もう一度
「夏になると、クラスメイトの多くが、大川で泳いで遊んでいましたよね? あそこは川幅広く、水深は浅く、流れはゆったりです。昭和だから許されていたのかもしれませんが、水遊びをする時、必ずしもそばに大人はいませんでした」
そこで思い出す出来事があります。坊ちゃんは私の記憶をなぞるように、その出来事を話し始めました。
「あの日は、数日続いた雨で、川が増水していました。本当は泳いだりしない方がいいのですが、あの頃はそんな知識もなく……。みんな、いつもより深いと面白がり、川遊びをしていました。でもわたしはそもそもあまり水泳が得意ではなく、いつも離れた場所からみんなが泳いでいるのを、眺めていたんです」
「思い出しました。坊ちゃんは、『澄ました顔をして、泳ぎもろくにできなくせに!』とヒロシにからかわれ、『そんなことはないです!』と言って、川に入ったんですよね?」
「ええ。そして……溺れました。みんな驚き、悲鳴をあげたり、大人を呼ぶのに走り出したり。でも誰もわたしを助けるために、川へ飛び込むことはしませんでした。ですがそこに、みんなのためにアイスキャンディーを買いに行ってくれていた静江さんが戻って来て……」
そうです。私は両腕いっぱいに持っていたアイスキャンディーを全部その場にぶちまけて、全力疾走で川まで走り、あの時と同じ。そう、あの犬襲撃事件の時と同じように、着ていたワンピースを脱ぎ、水着姿になると、川に飛び込みました。泳ぐつもりでしたから、ワンピースの下はちゃんと水着を着ていたんですね。
「迷うことなく、川に飛び込み、わたしを助けてくれました。でもあれは危機一髪だったと思います。わたしは意識を失いかけていて、暴れることもありませんでした。もしわたしが暴れていたら、あの場で静江さんもわたしも……。あの時、わたしを助けてくれた静江さんのことを、わたしは忘れたことはありません。命の恩人です。そして……初恋の人でした」
これにはもうなんと言っていいのやら。前世でもこの世界でも、私はただ、目の前で溺れる人を見つけたので、助けたいと思っただけで……。
「命の恩人と強く思うことで、その気持ちを好意と勘違いされただけでは?」
さすがになんだか照れ臭く、こんな風に言ってしまいますが、坊ちゃんは首を振ります。
「その時だけではありません。ヒロシたちからは何度もからかわれていました。それに気が付くと静江さんは、ヒロシたちを叱ってくれましたよね。他の女子がわたしを敬遠しても、静江さんがだけが話しかけてくれました。あの時、静江さんと過ごした時間は、私の中で、今も変わらず宝物です」
これはつまり……普段から一緒に過ごしていた私のことを、本当に心から好きでいてくれた……ということですよね!? これにはもう……どうしたらいいのでしょうか。甘酸っぱい気持ちで胸がドキドキしてしまいます。
「前世では静江さんのことを諦めてしまいました。いや、諦めきれていなかったのでしょうね。最期の悪あがきで、あなたを探して……。でも間に合いませんでした。正太郎さんに見せていただいた闘病中のあなたの写真を見て、わたしは……」
坊ちゃんの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちます。とっても美しい顔なんですよ、坊ちゃんは。その顔に涙なんて似合わないのに!
「坊ちゃん、悲しい気持ちにさせてしまい、ごめんなさいね。確かに病院に入院していた時の私は……。でもほら、見てください。今はこんなに元気ですから。川に飛び込めるくらいね。それにこうやってパンケーキもスコーンもペロリ。もう大丈夫ですから」
そう言いながらハンカチを差し出すと、坊ちゃんは私の手を自身の手でぎゅっと握りしめました。
「静江さん。こんなところまで追いかけるわたしのこと、おかしいと思いますか?」
「そんな! むしろこんなところまで追いかけてくれる方なんて、坊ちゃんくらいしかいないですよ!」
「それを聞けて良かったです」
そこでようやく坊ちゃんも笑顔になります。そして私からハンカチを受け取り、自身の涙をぬぐいます。
「『天に在らば比翼の鳥 地に在らば連理の枝……』――静江さん……シェリーヌ公爵令嬢は、建国祭が始まる一週間前に、レストランのエントランスでこの言葉を呟かれましたよね。これを聞いた時は、心臓が止まるかと思いました。調べましたが、この世界に『源氏物語』も『長恨歌』も存在していません。ただカルーナという花の花言葉として『連理の枝』が知られているだけです。よってすぐにピンときましたよ。シェリーヌ公爵令嬢が転生者であると」
ああ、そうだったのですね。あの日、あのレストランに、坊ちゃんもいたのですか……!
「『連理の枝』は絡まり合い、決して離れない。そこでわたしは勝手に思ってしまいました。こんな偶然で再会できるのは、運命なのではないか。奇跡だと思いました。きっとあなたとわたしは『天に在らば比翼の鳥 地に在らば連理の枝』なのではないかと。前世では結ばれませんでした。ですがこの世界で、二人の魂は出会えたのです」
その後に坊ちゃんが私に伝えてくれた言葉。
それはもう夢のようでした。
女の子に生まれたのですから、前世でもこの世界でも。
一度はこんな言葉、言われてみたいと思っていました。
だって、坊ちゃんは。
私にとっても……初恋の人でした。
気が付くのは国際郵便が届かなくなってから。
でもそれでは遅かったのです。
その時代、海外旅行なんて、そう簡単に行けるわけではなく。お金だってうんとかかります。
インターネットもスマホもパソコンもありませんでしたから。
英国。
行ってみたいなぁと思いながら、歳だけどんどんとってしまいました。
初恋は思い出として胸の中にしまい。
お見合い結婚して、子どもが生まれ、孫にも恵まれ……。
その人生に後悔はありません。
だってみんなのこと、大好きですもの。
でも、もう一度。
一人の女の子として。
この世界で幸せになってもいいかしら……?