ドンマイ、ドンマイ
「わたしは……水が嫌いです。湖、池、海、そのどれも苦手ですが、特に川は……。わたしは川で、溺れかけたことがあるのです」
「……そうだったのですね。ではそれを克服し、泳ぎを覚えたということですか?」
「はい。わたしは皇太子ですから。暗殺の危機と無縁ではありません。いざとなったら自分で自分の身を守らなければならない――そう、教わりました。それができなければ命を落とす。ですから懸命に泳ぎを覚え、水への恐怖も克服したつもりでした。そしてもう大丈夫かと思っていたのですが……。そうではなかったようです。よってシェリーヌ公爵令嬢があの時、来てくださり、わたしは……」
そこでセシリオが伏せていた顔をあげ、私のことをじっと見つめました。真摯であり、そしてなんだかとてつもない熱を感じるのですが……。
でもそこでフッと力を抜いたセシリオは「ともかく」と言い置き、こう告げました。
「下着姿のシェリーヌ公爵令嬢を運んだことを、わたしは恥じていません。むしろ下着姿のシェリーヌ公爵令嬢に触れてしまったことを申し訳なく思っています」
「それはありませんよ!」
恥ずかしい、恥ずかしいと思ったりしていますが。体は十代でも、中身はおばあちゃんですからね。下着姿で済んだなら、ドンマイ、ドンマイですよ。
ともかく私は助けてもらったのですから、「下着姿の私に触れたのですか!」なんて言うつもりも、怒るもつもりないと伝えました。
それに川岸に上がった後、すぐにそばにいた騎士からマントを受け取り、私の体を包んでくれたそうなのです。だったらもう、私を抱き上げたセシリオは、下着姿の私に触れたとは言えませんよね。
それを踏まえ、もう下着の話はおしまいにしましょうと伝えました。するとセシリオはこんなことを提案したのです。
「アップルトン侯爵の件がありますので、わたしはこの国での滞在を、延長しようと思っています。すべて解決したら、シェリーヌ公爵令嬢ともゆっくり話したいのですが、いかがでしょうか。こんな馬車の中ではなく、落ち着いた場所でお話をしたいです」
「ええ、それは勿論ですよ。これでも王都には詳しいですから。穴場のゆっくり過ごせる場所へご案内しますよ」
私の言葉を聞いたセシリオは、ふわりと優しい笑みを浮かべます。その笑みは見ている私も笑顔にするもの。気づけば私も笑っていました。
◇
建国祭の記念花火大会。
これはなんだかんだで予定通り、打ち上げを終えていました。セシリオが川に落ちたので、中止を進言する側近もいたそうですが、国王陛下はこう判断されたのです。
「今から松明を大急ぎで用意するより、このまま花火を打ち上げることで、川は明るくなる。救出もしやすくなるであろう。そして今、花火を中止にすれば、大勢の観客が川岸に集結する可能性があるし、混乱が起きる。それに川に落ちたのがセシリオ皇太子であると、観客は分かっていない。何よりもここで花火大会を中止にすれば、誰が落ちたのかと、野次馬も騒ぎ出す。よって花火大会を続行せよ」
国王陛下のこの判断は、正解だったと思います。確かにあの時、川にいた私達は花火の明かりに助けられました。そして必死の思いで川岸に上がった時、野次馬に取り囲まれることもなく、済んでいるのです。大きな混乱もなく、そして予定していた打ち上げも終わりました。その後、多くの街の人間が家路に就いたのです。
結局、川に落ちたのが、実はターナー帝国の皇太子だったことは、翌朝のニュースペーパーで、多くの人が知るところとなりました。それまでは国王陛下が、箝口令を敷いていたのです。
ポマード達、王都警備隊、そして国王陛下配下の秘密諜報部は、水面下で動き、証拠集めを行っていました。
秘密諜報部は、国王陛下が陣頭指揮を執る時、特別に動かす組織です。今回、ターナー帝国の皇太子が川に落とされたという、まさに外交問題に発展しかねない事件が起きてしまいました。何としても犯人を逮捕したい国王陛下が、この部隊を動かしたのも、当然と言えば当然でしょう。
ちなみにアップルトン侯爵令嬢とその父親は、自分達が捜査の対象に上っているとは夢にも思っていなかったはず。なぜならニュースペーパーでは、「なお、皇太子が川に落ちた理由は、突然現れた野犬に襲われたためで、その野犬は御用となったものの、自白することもなく。不幸な事故として終わることになりそうだ」と締め括られていたのです。
よって、建国祭が終わった翌日の夜に、王都警備隊と秘密諜報部が踏み込んできた時、アップルトン侯爵令嬢とその父親は、泡を吹く程、驚いたと思います。
国王陛下と話したセシリオは、アップルトン侯爵令嬢とその父親が、事件の黒幕である可能性が高い件を共有していました。そして屋敷で犬を飼っている可能性が高いことも、話したのです。