腹ぺこセックス芋虫
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六万三千いいね。
朝の七時に目が覚めてスマホを開いたら、通知の濁流でスマホが溺れ死にかけていた。深夜二時に缶チューハイの三本目を空けながら書き殴ったポストが、寝ている間にこの国の女性たちの総意みたいな顔をしている。
「正直さ、セックスしないで済む彼氏って一定層に需要があるとおもうんだよね。というか恋人なんだからセックスしなきゃいけないっておかしくない?」
引用リポストが千二百件。
「わかりすぎて泣いた」
「これを全男性に届けたい」
賛同のリプライが幾重にも連なって、私の発言はいつの間にか一つの思想みたいに肥大している。
こんなことを書いたのは昨日の夜、寺田に振られたからだ。
ハァとため息を一つ。それから辺りを見回すと、枕元の空き缶が朝日を受けて鈍く光っていた。昨日コンビニで買った弁当の空き容器がテーブルの端に置きっぱなしで、醤油の跡が蓋の裏に乾いてこびりついている。洗い物は三日分溜まった流しの中でマグカップとフライパンが重なっていた。寺田がいた頃は毎晩二人で食器を洗ったのに、いなくなると途端にこれだ。
通知はまだ増え続けている。私はスマホを伏せて、そのまましばらくぼーっとしていた。
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寺田と出会ったのは二十六歳の冬で、マッチングアプリのプロフィールに「アセクシャル寄りです。性的なことに興味がないので、それでもいいと思ってくれる方と穏やかに過ごしたいです」と書いてあった。
寺田と知り合うまでに私は二回ほど普通に性欲のある男と付き合って、二回とも「もう少し応じてくれないと」と言われて終わった。二回目の彼氏は最終的に「俺のこと好きじゃないでしょ、だってセックスのときにいつも目つぶってるじゃん」と言い残して消えた。彼いわく、私は「冷凍マグロ」らしい。
だから寺田のプロフィールを読んだとき、これだ、と思った。
実際、寺田との日々は穏やかだった。休日は二人で自炊をして、寺田が妙に上手なだし巻き卵を焼いてくれる。夜は並んでそれぞれの本を読む。寺田は建築の本ばかり読んでいて、時折「この人の設計思想がすごくて」と嬉しそうに見せてくるのだが、私にはコンクリートの塊にしか見えない。それでも寺田が嬉しそうなので「へえ」と覗き込む。寺田が先に寝落ちしたら毛布をかけてやる。
テーブルの向こうで寺田がトマトを刻んでいる横顔を見るたびに、これが本当の恋愛だと思った。
会社ではWebディレクターとして通販サイトの改修案件を回していて、年明けからずっとクライアントの要望が二転三転するのに振り回されている。夜九時に退勤して丸ノ内線に乗って荻窪で降りる。駅前のまいばすけっとで豆腐と卵を買って、商店街の外れにある築三十年のマンションの四階まで階段を上がる。玄関を開けると寺田がリビングのソファで建築雑誌を広げている。
「おかえり」
「ただいま。豆腐買ってきた」
「味噌汁にする?」
「うん」
この、何でもない会話が嬉しかった。一年と少しの間は。
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一年が過ぎた頃、高校時代からの親友の里美と飲んだ。里美は高円寺で古着屋をやっていて、店番の合間に自分でリメイクした服をメルカリで売っている。ピアスの穴が左耳に四つ開いていて、酒が回ると声が大きくなる。
「寺田くんとはうまくいってんの」
「うん。すごくいいよ。穏やかで」
「へぇ。で、夜は」
「だからそういうのないんだって」
「うん、知ってる。知ってるけど、夏希はそれでいいの?」
いいに決まってるじゃん。何言ってんの──そう返しながら手元のレモンサワーを一気に煽った。里美は何も言わなかった。割り箸でつまんだ枝豆の薄皮を丁寧に剥きながら、横目でちらりとこちらを見たのはわかっていたけれど。ああ、なにか言いたそうな顔してるなあとはわかってはいたけれど。
でも、気づかないふりをした。
セックスなんかなくても人は愛し合える。
私たちがその証明だ。Xにもそう書いた。
「性的な関係がなくても恋人関係は成り立ちます。うちがそうです」というポストは三万いいねを超えて、知らない女性から「勇気をもらいました」とDMが来た。
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二年目の秋に、会社の同僚の結婚式に出た。
率直にいって、焼かれてしまった。
披露宴で新郎が新婦を見る目に。あの、人前でぎりぎり抑制しているけれど隠しきれていない熱量に。俺はこの女が好きで好きでたまらないのだと全身で叫んでいる目の熱さに。
ああ、これが熱か、と思ったものだ。
帰りのタクシーの中で、寺田は窓の外を見ていた。丸ノ内線が動いている時間に間に合わなかったのでタクシーにしたのだが、寺田は後部座席で長い脚を持て余すように組み替えながら、新宿の夜景をぼんやり眺めている。
私は寺田の横顔を見ていた。
この人が私を見るときはどうだろうか。あの熱はあったか。いや、一度もなかった。
寺田のせいではない。寺田はアセクシャルだ。誰に対してもあの目をしない。頭ではわかる。理屈は一ミリの狂いもなく正しい。
でも最近、その正しさがなんだか肌寒く感じてしまう様になった。
あの結婚式の夜から、私は寝間着をTシャツからキャミソールに替えた。
寺田は何も気づかなかった。気づかないのではなく、気づく回路がそもそもないのかもしれない。肩紐がずれても毛布を直してくれるだけだった。
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振られた理由は別の人だった。ただし性的な意味ではない。
「夏希といると安心するんだけど、この前会った人と話してたらすごく楽しくて。知的な会話ができるっていうか。ごめんね」
とのこと。
体ではなく頭で負けた。
それ自体は普通の失恋だ。誰だって、もっと気の合う相手に出会えば心が動く。けれど私の中で崩れたのはもっと根深い何かだった。体という評価軸さえなくなれば私は私のまま愛されると信じていたのに、軸が一つ消えたところで人間は別の軸で選別される。そしてそのすべてにおいて私は替えが利いたのだろう。
むしろ体という軸があった方がましだったのかもしれない。
少なくとも私を振った二人の元彼たちは、一時的にせよ私の肉体を求めていた。求められることは苦しかったけれど、それでも私がここに肉体を持って存在していることを誰かが認めていた。
寺田にはそれすらなかった。
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缶チューハイの三本目を空けたとき、酔いの回った頭で考えていたのはこういうことだ。
──セックスしなくていい彼氏が欲しい、と言う女のうち本当にセックスが不要な女がどれだけいるのか。
その問いに答えは出なかった。酔っていたし、答えを出すのが怖かった。
私はこれからもXで「セックスなしの恋愛の価値」を語り続けるだろう。六万三千いいねが証明しているように、この言葉には需要がある。
需要はある。
でも、でもそれは私が求められているわけではないのだ。
朝の光が段々と黄色味を帯びて、昼の光に近づいた頃──通知はまだ増え続けていた。
「救われました」
「同じ気持ちです」
「あなたの言葉に勇気をもらいました」。
私は画面に向かって「ありがとうございます」と返事を打つ。
スマホを伏せて枕に顔を押しつける。まだ寺田のボディソープの匂いが染みついたパジャマを着ている自分に気づいて、それを脱ぐ気力もなくて、そのまま丸くなる。
まるで芋虫みたいだなと思い、全然関係ないけれど「腹ぺこあおむしってどんな話だっけ」なんて考えたりしていた。
ああ、そうだ。
私は腹ぺこだ。
でもいくら食べても満たされない気がしている。
私が腹ぺこなのは、きっとお腹が空いているだけではないだろうから。
流しの水道が少しだけ閉まりきっていなくて、ぽたり、ぽたりと音がしていた。直さなきゃと思いながら体が動かない。寺田がいた頃は、こういう小さなことはいつも寺田が直してくれていた。
画面の向こうでは私の言葉がまだ拡散されているけれど──私はちっとも嬉しくなかった。
(了)




