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事件篇


 梅雨入りにはまだ早い、五月の第三土曜日。千代田区神田の片隅にひっそり軒を構える「カフェ・エリーゼ」の二階で、私こと白浪理しらなみことわりは一枚のはがきを前にうんうんと唸っていた。

 はがきは卒業高校の同窓会案内状で、今月末までに出欠の有無を返事しなければならない。普通の人であればたかが同窓会の招待状にここまで頭を悩ませないだろう。嫌ならてきとうな理由をつけて断ればいいのだから。しかし、私にとってはそんな簡単な問題ではないのだ。この、神門高校の同窓会案内は。

 はあ――と思わず盛大な溜息をもらす。つい数日前、書き下ろしの長編ミステリを校了し終わりの見えない戦いに決着をつけたばかりだった。特に今回はプロット構成の時点からかなり危ういスタートを切っていて、脱稿後にトリックの重大な穴を見つけてしまったときの絶望たるや。担当編集者に何度も弱音を吐き、電話越しで半泣きしながら校正を繰り返す日々。食事や風呂さえも億劫になり、ようやく赤入れの段階にこぎつけて鏡を見たときはさすがに仰天した。どこのホームレスかと見間違うような薄汚い男が映っていたからだ。「カフェ・エリーゼ」の店主から出来立てのナポリタンスパゲッティを運んでもらったときは、あまりの美味しさに涙が頬を伝うほど感動した。生きていてよかった、死に物狂いで書いてよかったと噛みしめる一方、こんな具合では今後の作家人生はいばらの道ではないか、と憂鬱にもなった。

 この数日で、そんな鬱屈とした気分もようやく薄らいできたところだったのに。

 再び「はあ」と溜息が出たとき、ベッドに放っていたスマートフォンが「戦場のメリークリスマス」を奏ではじめた。季節外れもよいところだが、学生時代から変わらない電話の着信音である。慌ててベッドにダイブして液晶画面を見ると「警視庁桃川(ももかわ)警部」の表示。すぐに通話ボタンを押した。

「はい、白浪です」

「ああ、作家先生。今お時間よろしいですかな」

 普段は温厚で話し方ものんびりしているのだが、今日はどこか急いたような響きがある。

「ちょうど一仕事終えたところなので、時間はありますが」

「それはよかった。『執筆でそれどころではありません』と断られたらどうしようかと冷や冷やしていました」

 安堵の吐息が、電話越しにくぐもって聞こえる。何か重大な事件が発生したのだろうか。しかし――

「警部が直接私に連絡なさるのは珍しいですね。普通なら黒瀬を通して捜査協力の要請があるものですが」

「ああ、いえ、実はですね」

 途端、桃川警部の声に困惑の色が混じる。嫌な予感がした。こういう悪い勘はだいたい当たるのが定石だ。

「今回は捜査協力の依頼ではありません。白浪先生。ある殺人事件の参考人として、警視庁までご足労願えますか」

 私の勘は的中した。とんでもなく悪い方向に。



「まったく、ダッシュで駆けつけて損したぜ」

 会議室のパイプ椅子をギシギシ鳴らし、黒瀬真実くろせしんじつは尊大に脚を組んでみせた。

「電話に出るなり『助けて黒瀬。殺人事件に巻きこまれたんだ』なんて声を震わせて喚くものだから、てっきり容疑者にでもなったのかと期待したのに」

「そんな言い方はないだろ。というか、その声真似ぜんっぜん似てないからな」

 椅子に踏ん反り返っている男に非難を浴びせるが、相手はどこ吹く風で飄々とした態度。

「ちっとも面白くねえな。たかが殺人事件の参考人だろうが」

「お前には人の心がないのか。この悪魔、人でなし、サディスト、変態性欲者め」

「物書きのわりには語彙力が乏しいな。俺の人柄を形容するのにその程度の言葉しか出てこないのか」

 はっ、と嘲笑される。もういい。こんな奴に助けを求めたのが間違いだった。

「判ったよ。そうだ、僕は黒瀬真実の人間性を見誤っていた。頼る相手が違ったんだ。きっと疲れていたからだな、判断力が鈍っていた」

 投げやりに返し、右手の甲を相手に向ける。

「呼び出して悪かった。あとはこっちの問題だから、もう帰っていいよ」

「おいおい、人をここまで走らせておいてその言い草はねえだろ」

 黒瀬はむっとした顔で、やおら椅子から立ち上がる。長テーブルを挟んで、仁王立ちの姿勢でこちらを見下ろしながら、

「乗りかかった船だ。いや、すでに出帆した船のマストにしがみついている状態だな。今さら降りろなんて、大海原に飛び込めと言っているようなもんだ。自慢じゃないが俺は泳ぎが苦手なんだよ」

 彼がカナヅチとは知らなかった。毒舌探偵の弱みを握ってほくそ笑んでいると、「何にやついてんだよ、気持ちわりいな」と睨まれる。

「その代わり、調査の過程でお前が犯人だと確信したあかつきには憶えとけ。容赦なく豚箱にぶちこんでやるからな」

 ヤクザ刑事みたいに言い放ち、どかりと椅子に座りなおす。一応黒瀬の協力を仰げることになった私は、紙コップのコーヒーを彼に奢ってから事の経緯を打ち明けはじめた。人面獣心を絵に描いたような男だが、まがりなりにも今まで数々の難事件を解決してきた「探偵」なのだから。



 事件の過程は少し複雑だ。新しい出来事から時系列に沿って説明しよう。

 五日前――つまり、私が洗面台の鏡で浮浪者と対面した日――の月曜日。都内のマンションの一室で、事件の幕は上がった。家主の大蔵孝道おおくらたかみちが頭部を殴られ死亡していたのだ。勤務先の同僚が彼の部屋を訪ねたことにより発覚した。

 問題は、大蔵が現役の警察官であることだ。しながわ水族館からほど近い、大井警察署の地域課に所属していた。

「現役警官殺しねえ。警視庁も厄介事を抱えたな。で、お前はその大蔵って警官と知り合いなのか」

 クリップ留めされた捜査資料を手渡し、「そう急かすなって」と諫めてから話を進める。

 検視の結果、大蔵孝道の死亡推定時刻は遺体発見日の前日、すなわち日曜日の深夜と割り出された。死因は、頭部を激しく殴打されたことによる頭蓋骨骨折。よほど強い衝撃だったらしく、即死とのことである。遺体のそばに転がっていたモアイ像の置物には大蔵の血痕がべっとり付着していて、これが凶器と推定された。

 現場検証によれば、大蔵の財布には紙幣が残されていなかった。最初から入っていなかったのかもしれないが、捜査員たちは犯人が抜き取ったと睨んでいる。ほかにも、大蔵が趣味でコレクションしていた高価な腕時計がいくつか紛失していた。また遺体発見当時、玄関は解錠されたままだった。部屋の鍵は全部で二つあり、うち大蔵が日常的に使用していたと思われる一つがなくなっている。合鍵は玄関の靴箱の上に放られていた。これらの事実から、大蔵孝道の死は強盗殺人の線が濃くなったのだが。

「鑑取りの結果、意外な事実が判明した。大蔵は、三年前に起きたある事件の重厚参考人だったんだ」

 私のこの言葉を聞いた瞬間、黒瀬はすべてを悟ったように頷く。さすが神田鍛冶町に「探偵」の看板を掲げるだけあって、察しが早い。

 ここから時は一気に三年前の冬、クリスマスイブへと遡る。大蔵孝道は、前日から大学時代の友人数人と長野のペンションを訪れていた。友人の一人がペンションのオーナーで、今年のクリスマスはそこで過ごそうという話になったのだ。天皇誕生日から二泊三日、酒や豪華な食事も用意して年内最後の思い出づくり――になるはずだった。

 しかし、参加者の一人が年内最後どころか、人生の最期を迎えてしまう。ペンションの一室で怪死を遂げたのだ。死因は毒物によるものだったが、厄介なことに自殺か他殺か断定しかねる状況だった。

「死亡したのは山之内彬やまのうちあきら。大蔵と同い年の二十八歳だ。実は、ペンションのオーナーというのが山之内のことでね。彼と大蔵は大学時代から親交が続いていて、当時ペンションに集まったのも二人の交友だったんだ」

 当然ながら、捜査を担当した刑事たちはペンションにいた山之内彬の学友らに疑惑の目を向ける。集ったのはオーナーの山之内彬を除くと五人。

 まず、今回の事件の被害者である大蔵孝道。三年前は品川区内の交番に勤務する警官で、変死事件に警察関係者が関与していたことから彼に対する風当たりはかなり強かった。

 蜷川槙次にながわしんじは、大蔵や山之内より一つ年下の後輩。学生時代から何かにつけて山之内にこき使われていた。大学卒業後は行員として真面目に働いている。

 安達彩美あだちあやみは事件当時山之内と交際していて、安達の証言によれば年が明けた交際記念日に入籍する予定だったらしい。山之内は大企業の御曹司で、いわゆる玉の輿婚である。

 蜷川と同い年の細貝志保ほそがいしほは、大学を出てから都内の病院で看護師として勤務していた。山之内の変死と医療関係者である細貝を結びつけるのは短絡的発想だが、警察からあらぬ疑惑をかけられ迷惑千万だったことは間違いないだろう。

 そして、最後の関係者が――誰であろう、この私。推理作家の白浪理なのである。



「ふうん。どいつもこいつもきな臭いな、お前を含めて」

 捜査資料にざっと目を通した黒瀬の感想は、いたって冷ややかだった。私だって、黒瀬のように完全な第三者の立場から事件の様相を見たのなら同じ所感を抱いただろうが。

「失礼極まりないな。少なくとも僕はただの巻きこまれ役だ。山之内が自殺にしろ殺されたにしろ」

「で、その山之内事件の捜査の進捗は」

 結局、三年以上が経過した今でも山之内彬の死の真相は解明されていない。ネックになっているのは、当時の現場の状況だった。

 事件が起きたのは、ペンション滞在二日目。聖夜のパーティーも日付が変わった頃にはお開きとなり、メンバーは各々客室へと引き下がった。オーナーの山之内は一階の居間のような部屋で寝泊まりしていたが、残りの五人は皆、二階の客室を一人一部屋ずつ宛がわれていた。

 最初に異変に気付いたのは、当時から恋仲の関係にあった安達彩美。滞在最終日の朝、いつまで経っても起きてこない主に痺れを切らし、部屋へ呼びに行ったのだ。ペンションの周囲は森や湖畔に囲まれた閑静な空間だったが、その静けさを彩美の悲鳴が切り裂いた。ただならぬ声に残った四人が駆け付け、変わり果てた仲間の遺体を目の当たりにする。こうしてクリスマスの朝は悪夢と化した。

「山之内彬は、部屋の中央よりやや入口に近い場所で絶命していた。遺体のそばには炭酸飲料――コーラだ――のペットボトルが転がっていて、中身は床にぶちまけたのかすっかり蒸発しきっていた。ただペットボトルを調べたところ、山之内の体内から検出された毒物と同じ成分の物質が残留していたことが判ったんだ。警察は、山之内はコーラに混入された毒によって死亡したのだとの見立てを示した。ペットボトルのほかに、ボトルのキャップと空になった粉薬の袋のようなものも現場から押収されている。この粉薬の袋からも、ペットボトルや山之内の体内に残留していたものと同じ毒物が検出されたらしい」

 黒瀬は細く尖った顎を指先で撫でながら、「室内や遺体に争ったような痕跡は?」と問う。

「ないよ。遺体の着衣は乱れていなかったし、床に散乱していた遺留品以外は室内に取り立てて変わった様子は見られなかった。そもそも部屋には調度品や家電の類も少なかったからね。小型の冷蔵庫、簡易ベッド、折り畳み式の小さなテーブル、壁に備え付けられているクローゼット。どこも荒らされた跡はなかった。洗面台やトイレ、バスルームなどは別に共用スペースがあるし。まあ、たしかに山之内の部屋にはもともと鍵がついていなかったから、誰でも簡単に侵入し被害者を襲うことはできたけれど。でも、そもそも彼は服毒死したのだから、その場に居合わせなくても予め毒物を渡しておいて、何らかの方法で自ら経口するよう仕向けたのかもしれないよな」

 山之内の部屋は施錠されていなかったが、別荘の出入り口や廊下の窓にはしっかり鍵がかかっていた。つまりは内部犯説が浮上するわけだが、殺害方法を考慮すると別荘内にいたすべての人物に犯行が可能となる。殺害方法は至ってシンプル。アリバイ工作も無意味だ。

 当時の捜査員たちは、事件の際別荘にいた関係者たちに山之内を殺害する動機があるか徹底的に調べたが、決定打になるような証言は引き出せなかった。捜査は暗礁に乗り上げ、今年の冬には事件から四年を迎えるが、山之内彬の死にまつわる真相は未だ解明されぬままに闇から闇へと葬り去られようとしている。

「なあ、黒瀬はどう考える? 山之内が自殺を図る動機も、僕らの中の誰かが山之内を殺害する動機も判然としない。動機方面から事件をひも解くことが困難であるなら、現場の状況や残された物証から自殺か他殺かを決定付ける証拠を見つけ出すしかないんじゃないかな……といっても、三年前の事件で現場保存もされていないから、この資料と僕の記憶だけが頼りなのだけれど」

 黒瀬は先ほどから、資料に目を落としたまま押し黙っている。まさか、この後両手を上げて「降参だな。この事件は迷宮入りだ」とでも言い出すのではないか――そんな不安が胸を掠めたとき、頼みの綱である探偵は資料を机上に放り出してから、パイプ椅子の背もたれに深く体を倒した。

「突破口なら、なくもない」

 顎を天井に向けたまま、ぼそりと呟く。思わずテーブルから身を乗り出して、「本当かい!」と叫ぶような声を出してしまった。黒瀬は顔を正面に戻すと、ウェーブがかった黒髪を無造作に掻き上げる。

「お前、まさか俺がこの程度であっさり敗北宣言するとでも思っていたのか。だとすれば、俺も見くびられたものだ」

 前髪の間から、鋭い両目がこちらを睨み据える。ヤクザ刑事の表現もあながち大袈裟ではないほどの迫力だ。取調官にでもなればさぞや事件解決に貢献できるだろう。

「要するに、山之内の死が自殺か他殺か、その結論が出ればいいわけだ。とするならば、唯一にして最大のキーになるものは」

 捜査資料に再び手を伸ばし、あるページを探し当てるとこちらに突きつける。山之内の部屋に残されていた遺留品をまとめたページだ。その中の一枚の写真を、黒瀬は指で弾く。

「それは……毒物が入っていた粉薬用の袋、だね。念のため付け加えると、その袋からは山之内の指紋しか検出されていないよ」

「阿保か、んなこと百も承知だ。俺が言いたいのは、山之内は本当にこの袋に入っていた毒で死んだのかってことだよ」

 仮にも推理作家の端くれなのだが、探偵の発言を一瞬で理解できないところが情けない。しばらく考え込んだ末に、恥を忍んで「どういう意味だい」と問い返す。てっきり蛆虫でも見るような目を向けられるかと思いきや、黒瀬は小さく鼻を鳴らしただけで資料を胸元に引き寄せた。

「いいか。山之内彬自殺説の立脚点になっている物証は、毒入りペットボトルと粉薬の袋だけ。これらの証拠から導き出される仮説はこうだろう。粉薬の袋に入っていた毒物を山之内自らペットボトルのコーラに混入した。そしてその毒入りコーラを自分で呷って死んだ」

「普通は最初に袋の中身を経口してから、飲み物で流し込みそうなものだけれどね。それとも、一息に終わらせたくてコーラに毒を混ぜてから一飲みしたのかな」

「あるいは、自然な自殺に見せかけるための偽装工作かもしれない」

「どういうことだい」

「たとえば、犯人は前もってペットボトルに毒を混入させておいた。その毒入りコーラを山之内に渡して毒殺し、遺体を発見したときどさくさに紛れて現場に開封済みの粉薬の袋を置く。こうすれば、山之内は袋の毒とコーラを使って自死したと警察は判断するだろう。つまり、ペットボトルに毒を混入した方法が粉薬の袋以外であることを立証すれば、それはすなわち他殺説を補強する根拠になり得るってことだ。だってそうだろ、現場には粉薬の袋が残されていたのに毒を混入した方法が袋以外だったのなら、イコール山之内自身が毒入りコーラを作ったという方程式は成立しない」

 闇に閉ざされた迷宮に、一筋の光明が差した瞬間だった。が、私とて仮にも推理作家である。黒瀬の推論には反駁の余地があった。

「でもさ、犯人が粉薬の袋に入っていた毒物をペットボトルに混入した可能性だって充分あるんじゃないのか? 毒入りの袋があるのにわざわざそれ以外の方法でペットボトルに毒を混ぜるなんて、非合理的だよ。予め袋からペットボトルに毒を移して、空になった袋だけ後から現場に紛れ込ませるほうが犯人の手元に一切の証拠が残らない。ペットボトルの蓋を開けて袋から毒を注ぎ込むなんて行為は、時間もかからないし隙を見てさっと済ませることもできる」

 探偵の男は右手に資料を持ったまま、左手の指で顎のラインをなぞりながらこちらをじっと見据える。いや、射竦めると表現したほうがいいかもしれない。私は何かおかしなことを口走ったのだろうか? 犯人でもないのに、背中を冷や汗が伝っていく。

「一つ確認するが」黒瀬はゆっくりと口を開いた。「ペンションには、当然コーラ以外の飲み物もあったんだろ? 山之内の部屋からはコーラのペットボトルしか見つからなかったのか」

「現場――山之内の寝泊まりしていた居間だ――の冷蔵庫からは、二リットルの水のペットボトルとコーラ以外の炭酸飲料が一本ずつ発見されている。ただ、山之内はコーラ好きで『一日一本飲まなきゃ体がうずうずしてくる』なんて言うくらいだった。確実に毒を呑ませるなら、コーラに混入させるのが一番だろうね」

 そこまで言って、私は決定的なことに気づいた。「そうか、だから袋から毒は移せないんだ」

「だろ?」黒瀬はにやりと笑う。してやったり、という笑み方だ。「コーラのような炭酸飲料は、初めて開封する瞬間に飲み口から炭酸ガスが抜ける音がする。シュワシュワってやつだな。だが、一度開けてしまえば最初の開封時ほどの抜け方はしない。一日一本はコーラ、なんてほざくほどの炭酸好きなら、他人が一度開封している炭酸のペットボトルを開けたときに違和感を抱く懸念がある。『おや、これは先に誰かが開封しているな』と」

 そうなると、山之内は一度開封している毒入りコーラに手をつけない可能性が生じる。犯人としては思惑が外れたことになり、イコール計画犯罪の失敗を意味する。

「だから、ペットボトルの蓋を開けない方法で犯人は毒物をコーラに混ぜた、ということか。けれど、そんな魔法みたいなことがどうすればできる? 鑑識の報告によれば、押収したペットボトルやキャップは傷一つなかったようだし、どこかに穴を開けられていた痕跡もなかった。かなり入念に調べたそうだよ。針を通したような穴一つも見つけられなかったみたいだ」

 まさか、特殊能力を使ってコーラから毒を出現させた、などという顛末ではあるまい。あるいは、犯人はコーラ製造工場の人間なのか。ちなみに当時ペンションにいた関係者の中にそんな経歴を持つ者はいない。

「そこだよ、そこが最大の謎なんだ」

 探偵は左手の人差し指をこちらに突きつける。話し相手を指差すのは彼の癖みたいなものだが、よく観察していると私相手のときはその癖が顕著に表れるようだ。

「話を聞いた瞬間は、現場に残されている物証はすべてカムフラージュじゃないかと考えた。犯人は毒入りカプセルを何らかの理由をつけて山之内に渡す。それを服用して山之内は死んだ。仕上げに、彼の部屋に踏み込んだ犯人が遺体のそばにコーラのペットボトルや毒入りの袋をばらまいた――とかな。だが、この仮説は穴だらけの服みたいでとても着れたものじゃない」

 同感である。山之内はいたって健康体で持病もなかった。そんな彼に、どういう理由を繕って毒入りカプセルを渡したのだろう。仮にカプセルを渡すことに成功したとして、山之内がカプセルを経口する前後にコーラを飲する確率がどれほどあるだろうか。実際には、山之内の体内にコーラが残留していたことは科学的に証明されているのだが、それを犯人が事前に百パーセント予想できたかは甚だ疑問である。その危うい賭けに出て、毒入りコーラのペットボトルを現場に転がしておいたのか。計画的犯行のわりには肝心なところで綱渡りみたいなことをする。

「ま、犯人がいかにして山之内に毒を服用させたか。この疑問点は一旦棚上げするとして、現場からはほかに何の証拠品も出てこなかったのか」

「ペンションの中はもちろん、建物周辺も警察が徹底的に調べ尽くしたけれど、山之内の部屋にあった毒物入りの袋とペットボトル以外に怪しい物証は見つかっていないよ。無論、僕たちは身体検査を受けて誰も不審物を持っていないことは証明済みだ」

「ペンションの近くには湖畔があったんだよな」

「もちろん、湖の中も捜索はされたよ。ただ、湖はかなりの広さだったし、ペンションそのもののオーナーは山之内だけれど周辺の自然や湖なんかは自治体が所有しているから、湖水を汲み出して物証を探すまではできなかった」

「探し物がスーツケースみたいにでかいブツとは限らない。手のひらほどの大きさしかない証拠品なら、数百人体制で漁ったとしてもそう簡単に発見できないだろうな」

「じゃあ、結局山之内は自殺ってことで結論づけられてしまうじゃないか」

 思わずテーブルを両の拳で叩く。「僕はどうしても納得できない。そもそも、三年前にペンションでのクリスマスパーティーを立案したのは山之内自身なんだ。その立役者がどうしてパーティーの最中に自殺しなきゃならない? おかしいよ。それに、彼は金銭的にも社会的にも何一つ不自由していなかった。安達との婚約も決まっていて、すべてが順風満帆だったはずなのに」

「それは表層的な見方だろう。大企業の跡取り息子という立場の中での苦悩があったのかもしれない。安達彩美のほかに心惹かれる女がいて、叶わざる恋に絶望していたのかもしれない。仮に山之内が自害を選ぶほどの何かを抱えていたとして、それを俺らが知る術があるはずもない。そうだろ」

 温くなったコーヒー入りの紙コップが、目の前に差し出される。普段はミルクや砂糖を投入するのだが、まっ黒な液体を一気に喉へ流し込んだ。コーヒーの苦みが口の中に広がり、「落ち着けよ、冷静になれよ」と諭されているようだ。

「まあ、そう感情的になるなよ。俺は後先考えずに仮説をべらべら喋るようなことはしない」

 顔を上げると、黒瀬の口角はわずかに吊り上がっていた。漆黒の瞳には今までにない強い光が宿っていて、低い声には余裕が滲んでいる。迷い込んだ謎という名の迷路を楽しんでいるかのようだ。

「俺が察するに、山之内の事件と今回大蔵孝道が殺された事件にはつながりがある。おそらく警察の見解も同様だろう」

「そうだね。だからこそ、僕が参考人として召喚されたんだ」

「じゃあここで、山之内の事件と大蔵の事件、二つの事件をつなぎ合わせてみよう。どんなストーリーが生まれるかな」

 左右の手で拳を作り、それを顔の前でコツンとぶつけるような仕草をする黒瀬。

「三年前の山之内の死は他殺だった。そして大蔵孝道はあるきっかけで山之内殺しの証拠を掴み、同時に犯人の正体にも気づいたのさ」

「まさか、大蔵は山之内殺しの犯人を脅迫していたのか。犯人は大蔵の恐喝に耐えかねて」

「あるいはこうも考えられるぞ。今回の大蔵殺しの犯人を仮にXとしよう。山之内殺しは、大蔵孝道とXによる共犯だったんだ。ところが、三年の月日が流れる中で背負った十字架の重さに押しつぶされそうになった大蔵は、とうとう警察にすべてを自首しようとする。Xは果たしてそれを赦すだろうか。そうは問屋が卸さないだろうな。大蔵が警察に駆け込んでしまえば自分は破滅してしまう。焦ったXは、大蔵を口封じした」

 黒瀬の立てたプロットはごく自然な流れだろう。山之内の死と今回の大蔵殺しが関連しているとすれば、山之内の死は他殺で大蔵殺しと同一犯と見るのが最も合理的だ。そこまで考えて、ふと私もある仮説が閃いた。

「なあ黒瀬。こういう可能性はどうだろうか。山之内の死は大蔵が仕組んだことだったんだ。大蔵は山之内のある重大な弱みを握っていて、それを利用して山之内を自殺に追いやった。ところが大蔵の狡猾な犯行に気付いたXが、復讐として三年越しで大蔵に天誅を加えた」

「悲しき仇討ちの物語、か。悪くない発想だが賛同はできかねるな」

「どうして?」

「仮に大蔵殺害の動機が復讐だとするならば、Xは大蔵が山之内を自殺に追い込んだ決定的な証拠を掴んでいたはずだ。でなければ、大蔵に『お前が山之内を殺したんだ』と問い詰めたところで、証拠はないだろと一蹴されるのは目に見えているからな。そうなると大蔵としては都合が悪い。なぜなら、Xがその証拠を手に警察へ駆込み訴えを起こせば大蔵は身を亡ぼすことになるから。するとどういう展開が予想される?」

「大蔵は、Xを口封じしようとする――か」

「そうだ。だからお前の仮説の場合、大蔵はむしろ加害者になってしまうんだよ」

「ううん、いい線いってたと思ったのにな……ところで黒瀬。さっき僕が、証拠がなければ山之内の死は自殺で片づけられてしまうって話したとき、黒瀬は随分余裕綽々だったけれど。大蔵が山之内の死に関与しているとして、そこからどうつながるんだい」

「何だよ、まだそこで足踏みしていたのか」

 呆れ声とともに、こちらを睥睨する黒瀬。人を見下す表情がこれほど様になる人間もそうはいない。

「お前が仇討ち説を披露したときは、てっきりそこまで発想が追い付いているとばかり思っていたのに」

「どうしてさ」

「さっき、仇討ち説を否定したとき言ったよな。大蔵による山之内殺しの証拠をXが掴んでいれば、大蔵はXを口封じのために殺害するだろうと。今回はその逆だったのさ。大蔵はXにとって限りなく不都合な物証を所持していた。大蔵はそれをネタに、三年もの間Xを恐喝していたのかもしれない」

 すっかり冷めた紙コップのコーヒーを飲み干して、黒瀬は眉間に皺を寄せる。

「問題は、その物証が何なのかってことだ」


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