤めなんて、いまや若い子たちのあこがれの職業だろう」
言い聞かせるようにおばさんは言う。
そういえば、この前おばさんの娘さんにもそんなことを言われた。
木乃香が入ったころは、残業、休日出勤当たり前。もちろん春夏のボーナスや有給休暇などというものは存在せず、退職金もなく、さらには上司に給料の一部を巻き上げられていたという、あきれるほどブラックな勤め先だった。
まあ、もとの世界の雇用規定などこちらには通用しないのだと、わかってはいるのだが。
つい「公務員は安定した職業だ」という、もとの世界の認識のまま就職してしまった木乃香だが、先輩や同僚たちのやつれ具合や愚痴の内容を見聞きすれば、こちらの世界基準でも割に合わない職場なんだろうというのは理解できる。
しかも王座に座っていたのはメタボというのもはばかられるような丸い体型の中年ワガママ国王様。取り巻きも似たようなオジサン連中であり、物語にありがちな見目麗しい王子様も、キラキラしい親衛隊や騎士団のようなものも存在しない。
しかも不正が次々と暴かれ断罪された結果、深刻な人手不足に陥っている職場は、猫の手も借りたいほどに忙しい。
果たしてコレのどこに、若い子憧れの要素があるというのか。
「代わって下さる方がいるというなら、喜んでこのマントと留め具を進呈したいです」
そう。もう少しこの世界の常識に馴染んだ現在なら、仕事を辞めてもどうにでも生活していけそうな気がするのだ。
けっこう真面目に言ったのに、露店のおばさんは特大のため息を落とした。
「それ、イヤミにしか聞こえないからね、魔法使いサマ?」
なんで嫌味?
以前、王宮勤めの魔法使いと言えば、嫌な顔をされるか憐みのこもった視線を向けられるかのどちらかだったのに。
それに彼女程度の“魔法使い”なら、別に珍しくも何ともない。
木乃香には、いわゆる魔法の資質があった。
もともと素質があったのか、こちらに来てから体質が変わったのか、それはわからない。
しかしとにもかくにも、その実力は“下級”。
残念ながら、魔法使いの前に「一応」と前置く必要がある程度の実力でしかなかった。
火や水や風などを生み出すことも操ることも出来なければ、結界や護符の類を作成することもできない。
ホウキや絨毯に乗って空を飛ぶことだって無理だ。ちなみに、掃除道具に乗った魔法使いはこちらの世界には絵本の中にも存在しないようだったが。
木乃香が出来たのは“召喚術”のみ。
彼女を拾い保護しこちらの常識と魔法を基礎から教えてくれた師が言うには、それしか適性がないのだそうだ。
完全魔法実力主義であったフローライド王国においては無いよりマシ。それくらいの代物だ。
幸か不幸かはさておき、異世界からの迷い人である木乃香が王城勤めなどという職に就き収入を得られるようになったのは、これが大きい。
そして木乃香には、装い以外にもひと目で下位の魔法使いと分かる要素があった。
要素、というか、オマケが。
「………まあ、あんた程度が遭う機会なんてそうそうないか」
「遭う? 誰に?」
首をかしげる木乃香をよそに、露店のおばさんの視線はだんだんと下がっていく。
木乃香が露店の前に現れたときから、ちらちらと気にしてはいるようだったのだが。
「あんたのそれ、役に立つとは思えないからねえ」
それ、とあごで示されて、木乃香も灰色マントのさらに下、自分の足元を見下ろす。
そこには、彼女の片足にまとわりつく黒い子犬がいた。
正確には子犬のような姿形の、彼女の召喚した“使役魔獣”が。
「……そうですよねえ」
片手で抱え上げられるほど小さな、つやつやとした黒く短い毛皮に覆われる身体。
ぽってりと太く短い四本の脚。
好奇心旺盛で、ぴくぴく動く三角の耳。
こちらを見上げる、くりくりっとしたつぶらな黒い目。
主に見つめられて、黒犬は嬉しそうにぴこぴこと丸い房飾りのような尻尾を振っている。
買ったばかりのカナッツをもらえると思っているらしい。そういえばこの子犬、紙袋を受け取ったあたりから、甘えるようにやたらと足元にまとわりついていた。
「……っ」
耐えきれない、と言わんばかりに、露店のおばさんが果てしなく眉尻を下げる。
「かっ、可愛いからいいけどね」
「そうですよねえ」
へにゃりと笑いながら木乃香もうなずいた。
可愛いは正義とは、まったくよく言ったものである。
可愛いは可愛いが、ぜったい強そうに見えない小さな“使役魔獣”。
召喚するならより強く、より大きく、より怖くが評価基準であるこの世界では、これがまた彼女を“下級”魔法使いとする根拠でもあった。
6/27文章を訂正いたしました。話の内容に変更はありません。