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お嬢様第一侍女マリベル短編集

【連載版あり】お嬢様が殿下に断罪されるですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!

掲載日:2026/06/27

※本作は、連載版『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』と同じ登場人物・題材を用い、短編として構成と展開を再執筆した作品です。

「お嬢様が、殿下に断罪される……?」


 公爵家の銀器室で、侍女マリベルの手が止まった。

 磨き上げたばかりのティースプーンが、白い手袋の上に並んでいる。

 明日の朝、エレノアが紅茶を飲むときに使うものだ。

 一本ずつ曇りがないか確かめ、角度まで揃えて箱へ戻していたマリベルの耳に、廊下を通りかかった侍女たちの囁き声が届いた。


「王宮夜会で、ですって」

「ええ、アルベルト殿下が皆様の前でエレノアお嬢様の罪を明らかになさるとか……」


 かちり。


 銀器室の中に、小さな音が響いた。

 話していた侍女たちが足を止める。

 マリベルが手にしていた銀の砂糖挟みが、見事に直角へ曲がっていた。


「……マリベルさん?」

「お嬢様が」


 マリベルはゆっくりと顔を上げた。

 笑っている。

 とても、きれいに。


「殿下に、断罪される?」


 二人の侍女が揃って一歩下がった。


「どのような罪でございますか?」

「イリス男爵令嬢を階段から突き落とそうとしたとか、夜会で侮辱したとか……殿下は、これ以上彼女を苦しめさせないとお怒りになっているそうです」

「証拠は?」

「それは、分かりません。ただ、イリス様が泣きながら訴えられたと……」


 ぴしり。


 今度は銀器を収めていた木箱に細い亀裂が入った。

 マリベルは木箱を見下ろした。

 よく乾燥させた丈夫な樫材である。

 木箱は悪くない。

 悪いのは、涙だけでお嬢様を裁こうとしている王太子である。


「お嬢様はどちらに?」

「温室で、薔薇の目録をご覧になっているはずです」

「そうですか」


 マリベルは曲がった砂糖挟みを、そっと机へ置いた。

 乱暴には扱わない。

 銀器に罪はないからだ。


「では、お嬢様が余計なご心労を抱えられる前に、私が王城へ伺ってまいります」

「お一人で?」

「私は侍女ですので」

「何の説明にもなっていませんが」


 マリベルは答えず、銀器室を出た。

 歩調は静かだった。

 背筋も伸びていた。

 黒い侍女服の裾も乱れていない。

 それなのに、廊下にいた使用人たちは次々と壁際へ寄って道を空けていった。

 マリベルの右手には、いつの間にか黒塗りの鉄扇が握られていたからである。

 黒塗りの扇面には、金文字でこう書かれていた。


『お嬢様第一』


 マリベルは玄関ホールへ続く廊下を見据えた。


「お嬢様が殿下に断罪されるですって!?」


 公爵家中の空気が震えた。

 書類を運んでいた従僕が壁際へ飛び退く。

 窓を拭いていた下働きが脚立の上で固まる。

 厨房では料理長が鍋の蓋を持ち上げた。

 老執事は紅茶のカップを静かに受け皿へ戻した。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」


 マリベルが廊下を駆け抜ける。

 侍女たるもの、屋敷内を走ってはならない。

 ただし、お嬢様の名誉が危機に瀕している場合を除く。

 少なくとも、マリベルの中の侍女規則にはそう書かれていた。

 老執事は、そばにいた従僕へ顔を向けた。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」

「先に止めた方がよろしいのでは?」

「君が止めるかね?」

「辞退いたします」

「賢明だ」


 従僕は頷いたものの、すぐに不安そうな顔になる。


「前回は騎士団でしたが、今回は王城ですよね」

「ああ」

「被害が大きくなりませんか?」


 老執事は、遠ざかっていく絶叫を聞きながら目を閉じた。


「……祈りなさい」

「何にですか?」

「城壁の強度に」


 公爵家の使用人たちは、即座に動き出した。



 ***



「来るとは、どういう意味だ!」


 王城の執務室で、アルベルト王太子は椅子から立ち上がった。

 机の前では、報告に来た近衛兵が息を切らしながら膝をついている。


「殿下がエレノア様を断罪なさるという噂を、聞きつけたものかと」

「もう知られたのか!?」

「はい。加えて、先ほど街道を進んでいた騎馬隊が追い抜かれたとの報告が入っております」

「騎馬隊を追い抜くとは……公爵家には、よほどの名馬がいるのだな」

「いえ。馬ではございません」

「……何?」

「侍女本人です」

「は?」

「マリベルが、自らの足で王城へ向かっております」

「公爵家の侍女は、馬より速いのか……?」

「少なくとも、マリベル殿はそのようですね」


 側近のユリウスが、書類から目を上げずに答えた。

 細い銀縁の眼鏡をかけた青年である。

 アルベルトは机を叩いた。


「感心している場合か!」

「ですが、殿下が明日の夜会でエレノア様を断罪なさると知れば、止めに来るのも当然かと」

「断罪ではない! 正式にエレノア嬢の罪を問いただすだけだ!」

「それを普通は、断罪すると呼びます」

「まだ何もしていない!」

「何かをする前だからこそ、止めに来るのでしょう。行動が迅速で結構なことです」

「敵を褒めるな!」

「侍女は敵ではありません」

「騎士団を壊滅させた侍女だぞ!」

「正確には、騎士団員を整然と正座させただけだと報告されています」

「それを壊滅と呼ぶのだ!」


 アルベルトは執務室を歩き回った。

 公爵家の侍女マリベル。

 王都では、すでに名の知れた存在である。

 公爵令嬢エレノアを裏切った騎士を追い、騎士団詰所へ乗り込んだ。

 止めに入った騎士たちは剣を奪われ、柱へ括られ、最後には全員が正座させられたという。

 話の細部は語る者によって違う。

 だが、どの話にも共通していることがあった。

 侍女が勝った。

 そして、騎士団が正座した。

 王都の子供たちの間では、悪いことをすると夜中にマリベルが来るとまで囁かれている。


「そもそも、殿下」


 ユリウスは新しい書類を取り出した。


「エレノア様を断罪なさる根拠を、改めてお聞きしてもよろしいでしょうか」

「イリスが泣いて訴えた」

「具体的には?」

「階段で肩をぶつけられた。挨拶をしても無視された。夜会で、男爵家の娘は場違いだと言われた」

「目撃者は?」

「イリスに聞いた」

「本人以外には?」

「……いない」

「日時は?」

「三日前の午後だ。王城西棟の階段で――」

「三日前、エレノア様は公爵領の施療院をご訪問中です」


 アルベルトの足が止まった。


「なぜ、お前が知っている」

「王城を通じて護衛騎士が派遣されておりますので、記録があります」

「……では、別の日だったのだろう」

「訴えの日時が変わるのですか?」

「細かいことを気にするな!」

「断罪する相手の行動記録を細かいこととおっしゃる方が、王太子でいらっしゃるのですが」

「黙れ!」


 アルベルトは拳を握りしめた。


「イリスは弱い立場の令嬢だ。それなのに、公爵令嬢であるエレノア嬢は取り巻きを使って彼女を孤立させた。涙を流して助けを求めてきた者を、放ってはおけない!」

「涙を流していたことと、訴えが事実であることは別問題です」

「涙が嘘だと言うのか!」

「涙はただの感情表現ですよ。証拠ではありません」

「お前までエレノア嬢を庇うのか!」

「私は殿下の判断力を心配しております」


 ユリウスは淡々と言った。

 アルベルトはしばらく睨んでいたが、やがて視線を逸らした。


「今さら断罪をやめれば、侍女を恐れて予定を変えたと思われる」

「事実確認不足を認めて予定を改めた、と説明すればよいのでは?」

「王太子の威厳が失われる!」

「証拠のない断罪を強行した場合の方が、大きく失われるかと」

「うるさい! とにかく、侍女を王城へ入れるな!」


 アルベルトは近衛兵を指差した。


「正門を閉じ、兵を並べろ! 必要なら弓兵も出せ!」

「ただの侍女に、ですか?」

「ただの侍女なら、騎士団を正座させない!」

「ごもっともです」

「納得するな!」


 近衛兵は逃げるように執務室を出ていった。

 ユリウスは小さくため息をつく。


「殿下」

「まだ何かあるのか」

「侍女を武力で止めようとしたという記録は、残しておいてよろしいでしょうか」

「残すな!」

「承知しました。詳細に残します」

「なぜだ!」



 ***



 王城の正門前には、近衛兵が二列に並んでいた。

 前列には大盾を構えた盾兵。

 その後ろには長槍を持った槍兵。

 城壁の上には弓兵まで配置されている。


 やがて、街道の先に一人の侍女が姿を現した。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 きっちり結われた髪。

 背筋を伸ばし、ゆっくりと正門へ向かって歩いてくる侍女。

 マリベルである。

 右手には、黒塗りの鉄扇が握られていた。

 マリベルは兵たちの前で立ち止まり、完璧な角度で一礼した。


「公爵家侍女、マリベルと申します。アルベルト殿下へお取次ぎをお願いいたします」


 衛兵隊長が大盾の陰から答える。


「殿下はお会いにならない!」

「理由をお聞きしても?」

「命令だ。ここから先へ通すなと仰せになっている!」

「なるほど」


 マリベルは穏やかに微笑んだ。


「殿下は、私がお話を伺うことすら避けなければならないほど、ご自身の判断に自信がないのでございますね」

「そういう意味ではない!」

「では、お取次ぎを」

「通せないと言っている!」

「そうですか」


 マリベルは悲しげに目を伏せた。


「王城の兵士様方が、か弱い侍女一人を大盾と槍で取り囲むとは」

「か弱い?」


 誰かが小さく呟いた。

 兵たちの視線が、黒塗りの鉄扇へ集まる。

 騎士団員の剣を叩き落としたと噂される鉄扇である。

 どう見ても、日除けには重すぎた。


「我々は王城を守る任務を負っている!」


 隊長が叫ぶ。


「押し返せ!」


 盾兵たちが、一斉に前へ出た。

 分厚い盾を隙間なく並べた盾壁である。

 大型魔獣の突進すら受け止める、王城近衛兵の防御陣形だった。

 マリベルは鉄扇を閉じたまま、静かに前へ出る。


「皆様」


 穏やかな声だった。


「横一列に並ぶのであれば、もう少し間隔を揃えてくださいませ」


 ぱん。


 鉄扇が、一番端の盾を軽く叩いた。

 次の瞬間、盾壁全体が崩れた。

 一枚の盾が回転し、隣の盾へ重なる。

 それがさらに隣の盾を押し、次々と連鎖していく。

 最後にはすべての大盾が、正門の壁際へ寸分の狂いもなく積み重ねられていた。

 盾を失った兵たちは、自分の両手を見た。


「え?」

「片づけは、端から順番に行うと効率的でございます」


 マリベルは微笑んだ。


「次の方」

「次の方ではない!」


 槍兵たちが動く。

 五本の槍が、同時にマリベルへ突き出される。

 マリベルは鉄扇を開いた。


 ぱん、ぱん、ぱん。


 槍の穂先が弾かれる。

 長い柄が絡まり合い、兵士たちは一塊になって倒れかけた。

 だが、床へ転ぶ直前、マリベルが一人ずつ襟を掴んで引き起こす。

 そして、そのまま地面へ座らせた。

 正座である。


「なぜ助けた直後に正座させるんだ!」

「転倒なされば危険でございますので」

「正座は必要か!?」

「反省の姿勢でございます」


 マリベルは、兵たちの膝の位置を整える。


「背筋を伸ばしてくださいませ」

「は、はい」

「返事はよろしい」


 衛兵隊長は顔を青くする。


「弓兵! 放て!」


 城壁の上で、弓兵たちが一斉に弦を引いた。

 次の瞬間、無数の矢が空を覆う。

 正面から。

 左右から。

 逃げ道を塞ぐように、矢の雨がマリベルへ降り注いだ。

 マリベルはそれを見上げる。


「まあ」


 黒塗りの鉄扇が、ぱちりと開いた。


「ずいぶん散らかっておりますね」


 鉄扇が、優雅に舞う。


 ぱん、ぱん、ぱん。


 迫っていた矢が、次々と弾かれていく。

 だが、地面には一本も落ちなかった。

 弾かれた矢は空中で向きを変え、城壁の上へ飛んでいく。


「うわっ!」


 弓兵たちが身を伏せる。

 矢は彼らの身体を避け、その足元へ次々と突き刺さった。

 気づけば、弓兵たちの周囲には、矢で作られた綺麗な囲いができていた。


「なぜ俺たちが囲まれている!?」

「持ち場を離れないよう、整えて差し上げました」


 マリベルは鉄扇を閉じた。


「それでは皆様、その場で正座を」

「城壁の上だぞ!?」

「落下防止にもなります」


 弓兵たちは顔を見合わせた。

 そして、誰からともなく弓を置き、その場で正座した。

 衛兵隊長の顔から、さらに血の気が引く。


「王城守護像を起動しろ!」

「隊長、本気ですか!?」

「早くしろ!」


 正門の両側に置かれていた巨大な石像が動き出した。

 王冠をかぶった二体の獅子像。

 王城が敵軍に包囲された際にのみ起動する、古代技術の守護像である。

 石の爪が地面を削る。

 低い唸り声とともに、一体がマリベルへ飛びかかった。

 マリベルは鉄扇を構える。


「お座り」


 ぱん。


 獅子像の額に鉄扇が触れる。

 巨大な石の身体が、ぴたりと止まった。

 そして、その場へ腰を下ろす。

 もう一体もマリベルへ迫ったが、横から鉄扇で顎を軽く持ち上げられた途端、最初の一体の隣へ座った。

 二体の守護像が、正門前で行儀よく並ぶ。


「守護像まで……」


 衛兵隊長が震える。


「正座はできませんでしたので、お座りでご容赦くださいませ」


 マリベルは獅子像の頭を軽く撫でた。

 石像はなぜか嬉しそうに尻尾を振った。


「なぜ懐いているんだ……」

「日頃のお手入れが足りないようです。耳の後ろに苔が生えております」

「そこを見るのか!?」


 正門前にいた兵たちの戦意が、目に見えて失われていった。



 ***



 執務室の窓から一部始終を見ていたアルベルトは、両手で頭を抱えた。


「守護像が座った……」

「非常に聞き分けがよろしいですね」


 ユリウスが答える。


「あれは敵軍を踏み潰すための古代兵器だぞ!」

「耳の裏に苔があるそうです」

「今は苔の話ではない!」


 アルベルトは窓へ張りついた。

 正門の前には、正座する兵士たち。

 城壁の上で正座する弓兵たち。

 その横には、おとなしく座る二体の王城守護像。

 中央では、マリベルが隊列の乱れを直している。


「このままでは入ってくる!」

「すでに正門は開いております」

「なぜだ!」

「守護像を起動した際、緊急出撃用に開いたようです」

「閉じろ!」

「門の前に兵たちが正座しております」

「どかせ!」

「せっかく綺麗に並んでいるのに?」

「お前はどちらの味方だ!」


 アルベルトは机の引き出しを勢いよく開けた。

 そこから一枚の命令書を取り出す。


「轟雷砲を使え!」


 ユリウスの手が止まった。


「殿下。あれは対大型魔獣用の試作兵器です」

「知っている!」

「王城の敷地内で使用すれば、窓硝子の半分は割れます」

「構わん!」

「修繕費は殿下個人の予算からでよろしいですね」

「今は金の話をしている場合か!」

「王城の修繕は金の話です」

「とにかく撃て!」


 命令は伝えられた。

 王城内の兵器庫から、巨大な筒状の精密誘導兵器が運び出される。

 砲口には青い雷光が集まっていた。

 正門を抜け、庭園を進んでいたマリベルは足を止める。


「まだ何かございますか?」


 砲撃担当の兵士たちは、涙目だった。


「命令なんだ……」

「我々も撃ちたくはない……」

「ですが、殿下が……」


 マリベルは彼らの事情を察したように、静かに頷いた。


「お仕事でございますものね」


 兵士たちの顔が、ぱっと明るくなる。


「分かってくださるのか!」

「はい。ですので、撃ったあとは正座をお願いいたします」

「結局するのか!?」

「かまわん! 撃て!」


 轟音が響いた。

 青白い雷が庭園を走る。


 光。

 風。

 巻き上がる土煙。


 兵たちは目を閉じ、耳を塞いだ。

 執務室の窓硝子が一斉に震える。

 アルベルトは窓辺へ駆け寄った。


「今度こそ、やったか!?」


 ユリウスが目を伏せる。


「殿下」

「何だ!」

「その言葉は、成功していない場合に使われることが多いようです」

「縁起でもないことを言うな!」


 土煙がゆっくりと晴れていく。

 その中心に、マリベルは立っていた。

 髪は一筋も乱れていない。

 黒い侍女服にも傷はない。

 ただし、白いエプロンの襟元が、風圧によって以前より整っていた。

 マリベルは襟へ指を触れた。


「まあ」


 そして満足そうに微笑む。


「糸くずが取れました」


 轟雷砲の担当兵たちは、何も言われる前に一列へ並んだ。

 自分たちから正座した。


「判断が早くて大変よろしい」


 マリベルは彼らを褒めた。



「……もう無理だ」


 アルベルトは机へ突っ伏した。


「どうすれば、あの侍女を止められるのだ……」

「お会いになって、断罪を取りやめればよろしいのでは?」

「それでは私が負けたことになる!」

「すでに王城守護像まで座らされております」

「言うな!」

「轟雷砲も衣服の手入れに利用されました」

「言うな!」

「王城兵は、王城建国以来もっとも美しく正座しております」

「黙れ!」

「はい」


 ユリウスは素直に黙った。

 そのとき。

 執務室の扉が、静かに叩かれた。


 こん、こん。


 礼儀正しい、控えめな音である。

 アルベルトは顔を上げた。


「誰だ」

「失礼いたします」


 穏やかな女性の声だった。

 アルベルトの顔から、血の気が引く。


「まさか」


 扉が開いた。

 そこには、黒い侍女服に白いエプロンの女性が立っていた。

 右手には黒塗りの鉄扇。

 髪は乱れていない。

 息も切れていない。

 どこからどう見ても、礼儀正しい侍女である。

 ただし、正門から執務室までの間に、王城の防衛戦力をほぼすべて正座させていた。


「公爵家侍女、マリベルでございます」


 マリベルは完璧に一礼した。


「いつの間にここまで来た!」

「廊下を歩いてまいりました」

「城内の兵はどうした!」

「皆様、正座しておられます」

「全員か!?」

「はい。途中からは自主的に」

「王城の兵としての誇りはないのか!」


 ユリウスが書類へ何かを書き込みながら言った。


「生存判断能力は高いようです」

「記録するな!」


 アルベルトは執務机の背後へ下がった。


「近寄るな!」

「私はお話を伺いに参っただけでございます」

「鉄扇を置け!」

「こちらは、お嬢様の日除け用でございます」

「それで何を遮った!」

「主に、槍と矢と雷撃を」

「日差しが一つもないではないか!」


 マリベルは小さく微笑んだ。


「では、殿下」


 鉄扇が、ゆっくりと開く。

 黒い扇面に金文字が輝いた。


『お嬢様第一』


「なぜお嬢様を断罪なさるのか、すべてご説明いただきましょうか」

「そ、それは……」

「日時、場所、証人、証拠、発言内容。毛髪の一本まで明らかにしていただきます」

「毛髪は関係ないだろう!」

「事実確認は、抜け落ちがあってはなりませんので」

「毛髪だけにか!?」


 ユリウスが小さく頷いた。


「今の返しは殿下にしては悪くありません」

「評価するな!」


 マリベルは鉄扇を閉じた。


 ぱちん。


 アルベルトの肩が跳ねる。


「イリス男爵令嬢は、お嬢様に階段で肩をぶつけられたと訴えたのですね」

「そうだ」

「三日前の午後に」

「ああ」

「その時刻、お嬢様は公爵領の施療院におられました」

「日付を間違えたのかもしれん」

「では、いつでございますか?」

「それは……」

「目撃者は?」

「いない」

「階段にいた衛兵や侍女の記録は?」

「調べていない」

「イリス様が男爵家の娘は場違いだと言われたという夜会は?」

「先月の王宮夜会だ」

「お嬢様は高熱で欠席しておられました」

「……」

「ご招待名簿にも欠席の記録があるはずです」


 ユリウスは書類の中から一枚を抜いた。


「ございます」

「なぜ持っている!」

「殿下が確認なさらないと思いまして」

「最初から私を信用していないのか!」

「判断については、あまり」


 アルベルトは言葉を失った。

 マリベルは、ゆっくりとアルベルトへ歩み寄る。


「つまり殿下は、日時も確認せず、証人も探さず、出席記録すら見ず、イリス様が泣いていたという理由だけで、お嬢様を人前へ立たせようとなさった」

「……」

「王太子ともあろう御方が」

「……」

「涙を証拠とお考えになった」

「……」


 マリベルは口元へ手を添えた。


「赤子でございますか?」

「なぜ赤子になる!」

「泣けば周囲が望みを叶えてくれると考えておられるようでしたので」

「私が泣いたわけではない!」

「泣いた方の望みを、何も考えずに叶えようとなさいました」

「……」


 ユリウスが静かに言った。


「赤子より扱いやすいですね」

「ユリウス!」

「赤子は泣いた理由を調べる必要がありますが、殿下は自ら結論を出してくださいますので」

「どちらを馬鹿にしている!」

「殿下を」

「正直に言うな!」


 マリベルは、にっこりと微笑んだ。


「殿下」

「な、何だ」

「正座を」

「断る!」

「正座を」

「私はこの国の王太子だぞ!」

「正座を」

「なぜ言い方が一切変わらない!」

「正座を」

「……はい」


 アルベルトは机の前へ座った。

 膝を揃え、背筋を伸ばす。

 見事な正座である。

 ユリウスが羽根ペンを走らせた。


「何を書いている!」

「王太子殿下、証拠確認を怠り、侍女の指導を受ける、と」

「消せ!」

「王国の将来のために残します」

「残すな!」


 そのとき、廊下の向こうから複数の足音が聞こえてきた。

 マリベルの耳がわずかに動く。

 扉の外から、老執事の声がした。


「失礼いたします。エレノア・アルヴァイン公爵令嬢がお見えです」

「お嬢様!?」


 マリベルは、本日初めて明確に動揺した。

 開いた鉄扇を慌てて閉じ、背中へ隠す。

 扉が開く。

 淡い青のドレスをまとったエレノアが、執務室へ入ってきた。

 背筋は伸びている。

 表情も穏やかだった。

 だが、いつもより少しだけ唇が固い。

 廊下に響いたマリベルの絶叫を聞き、事情を確かめるために追ってきたのだ。

 エレノアは室内を見回した。

 机の前で正座する王太子。

 何かを記録している側近。

 鉄扇を背中へ隠している侍女。

 窓の外には、庭園に並ぶ正座の列と、お座りをしている二体の守護像。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「これは何?」

「殿下に事情を伺っておりました」

「正座させながら?」

「お話を伺った結果、必要な姿勢であると判断いたしました」

「誰が?」

「私が」


 エレノアは目を閉じた。


「帰ったらお説教です」

「はい」

「長いお説教です」

「はい」

「王城なので、前回より長くなります」

「はい」

「反省してる?」

「お嬢様の名誉を守るために参ったことについては、反省いたしかねます」

「マリベル」

「ですが、王城守護像の耳の裏に苔が生えていた件は、王城側へ早急な対応をお願いしたく存じます」

「そこではありません」


 エレノアは、深く息を吐いた。

 それからアルベルトへ向き直る。


「アルベルト殿下」

「エ、エレノア嬢……」

「私がイリス様を虐げたというお話について、直接ご説明いただけますか」


 アルベルトは正座したまま、視線を泳がせた。


「その……彼女が泣きながら、君に酷いことをされたと」

「殿下は、それが事実か確認なさいましたか?」

「……いや」

「彼女が言った日時に、私がその場所にいたのかは?」

「……調べていない」

「目撃した方への聞き取りは?」

「……していない」

「では、なぜ明日の夜会で、私を皆様の前へ立たせようと考えられたのですか?」


 責め立てる声ではなかった。

 ただ静かな問いだった。

 だからこそ、アルベルトは逃げられなかった。


「弱い立場の令嬢を守らなければと思った」

「守ろうとなさったこと自体は、間違いではないと思います」


 エレノアは答えた。

 アルベルトが顔を上げる。


「ですが、一人を守るために、何も確かめず別の一人を罪人として人前へ立たせるのであれば、それは守ることではありません」


 執務室が静まり返る。


「私は、自分が誰かを傷つけたのなら謝罪いたします。公爵令嬢だから許されるとも思いません」


 エレノアは、胸の前で両手を重ねた。


「ですが、していないことを認めることはできません。泣いている方の言葉も、疑われた方の言葉も、同じように聞いてください」


 アルベルトは目を伏せた。


「……すまなかった」


 小さな声だった。


「確認もせず、君を疑った。明日の夜会での話は取りやめる。公爵家にも正式に謝罪する」

「ありがとうございます」


 エレノアは丁寧に一礼した。


「それから、イリス様の話も改めて確認してください」

「君を陥れようとしたのだぞ?」

「本当に嘘をついたのか。誰かに言わされたのか。何か別のことで追い詰められていたのか。まだ何も分かっておりません」

「……彼女まで心配するのか?」

「心配することと、嘘を許すことは別です」


 エレノアは静かに答えた。


「間違ったことをしたのなら、きちんと償っていただきます。ですが、理由を確かめずに罰するなら、殿下が私になさろうとしたことと同じになってしまいます」


 ユリウスが、わずかに目を見開いた。

 マリベルは胸の前で手を握る。

 お嬢様。

 なんとお優しい。

 そして、なんとお強い。

 今すぐこの場にひれ伏し、そのお言葉を王国法典の第一頁へ刻みたい。

 だが耐えた。

 侍女なので。


 アルベルトは深く頷いた。


「分かった。イリスの件も正式に調査させる」

「お願いいたします」


 エレノアが頭を下げる。

 その横で、マリベルが鉄扇を静かに開いた。


「殿下」

「まだ何かあるのか」

「今後、証拠もなくお嬢様を公衆の面前で断罪しようとなさった場合は」

「場合は?」

「玉座ごと正座させます」

「玉座は正座できないだろう!」

「では、玉座の上に殿下を」

「今と変わらないではないか!」

「マリベル」


 エレノアが呼ぶ。


「冗談でございます、お嬢様」


 マリベルは完璧な笑顔を浮かべた。

 エレノアは疑わしげに見つめる。

 冗談ではない顔だった。



 ***



 その日の夕方。

 王城内に、新しい通達が出された。


 一つ。


 貴族への公的な処分を検討する場合は、日時、場所、証人および記録を確認すること。


 一つ。


 涙は感情の表明であり、証拠ではない。


 一つ。


 王太子殿下の判断であっても、側近は誤りを指摘すること。

 そして、最後に小さな文字で一文が添えられていた。


『公爵令嬢エレノア・アルヴァイン様に関する案件では、侍女マリベルが到着する前に事実確認を終えること』


 アルベルトは、その一文を見て顔をしかめた。


「なぜ侍女の到着が期限になっている」


 ユリウスは淡々と答えた。


「到着後では、確認する者が正座している可能性が高いためです」

「消せ」

「王国の安全保障上、必要です」

「王国の安全保障に侍女を含めるな!」


 通達は、そのまま残された。



 ***



 公爵家へ戻ったマリベルは、宣告通りエレノアの前に立っていた。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「王城へ一人で乗り込んではいけません」

「はい」

「兵士の方々から武器を取り上げてもいけません」

「はい」

「弓兵の方々を矢で囲んで正座させてはいけません」

「はい」

「王城守護像にお座りを教えてはいけません」

「はい」

「轟雷砲を衣服の手入れに使ってはいけません」

「はい」

「王太子殿下を正座させてもいけません」

「はい」

「本当に分かっている?」

「はい、お嬢様」

「では、もうしない?」


 マリベルは少し考えた。


「お嬢様を証拠もなく断罪しようとする者が現れなければ」

「マリベル」

「善処いたします」

「絶対しない顔ね」


 エレノアは呆れたようにため息をついた。

 けれど、その口元は少しだけ緩んでいる。

 マリベルは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 お嬢様が笑った。

 ならば、今日の戦も勝利である。



 ***



 翌朝。

 王城から、公爵家へ正式な謝罪状が届いた。

 アルベルト王太子の署名が入った謝罪状と、イリス男爵令嬢の訴えを改めて調査する旨を記した書類。

 そして、なぜか別紙が一枚添えられていた。


『王城危機管理および礼節訓練 臨時講師依頼書』


 講師の欄には、こう書かれている。


『公爵家侍女 マリベル殿』


 エレノアが紅茶を噴きそうになった。


「どうしてあなたに講師の依頼が来るの!?」

「王城の皆様に、改善の余地がございましたので」

「何を改善するの?」

「武器を抜く前の事実確認と、正しい正座の姿勢でございます」

「後半はいりません!」

「ですが、お嬢様。膝の間隔に個人差がありすぎました」

「統一しなくていいの!」


 マリベルは真剣な顔で答えた。


「正座は心を映します」

「兵士の心は正座で測らないわ」

「反省には最適でございます」


 公爵が謝罪状を読みながら静かに頷いた。


「事実確認の講義は必要だろう」

「お父様まで、話を広げないでください!」


 老執事は、何も聞かなかったように紅茶を注いだ。



 ***



 その日から、王都には新たな噂が流れ始めた。

 公爵令嬢エレノアを証拠もなく断罪しようとすると、侍女が来る。

 盾壁は片づけられる。

 放たれた矢は、弓兵たちを囲う柵に変えられる。

 王城守護像は、お座りを覚える。

 轟雷砲は、エプロンの糸くずを取るだけ。


 その名は、マリベル。


 職業は、侍女。

 ただの侍女である。

 本人も、周囲も、そう言い張っている。

 武器は忠誠心。

 防具はエプロン。

 必殺技は、完璧な礼儀作法。

 そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。

 老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。

 お嬢様が呼ばれた。

 ならば、戦である。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


お嬢様第一侍女マリベルのお話は、他にもあります。

気に入っていただけましたら、前作「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」もぜひ読んでみてくださいね。


また、次作の

「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」もよろしくお願いします!


また、本作とは異なる展開やエピソードを加えた連載版

「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」

も投稿しておりますので、そちらもお楽しみいただけましたら嬉しいです。


面白かった、続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・いいね・感想などで応援していただけると嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
王太子が3日以内に計画したであろうことが 公爵家の屋敷でメイドに噂されてるって何事? 侍女が馬より速くて騎馬隊が追い抜かれたとの報告 ユリウスはどうやってマリベルが到着しないうちに知ったの?
>それは証拠ではなく、ただの水分 側近とても有能
短編ありがとうございますm(_ _)m マリベルは侍女の鏡ですね 王様と王妃様はどこに(震えながら)隠れていたんでしょうね 結局、お嬢様はこのしょうもない王子と結婚するんでしょうか? それだけ気になり…
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