▼ 2035(令和17)年4月11日 水曜日 ▼ バツ2男の三度目の正直
▼ 2035(令和17)年4月11日 水曜日 ▼
3度目の結婚をするに至りました。
中には、僕のことを平凡な結婚生活を送ることすらできない甲斐性なしと罵る人もいるかもしれません。しかし、そんなことはないと声を大にして言いたい。言い訳がましく聞こえるかもしれないが、確かに一度目の結婚は若気の至りといえなくもない。しかし、二度目の結婚、そして離婚に関しては僕にいっさいの責任がないと断言できる。
というのも、二度目の離婚は結婚生活の失敗というよりは、お互いの幸せを願った結果にたどり着いた合理的な判断に基づくものだったからだ。あとは少しばかりの宗教的理由も含まれるけど、まあ聞いてくれ。
端的に言うと、妻が寝取られた。
僕が、それをどうして「結婚生活の失敗」と認めないか説明するうえで、妻の浮気相手について少しばかり触れなくてはならないだろう。離婚時の約束で名前こそ明かせないが、彼は身長190cmを超え体重も90kg前後という絞られた肉体で、その巨体とは裏腹に世の多くの女性を魅了するベビーフェイス、決して驕ることのないストイックで誠実な精神を持ち、そして何より世界で最も優れた選手の集まるスポーツリーグで年俸500万ドルを稼ぎ出す超スーパースターだった。
妻から浮気を告げられ、三人で話し合いたいと静かな料亭に呼び出された日には、如何に優しい僕といえ体中の血という血を滾らせていた。しかし、そこにスポーツ中継とニュースでしかお目にかかれない憧れの男が、心底面目無さそうな表情で現れたとなっては、不貞を働いた妻への怒りなどタンポポの種のごとく吹き飛ぶのも致し方ない。なんなら、彼のハートを射止めた我が妻を褒め称えんほどの心持ちだった。
浮気相手が、超有名俳優であったらどうだっただろうか。僕は、怒りのあまりそいつを社会的に抹殺してやろうと合法非合法を問わず数多の復讐プランを謀るであろう。しかし、そうはならなかった。それは僕が、彼の熱狂的なファンであったからだ。彼のスポーツ界における成功は、単に身体的能力によって為されたわけでは無い。頑強な肉体に携えた、その高潔な精神性こそが何より彼が天より授かった才能なのだ。不信心ながら、僕は彼に信仰心すら抱いていた。そんな彼が、目の前で頭を床にこすりつけて妻との離婚を乞いている。
僕は、妻を彼に譲ってあげてもいいかなと。どこか、娘を嫁にやる父親のような気分になっていた。
しかし、僕とて僅かながらの男の矜持はある。いくら浮気相手が彼であったとしても、妻を寝取られたというのに快く離婚届にサインをすることなどできようがなかった。僕のサインを要求するなら、代わりにお前のサイン色紙もくださいと願い出ることも我慢したほどだ。そんな躊躇を、妻は見て取ったのだろう。僕に、啓示ともとれる言葉を投げかけてきた。
「私に授けられたこの『恩恵』は、貴方にも起こりうることなのよ」
彼は、妻の言葉に首をかしげたが僕にはその意味がわかっていた。「恩恵」。すなわち、この玉の輿は、あの神による恩恵であると妻は示唆したのだ。その瞬間、僕の脳裏にはありえないはずの光景が広がった。それは、兼ねてより僕が憎しみ申し上げていた星野源からその妻・新垣結衣を奪い取る妄想だ。その妄想が、一気に現実味を帯び脳内を支配していった。
僕は、思わずウ~ンと唸った。果たして、そんなことがあり得るのだろうか。いや、いま現実に、その夢幻すら叶えてしまう神の恩恵を妻が見せつけているではないか。それどころか、神に気に入られている僕ならば、それはもはや夢と言った幽かなものではなく、限りなく到達しうる近しい将来と呼べるのではないだろうか。僕は、しばし熟考(する振りを)してから離婚届にサインをした。
この経緯を聞けば、僕が此度の離婚を「結婚生活の失敗ではない」と断ずる理由もご理解いただけたことと思う。この離婚は、あくまで夫婦が互いの利益を尊重し、合理的な判断を下した結果に過ぎないのだ。
残念ながら、三人目の妻は新垣結衣ではない。しかし、新たな妻は結衣に劣ることのない美貌と若さと心をもった素晴らしい女性だ。その出会いと、結婚に至るまでの恋物語は省かせてもらうが、今度こそ幸せな生涯を確信している。思い返せば、人生最大の幸福と思える「結婚」を二度も経験してきた僕である。だが、それらを乗り越え谷間を抜けたその先にこそ最大の幸福、「最後の結婚」が待っていたのだ。
この麗しい妻と添い遂げることこそ、僕の人生における「水曜日」にふさわしい。
ひとつ、残念な知らせがある。僕の人生を振り返ってみると、どうやら憧れていた凡庸な人生からはだいぶ外れてしまっているようだ。だけど、そうにしたって。僕は未だ人生の半分も生きていない。水曜日がノー残業デーだと喜ぶ社会人はいても、その先に待っている花の金曜日や楽しい連休のことを考えれば、まだまだ期待は冷め止まないはずだ。だが、期待したところでどうにもならないのが人生だということを僕は既に知ってしまった。
妹の死に直面したあの日。僕の人生から、全ての平均値以上の喜びも悲しみも取り払って、ソロモン・グランディの歌のように平凡のレールに乗って進めればと甘い夢をみた。しかし、幸運な人生や、不幸な人生がそうであるように、平凡な人生もまた望んで得られるものではないのだ。
ここのところの僕は、ソロモン・グランディの歌に準じることに固執してしまっていたけど、本当に大事なことはそこじゃない。たとえ僕が、望み通りの平凡な人生を迎えられないとしても。かつて抱いた、この人生を楽し気に過ごして見せるという気概は失っていない。
もう木曜は「病気」だだの、金曜は「危篤」だの言うのは辞めよう。僕の人生、これから何が待ち受けているのかなんて知りようが無いのだから。ならば、どんなに苦しく悲しい出来事が待っていたとしても、僕は僕自身の人生を、面白おかしく歌い上げればいい。そのやり方だけなら知っている。
いつだったか、ソロモン・グランディが教えてくれたんだ。