秋の風に包まれて
潤海は、目を覚ますと病室の薄暗い天井を見上げた。耳元にかすかに兄の声が聞こえる。泣いているのだろうか。兄が瑠々美を襲おうとする映像が再び浮かび上がる。あの瞬間、兄の心に何があったのか、潤海には理解できなかった。しかし、今は兄の泣き声に心が痛む。兄が自分のために泣いている。
兄は潤海のベッドの横に座り、悲しみに沈んだ表情を浮かべていた。彼の頬には涙が流れ、声は震えている。「お前が目を覚ますまで、どれだけ不安だったか…」
その瞬間、潤海は兄の気持ちを痛いほど理解した。彼の涙は、潤海の心に深く突き刺さった。「ごめんね、お兄ちゃん…」潤海は思わず声を漏らすが、その声はかすれていた。兄は潤海の手を優しく握り、無言で彼女の存在を確かめるようにしていた。
潤海は、兄の胸元の動きに気づいた瞬間、レインが顔を出した。潤海は驚きとともに微笑みが浮かんだ。
「これがレインか?綺麗なオッドアイだな。」兄は、その目の色に魅了されたように言った。レインの青と緑の瞳が、兄の心を惹きつけたのだ。
潤海は、その瞬間が嬉しくてたまらなかった。兄がレインを気に入ってくれたことで、彼女の心はさらに温かくなった。兄がレインに手を差し伸べると、兄の指先に触れた。「病室の前の鉢植えの所に隠れていたんだ。獣臭がしたからすぐわかったよ。」
「獣臭って…」潤海は思わず笑みを漏らした。その瞬間、彼女は兄の心の奥にある愛情を感じ取った。
「潤海を心配していたんだな。こいつは本当に賢い。誰にも見つからず病院に入ってくるなんて」兄の優しい言葉に、潤海は心が温まるのを感じた。レインが兄のそばで嬉しそうに尻尾を振り、まるで彼の言葉を理解しているかのように見える。
潤海は、兄との関係が少しずつ修復されていることを実感し、心の傷が少しずつ癒えていく感覚を味わった。兄の優しさが、彼女の心にじんわりとしみ込んでいく。
「お兄ちゃん…ありがとう。」潤海は静かに言葉を口にした。彼女の声はかすれていたが、真剣な思いが込められていた。兄は、その言葉に驚いたように顔を上げ、潤海の手を優しく握り返した。無言の中に、二人の心が通じ合う瞬間があった。
心の中で芽生えた許しの気持ちが、潤海を少しずつ前へと進ませる。過去の出来事は消えないが、兄との絆がそれを和らげてくれる。
潤海は、兄が自分の大切な存在を受け入れてくれていることを実感し、心が高鳴った。兄とレインの間に少しずつ信頼の橋が架けられているのを感じ、「お兄ちゃん、レインは本当に優しい猫なの。私の支えになってくれてる。」潤海は感情を込めて言った。兄は頷き、レインを優しく撫でながら、「それなら、僕も仲良くしなきゃな。」と微笑んだ。
そのやり取りの中で、潤海は兄との絆が深まっていることを実感した。レインの存在が、二人の距離を縮めてくれる。潤海は、過去の痛みを抱えながらも、少しずつ癒されていくことを感じていた。
しかし、病室のテレビから流れるニュースで、瑠々美の母が亡くなったことを知り、潤海は驚愕した。美百合の死因は、悲劇的な事故だった。転倒し、電車にひかれてしまったという知らせが、潤海の心に重くのしかかる。
「どうして、こんなことになってしまったのか?」潤海は思う。美百合との対立や嫉妬が、最終的にこんな悲劇を招くとは思ってもみなかった。彼女の命が絶たれたことに、潤海の心の奥底には同情と悲しみが芽生えた。
ニュースが報じる葬儀の映像で瑠々美は涙に暮れる彼女の姿があった。周りには、カメラを持った記者たちが群がり、フラッシュが絶え間なく光る。哀れみの言葉が彼女の耳に届くが、瑠々美の内心はそれとは全く別の感情に揺さぶられていた。
「私、注目されてる…」
その思いが心の奥底で急速に膨れ上がる。母の死という悲劇のはずが、まるで舞台の主役に躍り出たような感覚を瑠々美は覚えた。フラッシュの光が瞬くたびに、その光が彼女の瞳に映り込み、まるで自分がこの世界の中心にいるかのような錯覚に陥っていく。
「この光…もっと、もっと…」
涙を流しながらも、彼女の心の中では異様な興奮が増していく。フラッシュの閃光が、かつての孤独を洗い流すかのように、彼女に一種の恍惚感を与えていた。
「みんな、私を見てる。」
瑠々美の目は、母を失った悲しみを表しているように見えるが、その裏ではまるで新しい力を得たかのように輝いている。その光景は、どこか狂気じみていた。彼女の涙は本物であるはずなのに、その涙に込められた感情はすでに変質し、彼女自身もその変化に気づいていないようだった。
記者たちが次々とシャッターを切るたびに、彼女の心は一段と高揚していく。
「もっと…私を見て…もっと…」
瑠々美は、自らが注目される存在になったという感覚に陶酔し、悲しみの中で異常な満足感を得ていた。彼女の心は完全に歪んでしまっていたが、外からはただ悲しみに暮れる女性にしか見えない。その対照的な姿が、一層の不気味さを醸し出していた。
兄はテレビの前で涙を拭いながら、画面に映る瑠々美の姿に視線を固定していた。兄はやはり彼女を守らなければという感情に取り憑かれた。
兄は瑠々美が母を亡くしたテレビの映像を見つめ、涙を流していた。潤海はその光景を見て、兄が瑠々美を心配していると感じた。
しかし、兄の心の奥に潜む「守りたい」という気持ちは、ただの保護本能を超え、瑠々美に対する執着へと変わりつつあった。彼女の心が崩壊するのを防ぐために、兄は無意識に彼女を支配しようとしている自分に気づいていなかった。
その歪んだ使命感は、兄の中で膨れ上がる一方だった。彼女を守るという名目で、実際には自分自身の内なる欠落や不安を埋めようとしていることに、兄は全く気づいていなかった。
「次こそ、僕が…」兄の呟きは、潤海の心に不安を植え付けた。彼女は、その思いが再び自分たちを傷つけるのではないかと恐れた。
「お兄ちゃん、まさか…」と問いかけると、兄は潤海に心配をかけまいと「もうしないさ」と言った。しかし、その言葉は彼女の不安を完全には消せなかった。
兄は「潤海、母さんと暮らした家は広いし、1人は寂しいだろ?だから退院したら、僕のマンションで一緒に暮らそう。レインも一緒だ。」と提案した。その瞬間、潤海の心に温かな感情が広がり、新しい家族の形が少しずつ見えてくるようだった。
数日後、潤海は病室を後にし、兄のマンションに向かうことになった。広々とした部屋に足を踏み入れると、兄とレインが待っているのが見え、心が弾んだ。ここで新しい生活を始めることが、彼女の心を少しずつ解放してくれるのではないかと感じた。
「秋の風が気持ちいいね。」潤海は窓を開け、優しい風が流れ込むのを感じた。レインが窓辺で跳ね回り、兄も微笑んでいる。その瞬間、彼女は新しい始まりの象徴を強く感じた。
兄との関係が徐々に改善され、レインがその橋渡しをしてくれる。潤海は、心の奥底で少しずつ癒されていくのを実感していた。秋の風が、優しく彼女の心を包み込み、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれているようだった。