2 堅実な仕事
今回の仕事の依頼者はハロルド教授。
仕事の内容はリブワール語で書かれた地層学の最新論文の翻訳だ。
大学棟にあるハロルド教授の部屋は、いつも扉が開けっ放しになっている。
一応、扉はノックする。
そのあとは返事を待たずに入っていくのが、この部屋を訪問するときの流儀だ。
「ハロルド教授、先日の論文の翻訳が終わりました」
「おお、もうできたのか! さすがロレーダン君だね。ちょっと待ってくれるかな!」
本の山に声をかけると、山の向こうからすぐに返事があった。
「やあ、お待たせ! 最近の若者はリブワール語は難解だからと敬遠しているから困っていたんだが、ロレーダン君がいてよかったよ!」
今まで読んでいたのか、ハロルド教授はまだ本を持っていた。
その本を近くの棚に無造作に押し込むと、私が差し出した翻訳文をすぐにパラパラと見始めた。
「うんうん、この表現はとてもいいね。実に詩的で、かつ的確だ。それにここも、まるで歌のようで響きがある。……お、ここなんて悠久の時へと思いを馳せているようで、実に胸が躍るじゃないか!」
今日もご機嫌なハロルド教授は、軽く咳払いをして「では、ちょっと朗読を」と言い始める。私は慌てて遮った。
「ご満足いただけたようで光栄ですが、報酬をお願いしますっ!」
「おっと、そうだったね。失敬!」
私が図々しい申し出をしたのに、教授は少しも気を悪くした様子はない。翻訳文に目を向けたまま、机の引き出しからずしりと重そうな財布を取り出す。
財布を出したのは片手。もちろん鍵なんて使っていないし、引き出しは最初から半分開いていた。
「……ハロルド教授。いくら王立学園内とはいえ、防犯のために鍵をかけるべきではありませんか?」
「うちの秘書君にも同じことを言われているんだけどねぇ。鍵をなくしたら開けられなくなって困るだろう?」
そういう問題なの?
そもそもとして部屋の扉も閉めていない。防犯上の問題がありすぎる。私が噂通りの悪人だったら大変なのに。
思わず心配している前で、ハロルド教授は財布から無造作に硬貨をつかみ出した。
「ロレーダン君、手を出して」
「は、はい!」
慌てて私が両手を差し出すと、ジャラジャラと銀貨と銅貨を載せていく。
安定した着手金も嬉しいけれど、この大胆で迅速な支払いは大好きだ。でも……手のひらに積まれたお金は、想定していた枚数よりも明らかに多い。
思わずじっと見ていると、教授はさらに銅貨を一枚足した。
「ご苦労さん。これは気持ちだ。また次も頼むよ!」
「……教授、数え間違えていませんか?」
「んん? そうかな? まあ、多い分は特急料金と清書が不要になった分と考えたまえ! このまま綴じて資料に使えるからね!」
いつも大雑把な教授だけれど、今日はまた一段と豪快だ。
でもこのまま綴じて資料にするとは聞いていない。それなら、この硬貨の山は適正価格……ではないな、さすがに。
長い学術論文の翻訳は手間がかかるとはいえ、どう考えても銀貨二枚以上多い。そう言おうとして、ふと窓の外に目が行った。
授業が終わってから大学棟に来たから、もう夕方だ。遅くなる前に帰り着きたい。
かわいい妹と弟が待っているから。
……訂正。
六歳の妹はかわいいけれど、二歳年下の弟はあまり可愛くないし、私を待ってもいないかもしれない。
外を見ていた私に気付いたようで、ハロルド教授もちらりと窓の外に目を向けた。
「おっと、引き止めて悪かったね。暗くなってきたし、うちの馬車を使うかね?」
「家は近いので、お気持ちだけで十分です」
「そうかね? では、これをどうぞ。いい冬越しのレモンが手に入ったんだよ。みんなで食べなさい。誤解しないでもらいたいのだが、これは君への下心ではなく、優秀な弟君への賄賂だからね?」
教授は悪戯っ子のような顔で片目をつぶった。茶目っ気のある表情に、私も思わず笑う。
お礼を言おうとした時、ほとんど形式化したノックすらしないまま、黒い文官服を着た人が勢いよく入ってきた。
「教授! 事務局から新しい文献が届いたと連絡が来ましたよ! ついに抜けていた三巻が……あっ!」
開けっ放しの扉口から入ってきたのは、真面目そうな人だった。
教授付きの秘書さんだ。
私を見て、目を丸くして硬直している。
そんなに驚かれるような変な格好はしていないはず……と首を傾げかけて、私はハッと気が付いた。
私は今、レモン入りの紙袋を受け取ったところだ。
だから教授との距離が近い……かもしれない!
急いで二歩下がったけれど、遅かったようだ。秘書さんは青ざめながら私と教授とを見ている。
この秘書さん、私のことを「学問一筋で世間知らずなハロルド教授を手玉に取ろうとしている」と誤解しているようで、時々すごい目を向けてくる。
大丈夫。そのくらいの誤解ならよくあることだから、いちいち傷つかない。
よくあることすぎて、誤解度合いを簡単に想像できてしまうのはやっぱり悲しいかもしれない。
虚ろな目になった私を見て、ハロルド教授もようやく気がついたようだった。
「あー……その、すまなかったね」
「……大丈夫です。レモン、ありがとうございます!」
誤解を解こうと敢えて「レモン」と言ってみた。なのに秘書さんは、さらに深刻な顔になって「レモンとは何の隠語だ?」とぶつぶつ言っている。
うーん……誤解なんだけどな。
いつものことではあるけれど、私はため息をつくしかなかった。




