あんな苦労をしないで済む
強盗に入られ、原稿を奪われたことにしよう。
そうと決めたタイドは、自作自演で強盗に入られた状態を作り上げます。自身の部屋を荒らし、ゴミ捨て場へ書き損じていた原稿と白紙の束を持っていき、火をつけました。バールも捨て、再度部屋に戻ると……。
あたかも今、強盗に入られたと気づきましたとばかりに叫びます。それをご近所さんに聞かせ、被害者であると信じ込ませたのです。
その後は編集者に、原稿が盗まれたと、まず泣きつました。そして急遽、上下巻の刊行に変えてもらい、本来の中巻に無理矢理結末を盛り込むことにしたのです。その結末もタイドだけでは思いつかず、担当した編集者の助けを得て、なんとか完結させた状態。
ようやくそのドタバタが落ち着いた頃。
ソラリスから手紙が届きました。そこには「新作の原稿が必要なら、いつもの本屋へ行くように。合言葉を伝えれば、店主は原稿を渡してくれる」と書かれていたのです。
この手紙を見たタイドは「ああ、そうなのね。あの時、死んでしまったと思ったのに。生きていたの。よかった。これでもうあんな苦労をしないで済むわ」と思ったのだというのです。ソラリスの葬儀はひっそり営まれました。タイドとの関係性は公にされていないので、葬儀の知らせは届いていません。
それでも自身が行ったことを考えれば、その後、ソラリスがどうなったのか、調べようとするのではないでしょうか。でもタイドは忙しさを理由に、ソラリスのその後を一切確認していません。
タイドは、自身の短剣を使い、ソラリスの心臓を一突きし、首を斬りつけているのです。それなのにそれをなかったかのように捉え、「生きていたの」と考え、「これでもうあんな苦労をしないで済むわ」と、ソラリスから原稿をもらう気満々なことには……。
驚くしかないですね。
ともかくタイドはソラリスが実は生きていたと勝手に解釈し、すぐにあの本屋に向かいました。店に着くと、いつもそうなのですが、ホットケーキを焼く甘い香りが漂っています。それはどうしたって食欲をそそり……。
一階にはちゃんと店主がいて、彼に合言葉を伝えれば、新作の原稿は手に入ります。その安心感もあり、タイドの気は緩みました。あの雨の日にソラリスの屋敷へ向かった日以降、タイドは熟睡などできていません。それだけ気が張っていたわけです。
ですが今は新作の原稿も手に入るということで気が緩み、気づけばタイドはカフェへ向かう階段を上っています。
こうしてホットケーキを食べ、紅茶を飲み、満足したタイドは。
一階へ降りて行き、その階段で私とぶつかりそうになったわけです。あとは即席のサイン会が始まり……。
タイドは覆面作家として通していましたが、自分を見抜いたシャールには、好ましさを感じました。ペンだこなんて、原稿に多少手を入れるぐらいでは、できることはありません。ですが今回、下巻の原稿が手に入らず、必死に穴埋めで結末を執筆していました。
その結果、ペンだこができていたのです。
自分のことを、あのタイド・ティント・メーだと知っている人は、限られていました。出版社の経理や法律部門の担当者は知っているかもしれませんが、それはあくまで文字情報。対面でタイド・ティント・メーと会ったことがあるのは、担当編集者、出版社の社長、ソラリスくらいです。
普段、ペンだこができることもないので、こんな風にサインをせがまれることもありませんでした。よってタイドは少し、舞い上がっていたのです。その結果が……即席サイン会を行うことへの容認につながります。しかも覆面作家なのに、平気で顔をさらしたのは……。