感情の崩壊
潤海は電話を切った後も、兄が瑠々美を襲おうとした映像が頭から離れなかった。その瞬間、兄が何を考えていたのか、彼女には全く理解できなかった。「お兄ちゃんが、どうして…?」心の中で何度も問いかけたが、答えは出ない。ただ、兄が見知らぬ存在に感じられ、その事実が彼女をさらに動揺させた。
また、母の死が告げられた瞬間も潤海は不思議な感覚に襲われた。悲しむべき自分が、まるで感情を失ったかのように冷静でいられることに戸惑った。「どうして悲しくないんだろう…?」心の中でその疑問が渦巻くが、何の感情も浮かばない。ただ、母のいない世界が少し軽く感じる自分が怖かった。
兄の事件と母の死という二つの大きな出来事が重なり、潤海の心の中は混乱でいっぱいだった。自分の感情が壊れてしまったかのように感じ、どうしようもない不安に駆られていた。
「もう、耐えられない…」潤海は震える声で呟き、家を飛び出した。冷たい雨が、彼女の心の中の熱を一瞬で冷ましていく。心の不安や醜さを振り払うように走っていると、突然目の前に人影が現れた。潤海は勢い余ってその人とぶつかり、転んでしまった。慌てて顔を上げると、そこには 美百合が立っていた。
「…!」潤海は驚いて相手を見上げた。美百合は潤海を知っていたが、潤海は彼女のことを知らなかった。
「あなた…」美百合は顔を歪め、潤海を見つめた。潤海はその視線に戸惑いを感じたが、どこか見覚えがある気がした。
美百合は瑠々美を守るために潤海を排除したいと思っていた。「あの女さえいなくなれば、瑠々美はもっと輝けるのに…」嫉妬と憎悪が彼女の心を支配していた。潤海の存在が瑠々美に影を落としていると感じ、どうしても排除せずにはいられなかった。
美百合の顔を見た瞬間、潤海の脳裏に過去の記憶がフラッシュバックする。ウェイトレスとして働いていた店の中で、忙しさに追われながらも、冷たい視線で彼女を見つめる美百合の姿が浮かんできた。「あの時も、この人は私を見下していた…」その記憶は、今目の前にいる美百合の冷酷な笑顔と重なった。
ウェイトレスとして働いていた頃、忙しい店内で特に目を引く美百合。潤海の優しい笑顔を見つめながらも、どこか冷たく観察していた彼女の目。その裏には嫉妬心が潜んでいた。
「どうしてあんな子が、私の瑠々美よりも魅力的なの?」という美百合の心の叫びが、潤海の中に響いてくる。潤海は、自分の存在が美百合にとって脅威であることに気づき、思わず身を縮ませた。
ある日のランチタイム、潤海は忙しい店内で注文を取っていた。客の声が混ざり合い、耳を澄まそうとしたが、片耳の聞こえにくさが災いし、周囲の喧騒に圧倒されてしまった。その結果、誰かの注文を誤って覚えてしまった。
「これ、全然違うんだけど!」
怒りの声が上がり、潤海は慌てて頭を下げた。「申し訳ありません、すぐにお取り替えします」と言ったが、心の中では「またか」と自分を責めていた。
その時、美百合は一歩引いて冷たい視線で潤海を見つめていた。彼女の心には嫉妬が渦巻いていた。
「ほんとに使えない子ね。」美百合の言葉は、刃物のように潤海の心に突き刺さった。潤海は精一杯の笑顔を作ろうとしたが、片耳の聞こえにくさが原因でミスを犯してしまう自分が情けなくてたまらなかった。
潤海は「すぐにお取り替えします」と言いながらも、自分がここにいる資格がないのではないかという思いが心の中で渦巻く。美百合の冷たい視線は、潤海の弱さをますます際立たせていった。
「また間違えたの?」と、美百合は潤海がテーブルに運んだ料理を指さし、わざとらしく大声で言った。周囲の客たちの視線が集まり、潤海は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
最終的に、美百合の 策略は功を奏し、潤海は退職を決意することになった。自分の存在が周囲に迷惑をかけているのだと感じ、耐えきれずその職場を去ることにした。美百合は勝ち誇ったように笑っていた。
「これでやっと私の居場所が戻った」と、彼女は自分の優位性を取り戻した気持ちに浸った。潤海の退職は、美百合にとって一つの勝利だった。
その時、現実が急に戻ってきた。潤海は目の前に立つ美百合の冷酷な笑顔を見つめた。美百合は潤海の髪を掴み、無理やり路地裏に押し込んだ。
「離して!」潤海は叫んだが、雨の音にかき消され、誰もその声に気づかない。
「何、まだ生きてたの? お前の存在がどれだけうざいか、わかってないの?」美百合の罵声が鋭く潤海を刺し、彼女の顔に冷たい笑みが浮かんだ。「お前、瑠々美を脅かす存在なのよ。そんな醜い顔で、何ができるっていうの?」
美百合の罵声が耳に響く。その瞬間、潤海は母が玄関で話していた女性の声が美百合の声だと理解した。
潤海はその言葉に胸が締め付けられる思いだった。美百合の冷酷さは、まるで刃物のように彼女の心を抉る。
「自分が可愛いと思ってるの? 勘違いも甚だしいわ。誰もお前なんて気にしてないのに、消えてくれたら私も楽になるのに。」
潤海は、美百合の言葉に圧倒され、涙が滲むのを感じた。
潤海は美百合の言葉に胸が締め付けられた。「お前の母親に似ているから、みんなが嫌うんだよ。」その瞬間、潤海は頭の中で母の顔が浮かび上がる。虐待され続けた記憶が、彼女の心に重くのしかかっていた。
「私の顔が、あの人に似ているなんて…」潤海は自分の顔をかきむしり、嫌悪感と恐怖が混ざり合う。美百合の冷酷な笑顔がさらにその苦痛を増幅させる。
「消えろ、おまえは生きている価値なんてない!」美百合が言った。
潤海はその言葉に耐えきれず、叫びながら無我夢中で車道に飛び出してしまった。心の中で渦巻く絶望に導かれるように。
その瞬間、視界に飛び込んできたのは、迫り来る車のヘッドライト。潤海は何も考えられず、そのままはねられてしまった。
一方、その様子を見ていたレインは、心配そうに目を見開いていた。レインは潤海のことが大好きだった。彼女の悲しそうな目は、潤海の苦しみを理解し、助けられなかった無力感を映し出していた。
潤海は、意識が遠のいていく中で、最後の力を振り絞って視線を向けた。目に入ったのは、愛しい飼い猫のレインだった。レインは悲しげな目で潤海を見つめ、彼女の心に寄り添うように鳴いた。「ニャー…」
「私がいなくなったら、レインは一人になっちゃう…」潤海はその思いに胸が締め付けられた。薄れゆく意識の中で、愛しい存在が孤独になることを恐れた。
その瞬間、意識は闇に飲み込まれていった。
美百合が潤海を突き飛ばして去った後、レインはその後を追うようにして、美百合の足元に寄り添った。小さな体を隠すようにして、彼女の周りをぐるぐると回る。
「何よ、あんた?」美百合は振り返り、レインに冷たい視線を向ける。レインのその目には強い意思が宿っていた。
美百合はそのまま歩き去ろうとしたが、レインはついていく。彼女の足元にまとわりつくようにしながら、何度も前に出ては立ち止まらせる。
「邪魔よ、どいて!」美百合はイライラしながら蹴り上げる。レインは素早く身をかわし、さらに美百合の足元に寄り添った。
その時、美百合は煌びやかなハイヒールを履いた足を引っかけ、つまずいた。バランスを崩し、彼女は前方に倒れ込んだ。煌びやかなハイヒールが宙を舞い、その美しいデザインが一瞬、光を反射して輝いた。近くに停車していた電車がちょうど動き出す瞬間だった。
『嘘…』その言葉が出る間もなく、美百合は電車にはねられてしまった。
レインはその様子を見つめていた。彼女の目には、美百合のハイヒールの光が一瞬だけ映り、まるで美しい幻のように感じられた。