35 なぜ僕まで一緒なの?
私は、エルバンス伯爵の第一子として生まれた。
エルバンス伯爵家は古くから続く名門貴族で、父は人が良すぎて面倒ごとを押し付けられがちだったらしいけれど、穏やかな性格で人を惹きつけていた。母は私が物心ついた頃には社交界で華やかな噂の中心にいて、私は裕福で幸せな日々を送っていた。
でも今は違う。
爵位と領地は全て失い、財産もほとんどを没収された。
たまに通いで手伝いに来てくれる人はいるものの、使用人はデラ一人だけ。何かしたいことがあったら自分で動かなければいけない。
父が宰相様の暗殺未遂事件に関わったとして捕まった時、リリアナはまだ三歳だった。だからリリアナは今の生活が当たり前だと思っているし、不自由とは思っていないらしい。
でもテレンスは、私と二歳しか離れていない。
昔の豊かな日々は覚えているはずで、服も生活用品も食材も、あらゆるものを自由に買えない生活に不満はあるはずだ。
それなのに、テレンスは地味で節約ばかりの生活のことで何か言ったことはない。少なくとも、私の前では不満を漏らさない。
「僕は庶民として生きるから」
そう平然と言う弟を、私は不憫だと思ってしまう。
本音だとしても、テレンスはただの庶民で終わる器ではない。何かあった時にどんな選択でもできるように、王立学園に通ってほしいと思っている。
頭がとてもいい子だから、入学試験は問題ないと思う。
問題があるとしたら、学園内で当たり前に「教養」とされている知識の不足だ。
私は裕福な貴族の生活をテレンスより二年多く体験しているし、母に連れ回されたおかげで最高の文化に接してきた。
でも、テレンスはそうでもない。
王立の図書館は庶民にも開放されていて、テレンスはそこに通ってあらゆる知識を吸収していて、それで十分だと言う。
私の生育環境との違いは誤差だとテレンスは言うけれど、二年分の知識量の差は――実際に「見る」意味は大きい。
例えば、絵画。
どれほど書物で解説を読んでいても、本物の色合いまではわからない。
絵の具の重なりから生まれた奥ゆきもわからないし、光の当たり方で色の見え方が変わることも、それによって印象ががらりと変わることも、実物を目にして初めて知ることができる。
音楽もそうだ。
楽譜を見てそれを頭の中で再現できたとしても、天才と言われる楽師たちの生み出す情感には及ばない。同じ曲でも、音響効果を計算し尽くした場所なら広がり方が違う。安い楽器と一流の工房で製作された楽器は、音色が別物のようだ。
そういう文化を、私は二年分多く知っている。
没落した貧乏勤労学生になっていても、エルバンス伯爵の娘として、社交界の花だった母ロザリアの娘として、私は一流のものを知っている。……それが身になっているかは別として。
だから、テレンスも「一流」に接してほしい。将来に向けて引き出しを増やすために!
密かに意気込んでいる背後で、はぁっと長いため息が聞こえた。
「……あのさ、聞いていいかな」
袖のカフスの歪みを直していたテレンスは、振り返った私をまっすぐに見据える。
銀色のまつげに縁取られた水色の目は恐ろしいほど冷たく見えて、私は思わずごくりと唾を呑んでしまった。
「な、何かしら」
「ヴィーがレイノルドさんとお茶会に行くのは、ヴィーの自由だと思う。でも、なぜ僕まで一緒なの?」
「そ、それは、えっと……」
「お茶会の同伴者って、普通は恋人とか婚約者とか、そう言うパートナーだよね? それなのに、なぜ僕まで一緒にって話になるのかな」
「それは、私があの人の恋人でも婚約者でもないからよ。弟を同伴するのは理にかなっているわ!」
しらを切ると決めているから、私は堂々と胸を張る。
そんな私をじっと見ていたテレンスは、また長いため息をついた。
「……まあ、もういいよ。ヴィーは僕のことを考えてくれたんだろう? その、一応ありがたいとは思っている。こんなにたくさんの絵を見る機会は、ほとんどなかったから」
ちょっと目を逸らしながらの言葉は、心なしぶっきらぼうだ。
でも間違いなく感謝の気持ちを伝えようとしていて、この思春期男子らしさに姉として頬が緩みそうになってしまう。
――ここでニヤニヤしてしまうと、絶対に弟に嫌われる。
死ぬ気で表情を引き締めるのよ、ヴィオラ!
密かに苦闘している私の前で、テレンスは決まり悪そうに広い部屋の壁一面に飾ってある絵画へと目を向け、突然、はっとしたように目を見開いた。
「もしかして、あの青いカーテンだらけの絵は、画聖ガーシュイの絵では……?」
「ガーシュイ? ああ、青い絵の具をこよなく愛した画家よね? 実物はただの変なおじさんだったけど」
「えっ、ヴィーは会ったことあるの!?」
「お祖父様の葬式に来ていたわよ。ベロンベロンに酔っていて、青い絵の具を手に塗りたくって、お祖父様の墓石に模様をつけていたのを覚えてない?」
「墓石に絵の具? ……あ、そういえば大人たちが騒いでいたような……」
「お祖父様はガーシュイさんのパトロンだったことがあったらしくて、『最後の青い絵にする』とか言ってたはずよ。墓石を汚してはいけないという以前に、『最後の青い絵にするなら保存しやすいキャンパスにしてくれ』と弟子たちが必死で止めたのよね。結局、あれはどうなったのかしら」
テレンスのおかげで当時のことを思い出したものの、私もまだ幼かったから結末までは知らない。
なんとなく気になった時、優雅な笑い声がした。




