気づいたら……
タイドはもう何十年も、ソラリスに原稿を与えてもらうことが当たり前になっていました。すでに起承転結で出来上がっているソラリスの物語に対して、なぞるようにして手を加えることを「執筆」であると勘違いしているのです。出来上がっているレールの上を走っているだけなのに、あたかもそのレールは自分で作ったと考えているタイドは、理解できないかもしれません。
自分は何が間違っているの?――と。
そんなタイドですが、あの日、オウムから散々「デンジャー、デンジャー」と決別したい名で呼ばれることでイライラが募り始めていました。それまでは手に入れた原稿を、雨に濡らさないようにして持ち帰ることばかり考えていたのです。
ですがそもそもどうして自分が雨の降る中、こんなに必死の思いでここまで来たのか。白紙の原稿を間違って用意したのはソラリスなのだから、そっちが私の家に届けに来なさいよ――くらいに感じ始めていたのです。
その状態で、タイドは尋ねました。
「驚いたわ、ソラリス。原稿が全部白紙だったのよ。間違ったのよね? こんなこと初めてでビックリしたわ。でも悪気がないのだから、あやまらなくてもいい。それより下巻の原稿、頂戴」
タイドの問いかけに、ソラリスは「渡せる原稿はない」と答えました。これを聞いたタイドは、最初は何を言っているのか理解できません。的を射ない質問を繰り返します。
「え、カフェに間違って原稿を置いて来たの?」
「もしかして私の家に郵送で送ってくれたのかしら?」
「この部屋にないだけで、別の部屋にある?」
こんな質問を散々したタイドに対し、ソラリスはこう告げました。
「もう、あなたに渡せる原稿はないの。下巻の原稿もない。この次も、これから先もずっと。もう無理なの。原稿を渡すことはできない」
この言葉を聞いた瞬間、カーッと頭に血がのぼり、その後、ソラリスが言った言葉をタイドは聞いていません。代わりに「下巻の原稿はどこ? 今すぐ出しなさい!」と、ソラリスに掴みかかっていました。
しばらくは下巻の原稿を寄越せと叫び続け、ソラリスは「ない」の一点張り。そこでタイドは自身の心臓が爆発しそうな程、ドキドキしていることに気づきました。
原稿がなければ、新刊を出せなくなる――。
軽くパニックになり、タイドはソラリスにすがりつき、「下巻の原稿をください、お願いします」とひれ伏しました。それでもソラリスは「無理なの、分かって」としか言わない。この事実についぞタイドの頭の中は真っ白になります。
気づいたら、護身用に持ち歩いている短剣を鞄から取り出し、「紅茶でも飲んで落ち着いて」とこちらへ背を向けているソラリスの背にまず一突き。振り返ったソラリスの首元を斬りつけようにしました。
そこで我に返り、けたたましいオウムの声に、叫びそうになるのを堪え、倒れているソラリスのことを見下ろしたのです。ピクリとも動かず、血が広がる様子を見て、もうダメだろうとタイドは思いました。
さらに。
悪いのはソラリスよ。これまで通り、原稿をくれればいいのに。急に渡さないなんて言い出すのだから。
そこで現実に戻ります。
明日、出版社に原稿を入稿しないといけないのに!
こんなところでぐずぐずしていられないわ。
こうしてソラリスを放置し、タイドは本降りになった雨の中、止めている馬車のところまで一目散で戻ったのです。
孤児院の頃から共に生き、姉のようであり、友であり、自身の代わりに物語を用意してくれるソラリスのことを手に掛けたのに。タイドの頭はそのことよりも、原稿の穴埋めをどうするかで必死でした。こうなったら原稿はちゃんと書いておいたことにして、何らかのトラブルにより、紛失した、奪われた、持ち去られたことにするしかない。
そこで強盗に家へ入られたことを思いついたのです。