⑤
「ダァ……イ、ジョ……ブゥ……?」
昇降口を出る今まで、元少女は頻りに声をかけてきた。
教室に戻るときも、荷物をまとめているときも、僕は何も答えなかった。
答えることができなかった。
「……シ、ノォ、ブ……」
駐輪場に着くのと同時に呼ばれ、思わず振り向く。
名前を呼ばれるのは初めてだった。
「……ごめん、無視して。今はちょっと……なんて言えばいいのか、さ」
はは、と乾いた笑い声がこぼれる。
少し口角を使っただけで、全体力を消費したみたいな感覚だ。激しく動いたわけでもないのに全身が重い。
「…………疲れた」
ぽそりと声が出た。
「……疲れた」
今度は言葉として発せられた感覚があった。
「––––……しんどい」
いつの間にか視界にはコンクリートだけが広がっていた。
腕を強く掴みながら唇をぐうと引き結ぶ。急激に迫ってきた感情の波をそれで塞き止められるはずもなく、目から熱い雫が垂れた。コンクリートに丸いシミがいくつも作られていく。
僕に対して愛想が尽きたのでも、他に想う相手ができたのでもなく、僕を都合の良い相手というだけでしか捉えていなかった好きな人。
幼なじみだから僕との付き合いを持っていただけでなく、裏切っても問題ないと考えるほど僕を下に見ていた唯一の友人。
彼らのことが何も見えていなかったこと。僕という存在を軽く扱われていたこと。何もかもが心に傾れ込み、抉る。
「マ、カァ……セ、テ」
そばでしわがれた声がして、顔を上げる。
しゃがんでいた彼女と目が合った。黒い手がまた僕の頭に乗ったかと思うと、彼女の姿が空間に溶けるようにして消える。
マ、カ、セ……。
「任せて……?」
立ち上がりながら呟く。
泣いていた僕を慰めるために何かをしに行ったのだろうか。
「でも何を……」
ふと、様々な憶測が飛び交っていた元女子生徒の噂が脳裏によぎる。
彼女が屋上から飛び降りたあと、主犯格の女子生徒が同じようにして死んだ。
他にあるのは、自殺した女子生徒のクラスから様々な不審死を遂げた生徒が相次いだとか、主犯格の女子生徒と同じ日に一人の男子生徒も続くようにして亡くなった、とか。
「––––っ、まさか」
思い当たった直後には走り出していた。
これから下校する生徒たちの間を走り過ぎ、昇降口に戻る。
靴を履き替えている暇なんてない。廊下は走らないという規則も構っていられない。
こんな予想が当たってほしくないと願いながらただ走る。人にぶつかりそうになりながら、階段で転びそうになりながら、ひた走る。
自教室に着き勢いよく扉を開けた。スライドした扉がガアンッとぶつかる音に、中にいた数名が振り返る。
さっと中を確認したが、弓音と直翔の姿はない。
「あ……あのっ」
扉の近くに立っていた明るい茶髪の女子……伊藤さんに声をかける。たしか弓音と親しい人だ。
上擦った声の、しかも息を切らしている奴に声をかけられて伊藤さんは戸惑ったようだが、すぐに「何?」と反応を返してくれた。
「小倉弓音……さんと久我直翔、どこ行ったかわかる?」
「ユミと久我くん?ユミならさっき教室戻ってきて、でもまたすぐに出てったよ。ちょっとボーッとした感じで」
「久我は?」
「久我くんは教室に戻ってきてないけど……」
その言葉に一気に血の気が引いた。
僕があの場から去ったあと、直翔があそこに留まったままだったら。そうでなくても教室に戻る途中で彼女が連れて行っていたら。
僕は伊藤さんにお礼を伝えて階段へと走った。
飛ばし飛ばしで階段を駆け上がる。
段の縁に足が滑りつんのめる。手すりを掴んだおかげで顔面強打はせずに済んだが、右膝を強く打ち付けた。青アザは確定だ。
「くっそ……」
右膝を睨みつけ、また足を段に乗せる。痛がってる場合じゃない。
できる限り全力で足を動かし、階段を上がった。
ようやく屋上の扉が見えたところで、一瞬息が止まった。
「待て待て待て待て……っ‼︎」
残りの階段を駆け上がり、《《すでに開いた》》扉から外に出る。
夕方の日が茜色に染め上げている一帯で、黒く伸びた影が二つ。男女二人が並んでフェンスに手をかけている。
その背後に唯一影が伸びていない彼女が立っていた。
「––––っ、待って‼︎」
僕の声に反応した彼女のもとへ駆け出す。
肩で息をしながら彼女を見上げると、不思議そうに首を右に傾けていた。
なぜ来たのか、とでも言いたげに。
「そんっ、な、こと……しなく、ていいんだ、よ」
彼女は一段と深く首を傾ける。
「僕、はっ……。二人に消えて、ほしいとかっ……あなたに、そうしてほしいとか思ってない」
だんだんと呼吸が落ち着いてきた。
唾を飲み込み、喉を潤す。
「……たしかに裏切られていたのはショックだったよ。結局僕はずっと一人だったのか、って」
僕にとって一番近いところにいた二人は、とっくに僕から離れていた。
本当に好きだった弓音にも、昔からの仲だったはずの直翔にも裏切られていたと知って、心の底から絶望した。
「でも二人が僕をどう思っているのかに気づけなかったのも事実だから。きっと思い込んでたんだよ、二人は変わらずそばにいてくれるって」
人と関わることがうまくできないまま生きてきた結果、身近の人間の変化にも鈍くなっていたのだろう。幼なじみ兼友人と恋人という深い繋がりを得た安堵が、自然と周囲を見えなくさせていたのかもしれない。
常に孤独を感じていたのは自らそうなるような動きをしていたから。
意図せずに変化を選ばずに生きてきたことが一因だったのだ。
弓音と別れ直翔から距離を取られたことで、奇しくもそれまで自分を覆っていた「変化のない生き方」という殻にヒビを入れることになった。
「ある意味二人のおかげで学べたこともあるし」
彼女の後ろに背中を向けて立っている弓音と直翔を見やり笑う。あまりにも滑らかに口角が上がり、ちょっと驚いた。
こんなにも心が軽く楽なのは、自分自身の問題を見つけられたことだけが要因ではない。
「あと、あなたのおかげが大きいんだ」
驚いたように彼女が一歩後ろに引き、長い黒髪がふるりと揺れた。
彼女の両腕にそっと触れ、ぼやけたような黒い手を包む。細くて長い、体温を一切感じない手だ。
不器用に頭を撫でられたとき、この手にはたしかに優しさと温かみが溢れていた。
「あなたが僕に寄り添って、気にかけてくれたことが嬉しくてさ。救われた、というか」
彼女が手を伸ばしてくれなければこうして前を向く考え方ができていたかもわからない。
僕の心を支えてくれたのは間違いなく、化け物と化した痛みを知る孤独な少女だった。
黒い手を包む自分の手に力を込め、彼女に微笑んだ。
「そばにいてくれて……ありがとう」
気恥ずかしい、だが心からの思いがするりと紡がれる。
自分から話に行くことを久しぶりにした相手だからだろうか。あんなにぎこちなかった自分の口とは思えない。
「………ウア、ア、アァ……」
少女の青い唇から呻くような声が漏れる。
暗い穴のような瞳に透明な雫が浮かんでいた。ぎょっとする間にも、枯れた大地に湧き出た小さな泉のようなそれが溢れ、青い肌を滑る。
少女は高い背を折り曲げ、自分の手を包んだ僕の両手をひたいに押し当てた。
……女子を泣かせてしまった場合、どうするのが正解なのだろう。
「な……なんかごめん。だいじょう––––」
訊ねようとしたそのとき、いくつも舞う光りの粒が目に映った。
淡い金色をしたそれは目の前の少女から放たれているものだった。夕日に照らされてほんのり朱色に染まる光が彼女の身体から発生する、奇妙で美しい光景をただ見つめていた。
ぼうぼうと伸びているだけの黒髪は艶が出て、肌は本来の色素を取り戻していく。ワンピース状の黒いオーラは上下とも紺色のセーラー服に、細長の黒い手足も少しずつちょうどいい長さと大きさに変わっていった。
目の前にいるのは、僕の手を握りながら泣きじゃくる日本人形のような少女だった。背はさっきよりは縮んだが、僕のほうが負けているのは同じだった。
大粒の涙を流す彼女を、僕はまだ困惑したまま見つめていた。
「……っ、ごめ、なさい……ごめんなさい……」
嗚咽混じりの清らかな声が謝罪をした。
「わたしっ……あなたにお礼される資格なんて、ないの。つらそうなあなたを助けたいと思ったのは本当。だから私が昔、誰かにしてほしかったことをあなたにしてた。だけどあの二人があなたにひどいことを言っているのを見たら、私が昔されたことを思い出して……それで、あんな……」
昔されたことというのは、いじめを受けたことだろう。
弓音と直翔の会話が過去にリンクする部分があったようだ。
「あなたのためということにしながら、怒りに我を忘れてた。私をいじめるように仕向けていた子を、飛び降りさせたときみたいに。……あなたに大きな責任を持たせてしまうところだった」
本当に、ごめんなさい。
僕の手を強く握り、少女は深く懺悔した。涙でしとどに濡れた顔を苦しそうに歪める彼女は、見ていてこちらも苦しくなる。
こんなにも優しい人が自ら命を絶ったという事実が胸を締めつけた。
「あの、もういいよ。結局二人とも死なずに済んだんだし。そんなに自分を責めてほしくない」
先ほど感謝を伝えたときの勢いはどこへやら、本当に下手な物言いだ。
それでも彼女がもう泣かないような言葉を探す。
「さっき、つらそうな僕を助けたかったって言ってくれた。それが聞けただけで十分だし、さっきも言ったけどそういうところに僕は救われたから」
だからあなたが苦しむ必要はないのだと。そう思いを込めて、優しく語りかける。
少女の潤んだ瞳が大きく見開かれて揺れた。
「……偲くんは優しいのね」
ふわりと少女は小さく笑った。
心が美しい人は笑い方まで綺麗らしい。
「私のほうこそ、そばにいさせてくれてありがとう。あんな姿で怖がらせてばっかりだったのに」
「その節は大変失礼を……」
「ううん、当然の反応よ。だから頭を下げないで」
この人の前で思いっきり怖がった様子を見せた申し訳なさが今さらになって襲ってきた。
そんな僕を見てくすくす笑う彼女を見て、僕はほっとした。
「偲くんと、もっと早くに出会いたかった」
目を細める少女の身体に、先ほどよりも多くの光の粒が集まっていく。
ああ、そのときが来たのか。
「……あっ、名前!あなたの名前は?」
今の今まで名前を聞いていなかったことを思い出し、咄嗟に訊ねる。
光に覆われていく中で、彼女は微笑みながら教えてくれた。
「岡野真由子っていうの。言うのが遅くなってごめんなさい」
「僕もこんなギリギリに聞いてごめん。教えてくれてありがとう」
彼女……真由子さんは首を横にゆるりと振った。
「––––本当に、本当にありがとう。偲くん」
「こちらこそ。……元気で、真由子さん」
繋いだ白い手を強く握ると、真由子さんも笑顔で握り返してくれた。
次の瞬間、真由子さんを完全に覆った光の粒の繭がぱちっと弾けた。
散らばった光の粒が頭上に広がり、風に乗って茜色の空へと流れていく。
光が見えなくなったところで、僕は静止していた弓音と直翔を起こし校内へと戻った。