レースに向け始動
そしてその週の休日。
和貴の地元である中牧の駅改札で待ち合わせた。
6月間近でで初夏の日差しが照りつけ、少し暑い。
和貴は某F1チームのポロシャツにジーンズという姿で待っていた。
約束の時間とほぼ同じ頃に、優奈が改札を通ってやってきた。
淡い黄色のTシャツにデニムのミニスカート、赤のややヒールが高いサンダルを履いていた。
「和貴、お待たせ」
「お前、マジでデート気分じゃないだろうな?」
サンダル姿に呆れる。
「そりゃ女の子だからおしゃれしたいもん。でも目的は分かってるからちゃんとここにスニーカー入ってるよ」
と、肩から掛けたトートバッグを押さえる。
今日はMRWのコントローラー購入が名目である。
当然サンダルでは正確なペダルワークは出来ないので、普通の靴が必要になる。
「まあ、実際はサンダルでも問題なかったけどな。今から行くショップはレーシングシューズの貸し出しもやってるから」
「あ、それ面白そう。本格的なレーシングシューズ履いたことないんだよね」
「普通のスニーカーより靴底が薄いから微妙なコントロールがしやすい。慣れるまではちょっと足の裏が痛むけどな」
「じゃ、早速連れてって」
優奈は大胆にも和貴の腕を取り、小柄な身体を密着させてきた。
「お、お前、なにしてくれるの?」
慌てる和貴。
取られた左腕に、優奈の柔らかい胸の感触が伝わる。
「和貴はどうもあたしを女扱いしてないからね。これでわかった?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「わ、わかったから離れろ。マジで照れ臭いから」
優奈は背こそ低いが、身体のラインは年相応に育っている。
普段はかなり着痩せしている。
それを理解すると、妙に体温が上がった気がする。
優奈は和貴の反応に満足して、腕を放した。
「お前なあ、男相手に大胆過ぎるぞ。そんな調子だといつか襲われるぞ」
「ご心配なく。相手は選んでやってるから」
「つまり俺は絶対に襲わないってか。見くびられたものだな」
「和貴は真面目だからね。親密じゃない相手に手は出さないでしょ。衝動も理性で抑えると思ってるから」
「その理性が崩壊したらどうするつもりだ?」
「そりゃ責任取ってもらうよ。希の手弁当なんて許さないからね」
優奈の表情は笑顔だが、言葉は本気だと伝わってきた。
そんな空気が少し痛い。
「と、とにかく行こう。ここから歩いて5分くらいだ」
それを少しでも誤魔化すために、ここから離れようと歩みを進めた。
着いた先はモータースポーツグッズ専門店だった。
ウッドブラウンの扉を開ける。
「こんにちはー」
「お、佐伯くんいらっしゃい」
店長は40台前後の男性で、入り口のレジに陣取っていた。
「約束通り連れてきました」
と言って優奈の背中を押す。
「へえ、ホントに小柄でかわいい子だね。同級生には見えないよ」
店長は笑顔で優奈の第一印象を語る。
「で、準備出来てます?」
「いつでもOKだよ」
店長はレジを店員に任せ、店の奥へ進む。
和貴と優奈もそれに続いた。
「ねえ、なにがあるの?」
「たぶん驚くぞ」
奥の扉を開け、その先の部屋に足を踏み入れる。
「うわあ、凄い」
目を輝かせて驚く優奈。
そこには10台以上のMRWが稼動しており、それぞれ異なるコントローラーが繋がれていた。
「これ、テストプレイして好みのものが選べるんだね?」
「それもあるが、今日の目玉はこいつだ」
と、部屋の中央に鎮座する一際存在感の高い物体を指差した。
「えっ、これって・・・」
「優奈はF3って知ってるか?」
「うん。フォーミュラの入門カテゴリーだよね」
「それの中古モノコックにMRWで最高峰のコントローラーが組み込んである。サスペンションユニットまで付いてるぞ」
まんまF3のモノコックが広い部屋の中央に鎮座しており、その前には3面の大型ディスプレイ。
その基部には振動を伝えるサスペンションユニットが繋がれており、ドライバーにリアルな振動を伝える。
モノコックにステアリングユニットとペダルユニットに加えてシフトレバーまで組み込まれており、最高級ステアリングには実車F1のような無数のボタンとダイヤルが付いている。
モノコック抜きでも数十万円はする代物である。
「噂には聞いてたけど、これは凄いね。でもこれは1プレイ有料でしょ?」
「1プレイ3000円だ。で、ここで条件だ」
「条件?」
「今からF1で鈴鹿を5周、アシストライン有りで走ってもらう。俺が定めた基準タイムをクリア出来たらプレイ代は俺が払う。出来なかったら自腹だ」
MRWの人気のひとつに、多種多彩なフォーミュラカーまでドライブ出来る点が挙げられる。
特にF1はライセンスの関係で収録が厳しいが、それまでクリアしている。
従来のレースゲームの場合は市販車を中心に、耐久レース用のGTカーやプロトタイプが中心だったが、MRWはF1、GP2、フォーミュラールノー3.5、アメリカのインディカー、日本のスーパーフォーミュラ等々、新旧問わず多彩なフォーミュラカーがドライブ出来る。
「いいよ。ちなみに基準タイムはいくつ?」
「1分42秒だ」
「ねえ、バカにしてない?」
膨れる優奈。
「なんでだ?」
「あたしも鈴鹿でF1は走ったよ。今使ってるショボいコントローラーでもアシストライン無しで31秒出せるんだけど」
「それは最近のF1マシンだろ。今から使うのは旧いF1だ」
そんな話をしている間に乗り込む準備が整った。
優奈は店が用意したレーシングシューズに履き替え、一旦ステアリングを外し、コックピットに収まった。
店長がステアリングを再び装着する。
フォーミュラカーのステアリングは取り外し式になっており、外さないと乗り降りが出来ない。
「あの、狭すぎてベルトが・・・」
「フォーミュラのシートベルトは自分で締めることが出来ない。外すのは簡単だけどな」
店長にベルトを締めてもらい、ポジションの確認をする。
その際に優奈のドライビングに適したアシスト値を聞き、設定する。
「フォーミュラのシートに座るのは初めてだろ。感想は?」
和貴が尋ねると、
「座ると言うより、寝てる感覚に近い。あとお尻より足が高いのが凄く違和感ある。理想的なポジションとは程遠いね」
「速さを優先し、空力を追い求めた結果がこれだ」
「本職のレーサーはこんな窮屈な姿勢でレースしてるんだね」
優奈は戸惑いと驚きを隠さなかった。
ここで店長が、
「さて、コースは鈴鹿で、マシンはどうする?」
と尋ねてきた。
それには和貴が、
「92年のウィリアムズFW14Bで」
と答えた。
「92年?あたしが生まれる前の車じゃない。なんで?」
困惑の優奈が尋ねる。
「お前、アクティブサスって聞いたことある?」
「うん。コンピューター制御の究極のサスペンションでしょ。でもコストが掛かり過ぎた上に速くなり過ぎたから今は禁止だって聞いてる」
「この車はアクティブサスの性能を活かして92年のシーズンを圧倒的な速さでチャンピオンを獲ったんだ。だからアクティブサスを体感するにはうってつけなんだよ」
「なるほど、そういうわけね」
ようやく優奈が納得顔を見せた。
店長が優奈に各種ボタンとダイヤルの説明をした。
当時のF1は現在ほどコンピューター制御が進んでいないので使用数は限られるが、それでも多岐に渡る。
「クラッチはどうする?この車は3ペダルだったから足で操作だけど、手で操作にも出来るからね」
「手でお願いします。足のクラッチ操作はやったことがないんで」
とりあえず理解したようで、これで準備完了。
「当時の予選は雨だったから正確な記録はないけど、ドライだったら34秒台くらいだろうって言われてる。この店のレコードは32秒台。俺が36秒台だ」
「で、あたしは42秒を切ればいいんだよね。楽勝よ」
優奈は余裕の笑みを見せる。
「とりあえず走ってから感想を聞こうか」
余裕であしらう和貴。
ピットから出て、コースインした。
その途端、優奈の笑みが消えた。
「ちょっと、なにこの激しい振動?」
モノコックが常に揺れ動いている。
「これがアクティブサスだ。路面の細かなギャップを全て拾うから乗り心地は最悪なんだ。激しい振動がドライバーの体力を奪う」
アシストライン有りなので、コース上にはレコードラインが表示され、アクセルとブレーキのタイミングも色分けされている。
だが優奈はそのラインに乗せられていない。
「し、振動が凄すぎてまともに走れない。ステアリングも凄く重い」
「これが昔のF1だ。まだセミオートマの実質2ペダルだからラクなほうだぞ。当時はマニュアル3ペダルが主流だったからな」
それでもステアリングは重く、キックバックも大きいので、ストレートでも真っ直ぐ走れていない。
そんな状況なのでアクセルもロクに踏めない。
「ホントなにこれ、ステアリングもブレーキも重過ぎ。全然切れないし、全然効かない」
ダイヤルでサスペンションやブレーキバランスの調整をやっているが、ほとんど効果がない。
最初のアタックラップは1分49秒台だった。
2周目は多少マシになったが、アクセルは全然踏めておらず、やはり真っ直ぐ走れていない。タイムは1分45秒台。
そして、そこからスローダウンした。
「どうした、まだラップ残ってるぞ?」
「もうダメ。腕がパンパンで力入らない。ステアリング切れないならタイムなんて出ないよ」
声に優奈らしい元気がなく、疲れが見えていた。
ゆっくり走ってピットインした。
「どうだ、昔のF1の感想は?」
「強烈過ぎるよ。ここまで酷い環境だとは思わなかった」
シートベルトとステアリングを外し、コックピットから出ようとしているが、なかなか出られない。
「どうした?」
「いろいろ強烈で体力ガス欠。足に力が入らないよ」
「ったく、しゃあねえな」
和貴は腕を伸ばし、優奈の小柄な身体を抱きかかえてコックピットから引き出した。
「ちょ、お前マジで軽いな」
あまりの軽さに驚く和貴。
「小さいんだから仕方ないでしょ」
拗ねる優奈。
「それでも軽過ぎだろ。ちゃんと飯食えよ」
優奈を近くの椅子に座らせた。
そこに店長がふたり分のコーヒーを持ってきた。
「これだけ華奢な女の子じゃ、あのマシンは辛いだろうね。当時はパワステなかったし、ドライビングポジション的にも腕に力が入らないからね」
店長が優奈にフォローを入れる。
「和貴って凄いんだね。あんな酷い環境で36秒台なんてさ」
「男と女の違いも大きいと思うぞ。片山が42秒台だったからな」
「だからそのタイムに設定したのね。あたしはあいつにも負けたのか」
疲れもあるせいか、声がか弱い。
大人しくコーヒーに手を付ける姿は、普段より小さく見える。
「MRWはかなりリアルなゲームだから、結局のところ体力勝負になる場合も多い。あと集中力だな。これが続かないとセミ耐久は辛いぞ」
「体力ないからってアシスト強くすると、それで微妙なインフォメーションが伝わらなくなっちゃうから余計に走り辛くなるんだよね。バランス難しいなあ」
「速く走るにはアシストを弱くしたほうがいい。でも優奈の場合は力不足だからアシストに頼らざるを得ない。だから無駄な力を使わないためにも、コントローラーはガッチリして力が逃げないものがいいだろうな」
ここで優奈が、
「あの、あたしにオススメのコントローラーってあります?」
店長に予算を伝え、返事を待つ。
「うーん、その予算だとちょっと厳しいけど、これなんかいいだろうね」
店長はふたりをひとつのコントローラーの前に案内した。
和貴が使っているコントローラーもゴツい金属製のフレームだったが、それに輪をかけている。
実車レーシングカーのロールケージのようなサイドバーが十字に入っていて、いかにも剛性が高そうに見える。
「これは俺も勧められたけど、サイドバーが邪魔で乗り降りしにくいんだよな」
「でも雰囲気は抜群だよね」
優奈は気に入った様子。
店長が優奈の体格に合わせてポジション調整すると、早速乗り込んだ。
「これ、普通のMRWコントローラーと比べてステアリング大きくないですか?」
「MRW用も含めて、レースゲーム用のステアリングは実車よりかなり小さいけど、このステアリングはまんま実車レーシングカー用がベースになってるんだ。だからちょっとボタン系の配置が独特で慣れが必要だけど、剛性は充分だよ」
と店長が説明した。
ここで和貴が、
「でもこれだけステアリング大きいと乗り降りが面倒ですよね?」
と指摘すると、
「ステアリングユニットがベースフレームごと跳ね上げ式になってるから、大丈夫だよ」
と説明し、実際に跳ね上げた。
「へえ、ホントにまんま実車のGTカーみたいですね」
「あたし、これいいかも」
優奈はますます気に入った様子。
早速テスト走行を開始した。
優奈のIDでログインし、ルマン24時間レース仕様のフェラーリ458GTEを走らせる。
「これ、和貴のコントローラーよりいいかも。ステアリング軽いし、カーボンブレーキのコントロールもしやすい」
「へえ、なかなか速いんじゃないか?」
店長は優奈の走りに感心している。
優奈の心はこのコントローラーで決まっていたが、問題もある。
予算オーバー。
優奈の予算と2万円の開きがあった。
だがそれは、
「いいよ、条件付でサービスしてあげるよ」
という店長の一言で解決した。
ありがたい申し出だったが、和貴から文句が出た。
「ちょっと店長、こいつに甘過ぎですよ。そんな常識外れの値引き聞いたことないですよ?」
「だから条件付きだよ」
「条件ってなんですか?あたしに出来ることならなんでもします!」
優奈の目は爛々と輝いている。
「優奈ちゃんはセミ耐久に出るんだよね?」
「はい!お姉ちゃんが車造ってます!」
「じゃあ2週間後の鈴鹿300キロに出て。で、マシンにウチの店のロゴを貼ってくれればいいよ」
「それでいいんですか?やります!」
即答する優奈。
「ちょっと待て、2週間後だぞ。時間ないぞ。もうひとりのドライバーはどうするんだ?」
その和貴の突っ込みには、
「監督の長田くんには僕からも話しておくよ」
という店長からの想定外の返しが入った。
「それってつまり、俺が優奈と組めってことですか?」
驚愕する和貴。
「同じ学校に出来た女の子の仲間じゃないか。男ならそれくらいしてあげなよ」
「でもそれだとチームよりこいつを優先したチャラい男みたいに思われそうですげえ嫌なんですけど!」
「佐伯くんは真面目というか、堅いねえ。大丈夫だって、それくらい普通だから。青春を謳歌するのが健全な男子高校生の姿だよ」
「だからこいつとはそんなんじゃないですから!」
という必死の弁明も無駄になった。
その間に優奈は早速姉に連絡し、理奈もその気になってしまった。
結局、和貴の意向は一切汲み入れられず、急造の新チームからの参戦が決まってしまった。
店を出る頃、優奈はとても上機嫌だったが、和貴は暗澹たる思いだった。
その後、優奈の奢りでファミレスに昼食で入ったが、気持ちは晴れなかった。
「ねえ、そんなにあたしと組むのが嫌なの?」
「そうじゃない。今のチームに入って、上位入賞が出来るようになって来ていて、次こそは優勝狙おうとチーム一丸になってたんだよ。今まで一緒に頑張ってきた仲間を裏切るような後ろめたさがあるんだよ」
「じゃああたしと組んでレースに出るのはOKなんだね?」
「俺から見て、お前は速い部類に入ると思う。セミ耐久初参加でも速さは通用するだろ。理奈ちゃんの車もあるからな」
「じゃあ初参加で優勝とか出来るかも?」
「バカ言うな。いきなり勝てるほどMRWのセミ耐久は甘くないぞ」
「ぶっちゃけ、今のあたし達だとどのくらいまで行けそうなの?」
「今度の鈴鹿300キロだと、参加台数は150から200くらい。で、決勝進出は上位40台。この前理奈ちゃんの458で俺が出したタイムを参考にするなら、予選用のソフトタイヤ履けば予選は間違いなく通る。10位前後は狙えるだろう」
「お姉ちゃん、あれから開発続けてるよ。だからもっと速くなるよ」
「速さは問題ない。問題なのは耐久性とレースペースだ。正直この前の仕様では絶対に300キロは持たない。予選から決勝にかけて大幅なセッティング変更も出来ないから、速さを削って耐久性を確保する必要があるぞ」
「そっかあ。お姉ちゃんその辺りも分かってるかな?昔から速さを追求する傾向にあるからなあ」
優奈は不安顔を見せる。
「そういや前から聞こうと思ってたんだが、なんでここまでMRWにハマったんだ?女の子がガチでのめり込むゲームじゃないぞ?」
「これはね、お姉ちゃんの影響だよ」
「理奈ちゃんが?」
意外な回答が返ってきた。
「あたしたちは双子だけど、見た目以外は結構違うんだよね。特に学校の成績。お姉ちゃんはずっと優等生。逆にあたしは全然ダメ。だからあたしはお姉ちゃんに対して劣等感を抱いてたんだけど、レースゲームだけはあたしが速かったの」
「ゲームは結構やるのか?」
「お姉ちゃんは本当に車が好きなの。将来は自動車関係のエンジニアを目指してる。だから車のレースゲームは一通りやってるよ。お姉ちゃんが学年トップ獲る度にお祝いでゲーム買って貰ってたから」
「理奈ちゃんはそこまで車が好きなのか」
「でもゲームでの速さはあたしが上なの。あたしにとって数少ないお姉ちゃんに優っている点なの。で、お姉ちゃんはそれが面白くないから、車のチューニングやセッティングに力を入れるようになった」
「たとえ腕が悪くても、速い車が手に入れば勝てるからな」
「そんなことを繰り返してたら、お姉ちゃんは車造りを重視するようになった。ちょうどオンラインのレースゲームが出始めた頃で、お姉ちゃんが造った車をあたしが走らせるようになった。そしたらMRWが出たのよ」
「そっか。それで真緒ちゃんはチューナーになったのか。確かに適任だな」
「あたしにとっても変わった。それまでレースゲームはあたしがお姉ちゃんに対して優越感に浸れるものだったけど、それがお姉ちゃんと共同作業で楽しむものになった。あの優秀なお姉ちゃんがあたしを頼りにしてくれてる。それがとても嬉しいんだよ」
優奈は屈託のない笑みを見せる。
「そっか。そういうことなら、俺も協力したくなるな」
ひとつのゲームが姉妹の絆を深めている。
それは和貴にとっても心地よいものだった。
その日の夜、ナガタレーシングのメンバーがSNSで集まり、次のレースでは和貴が別のチームから急遽参戦することが監督から発表された。
代わりに普段はレースエンジニアを務めているメンバーがドライバーになることも決まった。
和貴は恐縮しまくりだったが、監督が急遽参戦の経緯を説明すると、全メンバーからの冷やかしを浴びた。
そんな関係じゃないと否定しても、
「若いんだからレースそっちのけで頑張れ!」
とか、
「出逢いのある現役高校生が羨ましい」
とか、
「どうせなら姉妹まとめてゲットしろ!」
という温かい励ましの言葉をたくさん貰った。
週が明け、学校が始まると、昼休みに優奈が頻繁にやってくるようになった。
購入したコントローラーが早速届き、それで一気にタイムが詰まったとはしゃいでいた。
だが耐久レースの場合はそんなに単純ではない。
1台の車をふたりのドライバーでシェアする。
ドライビングスタイルや好みのセッティングが異なれば、妥協点を決める必要がある。
さらに和貴と優奈の場合は、適正アシスト値がかなり異なる。
これも妥協点を決めなければならないが、ある程度は和貴が我慢するしかないと思っていた。
そして週の半ばに、理奈がレース用のマシンを仕上げたと連絡が入り、放課後に中根宅でテスト走行することになった。
家は学校から徒歩15分ほどの住宅街にあり、同学年の女子の家に上がるのは初めてだったので妙に緊張した。
そしてこの家では、2階の空き部屋にMRW専用ルームを構えていた。
部屋の中央には先日購入したコントローラーが鎮座し、その正面には大型ディスプレイ。
そして部屋の脇には理奈専用のセッティング用PCが備わっている。
本気度は和貴の部屋を凌駕していた。
「じゃあ佐伯くん、早速試してみて」
PCの前に陣取った理奈が促す。
家から持参したMRW用シューズに履き替え、コントローラーのポジションを変更して乗り込む。
早速鈴鹿を走り始めた。
以前は違和感を感じたギヤレシオも普通になっている。
ストレートでリミッターに当たることもない。
ただ、それでも最高速、中間加速は変わっていない。
コーナーリングスピードは速く、扱いやすい。
ラップタイムも格段に速くなっている。
「これ、以前より相当パワー上げてるよね。あとダウンフォースも増えてる」
「うん。ダウンフォースはかなり増やした。エンジンはピークパワーより中間トルクを増やす方向にしてる」
「コーナーでの速さは抜群だな。でもこれじゃ・・・」
ピットに入った。
「何か不満な点がある?」
「ちょっと気になることがあるから確かめたい。ガソリン減らして。8周分くらいでいい」
搭載ガソリンを減らした。
「あとピットストップがオートになってるからマニュアルに変更も頼む」
この言葉に優奈が反応した。
「えっ、ピットストップって自動じゃないの?」
完全に驚いている。
「お前、ひょっとしてピットストップやったことないの?」
頷く優奈。
和貴の顔が引きつる。
それに優奈も釣られる。
「ピットストップって、意外と難しいよね?」
短時間でロスなく所定の位置にピッタリと停める。
レースゲーム経験者なら、その難しさがよく分かる。
「とりあえず俺が手本見せるから、よく見ておけよ」
また難題が増えて頭が痛くなりそうだが、気になる問題点をひとつずつ潰して行くしかない。
ピットアウトして、5周ほど全開走行してから再びピットに入る。
「いいか、よく見ておけ。ピットレーンにラインが引いてあるから、その手前で充分に減速して制限速度の60キロ以下まで落とす。ギヤは2速でいい。で、落としたらスピードリミットボタンを押す」
「む、難しそうだね」
「ホントに難しいのはここからだ。停車位置が表示されているだろ、そこに目印のプレートが立っている。それに当てる感じでピッタリ停める」
「あたし、頭痛くなってきた」
所定の停車位置で停まった。
「で、エンジン停止だ。理奈ちゃん、25周分の燃料入れて。あと各温度のモニタリング」
給油中は黙って待つ。
「えっ、そんな、これじゃ・・・」
なぜか理奈の表情も強張っていく。
25秒ほどで給油は完了し、理奈が告げる。
「で、エンジン始動でスターターボタンを押すんだけど・・・」
和貴はボタンを押し、セルモーターが回る。
だがエンジンは始動しない。
「えっ、なんで?」
疑問が優奈の口から出る。
2度、3度とスターターボタンを押すが、エンジンは目覚めない。
「やっぱりな」
和貴はこうなることを予測していた。
「どういうこと?」
優奈は状況を理解出来ていない。
「どうしよう・・・」
理奈も困惑顔。
「理奈ちゃん、エンジンルーム強制冷却って項目あるから、それやって」
「強制冷却・・・あ、これね」
プシューという音と共に白い粉が舞う。
「なにが起こってるの?」
「エンジンルーム開けて消火器で冷やしてる」
優奈の疑問に和貴が答えた。
「あ、温度下がったよ。これなら大丈夫」
理奈がそう告げたのでスターターボタンを押すと、エンジンが掛かった。
「一体どうなってるの?」
優奈は全く理解出来ていない。
「パーコレーションって現象で、エンジンルームの温度が上がり過ぎてガソリンがパイプ内で気化してエンジンが掛からなくなるトラブル。消火器なんかでパイプを冷やせば解決する。実際のレースでもたまに起こる」
「じゃあたまたま起きたの?」
「いや、起こるべくして起こった」
と言って、理奈に視線を送る。
「あたし、ピットストップの影響まで考えてなかった」
「レーシングカーはレギュレーションで冷却ファンの類は一切禁止されている。高速走行からいきなり冷却風ゼロでエンジン止めるピットストップ中は温度がぐんぐん上がるんだ。それを計算に入れたマシン造りをしないとダメだ」
「佐伯くんはなんでダメだと分かったの?」
「ウチのチームだけじゃなく、どのチームでもそうだと思うけど、レースで勝つためには車を限界ギリギリまで追い込む必用があるんだ。だから最終的には似たような速さになる。けど理奈ちゃんの車は速過ぎる。もっと具体的に言うならパワーがあり過ぎる。安全マージンが明らかに足らない」
「さすが有力チームのドライバーだね。こんなあっけなくダメ出しされるとは思わなかった。自信あったんだけどなあ」
理奈の声は明らかに気落ちしている。
「何事も経験だよ。今は失敗を繰り返せばいい。成功より失敗からのほうが学べることは多いからさ」
「ありがとう、もう一度見直してみるよ」
理奈は落胆しつつも笑顔を見せた。
「よし、んじゃ特訓だな」
と言ってシートを降りた。
優奈を目で促す。
「ピットストップの練習だよね?」
早くも顔が引きつっている。
「とにかくお前は練習あるのみだ」
優奈にドライバーチェンジして、ピットストップの練習を始める。
でもいきなり成功出来るような難易度ではない。
「おいブレーキ!」
「えっ?」
ブレーキングポイントが分からず、制限開始ラインをオーバースピードで突っ込んでしまった。
制限速度オーバーの表示が出る。
「これレース本番でやったらペナルティだからな」
「フリー走行や予選でもダメ?」
「もちろん。やり過ぎると出場停止喰らうぞ」
優奈の引きつり度合いがさらに増す。
そしてピットレーンでの停車。
かなりおっかなびっくり入ったので、ロスタイムが大きい。
しかも、所定位置のかなり手前で停まってしまった。
「優奈、そこじゃダメ。作業出来ない」
理奈からの指摘が飛ぶ。
そこから慌ててしまい、エンスト。
前途多難なスタートだった。
それでも5回ほど繰り返すと、ピットレーンでのブレーキングポイントが分かるようになり、速度オーバーはしなくなった。
だが停車が決まらない。
手前で停まったり、オーバーランしたり。
所定位置から30センチズレただけでも作業出来ない。
停車はかなりシビアなテクニックが要求される。
「減速しながら1速に落としてクラッチ切るのが苦手だなあ」
優奈がそう悩んでいると、
「2速からニュートラルに入れて惰性で転がせばいい」
とアドバイスした。
「2速からニュートラルなんて出来るの?」
「どんなギヤからでも、左右のパドルを同時に引けばニュートラルに入る。基本だぞ。それにMRWのステアリングの大半にはニュートラルボタンが付いてる」
「そういやそんなのがあったね。でもパドル操作は知らなかったよ」
そのアドバイスを聞き、実践するとかなりスムーズになった。
それでもなかなか停止が決まらない。
「ホントに難しいね。和貴って当たり前にやってるけど、凄いね」
「とにかく反復練習だ。感心してる余裕があるならもっと集中しろ」
とにかくピットイン、アウトを繰り返す。
10回以上トライして、ようやく一発で停まった。
「やった!」
「おいまだだ。同時にエンジン切る!」
「あ、そっか」
慌ててエンジンを止めた。
「とにかくこれが常に出来るようになってくれ。あとレース中は他の車のピットストップも重なるから、それが邪魔になってもっと難しくなるぞ」
「前後だけじゃなく、左右のズレもダメだもんね。ホント難しい」
「だから今までのレースゲームのほとんどはピットストップがオートだったんだ。でもMRWのレースはガチだからな。こういう基礎的なテクニックも必要になる」
「あたしは基礎が出来てないってことだね。和貴の友達に向かってそんなことも言ってたなあ」
優奈も落ち込んでしまった。
そこで気分転換のため、ふたり共通セッティング出しの作業を始めた。
まず優奈が好むセッティングが施された状態でタイムアタック。
コントローラーの効果とマシンの進化、優奈のテクニック向上なども重なって、以前和貴が出したタイムより1秒詰めていた。
トータルで3.5秒の短縮になる。
「お前凄いな。このタイムなら予選一桁狙えるぞ」
「へへっ、まあね」
少し誇らしげな優奈。
そしてそのセットのまま、和貴に交代した。
優奈に合わせたアシスト、優奈好みのセッティングで走る。
さすがに扱い辛く、頻繁にタイヤがロックする。
ステアリングが大きいこともあり、やけに軽い。
そのため余計に切り過ぎてしまい、リアが流れやすい。
「予想はしてたけど、ちょっとナーバスだな」
「優奈はオーバーステア気味が好みだから」
「俺とは逆だな。俺は最終的にはアンダーになるのが好きだな」
「佐伯くんはポルシェ使いだから、どうしてもそうなるよね」
優奈に合わせたセッティングで和貴が出したタイムは、優奈のコンマ3秒落ちだった。
そこからブレーキとステアリングのアシスト値を若干落としてもらった。
それだけで扱いやすくなり、優奈のベストタイムを上回った。
で、再び優奈にドライバーチェンジ。
「これだとちょっと重いな」
優奈のタイムがコンマ7秒も落ちてしまった。
「やっぱり妥協点を探るのが難しいな」
和貴は悩み顔を見せる。
「佐伯くんは優奈に合わせようとしてくれるの?」
「ああ。俺に合わせたセットだと、こいつが走れないだろ」
「でも普通はどうなの?」
「普通って?」
「例えばナガタレーシングの場合。佐伯くんはセカンドだよね?」
「ウチの場合は俺がエースドライバーに合わせてる」
「そうだよね。エースドライバーが好むセットにセカンドが合わせるのが普通。で、佐伯くんと優奈を比べれば、明らかに佐伯くんのほうが速い」
「つまり、優奈が俺に合わせるのか?」
「そうしたほうがいいと思う。アシストだけは優奈がギリギリ走れるくらいにするけど」
「そうしてくれるなら俺はありがたいけど、でも大丈夫か?」
「まずはこの458を佐伯くん好みに仕上げる。そこから判断しようよ」
そろそろ中根宅を退散したほうがいいような時刻になり、セットアップ変更もそれなりに時間が掛かるとのことだったので、和貴は自宅に帰った。
その夜、自宅で一息ついた頃に、理奈から458が届いた。
オンラインで理奈と話しながら、セッティングの微調整を進める。
理奈は和貴の要求に的確に応え、弱アンダーで扱いやすいハンドリングに仕上がった。
その状態で軽くタイムアタックしたら、優奈のタイムより1秒以上速かった。
「速さは充分だな。あとは耐久性とロングランのペースだな」
「エンジン制御のプログラムマップを少し調整して応急措置したから、これで走り込んでみて。ミディアムハードタイヤの寿命も確かめたいから」
ここで理奈が落ちたので、ひとりでロングランのチェックをした。
そしてそのデータを理奈に送っておいた。