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捜査篇


「お二人のことは、桃川警部からよく伺っていますよ」

 覆面パトカーの運転席で優雅にステアリングを操りながら、紺野(こんの)警部補は笑顔を見せる。バックミラー越しに白い歯が眩しい。

「生憎、桃川班は今回の捜査から外されていましてね。ですがご安心を。お二人のエスコートは私が仰せつかっておりますので」

 小麦色の肌に均整の取れた体形は爽やかなスポーツマンを連想させるが、物言いは執事さながらである。聞けば助手席の黒瀬より一つ年上らしいが、私なら確実に性悪探偵よりも紳士然とした警部補を友人にしたい。

 ジェントルマン警部補とヤクザ探偵、しがない推理作家の珍トリオを乗せた車は、品川区大井エリアに突入する。大森貝塚遺跡庭園を通過しほどなくしてから到着したのは、大蔵が住んでいたマンション「パレス山王」。宮殿なんて大層な名前のわりには、グレーの外壁の集合住宅は小ぢんまりとした三階建てだ。大蔵孝道は、宮殿内の三階三〇三号室の家主だった。

「しかし、一体何でしょうね。大蔵が持っていた山之内殺しの重要な物証とは」

 玄関に張られた規制線をくぐり、紺野警部補は我々を中へ招き入れる。部屋は上から見ると二等辺三角形のような形になっていて、フロントから奥にかけてだんだんと広くなる構造だ。入ってすぐのところがキッチンで、その床を警部補が指さす。

「大蔵は、キッチンでうつ伏せの状態になって絶命していました。モアイ像で後頭部を一撃です。大蔵は現役の警官らしく体格にも恵まれ、大井署では腕っぷしもなかなかだったと聞き及んでいます。その大蔵を即死させるほど、犯人は渾身の力を込めて凶器を振り下ろしたことになりますね」

 たしかに、大蔵は学生時代から腕力にも定評があり運動部からのスカウトも多かった。大学在学中は剣道部に所属していたが、その頃から警察官の道を志していたのかもしれない。屈強な体躯に似合わない穏やかな笑顔が印象的な男だった。まさか自分が殺人事件の渦中の人となるなど想像もしていなかったことだろう。それも被害者という立場で。

「現場からなくなっているものは、財布の中の紙幣数枚と腕時計数点だけですか」

 キッチンをざっと見回しただけですぐ奥の洋間へと移動した黒瀬は、そこから声を張り上げる。

「ええ。その洋室に縦長のガラスケースがあるでしょう。そこに時計のコレクションを展示していたようです」

 洋間へ行くと、黒瀬の身長よりやや低いくらいのガラスキャビネットが壁に据え置かれていた。五段構えになっていて、一番下の段には年代物のワインが数本並んでいる。その上には船の模型、さらに上には男物の香水。意外とお洒落に気を遣う男だったのかもしれない。腕時計は、上二段分を占領するほどの量だった。今は二段とも空っぽになっているが、盗難を免れた腕時計は証拠品として警察が押収しているらしい。

「もし、大蔵殺しが強盗に見せかけた殺人であるのなら、大蔵の時計コレクションは犯人の目的とするブツではなかったことになる。となると、盗んだ時計をそのまま手元に置くような間抜けなこともしないだろうから、質屋に入れるかどこかに遺棄した可能性が高い」

「現場の共同ゴミ置き場や周辺のゴミ箱、質屋を捜査員が血眼になって捜索していますよ」

 ぶつぶつと独り言つ黒瀬に、警部補は先回りして言い添える。

「ここから大蔵以外の指紋は出てきていないのですか」

 今度は私からの質問だ。ジェントルマン警部補は歯磨きのコマーシャルに出演できそうな惚れ惚れとするスマイルを浮かべて、

「複数検出されましたが、いずれも大蔵の同僚のもので事件との関連性は見出せていません。大蔵は仲の良い同期を家に招いては酒盛りする趣味があったそうで、そのときに付いたものでしょうね。一応事件当時のアリバイを確認しましたが、指紋に該当する関係者は全員シロでした」

 大蔵孝道の死亡推定時刻は、日曜日の深夜零時から二時の間。そんな時間にアリバイが成立しているのも不自然な気がしないではないが、大半は勤務時間と被っていたらしい。交番勤務の警官は夜勤当番があるのだ。シフトを意図的に操作することは不可能なので、疑いを挟む余地はない。

「三年前の事件関係者の指紋は、一つも出なかったのですか」

「ええ。もちろん、白浪先生の分も含めて検出されていません」

 こんなところで私の指紋が見つかったなら、それは怪奇現象としか説明しようがない。

「二度目の殺人ともなれば、犯人も慎重さに磨きがかかっていることでしょうね」

 山之内殺しと大蔵殺しは同一犯によるものである、という仮説を黒瀬は強く支持しているのだ。私としては、三年前に再会したメンバーが二度も犯罪に手を染めている事態は歓迎できない。しかしながら、黒瀬の仮説が真であるならばたとえ級友であろうとも犯罪を見過ごすわけにはいかない。いや、級友だからこそきちんと罪を償ってほしいと願うばかりである。

「犯人につながる証拠はまだ見つかっていませんが、大蔵は時計以外にもあるものを熱心に収集していたようです」

 紺野警部補が気になることを言い出した。その「熱心に収集していたもの」が事件に関係しているのだろうか。

「まあ、我々は特に事件に重大な影響を及ぼすものとは認識していませんが」

 言いながら、警部補は洋室と隣り合う和室へと足を向ける。後をついていくと、横にスライドするタイプの押し入れの前でこちらを振り返った。

「その押し入れの中に、何か?」

 黒瀬が問うと、エスコート担当の警部補は襖を横に引く。二段構えになった押し入れの下段に、()()はあった。透明なゴミ袋に詰めこまれた、大量のペットボトルのキャップが。



 大蔵のマンションを出てから、私は黒瀬と別行動を取ることになった。「警察が押収した大蔵の遺留品を見たい」と黒瀬が主張したからだ。紺野警部補は私と黒瀬を三年前の事件関係者と引き合わせるつもりだったが、「そっちはお前だけで行け」と黒瀬に突っぱねられてしまった。結果、傍若無人な探偵は警部補が呼び出した灰谷(はいたに)という若手刑事の案内で警視庁へ、私はジェントルマン警部補とともに聞き込み調査へ繰り出した。

「黒瀬さんは、大蔵が収集していたペットボトルのキャップが事件をひも解く鍵になっている、とお考えなのでしょうか」

 助手席から外の街並みをぼんやり見ていた私に、運転手が気さくに話しかける。

「ああ……どうでしょうね。山之内の事件でも、現場にペットボトルの遺留品があったから。それと結びつけているのかもしれません」

「山之内殺しの犯人が、ペットボトルの蓋の裏に毒を仕込んでいたとでも?」

 クスクスとおかしそうに笑う警部補。嫌味ではなく、純粋に面白がっているような口吻だ。

「仮に、山之内殺しの謎を解き明かす手がかりがペットボトルのキャップだったとしましょう。しかしながら、犯人にはそれを回収するチャンスがあったわけですよね。なぜなら、現場には犯人が用意したと思われる粉薬の袋が残されていたから。黒瀬さんの仮説をもとにするならば、その袋を現場に紛れ込ませたのは山之内殺しの犯人です。だとすれば、袋を現場に残す際にペットボトルの蓋も回収できたはずですね」

「ええ。しかし、その物証を大蔵が隠し持っていた――そうか!」

 運転中に隣で大声を出されることなど慣れっこであるかのように、警部補は「どうしました?」とのんびりした口調で訊ねてくる。私と四つしか変わらない歳のはずだが、この落ち着きと貫禄は見習いたいものだ。

「ああ、すみません。突然叫んでしまって。もしかすると、大蔵は山之内殺しの証拠をカムフラージュするためにペットボトルの蓋の収集を始めたのではないでしょうか」

「木を隠すなら森の中、ですか。ちなみに、あのキャップの山は科捜研がすべて検めて一個たりとも毒物は付着していないことが判明しています」

「え、あれをすべて調べたのですか」

 警部補がキャップの山を我々に見せたとき「特に事件に重大な影響を及ぼすものとは認識していない」と宣わっていたのは、単なる憶測ではなく科学捜査という揺るぎない足場に立ってのことだったのだ。警視庁の組織力と科学力の賜物である。

「しかし、犯人が大蔵を殺害した後、キャップの山を漁って奇跡的に山之内殺しの物証を発見したのかもしれませんよ」

「あの大量のキャップの山から、ですか? 人を殺して一刻も早く現場から立ち去りたいであろう犯人が、そんな気の遠くなる作業を現場でするでしょうか」

 そう指摘されるとぐうの音も出ない。リスクを避けるならキャップが入った袋ごと持ち去り自宅で確かめればよいはずだ。犯行時間は深夜であるし、大蔵のマンションは裏手の階段を使えば監視カメラ付きの玄関ホールを通らずとも各階へ出入りできる構造になっていた。人目を避けて現場を離れることもそう難しくはない。

「大蔵が山之内殺しの証拠品に目立つ印をつけていた、なんてこともあり得ませんよね」

「だとすれば、犯人にとっては有難いですけれどね」

「では、最初からあの中に山之内殺しのブツはなかったということでしょうか」

「そう推定するのが自然でしょう。仮に大蔵が大量のキャップの中にブツを紛れ込ませていたとして、万一そのブツが緊急で必要になったときに困るのは大蔵自身です。キャップの数はゆうに千を超えていましたから――慈善活動と称して周囲の友人知人からも回収していた可能性がありますね――その中から特定の一つを探し当てるのは干し草の山から針を探すようなものです」

 あるいは、クローバー畑から四つ葉を探し当てるようなものかもしれない。もっとも、犯人が目を皿のようにして探し求めていたのは幸福を運ぶアイテムなどではないが。

 などという話をしていたら、目的地に到着した。品川から所変わって港区海岸。東京湾に面した二十五階建てのマンションが目の前にそびえ立ってる。三年前、山之内と悲劇的な形で別れることになってしまった安達彩美の住処だ。彩美は二十階の一部屋を購入し、不動産会社に勤める旦那と二人で暮らしているとのこと。湾岸警察署にほど近いここ「ローレル芝浦」は、東京湾を挟んで豊洲方面の街並みを臨むことができる好立地にあり、新婚カップルを中心に人気の物件らしい。

 細く開いたドア越しに警察手帳を確認してから、家主はドアチェーンを外した。紺野警部補の肩越しからのぞいた顔に、女は驚いたように目を丸くする。

「白浪くん――びっくりね、こんな形で再会するなんて」

 玄関の表札には「有働」の姓。あの悲惨な事件が起きなければ、彼女は山之内彩美になっていたかもしれない。そんな虚しい妄想が一瞬だけ頭をよぎる。

 男二人が通されたのは、モデルルームのようなリビングキッチンだ。大きな掃き出し窓はバルコニーに通じていて、柔らかな陽光が消灯した部屋に降り注いでいる。バルコニーに出ると昼下がりの穏やかな東京湾が眼下に広がっていて、殺人事件の聞き込みでなければ「そこでちょっとお茶でも」と誘いたくなるようなシーンだった。

「刑事さんから大蔵くんのことを聞いたときは、耳を疑ったわ。一仕事終えて、このリビングで転寝していたところだったのよ。『夢でもみているのかしら』って、呑気に考えてた。そうじゃないって判った瞬間、頭がクラクラして……血の気が失せるってこういうことなんだって、リアルに体感したわ」

 オフホワイトのソファに腰かけ、専業主婦の彩美は力なく笑う。緩くパーマをかけたボブカットの髪は、せめて顔色を良く見せようとするかのように明るい茶色に染めている。大学時代は愛らしい丸顔がチャームポイントだったが、今は学生の面影もなくほっそりとした卵型だ。

「三年前の事件のとき、しばらく夜も眠れないほど落ち込んだの。睡眠薬が手放せなくってね。結婚してしばらくしてからよ、やっと薬に頼らず夜を過ごせるようになったのは。それなのに」

 先が続かず、無言で頭を垂れる。二つの事件は、彩美にとって身体的にも精神的にも大きな衝撃だったのだろう。紺野警部補は形式的な弔辞を述べてから、

「大蔵孝道さんの死の真相を、我々は一分一秒でも早く解明するため尽力しています。お辛いところを恐縮ですが、お力添えいただけますか」

 幼児をあやすような丸みのある発声は、黒瀬とは違った意味で老若男女を陥落させる魅力があった。彩美とて例外ではなく、ふっと顔を上げて潤んだ目で対面に坐る警部補を見つめる。

「もちろんです。警察は、山之内くんの事件についても再捜査なさっているのですよね。二つの事件を早く解決してください。でないと、山之内くんも大蔵くんも浮かばれない」

 小さく鼻を啜ってから、「私、できることは何でも協力いたします」と気丈な声をあげた。警部補はとろけるような微笑みを見せてから、厳つい警察手帳を開いて聴取を開始する。

「山之内さんに関してでも、大蔵さんに関してでも結構です。彼らが何かトラブルを抱えていたような気配はありませんでしたか」

「誰かに恨まれていたか、という意味ですか」

「そのように受け取っていただいても構いません」

「二人ともそんな人じゃない……と言いたいところですが、本音ではよく判りません。刑事さんもすでにお調べになっていることでしょうが、山之内くんは世間知らずといいますか、世の中の常識や価値観から少しズレたところがありました。その浮世離れした雰囲気が魅力でもありましたけれど、あらぬところで反感を買うこともあったかもしれません」

 いいところのお坊ちゃん、という空気感はたしかに纏っていた。「パンが無ければお菓子を食べればいい」ではないが、無意識に上流階級を匂わせる言動も時たまだが見られることがあった。それでも山之内の周囲には一定数の支持者が集まっていて、彼らの目には上流民ならではの破天荒さや自由奔放さがアトラクティブに映ったのかもしれない。

「大蔵くんは一言で表すなら、頼りがいのある(ひと)、かな。現役の警察官っていうフィルターもあったのでしょうが、いざってときにすべてを預けられる逞しさみたいなものがありました。三年前もそう。山之内くんの死体を前にみんなが冷静さを失って、動揺していて……そんな中で、唯一場を取り仕切っていたのが大蔵くんでした。彼がいなかったら、警察を呼んだり現場保存? っていうんですかね。そういうこともままならない状況だったと思います。みんなが彼を頼りにしていた」

 恥ずかしながら、山之内彬の死を前にしたときは私も周章狼狽していた。架空の物語の中では幾多の死体を生み出しているくせに、その想像力も現実では何の役にも立たないことが露呈した瞬間だった。他方で、大蔵の冷静沈着ぶりや素早い判断力には舌を巻いたものだった。

「では、当時長野に集ったメンバーとの間柄はどうでしたか」

 警部補はいきなり核心を突いた。助走なしに走り幅跳びをするかのように。彩美も虚を突かれたようで睫毛の長い目を大きく見開いている。

「それは……私たちの中に、二人を殺すような確執があったのかという質問ですか」

 途端、苦々しい顔になる彩美。嫌悪の色を隠そうともしない。警察にとっては相手にしやすいタイプかもしれないが。

「山之内くんのときもそうだった。痛くもない腹を散々探られて、人のプライバシーに土足で踏み込んできて。それがお仕事だってことは承知していますけれど、良い気はしなかったわ」

「仰る通り、職務の一環です。あなた方には黙秘権がありますが、沈黙が増えるだけ心証も比例して悪くなります。どうお考えになるかは自由ですけれどね」

 話し方は丁寧だが、「黙っていてもろくなことはないぞ」と見えない圧力をかけているようでもあった。婉曲的な揺さぶり方はさすが刑事らしいテクニックである。彩美はしばらく唇を固く真一文字に結んでいたが、警部補の静かな圧に気おされたのか「ふう」と小さく吐息をもらす。

「山之内くんから、入籍日を先延ばししてほしいと打診されました」

 山之内彬との間にあった蟠りを、女は告白した。一度吐いてしまえば何とやらで、すらすらとよどみなく証言してくれる。

「あと半年だけ、入籍の日を延ばしてほしいと。私は強く反対しました。両家へのご挨拶も済ませていて、双方の家の了承を得て入籍日を決めたんです。今更日を改めろなんて、しかも半年も先なんて非常識よ――って、私は主張しました。でも、あっちもなかなか折れなくて。理由を訊いてものらくらと躱すばかりで、肝心な部分は曖昧にやりすごそうとするんです。私もつい感情的になってしまって、今となっては大人げなかったと思わないでもないですが。その大喧嘩をしたのが、クリスマスの一週間前でした」

「そのことを、当事者であるお二人以外に知っていた人物は?」

「私は志保に――細貝さんに不満をぶちまけました。喧嘩した日の夜中に、電話で。優しく慰めてくれましたよ。それで少しだけ気分も落ち着いて。山之内くんが誰かに相談していたかは、私の知るところではありません」

「大蔵さんに、内密に相談していた可能性は」

「あるかもしれませんね。二人は気の置けない仲だったから。私から問い質したことはないですが」

「お話いただきありがとうございます。ちなみに、蜷川さんや細貝さんは、山之内さん大蔵さんとは良好な関係を築いていたのでしょうか」

 彩美は小首を傾げて、私をちらと見る。

「さあ。細貝さんは、大蔵くんに少しだけ憧れているような節もありましたけれど。真偽のほどは定かではありません。本人に質すのが一番だと思います。蜷川くんも同じですね」

 もう話すべきことは洗いざらい話した、というように肩を大きく上下させる。秘密を暴露したことで荷が下りたのかもしれない。先ほどよりも幾分か晴れやかな顔をしていた。

「ご協力、感謝いたします……最後に、もう一つだけ質問させてください」

「何でしょう」

「大蔵さんが、ペットボトルのキャップを収集していたことはご存じですか」

「キャップ……そういえば、慈善活動とかいって集めていたような気がします。たしか、集めたキャップが医療用のワクチンに変わるんでしたっけ。それで、貧困に苦しむ国の子どもたちの支援になるとか。正義感の強い彼らしいなと思いました」

 そんな人が殺されてしまうなんて。最後にもう一度、彩美は小さく鼻をかんだ。顔色が冴えないので、警部補は丁重に礼を告げてから部屋を去る。玄関に向かいかけたとき不意に振り返ると、彩美はソファの背もたれに手をついて苦しそうな顔をしていた。空いた手を腹部に宛がっている。はっとした。

 妊娠しているのだ。



「あれから、三年も経ったのね」

 丁寧にもコーヒーを淹れようとした細貝志保に、紺野警部補は「お構いなく」と辞する。志保はグラスにペットボトルのお茶を注ぎ、可愛らしい花柄のコースターを敷いて出してくれた。網戸だけ閉じた窓から、チリリンという自転車のベルが聞こえてくる。練馬駅から徒歩五分ほどのここ「豊玉アリビオマンション」は、住宅街の一角でよい静けさを保ちつつ駅近という好立地に建てられていた。徒歩圏内に練馬図書館があるのも、個人的には羨ましい条件である。

「現実味がないわ。山之内くんの件も、大蔵くんの事件も。警察が自分の家を訪問していることも。まるで小説の登場人物になったみたいで、どこかに台本がないかしらってソワソワしちゃう」

 長い黒髪を一つに結った女は、華奢な肩を竦めてから眼鏡越しに私をじっと見る。

「白浪くんは、あれから元気だった?」

 あまりに真っ直ぐな視線だったので、思わずしっかり見つめ返してから「ああ、元気だよ」と頷く。志保はそのまま小さく笑うと、

「山之内くんの事件以降、当時のメンバーとは意図的に連絡を遮断していたの。そうしないと、三年前の悪夢がずっと後をついてくるような気がして。私、過去に囚われるのが一番嫌いだから」

 三年前までは届いていた年賀状も、山之内彬の事件以降ぷつりと途絶えていた。差出人が彼女の名になっている年賀はがきは、今でも自室の書斎の引き出しに眠っている。

「でも、たまに書店で見かけていたわ。白浪くんの小説。実を言うと一冊だけ買っているの。デビュー作の『殺人は月桂樹の下で』」

 デビュー作といえば、山之内の事件の二年前だ。さる推理小説新人賞に佳作入りした長編ミステリ作品で、選考委員からは「トリックはさほど難解ではないものの、複雑に絡み合った人間模様や犯人の抱える奈落のごとき深い犯行動機は、刃物で肉をそぎ落とすかのように読み手の精神をひたすらに抉っていく」と評された。志保がそれを手にしたのが山之内の一件以降でなくてよかったと思う。あと二年タイミングがずれていたら、彼女が私の作品に目を通す機会は一生なかったかもしれない。級友の死という衝撃的な体験をした後であればなおさら。

「大蔵くんの一件を知ってから、私ずっと後悔しているの」

 水を向けずとも、志保自ら大蔵の事件について語り出した。警部補は手帳とペンを構え、無言で話の先を促す。質問者の役は私に委ねられたらしい。

「大蔵くんが亡くなった、おそらく他殺の可能性が高いって言われたときね。記憶がすぐ三年前にタイムスリップした。今だから白状するけれど、私、山之内くんの死は自殺じゃないってずっと思っていたの」

 意表を突く告白だ。私はローテーブルから心持ち身を乗り出して「なぜ」と問う。

「薄々だけれど、勘付いていたから。山之内くんと大蔵くんが何か善からぬことに手を染めているんじゃないかって」

「ちょ、ちょっとストップ。ええと、それはつまり、山之内と大蔵が何らかの犯罪に関わっていたってことか。どうして細貝はそんなことを」

「立ち聞きしてしまったの、長野のペンションで。滞在初日の晩だったかな。車に忘れ物をしたことに気付いて、玄関から外に出たときよ。頭上から山之内くんと大蔵くんの声が降ってきた。玄関のちょうど真上が大蔵くんの部屋だったんじゃないかしら。バルコニーで立ち話をしていたのだと思う。『入籍は先延ばしにする。もう一仕事して、完全に足を洗ってからだ』『身辺調査が怖いのか』『馬鹿、それをする立場なのはむしろこっちだろ。お前こそ、ちょっとでも尻尾を出せば一巻の終わりだぜ』『そんなヘマするかよ』……そんな感じの会話だったかな」

「そんなこと、当時の警察には」

 供述調書には、そんな記載はなかったはずだ。言いかけて口を噤む。志保はぐっとこちらを睨むような顔をして、

「言えなかったのよ。判るでしょ、『殺人は月桂樹の下で』を書いた白浪くんなら。そう簡単に打ち明けられない秘密ってものがあることくらい」

「もしかして、細貝」

 有働彩美の言葉を思い出す。「細貝さんは、大蔵くんに少しだけ憧れているような節もありましたけれど」。細貝志保は庇っていたのだ、密かな想い人を。いや、信じたくなかったのかもしれない。憧れの人が悪事を働いている事実を。だから彼らの声に耳を塞いだ。

『殺人は月桂樹の下で』では、登場人物の一人が犯人の正体と犯行動機の一端をひょんなことから知ることになる。しかし、その人物は犯人を警察に売るどころか、巧みな嘘でもって犯人を庇い続けた。自身と犯人の境遇が重なり同情を寄せたためであったが、その嘘がさらに取り返しのつかない悲劇を生み出していく。嘘に嘘を重ねていき、登場人物たちは自ら破滅の道を歩むことになる。一欠片の救いもない物語で、今となってはあんな胸糞悪い小説がよく世に出たものだと自虐しないでもない。だが、秘密とは時にそれほどまでの悲劇を招き得るのだと、私なりにメッセージを発したかったのだ。そして細貝志保は、そのメッセージを受け取った。だからこそ、今こうして罪悪感に苛まれているのだろう。三年前、自分が耳にした二人の話を警察に打ち明けていれば、大蔵孝道の死という負の連鎖を断ち切ることができたかもしれないから。

「でも、今となってはすべて後の祭りね。どんなに悔やんだところで大蔵くんは生き返らないし、彼が生前犯していたかもしれない罪も、消えることはない」

 今にも泣き出しそうに唇を歪める志保。そんな彼女に、私がかけてやれる言葉は限られている。

「たしかに、過ぎた時間を巻き戻すことはできない。過去にタイムトラベルして、すべてなかったことにするなんて少なくとも今の人類には絶対不可能だ。でも、今の細貝にもできることはある」

 看護師の女は、目尻に溜まった雫を拭おうともせずこちらを凝視している。その視線を正面から受け止め、私はきっぱりと告げた。

「細貝が知り得る限りのことを、素直に話してほしい。これから未来に起きるかもしれない次の悲劇を、その証言で食い止められる可能性は大いにある。細貝が抱える秘密を知ることで傷ついてしまう者もいるかもしれないけれど、それ以上にさらなる犠牲者を生み出さないことが重要だ。まだ間に合うんだよ、細貝。何も遅いことはない」

 陳腐な説得だったが、女は私の言葉を真正面から受け入れてくれた。細貝志保への聴取が終わる頃には、ベランダから見える日が西の空に沈みかけていた。捜査協力の礼を述べ暇しようとしたとき、彼女は本棚から一冊の文庫本を抜き取った。

「この小説に、私は救われたのかもしれない。ありがとう、白浪くん」

『殺人は月桂樹の下で』を胸に抱え、細貝は微笑みを浮かべた。ダフネとの恋が実らず、永遠の愛の証として月桂樹の冠を身に着けているアポロンの物語が、脳裏に浮かぶ。細貝志保が女版のアポロンだったのなら、私の小説は彼女にとって月桂樹の冠なのかもしれない。



 蜷川槙次への事情聴取は明日に回された。暮れなずむ都会の街を、覆面パトカーが静かに駆け抜ける。紺野警部補は親切にも、霞が関の警視庁本部に戻る前に神田鍛冶町にある「黒瀬探偵事務所」まで私を送り届けてくれた。黒瀬の用はとっくに済んでいたらしく、事務所の扉を開けるとケチャップの匂いが鼻をくすぐった。ジュワッ、と溶き卵をフライパンに広げる音もする。

「黒瀬、大蔵の現場の遺留品を見てきたんだろ?」

 カーディガンをハンガーにかけながら、キッチンに声をかける。調理に集中しているのか、返事はない。しばらく来客用のソファで寛いでいると、オムライスがのった皿を両手に黒瀬が応接ルームに姿を現した。「手を洗え」と母親みたいに言われたので、キッチンの流しに向かう。同じタイミングでやかんの湯が沸いたので、緑茶入りの急須と湯飲みを運んだ。

 事務所で黒瀬と夕餉をとるとき、十回中七回はオムライスである。黒瀬が大のオムライス好きであることに加え、調理が比較的楽で材料費も抑えられるという現実的な理由もある。もっとも、舌が飽きないようにクリームソースオムライスやデミグラスオムライスなどレパートリーをいくつか用意しているのだが。ちなみに調理は専ら私の担当で、今夜みたいに黒瀬がキッチンに立つことは珍しい。

「黒瀬、大蔵の現場の遺留品を見てきたんだろ?」

 帰宅時とまったく同じ問いを繰り返す。黙々とスプーンを口に運んでいた探偵は「まあな」の短い返事。この男がオムライスを食すときは、カニを食べているときのように無口になる。

「大蔵の遺留品に、何か手がかりがあったかい」

 ケチャップライスをスプーンで掬いながら、「うん」とも「ふん」とも「ううん」ともつかない声。これじゃまともに事件の話などできないだろう。しばらくオムライスに集中させることにした。

 ご飯粒を一つも残さずオムライスを綺麗に平らげた黒瀬は、緑茶をぐびりと呷った。黒の開襟シャツからのぞく喉仏が豪快に上下する。酒でも飲むようにお茶を飲む男だ。湯飲みまで空にしたオムライス好きは、小さくげっぷをしてからぽりぽりと頭を掻く。

「黒瀬、そろそろ話してもいいかな」

「お前も忙しないな。食事くらいゆっくりさせろよ」

 邪険そうな顔でこちらを睨む黒瀬。彼の至福のひと時を邪魔したことは事実なので、素直に謝罪する。

「警視庁の鑑識課で大蔵の遺留品を検めてきたよ。結論から言うと、現場から押収されたブツの中に犯人を特定するようなものはなかった」

 その報告に、私は大きく肩を落とす。「てっきり、大蔵がコレクションしていた腕時計の中にペットボトルのキャップでも隠されていたのかと思ったよ」

 半分は冗談のつもりだったが、黒瀬はぴくりと片眉をあげる。

「さすがの鈍感推理作家さまも、あのキャップの山に目を向けていたか」

「鈍感推理作家で悪かったな」

 言い返してから、有働彩美宅へ向かう車内で警部補と交わした会話をかいつまんで話す。大蔵がペットボトルのキャップを収集していたのは、山之内殺しの重要な物証であるキャップを隠すためだったのではないか。つまり、当時山之内の部屋に残されていたペットボトルのキャップは犯人が遺体発見時に置いたもので、元のキャップは別に存在していた。それを犯人が回収する前に、大蔵が奪い去ったのではないか――という推論だ。

「だが、そうなると大蔵は犯人より先に現場に入りペットボトルのキャップをすかさず回収したことになる。大蔵は、なぜ現場を一目見ただけでそのキャップが怪しいと判ったんだ? それは犯人しか知り得ない事実のはずなのに」

「たしかに……現場にある物証を回収する行為は、ほとんどイコールで自分が犯人ですと自白しているようなものだ。大蔵がその行為に出たとすれば、すなわち大蔵が山之内を殺したことになる」

「そうなると、山之内殺しと大蔵殺しの犯人は別になってしまうな」

 山之内を殺害した大蔵に犯人が復讐をした――という可能性は、すでに黒瀬が潰している。これでは堂々巡りだ。

「まあ、物証のことは一旦横に置いといて」

 探偵の男は、両手でエアボックスを持ちそれを脇にどけるジェスチャアをする。

「お前は、懐かしい級友とお喋りしてきたんだろ。目ぼしい情報は得られたのか」

「お喋りじゃない、事情聴取だ」友だちとカフェで駄弁ってきたような言い方をしないでもらいたい。「今日は女性陣宅を訪問してね。いくつか興味深い話を聞くことができたよ」

 有働彩美宅での収穫は、彩美と山之内の入籍を巡るトラブルだ。だが婚約破棄をされたわけでもないし、彼女が山之内を殺めるほどの強い動機を有していたかは微妙なところである。また、彩美が身籠っているかもしれない――私の憶測なのであくまで“かもしれない”に留めておく――ことも念のため付け加えておいた。

 大きい獲物が釣れたのは、細貝志保のほうだ。彼女が立ち聞きしてしまった、山之内と大蔵の密談。その会話の中には、意外な人物の名前も飛び出したという。

「細貝によると、どうやら山之内と大蔵が関与していた悪事には、蜷川も加担していた節があるようなんだ」

「山之内のパシリ役だった、蜷川槙次か」

「ああ……正直、細貝から聞いた瞬間はショックだったよ。彼女の聞き間違いであってほしいのだけれど」

 私と蜷川は、大学時代のサークル仲間だった。推理小説研究同好会というミステリマニアが集う小規模団体で、三年半のサークル活動には彼との思い出も多い。大学を巣立った後も、たまに小説の貸し借りをするくらいの細々とした関係が続いていた。

「ただ、会話のニュアンスだと実行犯は山之内と大蔵のようだったと、細貝は証言している。関与していた犯罪の具体的な内容は、さすがに彼らも伏せながら話していたらしい。細貝も二人の密談を最後まで聞いていたわけじゃないから、断片的な情報しか得られなかったんだ」

「それでもほぼ確定じゃねえか。山之内と大蔵が亡き者になった今、少なくとも大蔵殺しに関しては蜷川槙次が限りなくクロに近い」

 黒瀬の言葉に、私は低く唸る。紺野警部補からの情報によれば、大蔵の死亡推定時刻に確実なアリバイを有していたのは細貝志保だけだった。彼女は病院の夜勤勤務中だったのだ。有働彩美は部屋で寝ていたというが、証明できる人間は夫しかおらずそれも寝てから目覚めるまで監視していたわけではない。蜷川も同様に太田区内の自宅で床に就いていた。こちらは独身住まいなので証人はいない。ちなみに私、白浪理はというと、「カフェ・エリーゼ」の二階で長編ミステリ作品の原稿に目を血走らせていた。たとえ私に山之内を殺害する動機があったとしても、原稿と天秤にかけたらどちらに傾くかは一目瞭然。級友を殺しに行っている暇などなかった。そもそも、アリバイの有無を盾に犯人を追い詰める手法はリスキーなのだ。「アリバイがない東京都民全員に犯行は可能だった」という理論がまかり通ってしまうのだから。

「それからこれは念のためだけれど、僕ら以外の大蔵の交際関係も捜査員たちが虱潰しに当たっている。特に重点的に洗っているのが女性関係だ。彼は人並みに付き合いをしていたようだけれど、ここ一、二年特定の恋人はいなかった。女道楽ってほど熱中するわけでもなく、深入りする前に後腐れなく処理するタイプみたいだね。こっち方面で恨みを買っていた痕跡は、今のところ見つかっていない」

 こっち、のところで右手の小指を立ててみせる。「古臭えな」と黒瀬に笑われたが、エアボックスを横に置く彼のジェスチャアも時代遅れではないか。

「ま、捜査会議はこの辺で切り上げようや。どうせ、明日には決着がつきそうだしさ」

 やおら立ち上がった黒瀬を、「は?」と見上げる。「どういう意味だ」

「額面通りに受け取れよ」探偵はひょいと肩を持ち上げると、おもむろにシャツの胸ポケットに手を入れる。そこから取り出したものを、ぽんとテーブルに投げ落とした。机上に放られたそれに、私は条件反射的に手を伸ばす。

「黒瀬……これは」

「明日、蜷川の聴取なんだろ。それを持っていけばいい。俺は別件で抱える依頼があるから同行はしない」

 黒瀬の声は素っ気なかったが、私にははっきり聞こえた――それは俺からの餞別だ。今回はお前が自分で事件の幕を引いてこい。

 私は、託されたのだ。


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