初参戦!
翌日の昼休み。
優奈と理奈が揃ってやってきた。
「佐伯くん、どうだった?」
「エンジンの根本的な見直しが必要だと思う」
「そんなに悪い?」
「20周まではいい。そこから水温、油温がどんどん上がってタレるんだ。ダウンフォース強いからタイヤライフは問題なかった。でもエンジン回らなくなるからペースがガタ落ちになる。レブリミット500回転落とせないかな?」
「500回転も落とすの?」
驚く理奈。
「今がレブリミット9800だ。300キロ持たせるにはギリギリだろう。やっぱり上限は9000、出来れば8500まで落としたい。ポルシェがそれくらいだからね」
「でも上限9000は厳しいなあ。遅い最高速がますます遅くなるから」
「タイヤライフは余裕があると思う。サスセットも動きがシャープだから硬めだよね。もう少しマイルドにしてタイヤへの負荷を減らせばダウンフォース削れないかな?」
「佐伯くんはそれでも走れると思うけど・・・」
理奈は隣の優奈に視線を送る。
心なしか、いつもの元気がないように見える。
「その様子だと、ロングランダメだったのか?」
「あのセットだと佐伯くんの1.5秒落ちになる。しかもアンダー気味の車を無理に曲げようとするからフロントタイヤがダメになるの。持って25周」
「エンジンの熱ダレは起きなかったのか?」
「たぶんペースが遅かったからだろうね。優奈は大丈夫だったよ」
「でもお前ってそんなにタイヤに厳しいスタイルなの?」
少し驚く。
「あたしは曲がる車じゃないとダメなの。和貴みたいにアンダーの車を上手に曲げる高等技術は持ち合わせてないですよ」
わざとらしく拗ねる優奈。
「いや、別に高等技術じゃないぞ。アンダー気味じゃないとアクセル踏めないだけだ。いわゆる古いドライビングスタイルなんだよ。俺からすれば、オーバーステアの車でタイム出せるお前が羨ましいよ」
「アンダー好みとオーバー好み、どっちがいいの?」
「さあ、どうなんだろ?」
和貴と優奈が揃って悩んでいるところに、理奈が答えを出した。
「速ければどっちでもいいのよ。それに佐伯くんはポルシェで育ったから、アンダー好みになったんだと思う。オーバーステアの911でなんてタイム出るわけないし、考えただけでゾッとするよ」
「まあ、それもそうだな。911はアンダーじゃないと速くないし、基本身に付かないとタイヤがダメになるからな」
「優奈の課題はそれね。タイヤマネージメントが出来ていない。あとアウトラップも課題。冷えたタイヤだと優奈はとにかく遅いの。佐伯くんの4秒落ち」
「それがあるから、あのタイヤが温まりやすいセットなの?」
頷く理奈。
思わず頭を抱えたくなった。
問題は山積みである。
マシンの耐久性。
ロングランのペースの遅さ。
そしてなにより、優奈のドライビングの幅の狭さ。
スイートスポットにはまると速いが、そこから外れると途端に遅くなる。
オマケにスプリンターで持続性がない。
「ちょっと荒業になるけど、フロントタイヤを持たせる手段はあるぞ」
「ホント?」
ずっと落ち込んでいた優奈の目が輝く。
「放課後にコントローラー買ったショップに行って、ドライビンググローブ買って来い。MRW用ならそんなに高くないから」
「それで変わるの?素手より感覚が伝わりにくくなるから余計にタイヤが厳しくなる気がするけど?」
「そのままじゃダメだ。さらにステアリングアシストを思いっきり落とすんだ。手アンダーが出るレベルまでな」
「手アンダーって?」
「ステアリング切れば曲がるけど、重過ぎて切れなくて曲がらないのを手アンダーって言うんだよ」
「あのショップで走らせた古いF1みたいに?」
「あのレベルまで落とす必用はない。なんとかフルには切れるけど、ちょっと気合入れて力入れないとダメってレベルかな。今のセットだと直進安定性は悪くないからストレートを真っ直ぐ走れないなんてことはないし、修正も効く。コーナーで腕に力入れないと曲がらないくらいにするんだ。そうすれば余計にステアリング切らなくなるからフロントタイヤの寿命が延びる」
「で、なんでグローブが必用なの?」
「素手だとやっぱり力が逃げるんだよ。それに力いっぱいステアリング握ると手を傷めやすい。その防止だ」
「そっかあ。でも短い周回ならともかく、ロングランは自信ないなあ。どんどん疲れて力が入らなくなるんだよね」
「お前ってそんなにスタミナないの?体育の中距離やマラソンとか苦手か?」
「足は問題ないよ。けど腕はね」
悩み顔を見せる優奈。
「俺から言わせれば足も問題ありだ。明らかに踏力足らないからな」
そこで理奈が、
「夏に向けてのダイエットなんて止めたら?」
と漏らした。
その言葉に和貴が反応した。
「ちょ、お前、マジでダイエットなんてやってるのか?なに考えてんだ?」
声に怒りの感情が乗る。
「べ、別にいいでしょ!夏に向けてのダイエットなんて女の子じゃ普通じゃん!」
「普通の女の子ならそうかもしれんが、お前華奢だろうが。もともと細いのに、そこからさらに細くしてどうするんだ?まさかまた体重落ちたのか?」
「女の子に体重聞くなんてセクハラよ」
「そんな言葉で俺が怯むと思うのか?そもそもモーターレーシングにおいて体重は重要なファクターだ。チームメンバーなら把握しておく必要がある」
と力強く言い切ると、
「優奈の今の体重は35キロよ」
と理奈が教えてくれた。
それにはさすがに驚いた。
「ちょ、お前、そこまで落としてどうすんだ?」
「ど、どおって・・・そりゃ理想的なボディラインを目指して・・・」
「今でも充分に細いだろうが。クラスの女子たちが話してたぞ。お前ら姉妹は細くて羨ましいってな」
「優奈って細くなりすぎて、制服のスカートがブカブカなの。今はなんとか誤魔化してるけど、これ以上痩せるのはまずいと思うな」
「ちょっとお姉ちゃん、女の秘密をそんな簡単にペラペラと和貴に暴露しないでよ!」
理奈に対して怒る優奈。
「優奈はあたしや普通の女の子と違って太らないからね。そりゃあ僻みも出るよ」
「なあ優奈、簡単に太らないなら努力しろ。お前は太る・・・いや言い方が悪いな。そうだ、体重を増やすべきだ。いくらなんでも35キロは痩せ過ぎだと思うぞ」
「簡単に言うけどさ、体重増やすって難しいじゃん。身長伸びるのももう止まったし。和貴の場合は筋力を増やせってことでしょ。余計に難しいよ。筋肉が目立つ体型なんてホント嫌だもん」
ふてくされる優奈。
「やっぱ脂肪が足らないんじゃないか?筋トレしろとまでは言わんけどさ、食事くらい変えてみたらどうだ?魚中心じゃなくて肉を多めに摂るとかな」
得意料理は優奈が和食で理奈が洋食だが、それは個人の嗜好によるものだった。
優奈はヘルシーな和食を好む。
「やっぱりあたしの体力不足って相当足引っ張ってる?」
気落ちした声で優奈が聞いてきた。
こんな声を出されると、強い言葉は出せない。
「影響がないとは言わない。けど今の優奈に体力が備わればドライビングの幅が出るんだ。それは結果的に理奈ちゃんの負担軽減になるからな」
「えっ、お姉ちゃんの負担?」
「今一番辛いのは理奈ちゃんだぞ。ずっと造ってきた車の方向性がダメなんだ。このままじゃ戦えない。だから最初から車造りを見直す必用がある。優奈は知らないかもしれんが、MRWのチューナーって大変なんだぞ」
ふたりをよく見ると、理奈の顔色が明らかによくない。
毎晩遅くまで車造りで悩んでいるのが容易に想像出来る。
「理奈ちゃん、俺はチューニングのことはよく分からない。けど悩んでいるなら話してよ。ひょっとしたらなにかアドバイスが出来るかもしれないからさ」
「うん。佐伯くんはレブリミット落としたいって言ってくれたけど、それはピークパワー落ちても問題ないってことでいいのかな?」
「ああ。現状でもパワーは充分だよ。それにダウンフォース強いからコーナー速い。最高速は低めだけど許容範囲内だし、中間加速が速いからそこで逃げられる。それにダウンフォースが強いってことは、安定してるからブレーキング頑張れるんだ。鈴鹿なら1コーナーと130Rの突っ込みで負けることもないと思う」
「でもそこからパワー落としたら肝心の中間加速が悪くなるよ?」
「その分ダウンフォース削ればいいんじゃないかな?もっとサスを動かしてメカニカルグリップ稼ぐ方向でさ?」
「ダウンフォース削って得られるのは高速域の伸びなの。そんなの鈴鹿じゃほとんどメリットがないよ。あと458はアンダーフロアでダウンフォース稼いでいるから、サス動かすとエアロが乱れて操縦し辛くなる。だからサスセットのバランスはあまり変えたくないの」
「そっか。ならパワー落ちた分は俺たちドライバーがコーナー頑張るしかないんだな」
「そう言ってくれるのは心強いけど、でも限界がある。それに単独走行は問題なくても、前に遅い車が居るだけで状況は変わる。パワー落としたら抜けないよ?」
「大丈夫、抜けるよ」
「どうやって?」
「今のコーナースピードなら、スプーンとシケインの立ち上がりでテールを捉えられる。あとはスリップ使ってストレート付いて行けばいい。それで1コーナーと130Rで勝負出来る」
「スリップストリームってそんなに効果あるの?」
「鈴鹿なら2本のストレートで上手く使えば15~20キロは上乗せ出来る。だから現状7速255キロくらいがトップスピードだけど、ギヤレシオだけは275~280キロ前後まで伸びるようにして欲しい」
「レブリミット落として、ギヤレシオは上げるのかあ。それだとエンジンの美味しいところが使えなくなるから、単独じゃ250キロ出るかどうかくらいまで遅くなるよ?」
「その分コーナー速いんだから充分だよ。今でも速さは問題ないんだ。俺でも余裕でポールポジション獲れるレベルだからね。車は間違いなくウチの911より速いよ」
「確かに佐伯くんのラップタイムは速くて安定してるもんね。でも問題は優奈よ。明らかに遅いから」
「そこまで理奈ちゃんが責任感じて車の性能向上を目指す必要はないよ。理奈ちゃんの車に足らないのは耐久性と安定性だ。パワーは落としてもいい。欲を言えば、その分実用域のトルク増やして欲しいけど、それは余裕があればの話だ。鈴鹿のレースディスタンス52周を確実に安定して走れる車が欲しいんだ。速さは多少削っても問題ない。大丈夫、理奈ちゃんなら出来るよ」
「うん、ありがとう。頑張るよ」
普段の作り笑いではなく、自然な笑顔に見えた。
それが和貴の鼓動を少しだけ早くした。
そして、その微妙な変化を見逃さないのが居た。
「ちょっと和貴、なにお姉ちゃん落とそうとしてるのよ?」
「お前なに言ってんだ?ただチューニングの方向性で話し合っていただけだ!」
「お姉ちゃんがそんな顔見せるなんて滅多にないんだからね!お姉ちゃんもドサクサ紛れで和貴誘惑しないでよ!」
「ちょ、ちょっと優奈、なに言い出すの?あたしはそんなつもりは・・・」
珍しく理奈がうろたえている。
初めて見たかもしれない。
「これも全て和貴が悪い!」
「なんでだ?いくらなんでも理不尽過ぎるぞ!」
「心が弱ってる女の子に優しい言葉かければ、コロッと傾くに決まってるでしょ!」
「そんなつもりで言ったんじゃない!」
「じゃあ無自覚?だったら天然女たらしね」
「理奈ちゃん励ましただけでなぜにそこまで罵声浴びなきゃならんのだ?納得出来る説明を求む!」
「嫌よ」
「説明する自信がないのか?」
「説明したくないし、そんなの無意味だし、関係悪くなるだけだし」
優奈はあからさまに嫌悪感をあらわにする。
「はあ、もういい。好きなだけ怒ってろ」
優奈とまともに付き合うのは浪費にしかならないことを思い出し、理不尽な言いがかりも飲み込むことにした。
それからレース本番まではあっという間だった。
理奈はメゲることなく車の造り直しに着手し、それを和貴が連日テスト走行する日々が続いた。
なんとか方向性は見出せて、速さを犠牲にすることなく耐久性は確保出来た。
ただ不安材料はある。
優奈と組んでレースディスタンスのシミュレーションが出来ていなかった。
レース前日に最終調整した仕様は、和貴にはとても扱いやすく、タイムも速かった。
ただ、この仕様で優奈が扱えるのかが不安だった。
理奈の、
「問題ないよ」
という言葉を信じるしかなかった。
そしてレース当日がやってきた。
土曜日午前にフリー走行、午後に予選。
日曜午前に最終フリー走行、午後から決勝というスケジュール。
参加台数は173台も集まった。
だが、車種は意外と限られる。
一番人気は圧倒的にアストンマーチンバンテージ。
全体の半数以上がこの車である。
FRで癖がなく扱いやすい上に、エンジンパワーがあるのでストレートが速い。
さらに推奨セットの相性が良く、有名チューナーに頼らなくても充分な戦闘力がある。
デメリットがあるとすれば、燃費が悪く給油時間が長いことくらいである。
次に人気なのがポルシェ911.。
この車は癖が強いが、それさえクリアすれば安定して速いラップを刻められる。
ストレートが速いことも人気のひとつである。
逆にコーナーが速くて人気なのがBMWM3。
優れた前後バランスを活かし、リズミカルにコーナーを駆け抜ける。
同じようにフェラーリ458もコーナーが速い。
だがイタリア車ゆえにトラブルの率がやや高めで、リアミッドシップレイアウトも限界域でややナーバスな挙動を見せるので、玄人好みの車である。
この4車種で全体の95%を占めている。
「あたしアストン嫌いなんだよね」
優奈はそう漏らしていた。
「なんでだ?」
「誰でも速く走れるイメージがあるから楽しくないんだよね。でも敵になるとストレートでスリップに入っても引き離されるから余計に嫌い」
「まあ、フェラーリとの相性は悪いよな」
多くのアストンマーチンが敵になるのは厳しい戦いになる
参加173台の中で、ここから決勝に進めるのは上位40台。
狭き門だが、和貴は楽観視していた。
テストを繰り返して詰めたこの車なら、予選は間違いなく通ると確信していた。
課題はミスやクラッシュを起こさないことと、基準タイムをクリアすることである。
最悪なのはクラッシュしてコース上で止まってしまうこと。
こうなるとピットまで帰って来れないのでその時点でセッションが終わりになる。
まずは午前10時から、2時間のフリー走行が始まった。
レースの場合、ゼッケンナンバーと車名が決められる。
ゼッケンは常連チームは固定だが、初参加の和貴たちはランダムで決められる。
このレースの場合、ゼッケンは131になった。
車名はブランズハッチナカネ458。
場所は中根宅に集まった。
オンラインレースなのでそれぞれの自宅で参戦も可能だが、初レースなのでメンバー全員が同じ場所に居たほうが都合がいいのでそうなった。
そうなるとドライバー交代が課題になる。
オンラインではスイッチひとつで交代だが、実際に乗り降りする必要が出てくる。
さらに優奈と和貴では体格がかなり異なる。
これは和貴にポジションを合わせ、優奈はシートに専用の餡子を挟んで乗ることにした。
和貴に不満はなかったが、優奈はステアリングが近過ぎて操縦しづらいと嘆いていた。
その優奈からコースインした。
「いいか、今は無理するな。コースコンディションのチェックだけでいいからな」
実際に173台が鈴鹿に集まってセッションをこなすのは不可能である。
でもそこはオンラインのレースゲーム。
約20台がひとつのグループにランダムで分けられ、それぞれ別の層を走るシステムになっている。
今回の場合、鈴鹿サーキットを9層に分け、それぞれの層を走る。
だからコース上で一緒に走るのは20台になる。
これなら混雑で満足に走れないこともない。
ただ路面状況はどのグループも共通になる。
セッションが進むとコースにタイヤのラバーが乗り、グリップが上がってタイムも詰まる。
今回のレースの場合は173台分のラバーが乗ることになる。
だから実際のレースではあり得ないようなタイムが出るのがMRWのレースである。
「佐伯くん、ターゲットタイムはどれくらいになりそう?」
「このフリー走行だと、上位は1分58秒台くらいだろう。予選は56秒切るレベルになる」
「上位で通過しておきたいよね?」
今のセッションはランダムでグループ分けされているが、これ以降のセッションはタイム順になる。
上位進出を狙うなら、フリー走行で速いタイムを出し、速いグループで走ったほうがリスクも少なく、タイムアタックしやすい。
「まあ最終的なタイム狙うのは残り10分からだ。とりあえず基準タイムだけはクリアしないとな」
セミ耐久の場合、ふたりのドライバーのタイム差が大きいと、例えいいタイムを出しても認められない。
ふたりのドライバーのタイム差が105%以内という条件がある。
つまり和貴が1分59秒というタイムを出したら、奈緒は2分5秒というタイムを記録しておく必要がある。
今は優奈がその基準タイムをクリアするため、ソフトタイヤでコースに出ている。
まだ路面状況が悪いのでタイムアタックには適していないが、セッション序盤は台数が少なく走りやすい。
「レース出るの初めてだけど、序盤はこんなにグリップ低いの?」
「いつものフリー走行よりグリップ低いぞ。けどここからどんどん上がるからな」
とりあえず5周目にベストタイムを記録した。
「優奈、基準タイムはクリアしてるからピット入って。余計なリスクは避けたいから」
理奈の指示が飛ぶ。
奈緒はソフトタイヤで2分2秒851というタイムを記録していた。
105%は確実にクリアしている。
ピットに入り、シートから降りた。
だがその表情は、明らかに不満顔だった。
「どうした、セッティングに不満か?」
「そうじゃない。いつものあたしならミディアムハードで2分フラットが出るのよ。ソフトタイヤでこのタイムはなんか実力を出し切った気がしないのよ」
「コンディション悪いからこんなもんだろ。それに今の順位は悪くないはずだ」
と言って、理奈に視線を送る。
「現在21位だよ。悪くないよ」
理奈も励ます。
それでも優奈は納得していないようだった。
「じゃあ今度は俺が出るか。理奈ちゃん、タイヤと燃料どうする?」
「タイヤはハード。燃料は満タンで。これで連続10周お願い」
「了解」
和貴はシートに座り、ベルトを締めてピットから出た。
コース上はさほど混んではいなかった。
路面はまだグリップが低く、タイヤが冷えている状態では慎重な走りが求められる。
しかもハードタイヤなので温まりが悪い。
完全に温まるまで2周かかった。
そこから連続周回に入る。
「佐伯くん、決勝のつもりで走って。タイヤの磨耗状況と燃費の確認したいから」
「了解。マップは2でいいよね?」
「決勝は2しか使わないつもり。3は予選専用だから」
エンジンの制御プログラムをマップと呼び、レギュレーションで3種類のマップがレース中に使用出来る。
ナガタレーシングでは状況に応じて3種類を使い分けていたが、理奈は極端なマップ設定をしたので、レース中に使えるのはマップ2の1種類になっている。
この設定ならエンジンの負担が少なく、レースディスタンスを確実に走り切れる。
最高速はホームストレートエンドで250キロを少し上回る程度。
遅い部類に入るが、その分コーナーが速い。
「路面はまだまだだけど、挙動は安定してるね」
「ハンドリングのバランスはどう?」
「限りなくニュートラルに近い。ほんの気持ちアンダーかな」
「それなら狙い通りだね」
連続10周走ってピットに入った。
路面もよくなり、ハードタイヤでも2分0秒558というタイムを記録した。
この時点で19位。
「バランス変化はどう?」
「まだまだ路面は上がるだろうから、下手に弄らないほうがいい」
「タイヤのデグラデーションによるタイムの落ち込みはほとんどない。走って燃料が軽くなる分だけラップタイムが上がってる感じだね」
ラップタイムをチェックしていた理奈がそう告げる。
「このレースだとフューエルエフェクトなんてほとんど気にしないけどな」
タイヤの磨耗をデグラデーションと呼び、これが進むとタイムが遅くなる。
周回を重ねるごとに搭載燃料が減って軽くなり、それが原因でタイムが速くなることをフューエルエフェクトと呼ぶ。
「燃費はどう?」
「まだペース遅いから正確な数値は出ないけど、今だと33周くらい」
「ちょっとギリギリだな」
ひとりのドライバーが走れるのは全周回の65%までと決められている。
レースは52周なので、ひとりで走れるのは33周までである。
優奈と和貴ではレースペースにかなりの開きがあるので、和貴が規定ギリギリの周回を担当する予定になっている。
その後、また優奈に交代。
新品のミディアムハードタイヤで連続15周走ってもらう。
「いろんなペースの車でコース混んでるから気をつけてね」
「レースでのバックマーカー処理の練習だ。このセッションでもブルーフラッグ出るから、普通に走れば問題ないはずだ」
周回遅れなどの遅い車をバックマーカーと呼ぶ。
バックマーカーには後ろから速い車が迫っているという合図のブルーフラッグが振られるので、普通に走ってればラインを譲ってもらえる。
だが周回遅れ同士がバトルしていると、簡単には譲ってもらえない。
周回遅れが集団になっているのをトラフィックと呼び、この処理がレースペースに大きな影響を及ぼす。
単独で走れば速くても、トラフィックの処理に手間取れば結果的に遅くなる。
ただ速いだけではレースには勝てない。
これが優奈の課題になる。
理奈と和貴から言葉を受けて、やや硬い面持ちでコースインした。
優奈で連続15周となると、レースディスタンスに近い。
それを想定したシミュレーションになる。
優奈は冷えたタイヤが苦手なので、走り出しはペースが遅く、挙動も不安定で危なっかしい。
「おいおい、そんなに車体振らなくていい。加減速をしっかりやればタイヤは温まる。コーナー頑張るな」
「優奈、落ち着いて。後ろから速い車来てるよ」
「わかってる!」
周囲をハラハラさせながら、徐々にペースを上げていく。
1周半ほどでタイヤは温まり、安定した走りになる。
単独走行なら問題なかった。
ただやはり、ペースの異なる車との交錯は慣れていない。
抜くのも譲るのも、ロスタイムが大きい。
「優奈、パッシング使え。こっちが抜きに行っても、相手が見えていないとリスクが高すぎる」
「パッシングってどのボタンだったっけ?」
かなりテンパっている。
「落ち着け、右の青いボタンだ。あと譲るのはストレートにしろ。この車はコーナー速いから、そこで譲るのはロスタイムが大きいからな」
和貴のアドバイスを受けながら、徐々に安定した走りになっていく。
それでもハンドルを切る姿は辛そうに見える。
「やっぱり重いか?」
ステアリングもブレーキも和貴には若干軽めだが扱いやすかった。
現在のアシスト値が優奈に合っているとは思えない。
「ちょっとね。一気に切り込むのは大丈夫だけど、そこからの微調整が辛いかな」
苦笑いを見せながら、淡々と周回を重ねていく。
そしてなんとか15周走り切った。
ピットインしてシートから降りた表情には疲れが見えていた。
「お疲れさん」
「あたしの走り、どうだった?」
「いろんな意味でドキドキした」
「タイヤ冷えてる時はホント辛いんだよね。思い通りに動かないから」
「路面上がって来てるからタイムは出てる。2分0秒314で現在47位。でもタイムのバラつきが大きい。後半はデグラデーションの影響でタイム落ちてる」
「タイヤ15周持たないのか・・・」
優奈は落ち込んでしまった。
「大丈夫、これから路面はどんどん上がる。そうなればタイヤの磨耗も少なくなるから」
とりあえず励ました。
車のセッティングに問題はなく、走り込む必要もないという理奈の判断を受けて、残り30分までは待機した。
時間になって和貴が最初に優奈が使った中古のソフトタイヤで軽くアタックし、1分59秒771というタイムを記録した。
この時点で17位。
そして残り10分、新品のソフトタイヤを履いてラストアタックに向かった。
「佐伯くん、このアタックは予選シミュレーションだから。マップ3でお願い」
「了解」
マップ3は予選専用で、エンジンを限界まで追い込んでいる。
マップ2ではレブリミット8800だが、それを9200まで上げている。
しっかりとパワーは出ており、最高速も10キロ弱速くなる。
新品タイヤと専用マップの恩恵で、1分57秒413というタイムを記録してフリー走行は終了した。
「総合6位だよ。凄いよ佐伯くん!」
予想外の好成績に喜ぶ理奈。
「この車で58秒なんて出るんだ」
優奈も驚いている。
逆に和貴は不安だった。
「まずいな」
「なにが?」
「タイムレベルが速すぎる。俺はトップが1分58秒フラットくらいだと読んでいた。でもトップは57秒2だ。明らかに速い」
「それで問題が起こるの?」
「速く走れるってことは、それだけ車の負担が増える。トラブルが起こるかもしれない」
「でも、ここまで来れたなら上を目指したい」
理奈が真剣な眼差しで訴えてきた。
「気持ちは分かるけど、でもエンジンの負担を考えないとダメだ。さっき初めて予選マップ使ったけど、あれはヤバい感じがする。これからは周回数を減らしてセーブすべきだ」
「佐伯くんの意見はもっともだよ。でもこんなチャンス逃がしたくない。あたしは攻めたい!」
理奈の視線から抗えない力強さを感じた。
説得は無理だろうと思った。
優奈に目を向けると、諦めたような顔で首を横に振った。
理奈がこうなったら、なにを言ってもダメだと言われたようだった。
「わかった。監督は理奈ちゃんだ。指示に従うよ」
和貴も諦めた。