解決篇
蜷川槙次が寝屋にしているのは、大田区池上にある「池上ライフコーポ」という二階建てのアパート。白い外壁や階段の塗装は真新しいが塗り替えたのだろう。築三十年以上は優に経過していると見られる。大学を卒業して以降、彼の自宅を訪問するのは初めてだった。本の貸借は外のファミレスや喫茶店で済ませていたから。
呼び鈴を鳴らすと、分厚い黒縁眼鏡をかけた男がドアのすき間から顔を出す。「よお」と片手を上げると、蜷川はなぜかほっとしたように息を吐いた。
「悪いね、突然お邪魔して」
「歓迎するよ」
短い挨拶の後、部屋に招かれる。リビングキッチンは広々としていて、几帳面な蜷川らしく掃除も行き届いていた。天井からじゃばら折のパーテーションが下がっていたが、今は全開にされている。部屋の中央に黒いローテーブル、隅には小型の液晶テレビ、テレビと反対側の壁に天井すれすれの高さの本棚という配置だ。本棚には小説や単行本、仕事用の実務書がびっしり詰まっていて、もっとも手に取りやすい真ん中の段に私の著作が並んでいる。涙が出そうなくらい嬉しかった。もちろん、ここでめそめそ泣くことはしないが。
「大学生のときはよく互いのボロアパートを行き来していたけれど、卒業してから白浪を部屋に招くのは初めてだね」蜷川は懐かしそうに呟いた。
「どっちの部屋も風呂が狭すぎて、寝泊まりした日は銭湯に通っていたな」
軽口を叩きあう。意外と元気そうでほっとしたが、これから話すことを考えると気が重い。
「それで、突然『蜷川の家で話したいことがある』なんてどういう風の吹き回しだい」
今日は蒸し暑いな、と言うと、グラスに氷を入れて麦茶を注いでくれた。グラスに浮かぶ透明の塊を見つめながら、どう切り出せばいいかしばらく迷う。
「実は、大蔵の事件のことでさ。ちょっと相談というか、話をしたくて」
意を決して顔を上げると、対面に坐る蜷川と視線が交錯した。眼鏡の奥の瞳は穏やかな色をしていて、取り乱す様子もない。
「白浪のところにも、警察が来たんだね」級友は小さく笑う。「ここにも来たよ。ドアのすき間から警察手帳を見せて『蜷川槙次さんですね。大蔵孝道さんをご存じですか』だって。久しぶりだったよ、あの感覚。三年ぶりだった」
山之内彬の名は出ない。意図的に避けているのだろうか。
「どんなことを訊かれた?」
「形式的な質問ばかりだったよ」相手は少しつまらなさそうに言う。「大蔵とはどんな関係だとか、最近彼と会ったかとか。あと、『日曜日の深夜から明け方にかけて、どちらにいましたか』って質問もされたね。あれはアリバイ確認のつもりだったのかな? そんな時間、『ここで寝てました』しか答えようがないよな。行員は医者や警察官みたいに夜勤勤務なんてないし。明日から仕事って日の夜中に飲み歩くこともしないしね」
私が知る蜷川よりも饒舌に感じるのは、単に刑事の訪問に興奮したからなのか。そうであってほしい。
「大蔵のことについて、警察は何かきみに話したかい」
「特には。『大蔵さんは日曜日の深夜に亡くなりました。何者かに殺された可能性を視野に捜査しています』としか言われなかったよ。『さっきの深夜から明け方の質問、あれはアリバイ確認ですか』と訊ねたら、『お答えできません』ってさ。地味な色のスーツを着た武骨な刑事さんだったよ。昭和のデカって雰囲気だった」
紺野警部補とは別の刑事が聞き込みに来たのだろう。彼が訪問すれば「ハンカチ王子みたいな刑事だった」とでも言い表すかもしれない。
「未だに信じられないね。大蔵が殺されたなんて」
テーブルに置かれた二つのグラスにぼんやり視線を投じ、蜷川はぽつりと言う。
「それは僕も同じだよ。山之内のことだって、三年以上経った今でも現実味がない」
「山之内……あの悪夢みたいなクリスマスから、あと半年もすれば四年になるのか。時が経つのは早いな、俺らも歳をとるわけだ」
「まだ三十だろ。若さを懐かしがるには早すぎる」
ずれた眼鏡のフレームを持ち上げて、蜷川は苦笑する。「白浪は変わらないよ、大学の頃からずっと」
「そうかな? これでも年齢を感じる場面にちょいちょい遭遇するけれどね。最近食欲が落ちたなとか、ちょっとダッシュしただけで息切れするなとか」
「それは大いに同感だね」
二人で笑い合って、麦茶入りのグラスを傾ける。ふと、部屋に沈黙が下りた。網戸の窓の外で「こんにちはあ」という少女の元気な声がする。チリリン、チリリンと自転車のベルが鳴る。大学時代、まだ免許を取る前に蜷川と二人で「自転車で都内を周遊しよう。東京五十三次の地図を作るんだ」と息巻いたことがあったっけな。蜷川の自転車が盗難されて結局実現はしなかったけれど――と、現実逃避のように遠い過去を振り返っている場合ではない。こうなれば先手必勝だ。
「蜷川。三年前、お前と山之内の間に何があったんだ?」
直球を投げると、目の前の男はグラスからぱっと顔を上げた。真っ黒な瞳の中に初めて動揺の色が滲む。薄い唇が小さく開き、ごくりを唾を呑む音がする。
私と蜷川は、悲しいまでに異なる立場で向かい合っていた。私が探偵で蜷川は――犯人だ。
「何だよ、出し抜けにそんなこと訊いて」
はは、と力なく笑う蜷川。麦茶を飲み干した空のグラスに手を伸ばす。氷を口に入れ、がりっとかみ砕く音。
「細貝が聞いていたんだよ。三年前に長野のペンションに集まったとき、山之内と大蔵が内密に話していたことを」
「細貝が? 一体何を」
「山之内と大蔵、そして――蜷川の三人が何らかの犯罪に手を染めていたこと」
はっと息をのみ、瞠目する蜷川。視線が私からテーブルに落ちて、唇を舐める。自白したに等しい仕草だった。
「彼女、酔っていたんじゃないのか。でなければ空耳だ」
あくまで嘘を貫くつもりらしい。こちらに強力な切り札があるとも知らず。
「じゃあ、三年前の山之内が死んだ日のことは憶えているか」
「あまり思い出したくないな」
いやいやするように首を振る。私は詰問口調で話を続けた。
「思い出してくれ、そうでないと話が進まないから。三年前のクリスマスの朝、山之内が寝泊まりしている一階の居間へ最初に向かったのは安達だった。時間は、朝の十時過ぎ」
供述調書を読み返したから、記憶は正しいはずだ。
「安達の悲鳴が聞こえて、リビングで帰り支度をしていた僕らは慌てて山之内の部屋に駆けつけた。そのとき、最初に――正確には安達の次だけど――部屋に突入したのは、きみだったよね蜷川。きみなんだよ、大蔵の供述調書にしっかり記録されているんだ」
「お前、何でそんなものを読んでいるんだよ」
訝しげに問い返されたが、それを突っぱねて話を進める。
「きみが最初に部屋に入って、『山之内!』と叫び声をあげた。その次に僕、細貝、大蔵の順で部屋になだれ込み、山之内の遺体を発見。安達は床にへたり込んでいたし、きみや僕、細貝は何が起きたかまったく理解できず狼狽えていた。最後尾にいた大蔵が前に進み出て、山之内が絶命していることを確認してから『部屋を出よう。物に触れたり動かしたりするな、現場保存をしなきゃならん』と指示を飛ばす。全員が部屋を出たことを確認して、大蔵が警察と消防に通報した。これが一連の流れだ」
「まあ、調書に記録されているのならそうなんだろうな」
不承不承に頷く蜷川。まだ反論するような段階ではない。
「そのときの大蔵の調書には、こんな記載がされている。『部屋を出るとき、改めて室内の様子を確認しました。事情聴取されたとき、スムーズに答えられるように。部屋の中央よりやや手前に山之内くんの遺体があって、彼はうつ伏せで倒れていました。頭が出入口の方向を向いていたはずです。遺体のそばに、コーラのペットボトルとキャップ、それから小袋が落ちていました。それが何の袋かまでは確認していません。薬局なんかでもらうような、粉薬の入った透明の袋だったかもしれません。すべて私が部屋に入ったときからあったものだと思います』――理路整然とした説明だな、さすが現役の警察官だよ」
「俺らだけだったら、山之内の遺体を不用意に動かしたり遺留品を触ったりして現場をめちゃくちゃにしていたかもな。お前も、推理小説家の端くれのくせにすっかり取り乱していた」
それは反省している。推理作家の面目丸潰れだ。
「大蔵の冷静な観察眼のおかげで、事件をひも解く重要な手がかりが残されることになった。まず一つ、メンバーが現場に突入した順番。二つ、現場に残されていた遺留品。そして最後は」
チノパンのポケットから取り出したそれを、空になった二つのグラスの間に置く。
「これが何か、きみなら判るよな」
蜷川は、眼鏡越しに両目をこれでもかとばかり見開いて机上に視線を注いでいる。コーラのロゴが入った赤いキャップを。
「こんなの……俺じゃなくたって判るだろう。ペットボトルのキャップだろ。コーラの」
「そうだね。でも、これが山之内殺害のトリックに使われたキャップだと判るのは、きみだけだ」
キャップから素早く顔を上げた。眼鏡フレームの奥で切れ長の目が何度も瞬きを繰り返す。
「どういう意味だよ。まったく理解できない」
「そんなはずはない。これは、きみが山之内を自殺に見せかけて殺害するために使った物証なんだから」
蜷川は魚のように口をぱくぱくとさせている。私は一気にまくし立てた。
「きみが立てた山之内殺害計画は、こうだ。リビングの冷蔵庫に用意されていたコーラの一本に、予め毒を混入させておく。毒物は注射器を使ってキャップから注入した。一度蓋を開けてしまえば炭酸ガスが抜けてしまう、きみはそれを危惧して注射器という方法を選んだんだ。針ほどの小さな穴であれば、ガスが抜けたとしても微々たる量だからね。毒入りペットボトルを冷蔵庫に戻したきみは、それを山之内以外の人間が手にしないように、リビングで酒盛りをしているあいだ細心の注意を払っていた。そしてようやくお開きになったとき、自ら冷蔵庫に近づき飲み物を取りだすと全員に配りはじめた。このときの様子は細貝の調書にも記録されている。『山之内くんが、蜷川くんに冷蔵庫の飲み物を取ってほしいと頼みました。蜷川くんは、山之内くんの分だけでなく私たちみんなにミネラルウォーターやお茶のペットボトルを渡してくれました。気が利くんです、彼』。きみは気配り上手を演じながら、自然な流れで山之内に毒入りコーラを渡すことに成功した。あとは、山之内が部屋でコーラに口をつけるのをじっと待てばいい。きみが夢うつつになっている頃、山之内は部屋で悶え苦しんでいたのかもしれないな」
蜷川がそんな残酷な奴だとは、信じたくなかった。けれど、そう信じ込まなければ事件は解明できない。
「朝になり山之内の遺体と対面したとき、どさくさに紛れて注射針の痕が残ったキャップと新しいキャップを入れ替え、毒薬入りの袋を現場に置く。こうすれば『山之内は袋の毒を自ら服用し、コーラを飲んで自殺を図った』と警察が解釈してくれるだろう。注射器は手のひらほどの大きさしかないから、石でも錘にして近くの湖に沈めればいい。土の中に埋めれば警察犬や捜査員に掘り起こされるかもしれないけれど、あそこの湖畔はかなりの面積を有していたし、水を汲み上げてまで捜索されることはないはず。そもそも、自殺としか思えない状況でそこまでの捜査はしないはずだ――それがきみの完全犯罪計画だった。山之内彬の死は、自殺でもって幕を閉じる。その予定だったんだ」
ここで一呼吸する。そして、核心を突いた。
「山之内が冷蔵庫の下にキャップを滑り込ませなければ、ね」
ゴトン、と鈍い音がした。蜷川が、グラスを手で払い倒したのだ。その拍子に、証拠品のキャップが床に飛ぶ。
「くそ――くそっ!」
手の甲に血管が浮くほど拳を強く握りしめ、テーブルを何度も叩いた。やがて音は止み、代わりに低い嗚咽が部屋に染み渡る。私は何も言えず、二人の学友を殺めた彼をただ見ているだけだった。
「大蔵があれを見つけたのは、冷蔵庫の下にあった隠しスペースを確認するためだったんだ」
蜷川は、部屋の隅に転がったキャップを虚ろな目で見やる。
「隠しスペース?」
「ああ。そこには金庫が入れてあったんだ。電話詐欺で得た金を隠しておくための金庫がね」
山之内彬、大蔵孝道、そして蜷川槙次の三人が電話詐欺を始めたのは、山之内の死の一年ほど前からだったという。
「細貝は、俺は実行犯じゃないと言っていたみたいだれど、それこそ聞き間違いだ。計画したのは山之内、そして大蔵と俺が実行犯だった。大蔵が独り身の高齢者を中心に電話をかけまくって、警察を名乗り――実際あいつは警察官だったわけだけれど――架空の銀行口座に金を入れるよう誘導する。振り込みは、俺が勤めている支店でしかできないと言うわけだ。そして店にやってきたカモに、俺が懇切丁寧にATMの操作方法を説明する。周囲に怪しまれないよう入金させるのは何度やっても冷や冷やして慣れなかった」
その積み重ねで、一年で騙し取った金額は二千万円以上にものぼるという。
「何度も止めようと思った。こんなことをしてよいはずがない。頭では判っていたんだ。でも、止められなかった。あいつに――山之内に、弱みを握られていて」
「弱み?」
顔を歪めて、ぽつりと一言。「スリだよ」
大学時代、蜷川は出来心で電車内の客から一度だけ財布をスった。その現場を、運悪く山之内に目撃されてしまったのだ。山之内は警察に突き出さない代償として、彼と主従関係を結んだ。
「大学を卒業してから、今度こそやり直してやるって固く誓ったんだ。もう山之内の影に怯えることもない、堂々とお天道様の下を歩けるような真人間になるって。なのに」
たった一度の過ちのせいで、彼は社会に出てからも山之内の呪縛から逃れることはできなかった。のみならず、大蔵という新たな悪魔も加わり、三人は運命共同体として悪の道を歩みはじめた。
「俺の計画は、大蔵のせいですべてパーになった。山之内が毒に冒されもがいたときの弾みで、キャップが冷蔵庫の下に飛んでいったんだ。山之内の部屋に入った瞬間、『マズいことになった』と思った。とりあえず替え用のキャップを床に置いて警察が捌けてから探すしかないと判断したけど、甘かったよ。まさか俺より先に大蔵があれを見つけるなんて。誤算だった」
電話詐欺の不法収入は、ペンションの山之内の部屋に隠していた。大蔵は、詐欺の物証が警察の目に留まる前にそれを回収しようとして、山之内殺しの物証もたまたま見つけたのだ。
「大蔵は、その物証をネタにしてきみを脅迫していたのか」
かつて互いのアパートを往来した級友は、床のキャップから目を逸らして「ああ」と首肯する。
「『山之内は死んだが、あいつがいなくても詐欺は継続できる』って、電話詐欺を続けようって恐喝してきたんだ。拒めるわけがない。どっちの道を選んでも破滅に代わりはないけれど、詐欺を断ればあいつは確実に俺を警察に売る。山之内殺しの犯人として。選択の余地はなかったんだ」
崖っぷちまで追い込まれた蜷川は、ついに大蔵を亡き者にしようと決意した。もちろん法的にはそれは間違った判断であるわけだが、そこに至るまで彼の中にどれほどの葛藤や苦悩があっただろう――『殺人は月桂樹の下で』を筆した私でも想像を絶する。そして、そこまで追い詰められていた友を救えなかった自分が何より情けない。
「ありがとう、白浪」
膝の上で握っていた拳から、顔をあげる。先までは濁った瞳で赤いキャップを見ていた蜷川が、憑きものが落ちたかのようなさっぱりした笑みを浮かべて私に向かい合っていた。
「最後に、きみにすべてを話せてよかった。こんなことになるなら、もっと早くきみに打ち明けておくべきだった。そうすれば」
言いかけて、「いや」と首を横に振る。
「やめよう。どんなに悔やんだって、俺が犯した罪は帳消しにならない。これから自分にできることを、ゆっくり考えることにするよ」
細貝志保も同じことを言っていたな――そう思った瞬間、尻ポケットのスマートフォンが震えた。「ちょっと」と断ってから電話に出る。外で待機している紺野警部補からだ。
『白浪さん、落ち着いて聞いてください。実は――』
警部補からの知らせを耳にした途端、スマートフォンが手から滑り落ちた。
「結局、僕は誰も救えなかったんだ。ただ、事が悪いほうに動くのを見ているだけだった」
黒瀬探偵事務所の応接ルームで、私はソファに身を沈めていた。黒瀬が茶を入れてくれたが、手を付ける気にもなれない。
有働彩美が、細貝志保に襲われた――蜷川の部屋で、紺野警部補から告げられたのはあまりに想定外の出来事だった。彩美は今も集中治療室にいる。身に宿した新しい命とともに。細貝志保は、傷害罪の現行犯で逮捕された。
「まさか、有働が妊娠していたのが大蔵の子だったなんて。細貝は有働からそれを告げられて、逆上して彼女に襲いかかったんだ」
三年前、長野のペンションに集った者たちはそれぞれの腹に黒いものを渦巻かせていた。私だけが何も気づかず暢気に振舞っていたのだ。私はただ、水面に咲く蓮を堪能していたにすぎない。その美しく咲き誇る姿の下で泥水が広がっていることも知らずに。
「悲劇のヒロインぶってるんじゃねえよ」
向かいのソファで寝そべっていた黒瀬が、よっこらせと身を起こしながら言い放った。棘のある物言いに「どういう意味だよ」と反抗的に返す。
「『周囲が助けてくれなかったから罪を犯しました』――そんな言い訳が世の中で通用すると思うか。たとえお前が説得したとしても、蜷川槙次は大蔵の指示に従って詐欺を繰り返したかもしれない。誰かが咎めたとしても、有働彩美は大蔵との不倫関係から抜け出せなかったかもしれない。警察が止めようとも、細貝志保はその手を振り払って有働に刃を突き立てたかもしれない。すべては本人が決めたことだ。その責任は本人が背負うしかない。お前が自分を呵責するのはお門違いもいいところさ」
慰められているのだろうか。けれど、黒瀬に断言されると何故だか「そうかもな」と思えてくるから不思議である。
「そう、かもね。今回はそう言い聞かせることにするよ……ところで黒瀬。例のコーラのキャップはどこから見つけ出してきたんだ? 昨日事務所に帰ってきたときは、『大蔵の遺留品からは目ぼしい物証は見つからなかった』ってぼやいていたじゃないか」
私のために淹れてくれたはずの茶を、今は黒瀬が美味そうに飲んでいる。別にいいのだが、彼はそこまで日本茶が好きだったのか。好物はオムライスのくせに子ども舌なのか爺臭いのかよく判らない。
「ああ、それな。というか、お前も勘付いていたんじゃないのか。俺はそのつもりでお前にあのキャップを託したのに」
「まさか。黒瀬があれをテーブルに出したときは手品かと思ったよ」
毒舌探偵は「嘘だろ」と呆れ顔。さすがに冗談だが、彼がキャップをどこで発見したかは今でも謎なのだ。
「木を隠すなら森の中。針を隠すなら干し草の中」紺野警部補の受け売りらしい。「それでは問題です。ペットボトルのキャップを隠すなら?」
「キャップの山の中、だろ? でもそこにはなかったはずだ」
「ブー」黒瀬は両手の人差し指をクロスさせる。「答えは、『ゴミを隠すならゴミの中』だ」
「まさか、現場のゴミ箱の中?」
「不正解」
「マンションの共同ゴミ置き場……じゃ、とっくに回収されているはずだな。ううん、ギブアップ」
探偵の男は、「ままごとは終わり」と言われた子どものように頬を膨らませる。
「では最後の問題です。お前が有働や細貝のところを訪問していたとき、俺はどこに行っていたでしょうか――答えは、警視庁大井署です」
大蔵が勤務していた警察署だ。まさか、そこのゴミ箱にでも捨てられていたというのか?
「それも違うね。あのブツがあったのは、大蔵のデスクの引き出しだ。ガムの包み紙やインクの切れたボールペン、中身が残ったポケットティッシュなんかとごちゃまぜになっていた」
開いた口が塞がらなかった。ゴミを隠すならゴミの中。もとい、灯台下暗しというべきか。
「大蔵も考えたものだな。蜷川がいくら探したところで見つけられないはずだ。大蔵しか知らない、大蔵以外目も向けない。仮に誰かが見たとしても、まさか殺人事件の物証なんて想像もしない」
とことん悪知恵が働く男だったのだ、大蔵孝道は。警察官でありながら、頭の回転の速さを悪事に利用するとは。皮肉にもほどがある。
「大蔵孝道が一筋縄ではいかない奴だってことは、お前の話を聞いたときから感じていた。だから、あのキャップの山を見たときも思ったのさ。大蔵は、あの山の中に物証を隠してなどいない。おそらくあれは、万一蜷川が大蔵の家に上がり込んだときを想定したカムフラージュだったのではないか、とな」
彼らを大学時代から知っている私より、ちらりと話を聞いただけの黒瀬のほうがよほど観察眼に長けている。これが探偵のあるべき姿なのかもしれない。私はとことん助手向きなのだ。それも、犯人の掌の上で踊るようなへっぽこ助手である。
「さて、と。捜査はこれにて終了。買い物に行こうぜ」
ソファから立ち上がり背伸びをする黒瀬に、「買い物?」と鸚鵡返しする。
「事務所の冷蔵庫が空っぽなんだよ。今夜の晩餐はデミグラスオムライスに決まりだ。もちろん、ソースは一から手作りだ――何ぼさっとしている、お前がキッチンに立つんだよ。結局俺のおかげでお前の容疑は無事晴れたんだからな。いいか、俺の舌が唸るくらいのオムライスを作れよ」
言いたい放題の黒瀬に続いて、雑居ビルの階段を降りる。薄暗い建物から街道に出ると、頭上から注ぐ陽光が眩しくて目を細めた。連なるビルの間から蒼天がどこまでも高く伸びている。切ないほどに青い空だった。
山之内彬、大蔵孝道、蜷川槙次、有働彩美、細貝志保――彼らの犯した罪が「若さゆえ」で片づけられるなら、どんなに気が楽だろう。だが、若さは未熟と同義だ。彼らは人として未熟だった。私もまた同じである。私たちは、青にまみれた罪人だ。その青を、これから塗り替えられるだろうか。
「ほら、ぼやっとしてると置いてくぞ」
道の向こうで黒瀬が叫ぶ。その名に相応しく全身を黒ファッションで統一した男。彼は今、何色に染まってるのだろう。案外、何色にも染まっていないかもしれない。
「今行くよ――」
大声で返し、道を駆ける。今この道ですれ違う者の中にも青い罪人がいるのかもしれない。だが、その色もやがて移り変わるだろう。名前もつけられないほど幾多の色が混じった都会の道を歩むうちに。カラフルに移りゆく私たちを、青空だけが変わらないまま見守ってくれるはずである。