③
なんなんだあいつ。
朝、自室のベッドで起床して一番に発した。
謎の化け物から全力で逃げ帰ったあと、僕はなるべくあいつのことを考えないように努めた。
夕飯を普段より多く咀嚼することに集中したり、暗い窓の外を決して見ないようにしながらシャワーを浴びたり、小学校低学年ぶりとなる羊を数えるという寝る前のおまじない的なものを高速でおこなったり。とにかく何かしらのアクションを起こして、あの得体の知れないモノが脳内に入る隙を作らないように全力を尽くした。
だが朝を迎えた直後、覚醒しきっていない頭を少し動かしただけで昨日の記憶が蘇った。
それだけあいつが最も恐ろしい存在として僕に刻み込まれたということだろう。
帰宅してからは黒い影を見ることはなかった。家までは追いかけてこないのかもしれない、と思いたいが後から現れるようになる可能性もある。
現時点で確定しているのは、学校で再び奴と相見える可能性が高いということ。昨日だけで二回も目の前に現れたのだから。
まあ昨日のドッキリ二回で済むことも考えられるが、二度あることは三度あるとも言うし油断はできない。
それにあの怪異には少し心当たりがあった。
「あー……くそ」
最低寝起きボイスアンケートを実施したら上位に食い込むであろう低音を漏らし、僕はベッドからゆっくりと腰を上げた。
着替えや通学用リュックに教科書を詰めるなどの支度を済ませたところで、リビングの母から朝食の呼び出しがかかった。目玉焼きがいい具合に半熟で、ちょっと気分が上がった。
「あんた、また猫背になってるよ。この前直翔くんのお母さんに、あんたに何かあったか心配されたんだから。特に具合悪いわけでもないんだし、周りの人に変なふうに見られるような振る舞いは直しな……って、何度言わせんのか」
朝食後に食器を片付けようとしていたら、母からちょっと長いお小言を食らった。ほぼ愚痴のようなそれにはもう慣れたものだが、今回は少しだけ胸に引っかかった。
いってきますもそこそこに自転車に乗って家を出る。
「よっ、シノ」
のろのろとペダルを漕いでいると、後ろから来た自転車にあっさりと越される。高校デビューで金に染めた髪をなびかせ、爽やかな笑みを向ける直翔がいた。
挨拶を返そうと口を開きかけたが、先に直翔が話を切り出した。
「お前さ、高校で友達できた?」
こいつ、わかりきっていることをなぜ聞く。
「いや、まだ。できる気しないし」
「だよな〜。お前自分から話しかけに行くとかしないし」
振り返った直翔がプハッと笑った。
ひどく見慣れた、いつもと、昔と変わらない笑顔。
顔立ちは綺麗なまま大人びて、でも無邪気なところはそのまま。その笑顔に惹かれる女子も、滲み出る気さくさに親しみを覚えていた男子も少なくなかった。僕もその一人だった。
「……だから。もういいよ直翔」
「え?」
「直翔は僕よりも付き合い多いじゃん。わざわざ話しかけに来なくても大丈夫」
「どしたよ急に。ついに孤独を極める境地に達したかー?」
からかうように言う直翔に小さく笑った。
前に行ってくれてよかった。
「まあ家近いし、寂しくなったらいつでも来いよ〜」
右手をパッと振り、直翔はあっという間に距離を離していく。
僕が教室に入ったときには、昨日昼休みに一緒にいた男子二人と女子を交えて談笑していた。
……少し前まで、あの中に弓音もいた。中学からあまり接点のない二人だったけど、僕が弓音と付き合い始めたことで話すようになった。話さないようになったのも僕が弓音と別れてからだ。
僕と別れたことで、僕と付き合いが長い直翔とも話しにくくなったのか……なんて、なんとも都合のいい考えだ。我ながら未練がましいにもほどがある。
机に突っ伏しているうちに一限が始まっていた。
「今日は……えっと、どこまで進んだんだったかな」
白髪混じりの男性が眼鏡を押し上げながら教科書をめくる。歴史担当の豊永は老いの進行が速いのか、前回の範囲を忘れがちだ。
五分後に授業が始まると、机の上に黒くボヤッとした線が伸びてくる。やがてゆっくりと長い黒髪が、その次にほとんど髪に隠された青い顔が現れた。ヒュッと息を呑む。
他に何の音も出してしまわないよう唇を固く閉じる。握り込んだ拳の震えを空いた左手で抑え、窪んだ瞳を見つめ返す。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを……とかいうやつを体験することになるとは思わなかった。
よくよく観察してみると、頭から流れ固まった赤黒いものが髪と肌に付着していた。ほのかに漂う腐臭らしきものが鼻を刺激する。怪我のわりに顔はほっそりとして綺麗だ。
ほとんど睨み合いのような状況が続いてどれほど経っただろうか。
「……ヒ、ト、……リィ」
微動だにしなかった青い唇が動いた。息も絶え絶えといった声で、聞き取るのもギリギリだ。
ヒ、ト、リ。……一人?
手をズル、ズルと引きずるようにして化け物は机の下へ消えていった。
黒い指先が消えるのを見届けるとどっと力が抜け、椅子から滑り落ちそうになる。
両隣から送られる訝しげな視線が非常に痛い。