電脳世界に挑む
そこは、無機質な空間だった。細い線がひたすら格子状に交差していて、モデリングソフトの背景のようでもある。
俺はその空間に一人で立ち尽くし、目の前に出てきた半透明なウィンドウと向き合っていた。
表示された内容は、まぁ簡単に言えば戦闘をしてみろということらしい。
「成程、チュートリアルね」
そうやって状況を理解した俺は、迷いなく難易度設定に紅く表示された「HARD」の欄を指先で触れる。
ゲーマーたるもの、日和った選択肢は選べない。
その瞬間、ぽん、という気の抜ける音と同時に視界が眩い光で覆われた。
ぐっ、と咄嗟に瞼を閉じ、擦りながら開き直す。未だ白む視界に現れたのは、見上げるほどの巨体だった。
豊満で肉厚な腹を揺らし、現実世界の豚のような鼻から大量の息を吐き出すその姿は、ファンタジー世界に出没しがちなオークそのもの。
「近未来オーク、って感じだな」
オークは周囲の環境に合わせてか、淡い光に包まれた半透明な姿で現れた。少し滑稽なその姿に、吐き捨てるように呟く。
その言葉に反応してか否か、これまたコミカルな音と共に「start」とだけ表示されたボタンが現れる。
「……やるか」
小さな息を吐き出し、姿勢を屈める。
HARDとはいえ、チュートリアルだ。そこまで時間はかからないだろうし、ささっと終わらせよう。
「グゴアアアアアアアァァァァァ!!!!!!」
地を揺らし、大気を裂くような咆哮が響く。
それを号砲代わりに、一気に加速。たん、たんと地面を踏みしめるごとに速度は増していく。
現実よりも小さく、こじんまりとしたアバターだが、動きに一切の違和感はない。それどころか、現実のものよりも動作に違和感がない。
流石、最新ゲームは技術力が違う。
肉薄した俺と、立ったままのオークの視線が交差する。そして、オークがゆっくりと拳を振り上げた。
対し、俺は腰にぶら下げた得物に手をかける。
鞘に仕舞われたそれは、出番を待ち望んでいるようでもある。掴んだ瞬間に堅く、無機質で、それでいて安心感を与えてくる感触が返ってきた。
拳が迫る。
拳の大きさは俺の体躯並。膂力は、言うまでもなく人間のレベルではない。喰らえば終わり──
「喰らえば、な」
右腕に強く力を籠める。
そして、待つ。
風を裂き、拳が迫る。
まだ、まだ、待つ……
そして、拳が俺を粉砕するその、一瞬前で。
「今!」
白い斬撃が閃く。
拳を真正面から切り裂き、攻撃を相殺する。手を破壊されたオークは、情けない悲鳴をあげて地面に膝をついた。
「やっぱ、侍は馴染むな!」
誰に言うでもなくそう呟く。
「グ……!オオオオオオオオォォォ!!」
ダメージに対してのリアクションが終了したのか、体勢を気合の咆哮とともに立ち上がる。それを視界の端で捉えながら、思考を回転させていく。
攻撃、防御、回避……いや、折角だ。スキルを使ってみるか。
「天災流」
その言葉に呼応して鞘が淡く白色に輝き、四肢に暖かい力が流れ出す。
低めていた姿勢をさらに屈め、跪いたような姿勢へと。
元々背丈の低いこの体が、もっと低くなったことでオークは俺を一瞬見失う。そして、きょろきょろと周囲を見回し始め
「雲霧!」
その隙に、跳躍する。
『天災流 雲霧』、このゲームに数多あるスキルの一つであり、刀を装備している状態で、屈むことによって発動するスキル。
起きるアクションは二つ。
真上への跳躍。
その後、刀による乱撃。
霧のように地を這い、雲のように飛び上がる。そして、雨を降らすように刀を叩き込むのが、このスキル!
「グガァッ!?」
唐突に視界に入った俺に、オークが驚愕する。
そして、驚愕が敵意に変わる前に、攻撃を繰り出した。手元が霞んで見えなくなるほどの高速で、オークの顔面に斬撃をぶち込む。
「グ、グガ」
ダメージを喰らうたびに、オークの喉からは僅かな呻き声が漏れ出していた。
斬る。斬る。斬る。
オークの顔面からはダメージエフェクトが噴出され、その度に呻き声も小さくなっていく。
「終わりだ」
斬、と。
鳴り響いた風切音と共にスキルの効果が切れ、空中にあった体が落下していく。転がるように勢いを殺し、着地。
恐らく倒れていくオークの体を見ることなく、刀を軽く払い、鞘に収める。
「切り捨て御免」
かちゃり、と小気味良い音が響き、それに続くようにファンファーレが響き渡いた。
非常にめでたい感じの演出に背を押されながら、それとは関係ない理由で苦笑する。男子高校生の喉から出るとは思えない高い声が、まだ反響している。
少し身長の低い姿で、首を傾げる。
「性別は変更不可ってきいたんだけど……?」
俺の声帯から放たれる鈴を転がすような可愛げのある声が。
触れれば崩れてしまいそうな幻想的な白い肌が。
ほっそりとした美しい指が。
そして、頭部から生える銀色の髪が、何故か「性別変更不可のゲーム」で俺が女性アバターを使っていることを雄弁に語っていた。
何故、こんなことになったのだろうか。
その答えは、数分前に遡る。