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魔女と悪魔と普通の少女と  作者: 10月猫っこ
7/8

 それは、奇妙な『夢』だった。

 大きな窓を背に、一人の少女が佇んでいる。

 きらびやかな金髪と、豊富な睫に覆われた大きな紺碧の瞳。

 まるでお伽噺の中のお姫様のように、あちこちふんだんに使用されている豪奢なフリルの多くついた淡い色合いをしたドレス。それは、少女の白磁の肌を際立たせるだけではなくその美しさを前面に押し出している。そして少女の優美さを決定付けるように、ふんわりとした形で広がっているのに、完璧といえる型のままでで床に広がる裾と、少女の身体の線を最大限に美しき見えるようにと、あちこちにちりばめられた宝石と刺繍が少女の美を決定付けるように自然な輝きを放っていた。

 細く小さな、それこそ華奢と言ってしまった方がいい身体に、卵形のラインの中で完璧に配置された目鼻立ちは、女性の雫でも惚れ惚れとしてしまう少女だ。

 溜息が出そうなほどに美しい少女は、けれどどこか重苦しい表情で雫を見つめており、豪奢な室内に言いしれぬ緊張感を漂わせていた。

「あなたには、申し訳ないと思っています」

 薄く紅を引いた唇から、突如琴の音のような言葉が紡ぎ出される。

 伏せられた瞳には苦悩が浮かび、強く握りしめられている拳が白くなっているのが痛々しく、思わず少女へと声をかけていた。

「お気にめされるな、姫様」

 野太い声が喉から漏れ出るが、それが自分の声だと雫はすんなり認識する。加えて、目の前の少女が自分の主君である事も理解できているため、雫は柔らかな笑みを少女に浮かべてみせた。

 だが、その笑顔は少女の顔にいっそうの苦痛を与えただけのようだ。

 何かを言いかけて口を閉ざした少女に、雫は言い聞かせるように言葉を選びながら話しかける。

「これは、私めが決めた事。姫様がお気にやむことはありません」

「ですが」

「良いのですよ、これで」

 ふわり、と優しい笑みを浮かべれば、くしゃりと少女の顔が歪みその眦に大きな粒が浮かんだ。

 姫様、と呼びかければ、少女はゆっくりと自分に向かって歩き出す。

「……ですが本当に」

「姫様」

 少女の言葉を遮り、雫は少女の小さな手を取ると、恭しくその甲に唇を落とした。

 ぴくん、と少女の痩身が震えるのを見、雫は苦笑を浮かべて立ち上がる。そうして、幼子をあやすように、ゆっくりとその長い金髪を梳いた。

「私のこの身体、この生命。全て姫様がお産まれになった時から、私は姫様に捧げております。

 それ故に、これには何の躊躇いも無いのですよ」

「・・」

 少女が、自分の名前を呼ぶ。

 優しく耳朶を打つ少女の声に、それに応えるように微笑んでみせると、きゅっと少女の手を握りしめた。

「さぁ、余り陛下達を困らせるようなお顔はしないでください。これはもう、決まってしまったことなのですから」

 そう言い聞かせながらも、この少女は生涯自分のことで胸を痛ませるのだろう。

 それを考えた途端、つきんと小さな痛みが走る。

 そんな考えを無視し、少女の華奢な手を取ると閉ざされていた扉を開き室内を退出するため、豪奢な扉を押した。



 ぱちり、と眼が覚める。

 やけに記憶に残る『夢』だったが、あれは以前あったことなのだと、すんなりと納得している自分が心のどこかにいることも分かってしまう。

 起き上がって、もう一度『夢』の中での出来事を思い出そうと軽く目を閉じ、深く息を吸い込んだ時だ。

『どうかしましたか?』

 頭上から降ってきた声に、雫は瞼を開くと慌ててそちらを見上げた。

 心配をあらわにしている雰囲気を感じ取り、雫は慌てて何でもないと手を横に振った。

「だ、大丈夫です。なんか、変な夢見ちゃって」

『夢、ですか?』

「あ、はい」

 姿が見えないというのは何とも不便だと感じつつも、雫はこれ以上心配させまいと明るく笑ってみせる。

 だが、相手はそれを胡乱に感じたようだ。

 何かを考え込んだ後、きっぱりとした口調で尋ねてきた。

『どんな夢でした?』

「え?」

『何か、思い出したのではありませんか』

 思わずどきりとしてしまい、口を閉ざす。それを肯定と受け取り、声の相手、エイドは少しばかり考え込んだ後、そうですか、と呟きを漏らした。

 自分の部屋だというのに、何とも居心地の悪い空気が流れるのを肌で感じ取り、雫は思い切ってエイドに尋ねる。

「あの、今日見た夢って、優誠が言っていた『呪い』に関係するんですか?」

『そうですね……今は、何とも言えません』

 歯切れが悪くエイドはそう答えらる。その態度に、どうにもはぐらかされているように感じられ、雫は恨めしげに天井の木目を見つめた。

 そんな態度に苦笑をした後、エイドはあやすように雫へと声をかけた。

『まぁまぁ。優誠に話しておけば、万事大丈夫ですよ』

「何か、それが一番危険な気がするんですが」

『あははは。それは言えますね』

 のんきなエイドの笑い声に、思わずどっと脱力してしまう。

 なんだか、この主従コンビは自分の精神力も体力も根こそぎ奪うことに長けているのでは無いだろうか。

 そんな事を考えながら、雫は肩を落とした後渋々ながらも布団から上半身を持ち起こした。

 いつものように着替えようとして、はたと気がつく。

「あのー?」

『もちろん、着替えは見ませんよ』

 終わったら声をかけてくださいね、という言葉の後、フッと今まであった気配が無くなる。

 自分の護衛、という形でまだ見ぬ二人の存在は今はまだ違和感がぬぐえないのだが、サライと違いエイドは気さくに会話をしてくれている。おかげで、というべきなのか、自分の部屋にいる時に見えない存在との会話を聞かれてしまい、隣の部屋にいる妹に怪訝な顔でノックされたのは記憶に新しいことだ。

 そういった所は、エイド自身も優誠と共通しているため、この二人が主従、という言葉に納得はするのだが……。

 どうにもエイドが優誠で遊んでいる感がぬぐえない所が多いのは、口の悪い二人の中で圧倒的にエイドの方が優誠よりも上だからだろう。

 なんだかなー、と言うのが正直な感想だが、それを口にすれば確実に優誠の機嫌が降下していくのが分かるため、あえて口にしたことは無い。まだ短いつきあいとは言え、大まかな性格は把握してしまったため、雫も命が縮むようなことをあえて突っ込もうとするのはしないのは、誰でもそう結論づけるであろう事だ。

 そういえば、と卓上におかれたカレンダーに目を向ける。

「一週間、切ったんだよね」

 誕生日が近づくにつれ、友人達はこそこそとしながらもどこか楽しそうに、けれど優誠だけは、周囲に当たらないようにしながらも段々と苛立ちを募らせ、周りが引いてしまうような禍々しいオーラを放つという、反対方向の態度をとっているのだ。

 思わず溜息を吐き出し、雫は制服のリボンを結ぶ。

 壁に掛けてある鏡で軽く髪型やリボンの形を整えると、天井に向かって姿の見えない人物に声をかけた。

「すいません。終わりました」

『雫さんは今日も可愛らしいですね』

 髪型を変えたんですね、との言葉に、僅かに苦笑してしまう。

 お世辞が上手いんですね、と最初の頃は言っていたのだが、毎日のようにこのやり取りを繰り返すうちに、やがて雫が折れるようにしてその言葉を受け入れるようになってしまった。

 取り立てて自分が可愛らしいとは思わないのだが、些細な変化を見落とすこと無く褒めるエイドの態度は、こんな彼氏がいたらならばと思わせるに充分なものだ。

 自分にもしも好きな男性が出来たら、真っ先にエイドと比べてしまうだろうな、等と未来のことを考え、雫は机の上の鞄を手にして階下へと降りる。

「おはよう」

「あら、おはよう。今日は早いわね」

 短い挨拶を交わして雫が自分の定位置に座り、目の前に置かれている弁当箱を包んでいく。

 いつもと変わらない行動を行いつつ、先程まで考えていたことについ頭を動かしてしまう。

 友人達の行動は嬉しい限りだが、後輩の態度はもはや頭の痛くなることばかりで、ついつい溜息が漏れてしまうだけだ。それを不思議そうに眺めていた妹の美琴が、首を傾けつつ箸で焼き魚を突きながら尋ねてきた。

「どうしたの、お姉ちゃん」

「?何が?」

「ここんとこ独り言は多いし、溜息も多いし、変じゃない?」

 頭でも打ったの?、との疑問に、じとりとした視線を向ける。

 ここの所、あの後輩の口の悪さになれてしまったため、他人からの多少の嫌みやからかいなどはやり過ごすことが出来るのだが、こうやって家族も同じような事をしてくれれば話しは別だ。見当違いすぎる美琴の言葉を訂正すべく、雫は嫌々ながら口を開いた。

「部活が忙しすぎるのよ」

 あながち間違ってもいない雫の回答に、美琴がきょとんと眼を瞬かせる。

 部活に入っていることすら初耳だと顔に書き、美琴が少々行儀悪く箸の先を噛みながら問いかけた。

「何の部活?」

「情報部」

「へ?」

 間の抜けた声を上げて、美琴は噛みしめるように雫の言葉を咀嚼したのか、えぇー、と今度は大声を上げて雫を見つめる。

 うるさいわよ、と言う母の声を背後に、美琴は驚愕に目を見開き懐疑的に再度問いかけてきた。

「情報部って、パソコン使うあれ?お姉ちゃんに出来るの?」

「失礼なこと言うわね。一応パソコンは出来るわよ。だけど、あたしの仕事はマネージャーだもん」

「情報部にマネ?そんなの必要なの?」

「必要だから入ってるんでしょ」

 不思議さを通り越し、何か悪いものでも食べたのでは、と言わんばかりの表情に、さすがに雫はむっとする。

 妹の反応はもっともだが、家族にこんな表情をされるといい思いをしないのは、この場合でなくとも当たり前の事だろう。

 むっととした視線を向けると、美琴は首を傾げながらも渋々とした動作で、卓上の漬け物に箸を伸ばした。

 そんな妹に、雫は不機嫌を隠そうともせずに言葉を綴った。

「あんたも、うちの学校に来れば分かるわよ」

「冗談。お姉ちゃんみたいに、ラッキーで入れるような学校には行かないよ。あたしは矢沢学園一本だもん」

 味噌汁に口をつけながら美琴が口にした学校は、藤花学園のように世界中に名を知られた学園では無いが、それなりに全国でも名を知られた学校だ。

 幼等部から大学までエスカレーター式の学校であり、文武両道で礼儀に重きを置いていることでも有名な事に加えて、名の知れた人物が何名も在籍していることでその名前を知らしめていた。

 藤花学園には及ばないものの入学の倍率は高いのだが、美琴の場合はスポーツ推薦を希望しており、このままで行けばそれに沿った形で矢沢学園からのオファーは来るのでは無いかと、家族で話していたのはつい最近のことだ。

「矢沢だけ、って……他の所は視野に入れてないわけ?」

「ラクロス部なんて滅多に力入れてる所無いし、今のところ矢沢が一番設備整ってるし国内でも上位入賞はいつもだもん」

「あっそ」

 それで話しは終わりだと言わんばかりに、美琴は手を合わせてごちそうさまと口にすると、茶碗などをシンクに持って行きそのまま居間の入口に置いてあった鞄を手にする。

 時間を見ると、もうすぐ六時半だ。いつもはもう少し早い時間に家を出る美琴がこの時間までいるという事は、今日は朝の自主練が無かったのだろう。

「行ってきまーす」

「気をつけて行きなさいよ」

「分かってるって」

 母親の声に適当に応えて居間を出て行った美琴を見送り、雫は椀の中の味噌汁に口をつける。

 そういえば、母親には部活に入ったことを告げていたが、妹や父親には部活に入ったことを言っていなかったな、と今更ながらに思い返す。

 少し冷めた味噌汁を飲みつつ、雫も時計の針を確認して食事を終える。

 茶碗等を片付ける雫の姿に、ふいに母親が声をかけてきた。

「今日も遅いの?」

「たぶん、そうかな?」

 溜まっている書類を思い浮かべながらそう答えると、母親は苦笑をしながら雫の顔を見つめる。

「でも、雫が部活に入るとは思っていなかったけど、まさか情報部だなんて」

 何かの間違いだと思ったわ、と続けられた言葉に、雫の口の端が引きつった。

 まさか、自分を守る代償として、マネージャーになったとは説明できないし、裂けている口からそれらが飛び出すことすらも出来ない。

 そんな雫の心の内を読み取ったかのように、クツクツとエイドが抑えた笑いを漏らし、思わず何も無い場所を睨み付けてしまった。

 雫以外の人間には、エイドやサライの声は聞こえない。だからこそ、エイドはおかしそうに笑っているため、雫はこれ以上母親に不信感を与えないため、渋々ながらも視線を元へと戻した。

「それより、時間はいいの?」

 そんな雫の態度に気づくことなく、母はそう声をかけてくる。

 反射的に掛け時計に視線を向けてみればもう登校の時間になっており、雫は持っていた茶碗類を慌ててシンクへと置いた。

 テーブルに立てかけて置いた鞄を手に取り、雫は行ってきますと言い置いて居間を出て行く。

 行ってらっしゃい、との声を背中に受けつつ、雫は玄関の扉を開けて軽く爪先をアスファルトに叩きつけると駅に向かって歩き出す。自宅から駅までは歩いて二十分ほどの場所にあり、考えるにはうってつけの距離と言えるだろう。

 今朝見た夢は、いったい何だったのだろう。

 自分が姫様、と呼んだ少女。

 瞳に懺悔と後悔を浮かべて自分を見つめていた少女は、自分でもすとんと納得できるほどに守ってしまいたくなる存在だった。

 あの少女は、自分をなんと呼んだのだろう。

 自分の名前なのに、そこだけはノイズが走ったように聞こえなかった言葉。

『どうしました?』

「あの……その、今朝の夢なんですけど……」

『その事は、優誠を交えて話した方がいいですよ。今ここで話すのは、危険ですから』

「え?」

『どうも、先程から遠くで見られているようなんですよね』

 いったい誰が、と言いかけた雫の唇に、軽い感触が触れる。

 これ以上は話すな、と言うエイドの無言のメッセージに気づき、雫は納得がいかないまでもその指示に従う。

 段々と通勤、通学のための人々が多くなり、駅前は雑多な人々がひしめいている。その中を通り抜け、改札をくぐり抜けた雫を友人が見つけて手を振ってきた。

「おっはよう」

「おはよ」

 素っ気なく返事をすれば、案の定友人、宮城 藍音がぷぅ、と頬を膨らませる。

 少々八つ当たり気味だったな、と、雫自身感じ取り、ごまかすような笑みを浮かべて藍音に近づいた。

「何朝から苛ついてんのよ?また鏑木がらみ?」

「まぁ、そんなとこ」

「あんたも大変よね」

 毎朝の恒例を思い出してだろう。藍音が呆れたように息を吐き出す。

 だがそれもすぐになりを潜めると、ありふれた会話を始める。昨日のテレビ番組の感想や、今日の宿題など。

 たわいなく、普通の言葉の投げ合い。

 そんな状況を平和だな、と感じながらも、どこかで夢のことが引っかかる。

 口に出してしまえれば、いっそ楽になるのかもしれない。そんな考えがよぎるが、じっと自分を見つめる視線を感じてしまえば、口に出すことも出来はしない。

 表面上はいつものような表情を浮かべつつも、雫の内面は不安と不満が混じり合い、心ここにあらず、という状態だ。

 そんな雫をよそに、徐々に増えていく生徒達の中に溶け合いえば、顔見知りや一人、二人と友人達が雫や藍音達と合流していく。

 いつもと変わらないはずの登校風景のはずだったが、進むにつれて女子生徒達の甲高い声が聞こえてくる。

「どうしたんだろう?」

「そだね」

 友人達の顔にも疑問が浮かぶが、高等部の校舎前に出来ている人垣を見て驚いたように眼を見開いた。

 そこには、いるはずの無い人間がいた。いや、厳密には、いてはいけない人間が、いた。

「ちょっ!何で鏑木がいるの!」

「知るわけ無いっしょ!」

「っていうか、雫は聞いてなかったの?」

「聞いてるわけ無いじゃない!」

 即答した雫を見つけたのだろう。不機嫌そうな顔で優誠は人垣をかき分け、雫の方へと向かってくる。

 何をしたのだ、と言わんばかりの友人達の視線に顔を横に振ってみるが、目の前で立ち止まった優誠が、がっちりと雫の手を掴む。

「へ?」

「行きますよ」

「って、どこに!っていうか、授業!」

「さぼり」

 きっぱりと、さも当然かつ簡潔に答えられ、そのままずるずると引きずられていく。誰にも止める隙を与えず、優誠は極々自然にその場から歩き出していた。

 あれよあれよという間に、雫は友人達の輪から外れ、今来た道を逆方向に足を動かしていた。

 何だよあれは、と言う視線が痛いほどに向けられる。

 それらをやり過ごすために、優誠の小さく華奢な手を振りほどこうとしたが、見た目に反してその力は雫がふりほどけないほどに強く、どこかで鍛えているのでは無いか、という疑惑が生じる。

 人気が無くなり、遠くで始業の鐘が鳴るのを聞いた雫の肩が、力落ちたように垂れ下がり仕方なしに優誠の足取りに合わせると、ようやく優誠が雫の手を離した。

「で、何のよう?」

 苛立ちを隠そうともせずに雫がそう問いかければ、それ以上の怒気が優誠の背から放たれる。

 あ、まずい。

 瞬間的に浮かんだのは、その言葉だ。怒鳴りつけている姿はたびたび見かけるが、それは怒っている、よりは、本人とその周りへの注意喚起といった趣が強く、本当に本気で優誠が怒っている姿というのは見たことが無い。

 部内の人間も、優誠の感情の機微には敏感に察知しては、触らぬ神に何とやら、でやり過ごすことが多いため、今までその部分に触れることは無かった。

 あれを本気で怒っている状態にしたら、まずいんだよなー。

 部長である飯山がぽつりと遠い目をしてこぼしていたことを、今更ながらに雫は思い出す。

 確かにこれは、怖い。

 むしろこの感覚は、本能的なものだ。

 逆らってはいけない。ここで逆らえば、牙をむかれ、簡単に殺されてしまう。そんな想像が雫の脳裏をよぎる。

 不満がないわけではないが、自分の命は惜しい。

 それ故に、雫は黙って優誠の背中についていくしかなかった。

 やがて、優誠の足が止まる。

 雫が自然とそこを見回せば、学園内に設置されている庭園の一つについており、くるりと優誠が視線を左右に動かした後、その一角を指さした。

 蔦の絡まる東屋と、その下に石造りのテーブルセットがおかれているそこは、常ならば高等部や中等部の生徒達があまり訪れない場所に位置している。

 どちらの校舎からも遠い庭園は当たり前だが人影もなく、優誠は冷たい石の上に腰を下ろすと、反対側の椅子と雫とを交互に目線だけ向ける。

 座れ、との意思表示ではあることは理解できるが、近づきたくない雰囲気を醸し出す後輩の姿に、雫は泣き出したくなった。

 とはいえ、ここで逃げ出すわけにもいかず、恐々としながら雫が反対側に座ると、優誠は長々とした溜息をつき、今まで以上に鋭い視線で雫を見つめた。

「で、いったい何の夢見たんです」

 直球で問いかけられ、雫はきょとんと眼を見開く。いったい何のことだろうと反芻した後で、あっ、と小さな声を上げて雫は不思議そうに優誠の顔をまじまじと眺める。

 何故、と言う疑問が顔に出ていたのか、優誠は今まで以上に不機嫌そうな声音で頭上へと声を上げる。

「何してたのよ、あんたら」

『何と言われましてもねぇ……雫さんの夢からこぼれた魔力を拾っただけですので、こちらとしては何とも言いようが無いですねー』

「いっぺん、思いっきり殴られてみる?」

『ご冗談を』

「……え?魔力って、あたし、何も」

「してないのは分かってますよ。もちろん、先輩には魔術師や魔法使いのような力が無いのも承知してますし、ただの人間なのに普通じゃ考えられない呪いがかかっているのも知ってますけどね!」

 ふるふると身体を震わせていたが、自分を落ち着けるようにがしがしと頭を引っかき回し、優誠はじとりとした視線で雫をねめつけた。

 全身をくまなく調べるような瞳に居心地悪げな顔をした雫に向かって、優誠は苦々しい口調と表情で再度尋ねてくる。

「それで、今朝見た夢はどんなんでした?」

「えっと……」

 その言葉に、夢の中の少女の姿がリアルによみがえる。

 悲しみに染まった瞳。何かを耐えるように震える拳。

 そのどれもが、自分へと向けられていた。

 思い出すだけでも胸が痛くなると同時に、やり遂げたのだという達成感のようなものが心に満ちてくる。記憶を辿るために、雫の視線が遠くへと向けられてしまう。

 だから、優誠の表情が変わっていくのに気づかなかった。

 仏頂面から、段々と眉間にしわを寄せ唇を尖らせて何かを考えるように雫の話を聞いていた優誠は、話しを聞き終えると深々とした溜息をついた。

「なーるほど、その時だね」

『えぇ、まず間違いないでしょう』

「えっと……なにか、問題があるの?」

「あるどころか、ありまくり過ぎですよ」

 軽く眉根をもんだ後、ちらりと天井を見やった。

 じろじろと周囲に視線を彷徨わせると、優誠はエイドに疑問を投げかける。

「サライは?」

『結界張りと偵察に行ってます』

「おっけ。それでいい。あんたも結界を強化。たぶん、というか、確実に今日仕掛けてくるぞ」

『まだ雫さんの誕生日には速いですよ』

「魔力が放出された以上、相手は契約の発動を察知してるんだ。だからこそ、今が契約の成就をしようとするのは、当たり前だろうが」

「契約の成就って、どういうこと?」

 そこで初めて、優誠が雫へと顔を向けた。

「その夢、前世で呪いの譲渡を受けた時の記憶ですよ」

「は?」

 常々優誠が突拍子もない事をいう事は十分承知していたのだが、自分の考えを突き抜けるような言葉がその口から出てくるとは、正直なところ思ってもいなかった。

 パクパクと唇を開閉させながら、雫は頭をひねりつつ優誠の言葉を理解しようとするのだが、考えること自体が阿呆のような気がして、それを無視して明後日の方向へと目を向ける。

 あー空が綺麗だなー。

 そんな現実から逃避していた雫の頭は、ほとんど強制的に現実へと引き戻された。

「聞いてます、先輩」

「え?」

「だーかーらー、今日一日はここにいますって言ったんですよ」

 態とらしく息を吐き出し、優誠はぱちりと指を鳴らす。

 瞬間、外界の音がすっぱりと消え失せた。

 しばらくの間は無音があたりに満ちていたが、僅かにではあるが風の音や鳥の鳴き声など小さな自然の音が雫の耳を打ち付けた。

 驚きのあまり周囲を見渡すしずくに向けて、何でもないことのように優誠が首をならしつつ話しかける。

「周囲五十メートル以内は、普通の人間は入ってこれないようにしました」

「はいぃ?」

 思わず素っ頓狂な声を出し、まじまじと優誠の顔を見つめてしまうのは、この場合仕方のないことだろう。

 基本的に常識という定義から離れているとは思っていたが、今まで以上の奇っ怪な行為に雫は言葉を探すために視線をあちこちに巡らせた後、戦々恐々とした気持ちで後輩に言葉をかけた。

「あの、それ、どういうことなの?」

「あぁ。面倒なんで、その呪いをかけた本人引きずり出した後に、殴り倒そうと思いまして」

 爽やかすぎる笑顔で空恐ろしいことを言い放ち、優誠は今までになく上機嫌な顔でパキパキと指を鳴らし始める。

 出来ることなら、この場から逃げ出したい。

 泣き出したくなる雫の思いを読み取ったのか、呆れたようにエイドが声を上げる。

『殴り倒すだけにしてくださいよ』

「何よ、あたしがそれ以上をするって言いたいわけ」

『えぇ。あなたのことですから、これまでの経緯を思い返してみれば、半殺しどころか八分目殺しにまでしそうですからね』

「へ?」

 間の抜けた声が、雫の口から漏れ出る。だが溜息交じりのエイドの言葉を反芻しているうちに、確かにこの娘ならばやりかねないと雫は心の内で頷いてしまった。

 常に自分のことを『暴力肯定の平和主義者』などと言っているのだ。やりかねない優誠の行動に、ずきずきと頭が痛くなり始めた雫はその場で額を押さえつける。

 長々とした溜息をつく雫の姿に、不思議そうな顔で優誠は小首をかしげた。

 まるっきり自分の行動が間違えているとは思っていないその行動に、エイドと雫の雰囲気が何ともいえないものとなる。

「あの、優誠……」

「なんでしょう?」

「もう少し、穏便な方法って」

「ありません」

 何を聞くのだ、といわんばかりに、優誠ははっきりと言いきった。

 躊躇いなくそう言い切るのは、さすがと言うべきか、それともらしいと言うべきなのだろうか……。

 出そうになる吐息を何とかこらえ、雫は所在なさげに身体を動かして石造りの椅子に座り直す。

 しばらくの間、どんよりとした沈黙が横たわっていたが、堪えきれなくなった雫がそういえば、と以前問いかけた言葉を思い出した。

 この少女は、いったい何なのだろう。

 先程『魔術師』や『魔法使い』と言った言葉を、平気で口にしていた。

 雫も幼い頃は、絵本や本などで『魔法使い』といった単語をいくつも目にしてきた。

 とはいえ『魔法使い』というより、悪い『魔女』といったものの方が圧倒的ではあったが、それでも自分にもそんな力が合ったらいいな、と、何度も思ったことがある。

 無論、そんなものが存在しないことは、読む絵本の中では知っていたのだが。

 けれど……。

 優誠が目の前で見せた数々の不可思議な光景は、絵本の中の『魔法使い』によく似ている。というよりも、それらの域を超えている。

「ねぇ、優誠」

「はい?」

「優誠って……その……」

 先を聞くのが怖くなりつつも、ここは思い切って尋ねるべきだ、と雫は息を整え真っ直ぐに自分を見つめる後輩に視線を向けた。

 よくよく優誠の瞳を見つめれば、その色彩が交互に違うことを発見する。

 銀縁の大きな眼鏡は、優誠の雰囲気だけではない。その瞳の色さえ変えていることに、今更ながらに隠しているのだということを思い知らされてしまう。

 左の眼はガラス越しではあるが、ラベンダーともとれる明るい紫。右の眼は、どこまでも深い瑠璃色の瞳。

全く気にしていない、というよりも、それに気がつかなかったのは、何か仕掛けがあるのだろう。

 だからこそ、言葉を選ぶようにして雫は優誠に尋ねた。

「優誠って、魔法使い?」

「あれ?今更気がつきます?」

 がくりと肩を落とし、雫は頭痛の起こる頭を抱え込みそうになりながらも、それでも必要最低限の情報を得る耐える前に口を開いた。

「魔法使いって、悪いイメージがあるんだけど」

「あぁ、魔法を使うっていう意味じゃ、魔女も魔法使いも、魔術師もあんま変わりませんからね」

「そう、なんだ」

「そうですよ。

 だいたい、魔法を使う人間がどういうこと呼称で呼ばれようが、魔法を使えればそりゃ立派な魔法使いでしょう」

「はぁ……」

 もうこの後輩イヤだ、と言いたくなりたいが、自分の身を守ってくれるのは目の前の人物しかいないため、雫はとうとう額に手を当てて石造りのテーブルに頭をのせた。

 すでにテンションが上がっているためだろう。いちいち雫の行動に突っ込みを入れてこないどころか、優誠は楽しそうに鼻歌を歌っている。

 はぁ、と、盛大にエイドが溜息を吐き出す気配とともに、雫に向かって疲れた声で話しかけた。

『まぁ、優誠に任せておけば大丈夫ですよ』

「でも」

『あそこまでいってしまったら、私達でも止めることはできませんからねぇ』

 あきらめというよりもどこか達観したエイドの口調に、雫の口の端が引きつる。

 エイドにそれでも止めた方がいいんじゃ、と言いかけたが、それを言ったところで、優誠がそうですねと引き下がることがないことも、今までの行動から理解できてしまう。

 そろって小さな溜息を漏らしたあと、雫は視線を上へと向けた。

 エイドが護衛についてからクセになりつつあるが、彼の声がした方向へと瞳を向けるのだが、今だにその姿を見ることはかなわない。

 姿を見てみたいと思いつつその期待を口にすれば、時期が来ればですね、と笑みを含んだ声でいつもはぐらかされてしまい、結局雫は彼の姿を一度たりとも見たことはない。

 不満ではあったが、それでも自分のことを第一優先に-それこそ主である優誠のことなどほっぽって-考えてくれ、有り難い存在ではある。けれども、姿が見えないというのは、不満以上にどこか不安を覚えてしまう。

「あの、エイドさん」

『なんですか?』

「本当にいいんですか、あれ?」

『まぁ、大丈夫だと思いますよ』

「ほんとですか?」

 思わず念を押してしまうのは、優誠の様子がいつもと全く違うためだ。

 そんな雫の懸念に、エイドの雰囲気が苦笑を帯びつつ、何事かを言おうとした矢先のことだ。

「あ、そうだ」

 ふと気がついたように、優誠が眼鏡を外す。

 あぁ、と、エイドが頭を抱え込むような声を漏らすのを聞きつつ、雫は目の前の後輩の姿を見つめた。

 いつもかけている、銀縁の大きなフレームをした眼鏡。それが取り除かれた途端、優誠の瞳がくっきりと露わになる。

 たったそれだけのことだ。たが、一瞬にして優誠が纏う空気が変わったのが分かる。

 凜とした、そして鋭い刃物のような空気に気圧され、雫はゴクリと喉を鳴らして優誠の顔をまじまじと見つめた。

 今まで以上にはっきりと、優誠の瞳の色が左右で輝きを増しいる。

 左の瞳は、輝くような紫の色合い。そして右の瞳は、深い深い瑠璃の色。

 今まで気が付かなかった、というよりは、それを眼鏡で隠していた、といった方が正しいのだろう。

 コトン、とテーブルの上に置いた眼鏡のガラスに視線を向ければ、矯正のための屈折もないただのガラスだと気が付く。

「それ……」

「あぁ。この眼鏡は伊達ですけど?」

 あっさりとした答えが返されるが、単にそれだけではない気がしてならない。

 それを肯定するかのように、エイドがつくづく呆れたと言いたげな口調を頭上で漏らした。

『何も魔力の限定解除をしなくてもいいじゃないですか』

「保険よ。ほ、け、ん」

『それだけじゃないでしょうに』

 まったくあなたは、とぼやくエイドの言葉など頓着せず、優誠は脇に置いてあった鞄を開けるとその中身を取り出す。

 何冊かの分厚い書籍と筆記用具を取り出した後、優誠は雫に向けて首を僅かに傾けた。

「先輩も、ここで宿題やらなにやらやったらどうです?」

「はぁ」

 間の抜けた声を上げ、雫は肩の力を抜いて鞄に手を伸ばす。

 宿題、といっても、今日の分の教科書やノートは持ってきてはいても、その他の教科は持ってきていないのだ。本日の授業以外の宿題が出ている教科のノートなどの持ち合わせは、当然ながら持ってきてはいない。

 それでも時間をつぶすためには、分からない教科を復習する方が良いと結論づけ、雫は数学の教科書とノートを取り出した。

 その様子を眺めながら、優誠はあっさりとした口調で雫に話しかける。

「分からない所あったら、すぐに聞いてください」

「え、でも」

「大丈夫ですよ。

 それに、中間近いから、部で勉強会ってか、あたしがみんなに教える事には変わらないんで」

 あっさりとした口調は、まるで今日の天気の事を話すかのように軽いものだ。

 とはいえ、そうは言われてしまっても、雫には半信半疑な気持ちが浮かび上がるだけでしかない。高等部の教科は、中等部に解けるとは思えないし、いくら部の皆が優誠に教えてもらっているとしても、それはそれで問題が出そうなのだが。

 試しに、とばかりに、雫は一つの問題に指を指した。

「あぁ、これですか……」

 片膝をついて文庫本に目を通そうとした優誠が、身体の向きを変えて雫に向き直ると、スラスラと説明を始める。

 雫にとっては難問である問題は、そんじょそこいらにいる先生よりも分かりやすく、解けなかった問題が嘘のように理解でき、回答を得た途端に優誠の顔をじっくりと見つめてしまった。

 その視線を受け、優誠は苦笑を浮かべる。

「無駄に長生きしてるわけじゃ無いんですよ」

 含みのある発言に、雫は疑問の表情を浮かべる。

 だがそれに答える事無く、優誠はトン、と教科書を叩くと、笑みを浮かべて雫へとさらりと問題を提示した。

「じゃ、次これ解いてください。時間は三十分で」

「え?」

 いくつかの応用問題を突きつけられてしまい、雫はにこやかに笑う優誠と問題とを交互に見遣る。

 爽やかな優誠の笑顔だが、さっさと始めろ、と、暗にその瞳が語っており、雫は慌ててそちらに意識を向けた。

 先程レクチャーを受けたせいか、今までなら頭を抱えていたはずの問題が、何とはなしに形になり、ゆっくりと、けれどもしっかりとその答えをノートに書いていく。

 カリカリとシャープペンの走る音以外には、どこからか届く小鳥の鳴き声だけ。何とも心地よい空気が流れる中、雫はそっと肩を下ろして顔を上げる。

 ちらりと優誠を見遣れば、ちょうど度文庫本の区切りが良かったらしく、それを閉じて雫へと向き直った。

 恐る恐るノートを差し出せば、優誠は赤色のペンを取り出してクルクルと器用に回しつつそれに視線を落とす。数秒の間雫の解答を見ると、優誠が大きく頷く。

「オッケーです。で、次の問題なんですが」

 しばらくの間そんなやりとりを交わしていたが、不意に優誠が一点を鋭く見つめた。

 どうしたの、と声をかけたかったが、優誠の纏う雰囲気に雫は何も言えずにその様子をうかがう。

 無表情で空中を見つめていた優誠が不意に口の端をあげ、優誠はその場から立ち上がると頭上に視線を向けた。

「おい、お客さんだ」

『それくらい分かっていますよ。

 それで、どうします?』

「決まってんでしょうが。ぼっこぼこにする」

『せめて、八分目ぐらいで止めてくださいよ』

「そりゃ向こう次第ってね」

 物騒きわまりない事を口にし、優誠は自然な動きで雫の前へと移動する。まるで雫を守る事が当然だと言わんばかりの動作に、雫も座っていた石造りの椅子から慌てて腰を上げてその背中を見つめた。

 長い、けれど実際は短かった時間は、ゆっくりと自分達に向かって歩いてくる人影によって終わりを告げた。

 ほんの数十メートル先で立ち止まった人物に対して、優誠は小馬鹿にしたような声を上げる。

「あんたが、転校生?」

 疑問の形をとっているが、それは断定の言葉だ。

 そんな優誠を無視するどころか、その眼中には入っていないのだろうか。くっと阿久津遊馬の唇が小さな笑みを描き、余裕をたたえた仕草で雫の方へと視線を向ける。

 値踏みするような視線で雫を見つめた後、阿久津はおもむろに口を開いた。

「迎えに来たぞ、我が花嫁」

 何を言われたのか数秒の間考えてしまう。そして、ようやく意味を理解した後、雫は素っ頓狂な声を上げていた。

「……はっ、はなよめー!」

「あぁ、そうだ。我が花嫁よ」

 当然のように阿久津がそう言い切った途端、優誠の身体からゆらりと何かが立ち上るのを感じる。

 たじろぐまでに強いそれに、雫の足が一歩下がった時だ。その肩をトン、と誰かが叩きつけた。

 ビクリと身体を震わせて雫がそちらへと瞳を向ければ、雫の頭二つ分以上は背の高い青年が安心させるような笑みを浮かべて佇んでいる。足先まで隠れる白いローブを身に纏っているその様は、まるで絵本の中の魔法使いような姿だ。まさか、という思いとともに雫は恐る恐る青年に声をかけた。

「エイド、さん?」

「えぇ。この姿でお会いするのは、初めてですね」

 驚きましたか、と次いで言われてしまい、雫は小さく首を上下に動かす。

 整いながらも、柔和さにあふれた顔立ち。濃い藍色の髪は、肩よりも少し長く伸ばしているのだろう。それを銀色の細長い髪留めで左側へと纏めて肩に垂らし、動きととともにそれがさらさらと流れている。

 思わず見惚れてしまいそうになるが、前方から流れてくるただならぬ空気に、今がそんな悠長な場合では無い事を雫に教えた。

 剣呑な空気を察してか。阿久津もまた不機嫌そうな表情を浮かべる。

「どけ、小娘」

「はっ。魂の回収し忘れたぼけやろうが何ぬかしてんだか」

 ピクリ、と阿久津の片眉が跳ね上がる。

 たったそれだけの事ではあるが、自分の言ったことが事実だと認識したのだろう。鼻先でそれを笑い飛ばし、優誠は小馬鹿にしたように言を綴った。

「おおかた、委譲された契約を見逃して、指くわえて先輩が転生するのを待ってた、って口でしょうが」

 そこで言葉を切り、優誠は心底哀れみのこもった雰囲気で阿久津を見遣る。

 経験上、それが相手を煽る行為以外に使われたことがないのを知っている雫は、何かを優誠に言いかけようとするが、それが形となる前に優誠が戦闘準備は終わったとばかりに口火を切った。

「阿呆もそこまで来ると、可哀想になるわ」

 プチリ、と、阿久津の中の何かが切れたのが分かり、雫はエイドのローブの裾を掴んで思わず優誠を指さしてしまう。

 どれだけの力があるかも分からない相手だというのに、優誠は全くそれらを意に帰した様子もなく堂々と相手と渡り合っている。無謀だ、と他人である雫は思うのに、本人は全くそれを無謀と思っていないのだから、こちらがあたふたと慌てるしかないのではと思うのは、些か仕方のないことだろう。

 けれど、そんな雫の様子をただ笑ってみるだけで、エイドはさして何かをしようというアクションを起こさない。それどころか、見ていてください、と視線が強く語っているために、雫はおとなしくエイドの服から手を離した。

「小娘。どうやら死にたいようだな」

「やれるもんならやってみな」

 明らかな挑発に、阿久津の右手が優誠に向けられた。

 それを面白そうに眺めていた優誠の目前に突如火炎が上がる。

 何もなかった場所に、優誠の身体を包むには十分すぎる大きさを持った炎は、近くにいる雫の肌を刺すほどに熱い。

 思わず驚いて一歩後ろに下がってしまったが、そんな反応を示したのは雫だけだった。

「ふーん」

 何とも面白くなさそうに優誠がそう唇を動かした途端、パン、という破裂音とともに火球は綺麗に消え去ってしまう。

 呆然とそれを見ていた雫だが、次の瞬間阿久津の大声で我に返った。

「俺の力を消しただと!」

「あんなちゃちな攻撃なんぞ、消せるに決まってるでしょうが」

 耳の穴に小指を突っ込みながら優誠が投げやりに答えると、阿久津の顔面に怒りの色が現れた。無論そこには、自分の力に対しての絶対的な自信が根底あったのだろう。だが、そんな自信をたやすく砕き、まるで阿久津が弱者であるような優誠の態度を見せつけられれば、怒りの一つや二つは軽く覚える事は間違いない。

 加えて、それら全てを分かっていて優誠が行動に移しているのだから、タチが悪いとしかいいようが無いだろう。

 事態を悪化させるだけでしか無いというのに、優誠はどこ吹く風と言わんばかりに阿久津を眺める。先程まで阿久津が見せていた余裕を今度は優誠が纏い、小馬鹿にしているのを隠そうともせずにつっ、と一歩阿久津に近寄った。

 すっと、阿久津の身体に緊張が走る。

 その様を眺めながら、優誠は無造作に右手を横にはらった。

「なっ!」

「え?」

 阿久津と雫の唇から同時に声が上がるや、阿久津の身体は何かに吹っ飛ばされたかのように数メーター先へと転がり、凄まじい砂埃をあげて地面に投げ出された。

 それに冷めた視線を向けていた優誠だが、起き上がった阿久津の様子に小さく口笛を吹いてみせる。

「おや、頑丈ですね」

 ニコニコと笑いながらエイドがそう評するのを聞きつつ、雫が思わず呆気にとられたように阿久津へと視線を向けてしまう。そんな中、バサリ、と力強い羽音が雫の耳に届けられた。徐々に近づくそれに、視線をそちらに動かすが、逆光になっているためにその輪郭だけが視界に入ってくる。

 やがて、それは雫達のそば、正確にはエイドの肩へと止まった。

 純白の毛並みを持ち鷲よりもやや大きな体躯を持ったその姿は、人の視線を自然を奪い取り、小さな感嘆の吐息を漏らすのに十分すぎた。

「何じゃ。もう始めておったのか」

 呆れきった声音は、ここ最近聞き慣れたものだ。だが、まさかそれがこの鳥から発せられるとは思っておらず、雫はまじまじと視線をそれに向けてしまう。

 じっくりと上から下からと眺めていれば、それに気づいたらしく、白いその鳥は雫の方へと顔を向けた。

 鋭く、全てを切り裂くような冷徹な視線と、堂々と落ち着き払った態度。その雰囲気には覚えがあり、雫は恐る恐る呼びかけてみた。

「サライ、さん?」

「そうじゃが」

 至極当然と言わんばかりの言葉にエイドが苦笑を浮かべ、宥めるような声でサライに注意をした。

「この姿は初めてなんですよ、雫さんは。もう少し丁寧な対応をしたらどうです」

「……そういえば、そうじゃったな」

 しばし考え込んだ後、サライは納得したように頷いてみせると、器用にエイドの肩先で方向を変えて軽く雫に頭を下げる。

 慌てて雫も会釈するが、そんな雫を顧みる事無く、サライはエイドへとやや険のある口調で話しかけた。

「焚き付けたんじゃなかろうな」

「まさか」

「……嘘くさいんじゃよ、お主の場合は」

 疲れたようにそう言い切り、サライはじとりと優誠の方を見遣る。

 どことなく嬉しそうな優誠の表情に、再度サライが盛大な吐息を吐き出した後、雫へと顔を向けた。きょとんとやり取りを眺めるだけの雫に、エイドとサライは揃って苦笑を浮かべる。

「まぁ、あれに任せておけば大丈夫じゃろうて」

「でも……いいんですか?」

 おずおずと雫が二人に問いかければ、エイドとサライは顔を見合わせた後大きく頷いて見せた。

「あれはそう簡単に殺される性格では無いからの」

「そうですね。さっきもぼこぼこにする、と息巻いてましたし」

 エイドの言葉に、サライが深々と息を吐く。哀愁漂うその姿に、何時も優誠に引きずり回されているのが簡単に想像できた。

 自分もまた振り回されている事を思い出し、何とはなしに同族意識を抱いてしまい雫は思わず苦笑を浮かべてしまう。

そんなほのぼのとした空気を打ち破るように、阿久津が声を張り上げた。

「貴様!その力をどこで手に入れた!」

「んなこと教えるわけないでしょうが」

 ふふん、と、完全な上から目線で阿久津を見遣り、優誠はゆったりとした足取りで阿久津へと歩を進める。そんな優誠の態度に、阿久津は臨戦態勢をとるために腰を落とす。

 緊迫した空気が流れる中、突如それを引き裂くような声が上がった。

「若様!」

 阿久津の背後から、白髪の目立つ初老の人物が現れる。

 それに驚く事無く二人を見ていた優誠が、ぽつり、と呟く。

「バカ様?」

「優誠、耳が遠くなるのも結構ですが、年の取り過ぎでぼけるのはやめてくださいね」

「誰がぼけてるんだって」

「まぁ、あなたの言う事もあってはいますけど」

 優誠の不機嫌そうな声音を綺麗に無視し、エイドは何度か頷きながらそうこぼした。

 そんな二人に呆れたような目を向けた後、サライが初老の男性の姿に目をすがめる。まるで値踏みしているかのようなそれに気付いたのか。優誠が軽く肩を竦めて見せた。

「あれぐらいの相手なら、大丈夫だよ」

「余り相手を過小評価するのは関心せんぞ」

「へいへい」

 サライの言葉など聞き流しているとしか思えない返事に、雫も呆れたように優誠を見てしまう。

 とはいえ、優誠も相手を見くびってはいないのだろう。いつでも自然に攻撃できるような態勢をとり、目の前の二人から視線をそらせる事は無い。

「爺、油断するなよ」

「はっ」

 短いやり取りを交わした後、阿久津は一歩だけ優誠との距離を縮める。様子をうかがいながら攻撃をかけようとする阿久津達に、優誠は小さく嘆息をこぼした。

「あのさぁ、最初っから実力差があるんだから、とっとと負け認めれば?」

 まるで犬でも追い払うかのように掌を振り、優誠はぼやくように言葉を発する。

 それに激高したのか、老人の頭上に巨大な氷塊が現れた。

「若を愚弄した罪、その身で味わえ!小娘が!」

「……愚弄、ねぇ」

 思わず、といったかんで優誠が呟く。それに同意するように、エイドとサライも呆れきった顔を見せている。

 優誠の事を全く心配していない一人と一羽に、自分だけが心配するのが馬鹿馬鹿しくなり雫は事の成り行きを黙って見守ることにした。

 はぁ、という優誠の溜息が聞こえると同時に、老人が作り上げたたであろう氷塊が呆気なく崩壊する。

 驚愕が、阿久津と老人の顔に走る。と同時に、優誠の身体がその場からかき消えた。

 それは刹那と言っていいほどの時間。阿久津の前に立ちふさがるような形で現れた優誠の右の拳が、阿久津の顎をとらえる。

「歯ぁ食いしばれぇ!」

 怒声とともに、優誠が右腕を上へと押し上げた。

 どこの格闘家だ、と突っ込みを入れたくなるほど綺麗に決まったそれは、阿久津を空中にあげた後地に這いつくばらせるのには十分な力技であった。

 ぽかんと、雫はその情景を見る。

 頭三つ分以上は高いだろう阿久津の身体を、小柄な部類に入る優誠が拳で殴ったのだ。それもごく自然に。

「……わ、若!」

 同じように呆然とそれを見ていた老人が、顔を青くして阿久津に近づきその身体を抱き起こす。

 軽い脳震盪でも起こしたのか。阿久津の目が幾分か虚ろに空を見つめていたが、やがてぶるりと頭を振り憎々しげな視線を優誠に向けた。

 ポリポリと頬を引っ掻きながら、優誠は背後に立つ雫へと身体の向きを変える。

「先輩、このアホたれどうします?」

「へっ?」

 突如話しを振られてしまい、雫は困ったように顔を歪めてしまう。対処を決めるのは優誠の仕事のようにも思える。が、一応は雫も関わっている為に優誠は声をかけたらしい。自分に降るな、と大声を上げたいが、言ったが最後自分が阿久津の言葉を承諾してしまったように感じられ、雫は唇を開いたりと閉じたりと忙しそうに動かし、視線をあちこちにさまよわせた。

 そんな雫に、エイドはクツクツと喉を鳴らしており、そっと雫だけに聞こえるように小声を発する。

「どうとでもなりますから、何でも言って大丈夫ですよ」

「まぁ、ぶち殺しかねんからの。穏便な手段を選んでくれるとありがたいんじゃが」

 明後日の方向を見ながら、サライもそうこぼす。

 まさか、と笑い飛ばしたいが、あの性格ではサライの言う事はあり得てしまうために、雫は難しい顔で優誠を見遣る。

 バキバキと指を鳴らし、さてどう料理してくれようかとありありと表情に書いている後輩は、はっきり言わずともどん引きしてしまうには十分なものだ。

「……えーっと、優誠」

「なんすか、先輩」

「とりあえず、話し合い」

「却下」

 話しの途中ですっぱりと言い切られ、雫は優誠を鋭く睨み付けている阿久津に視線を向ける。

 話し合いで解決するには、もう遅すぎた。阿久津はすでに殺意を漲らせ、優誠は相手の事を格下と見なした態度なのだから、平和的な解決、等とはこれでは遠い所に存在しているとしか考えられない。

 ズキズキと痛む頭を抱えつつ、雫は阿久津に瞳を動かした。

「阿久津君。何で私を『花嫁』なんて言うの?」

 今の今まで聞けずにいた疑問を、雫は口にする。

 優誠は、魂の回収をし損ねた、と言った。それが本当ならば、自分は阿久津に殺されて魂とやらをとられているはずだ。なのに、阿久津は自分を『花嫁』にすると言った。

 殺したいのか、それとも生かしたいのか。

 判断できずにいる雫へと、阿久津は唇についた血を片手で拭いながら、さも当然とばかりに口を開いた。

「お前の魂は、俺のものだ。ならば、お前をどうしようと俺のかっ」

 勝手だ、と阿久津は言いたかったのだろう。

 言葉の最中に、またしても阿久津の身体吹っ飛ぶ。

 今度は何が、と思えば、再び刹那のうちに阿久津がいた場所の一歩手前に優誠が現れ、何かを蹴飛ばしたかのように足を上げていた。

「おやまぁ」

「あれは……」

 エイドとサライが、同時に溜息をつく。両者ともに何が起こったのか分かったといわんばかりのそれに、雫はエイド達を見上げた。

 まさか、とは思うのだが、どう考えてもそれしか思い至らず、雫は恐る恐る二人に尋ねてしまう。

「あの、えっと……優誠が、蹴飛ばしたんですか?」

「えぇ」

 簡潔な答えに、雫の肩が沈んでしまう。いくら何でもやり過ぎだ、と言いたいが、優誠の性格では、それが何か、と問い返されるのが落ちだ。

 不機嫌を通り越し、怒りをちらほらと露わにしている優誠が、ゆっくりと口を開いた。

「おいこら、女性をもの扱いするんじゃねぇよ」

「……わ、若ぁぁぁ!」

 顔色を赤から青に、そして白くした老人は、乱暴すぎる優誠の行動に付いていけなかったためにその場で佇んでいたが、泡を食ったように阿久津に駆け寄った。

 息が詰まったらしく、何度も咳き込んでいる阿久津だが、ようやく身体を起こして優誠へと食ってかかった。

「お前!蹴飛ばすとは女らしくないぞ!」

「うるせぇ!男に手加減して何が楽しい!」

「いや、楽しい以前に、蹴りはまずいじゃろう」

「まぁ、優誠ですからねぇ」

 何をしてもおかしくない性格でしょうが、と疲れたようにエイドが呟きに近い小声を発した。

 それもそうだ、と頷きかけた雫だが、慌ててそれを振り払うように首を激しく横に振った。いくらなんでも、中学生の女の子が蹴りというのは暴挙過ぎる。加えて、ケンカ慣れしているとしか思えない行動は、頭を抱えるのに十分なものだ。

 それにしても……。

「優誠って、魔法使いですよね?」

「えぇ。魔術師ですよ」

 それがどうかしたのですか、とエイドの瞳が語っているのを確認し、雫は疑問に思った事をぶつけた。

「何で魔法を使わないんですか?」

「魔力がもったいないんじゃろ。あれの力は、尋常では無いからの」

「尋常じゃ無い?」

「……本気になれば、ここいら一帯が吹き飛ぶじゃろうな」

「へっ?」

 間の抜けた声が、雫の唇をつく。

 エイドの代わりに苦々しい顔つきのサライが、捕捉のためにくちばしを動かした。

「あれは、魔術師としては最高位の力を持っておる。だからこそ群れを嫌い、一人で行動しては、色々な魔術師協会と衝突するんじゃがの」

「優誠自身も、問題のある人柄ですからね。なかなかそりの合う人というのがいないんですよ」

「はぁ……」

 それはそうだろうな、と雫は考える。優誠は人間鑑定がうるさい。自分よりも年上であろうとも、その人物がいけ好かない性格だったり誰に対しても尊大であったりすれば、容赦なくこき下ろしてそのプライドを粉々に砕く。だからこそ敵も多いのだろうが、その性格に惹かれて優誠の事を慕う人間も少なくは無い。

 実際、雫も助けられる事が多く、最初の頃に抱いていた強引さの強い後輩、から、頼りになる後輩へと変化した。

 そんな優誠へともう一度視線を戻せば、ふんぞり返るように腕を組み合わせて阿久津を見下ろしている。

「さっさと、魔界に帰れ」

 そう告げた途端、阿久津と老人の顔が一瞬驚き染まる。

 だが、すぐに苦々しげな表情を浮かべ、阿久津は少々警戒の色を滲ませて優誠に問いかけた。

「俺達が、何者かを知っているのか?」

「あんな垂れ流しの魔力と、テメェらから感じる雰囲気で、悪魔だなんて最初からバレバレなんだよ」

 態とらしく溜息をつき、優誠は冷ややかな声でそう答える。

 ほんと、阿呆か。

 そう嘯き、優誠の指先が阿久津へと向けられた。

「避けろよ」

 それだけだ。

 次の刹那、優誠の指先から高速の何かが放たれる。

 それが氷塊だったと気付いたのは、阿久津の掌が『何か』をはたき落としたからだ。

 砕けた欠片が阿久津の足下に落ちるや、瞬く間にその足場が凍り付く。

「まさか……」

 老人がその様を見た途端に驚愕に目を見開いた。

 優誠と凍り付いた地面を何度も交互に眺め、老人はあり得ないものをみるかのように顔面を引きつらせると、その場で叫ぶような声を上げた。

「貴様『始まりと終わりの魔女』か!」

「おや。古い名前を」

 苦笑を帯びた声を漏らしながらも、エイドは先程とは異なりやや鋭い視線で阿久津達を見つめる。

 サライもまたエイドの肩から離れて優誠の肩へと降り立つと、ごく当たり前のように言を綴った。

「知った上で戦うならば、見方を変えんといかんじゃろうな」

「どう変えるわけ?」

「以外と気骨がある、そう考えを変えんとな。

 で?」

「まぁ、対策は変わらないけどね」

 そんな暢気な会話を交わす優誠とサライの背中を見つめ、雫はキョトリと眼を瞬かせると先程老人が放った言葉を反芻する。

 始まりと終わりの魔女。

 ご大層な名前、というのが率直な感想だ。けれど、阿久津達の雰囲気を見ていると、半端の無い警戒心と強い敵愾心が隠すつもりも無く漏れており、小娘と今まで侮っていたのが嘘のような態度になっている。

 だが、そんな二人とは対照的に、優誠は泰然とした構えを解く事も無く、左手を握ったり開いたりという動作を繰り返していた。だが、何かに気が付いたらしく、クルリとその顔を優誠は雫へと向ける。

「先輩、ヒマだったりします?」

「へ?」

「いやー、先輩そっちのけで話しが進んでるんで、そろそろ説明入れておいた方がいいのかなーと」

「……出来れば、お願いしたいんだけど」

「ですよねー」

 苦笑を浮かべてそんな事を口にした優誠が、ちらりと阿久津達を見遣る。攻撃の手口を見いだせていない二人を確認し、優誠は今度は顔だけでは無く身体を雫に向けると、少しばかりおどけたように肩を竦めた。

 余裕のある態度に、いつの間にか力の入っていた雫の身体が弛緩し、先程耳にした名を口にした。

「さっき始まりと終わりの魔女って言ってたけど」

「あぁ。それ二つ名ですよ」

「ふたつな?」

「えぇまぁ。古い名前なんで、今はあんまり使ってないんですけどね」

 いやぁ、知ってるとは思ってませんでしたよ、等と、何とも気楽な調子でそう言われてしまえば、雫としては、あぁそうなの、としか答えようが無い。

 もっと色々と聞きたい事はあるのだが、二つ名、という響きに、どうにも焦臭いものを感じ取ってしまい、これ以上は突っ込んだ質問をしない方が身のためだと、自身の中で警鐘が鳴らされる。だが、その好奇心は表情に出ていたのだろう。優誠は言葉を探すように視線をさまよわせ、ぽつぽつと言葉を口にした。

「まぁ、その、何というか……やんちゃやらかしてた時の名前なんですよ」

「やんちゃやらかしてた時って」

「人間、誰にだって突っ込まれたくない事はありますよ」

 にっこり、と、これ以上無いほど綺麗な笑顔を浮かべ、優誠はそれ以上の説明は出来かねます、との意を視線に乗せてきた。

 その表情に押されるように頷いた雫の視界で、何かがゆらりと蠢く。そちらに視線を向けそうになるが、パリン、と甲高く鋭い音が雫の耳を打った。

 はぁ、と、溜息をつく優誠の頭上で、続けざまに叩きつけるような音が聞こえる。

 思わず身を竦めた雫だが、すぐにそれが阿久津達の攻撃だと理解する。視界の隅に、歯軋りせんばかりの表情を浮かべて何事かを呟いている阿久津と老人が入り、無駄な労力と努力を体現しているとしか見えないその姿に、雫は何ともいえずに優誠を見つめた。

 何もしていないように見えるが、その実全ての攻撃をはじき返しているのだから、たいしたものといえるだろう。とはいえ、明らかに相手を格下として見なしている優誠の態度は、余り褒められたものでは無い。

「あの、優誠……」

「あぁ、大丈夫ですよ。適当な所で切り上げて、連中を締め上げた後できっちり先輩の契約印を消しますから」

 グッ、と親指を立て、いい笑顔で言い切るその根拠は何だ、と問いかけたいが、今まで見てきた優誠の実力を考えれば、それは不可能だという事は出来ない。いや、実現可能な出来事だと、思えてしまう。

 そんな雫を見てだろう。自分の発言に引っかかりを覚えたらしく、何事かを考え込んでいた優誠が、何かに気が付いたように目を輝かせた。

 何故か、イヤな予感しかしないその輝きに、雫は僅かに口元を引きつらせながら問いかける。

「えっと……何しようとしてるの?」

「ご心配なく。先輩は力抜いてればいいだけですから」

「なんだか分からないけど断る!」

「だーいじょうぶですって。これで記憶も戻るし、一石二鳥、って奴ですよ」

 一気にそういった雫だが、そんな言葉など聞く耳を持っていないらしく、ずかずかと近づいた優誠は楽しそうにそう言うと突如雫の腕を掴む。

 なにを、と問いかける間もなかった。

 するりと身体が優誠の方へとかしぐ。その瞬間、優誠の左手が雫の胸を貫いた。

 瞬く事すら出来ないほどの時間であり、理解する事を拒絶するほどの早さだ。けれど、それに伴う痛みが全くない。それ故に、雫は自分の胸と優誠の顔を交互に見遣り、軽く口を開けてしまった。

 言葉を放とうとした。けれど、それは頭の中で弾けてしまうだけで形にはならない。ぱくぱくと口を開閉させる雫が、ずるりと何かが引き出される感触に眉をしかめた。

「貴様!」

「……ふむ」

 小さな声を漏らした優誠の左手には、拳大の青黒く光る歪な形をした『何か』が握られている。ぞわりと背筋が寒くなるそれを見た途端、雫の頭の中で今まで閉ざされていた記憶のふたが勢いよく開かれた。



「ゼフォン、といったか……」

 目の前の老婆は、確認するように自分の名を呼ぶ。

 値踏みするような不躾な視線を寄越しながらもゆっくりと杖をつきつつ近寄ると、老婆は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「変わり者だな。主君のために命を投げ出すなど」

「……受けるのか、受けないのか。それだけを問いただしたいのだがな、私は」

「ふん。関わり合いになどなりたくは無いが、報酬が良いからね」

 ぶつぶつとそう漏らしながら、老婆は一度強く杖をついた。

 それが、老女と自分の契約が成立した証拠。自分が知るなかで最も強力な魔法を使う魔女との契約。

 無表情を装いながらも、内心でほっとする。少なくとも、これで自分の主は救われたのだから。

「しかしまぁ、これはまたやっかいな事だね。天使が介入するなんざ、お前様の主もよほど気に入られていると見えるが」

 何故そちらに頼らない、と暗に問われるが、唇を真一文字にしている自分を見て、魔女はどうでも良いとばかりに息を吐き出した。

「して、お前様の主はどこじゃ」

「ここにいます」

 凜とした声に、慌ててそちらへと視線を向ける。本来ならば、ここにはまだ来てはいけない人物が佇んでいる。驚きの余り口を開いた雫に、ふわりとした笑みを口元に刻み、頭からすっぽりと隠れていたローブを外した少女は、まっすぐに老婆へと歩みを進めた。

「天使様達からも言われました。私が交わした契約いえ、私の罪をゼフォンに背負わせてしまう事になるのですね?」

「……お前さんのおつむは出来が悪いのかい。契約ってのが、罪だと分かってて交わしたんだろうが」

「それは……」

「まぁいいさ。そんな事はこっちの知った事じゃないからね」

 そう言い切ると魔女はゆっくりと踵を返し、ついて来な、と自分達に声を放ち歩き出した。

 薄汚れた石造りの廊下をしばらく歩き、やがて古ぼけた扉が暗闇から現れる。その前で立ち止まった魔女が、頑丈そうな扉を杖で一つ叩く。それだけで、重々しい音を立てて内側へと扉が開いた。

 目の前に広がるのは、闇を少しばかり抑えるかのように四方に炊かれた篝火と、その中心にいくつもの幾何学模様と見慣れない文字とがびっしりと床一面に書き込まれている室内だ。

 それらをじっくりと見回していれば、不意に主が自分を呼んだ。

「ゼフォン」

「はい、姫様」

「あなたは、わたくしにとって一番の騎士です。

 そのあなたに、全てを任せてしまい、逃げてしまうわたくしを」

「姫様。私は嬉しいのですよ」

「嬉しい?」

 何故、と問いかけてくる表情に、苦笑を零しそうになるがそれを寸でのところで止めると、恭しく主の右手をとりそこに口付けを落とす。

 この小さな手を守れるのだ。そこには後悔など存在しない。

「姫様。どうかあなた様は幸せな一生を送ってください。

 それが私の願いです」

「ゼフォン……」

「そこの二人、準備は出来てるんだ。さっさとしな」

 苛立たしげな声が自分達へとかけられ、そっと主の手を引いて室内の中心へと足を踏み出す。

 これで良い。これで、主は救われる。

 その思いが胸の内を満たし、次の瞬間まばゆい光が目の前を覆った。



 呆然としながらも、全てを思い出した雫は瞬きを繰り返す。

「あたし……」

「あぁ、全部思い出しましたか?」

 驚くでも無く、優誠は当然のように雫にそう尋ねてきた。

 躊躇いがちに頷いた雫は、先程までみえていた『記憶』をゆっくりとなぞるように、頭の中で再生させる。全てがすとんと綺麗にはまり、今まで自分が経験してきたもの全てが『契約』の余波だと理解できる。とはいえ、それは余り嬉しい事では無いが。

 優誠の左手へと視線を移す。そこに握られているのは、紛れもなくあの時自分へと移された『契約』の証。おぞましい力。けれど、あの時主と国とを守ったのは、紛れもなくこれのおかげだ。

 きつく拳を握りしめ、雫は優誠へと顔を向けた。

「優誠、あたし」

「原因が分かっただけでも良しとしておいた方がいいですよ。どっちにしたって、連中が諦めるなんざあり得ませんから。

 それに」

 そこで言葉を切り、優誠はゆるりと視線だけを雫へと向けた。

 たったそれだけの事だが、雫は言いかけた言葉を全て止めてしまった。

 冷たい、瞳。冷酷さを強調するよう鋭く光る色違いの双眸は、そこにいる者全てをひれ伏せさせ、何もかもを諾と言わせるだけの力を放っている。

 それを見た途端、またも何かが雫の中で弾けた。

「魔女……終わりと、始まりの……」

「……まぁ、あたしもさっき思い出したんですけどね。

 あれ、先輩だったんですね」

 幾分か瞳の鋭さを潜めさせ、優誠は苦笑を浮かべて見せた。

 契約を移した時、あの場にいたのは自分と主、そしてあの魔女だけだと思っていた。けれど、確かにいたのだ。あの闇の奥の中、老女よりもなお強大な力を持った者が。

 一瞬の事ではあったために、あれは見間違いだと思っていた。けれど、思い出せる。あの時、自分達を見ていた、プリズムパープルと瑠璃色の光。冷たく、けれど、その場の誰よりも苛烈な炎を滾らせていた瞳。すぐに闇の中へと紛れてしまい、見間違いであったと思い込んでいた。

 けれど、現在、目の前で同じものを見ている。

 強く、他の何者をも寄せ付けない、力の持ち主。

 本当の、自分にとって救世主である人物に、雫は純粋な疑問をぶつけた。

「でも、何で……あの時、あの場所にいたの?」

「そりゃまぁ、こんな契約を肩代わりするお人好しを見たかったってのと、こっちに泣きついて助け求められた、ってのがありますかねぇ」

 軽く肩をすぼめ、優誠は端的な理由を口にする。

 確かに、あの時救いを求めたのは、自分が調べた中でも一番強力な力を持った魔女ではあった。しかし、それでも悪魔や天使が絡んでいたのだ。あの譲渡が上手くいくかどうかは、ほぼ賭であった事は否めない。だからこそ、泣きつかれた、と言われた途端に納得もした。あの魔女だけでは、ここまで『契約』を完全な形で委譲させる事は出来なかったのだろうし、完璧を求めた自分に答えるためにより強力な存在を頼ったのだ。

 ふたを開けてみれば、あぁそうか、と納得できるのだが、何故あの時気が付かなかったのかと自分を罵倒したくなる。もっとも、裏を返せばそれだけ優誠の力が強力だという事実があり、自分達に気付かれること無く事を見ていたのもその現れといえる。

 それに……。

 あの時だけでは無く、今も自分を助けてくれる、頼もしい人間なのは確かな事だ。

 それだけで、雫の心は安堵の気持ちがわいてくる。

 けれど、それで納得できるはずの無い者達もいる。それも、すぐ目の前に。

「……それを、どうするつもりだ」

「ぶち壊すに決まってるでしょうが」

 感情を抑えた声で阿久津が問えば、悪気を全く感じさせない、からりとした口調でそう言い放った優誠は、左手の力を少しばかり強めたのだろう。ガラスを引っ掻くような音が掌からこぼれ落ち、耳障りなそれに顔をしかめた優誠に向かって、阿久津が焦りと怒りを込めた声を放った。

「止めろ!」

「あのなぁ……」

 心底呆れたように優誠は溜息をつくと、哀れみのこもった表情を浮かべてみせる。

 そこにはあるのは、絶対的な強者が持つ強みだ。いつの間にか立場が逆転している事すら気付かず、阿久津は一歩前へと踏みだして優誠との間合いを詰めた。

「止めろと言われて止めるやつなんざいないでしょうが。

 ってか、そこに頭が回らないわけ?あたしがこんな無駄な作業するなんて、滅多に無いんだけど」

 知った事か、と尊大な態度でそう切り捨てた優誠が、二人を交互に見比べる。

 歯噛みする阿久津の後ろのためによくはみえないのだが、老人が何事かを呟いているように見えた。

 それを見とがめた途端、バチン、と、優誠の左手から火花があがると同時に、優誠は握っていた『契約』を離し渋い顔でそれを見る。

 空中でふわふわと浮かぶそれが、グニャグニャと形を変えてどこかへ移動しようとするが、ピッと優誠がそれの横をなぞるように指を動かす。途端にその場で凍結したように『契約』は動かなくなると、優誠は納得したように頷いて見せた。

「優誠、それって」

「ご心配なく。あの連中に渡らないように細工したんで」

 事も無げにそう告げた後、面倒くさいなぁ、と呟いた優誠は左の指先で『契約』をつつく。

 途端に、パリン、と乾いた音を立ててそれが壊れた。

 呆気にとられたのは、優誠とサライ、エイド以外の全員だ。

「……っ!き、貴様!何をした!」

「何って、壊したんだけど」

 見て分からないのか、とありありとした表情で語る優誠に、阿久津の顔色が真っ青になる。

 と同時に、雫もまた慌てて優誠に話しかけた。

「どうやってやったのよ!」

「いや。どうって。これぐらいのものなら、簡単に壊せますけど」

「いやいやいや。これって、簡単には壊れないって……」

「最初の魔女はそうでしょうけど、あたしなら簡単に壊せますよ」

 問題点はそこじゃ無い、と大声で突っ込みを入れたくなったが、入れた所できょとんと眼を開いてあっけらかんとどうでも良い返事が返ってくるだけだ。

 痛み始めた頭を抱えたくなったが、それよりもこれで阿久津達は諦めてくれるだろうと客観的というよりも、楽観的な部分がそう考えもするのだが、そんなはずは無いと阿久津の瞳は語っている。

 今ならば交渉の余地はありそうなのだが、それを移すような性格でも無い優誠の事を考え、いち早く雫は口を開いた。

「阿久津君」

「っ」

「あの……魔界、に帰ってもらえないかな?」

 恐る恐るの雫の言葉に、顔を嫌そうに歪めたのは優誠だけでは無く、阿久津も同様だ。

 何を今更、といいたそうな顔をしたが、すぐに自分達の不利な状況に思い至り、渋々だが考え込むように口を引き結ぶ。

 そんな雫に、憮然とした声がかけられたのは当たり前の事だろう。

「先輩、人が良すぎですよ。こういった輩は徹底的に痛めつけて、自分が悪かった事を思い知らせて、それでポイ捨てしないとつけあがりますって」

「まぁ、一理ありますね、それ」

 暴力的な解決法を提示されたようだが、それを右から左に聞き流して雫はゆっくりと深呼吸をする。

 今まで優誠達ばかりを頼ってきたが、これは自分の問題だ。それに、優誠に事を任せてしまえば、最期は血の雨が降るのは確定事項だろう。なるべく穏便に事を済ませたい雫とは真逆の意見を発した優誠を、阿久津は忌々しげに睨み付けた。

「と、とにかく」

 またしても戦闘が起きそうな気配に、泡を食ったように雫は二人の間に入り込む。

「もう『契約』はないんだし、これ以上阿久津君があたしの側にいる事は無いと思うの。だから」

「諦めろ、と」

 コクンと小さく頷き、雫は阿久津の返答をじっと待つ。

 前方で、あきらめるわけないじゃん、と悪態をついている人間を無視し、雫は先程衝撃的すぎる言葉を口にする。

「花嫁には、なりません。例え昔にそんな『契約』を交わしていても、今のあたし、高坂雫はそんな事を考えたり、そのつもりも無いから」

 むしろ迷惑だ、と暗に含んだ言葉に、阿久津はじっと雫を見つめる。

 穴が開きそうなほど見つめられるが、雫も負けずに阿久津に視線を固定させてる。

「……分かった」

 その言葉に、ほっと安堵の吐息を着くが、続いた言葉に雫は呆気にとられて眼を大きく開いた。

「お前を俺に惚れさせれば、花嫁になるという事だな」

「はぁ!」

 これには優誠も驚いたのだろう。

 雫と優誠の声が綺麗にはもり、そんな二人に気をよくしたように阿久津は頷きながら、自分の考えを蕩々と並べる。

「確かに急な話しではあったな。お前が混乱するのは仕方の無い事だ。ならば、俺はお前の側から離れずに、俺に関心を寄せればいいだけだ」

「おいおいおい」

 どう突っ込んでいいのか分からず、雫は惚けたように阿久津を視、優誠はそれ以上を止めるかのようにこめかみを揉みながら待ったをかける。

「あんたの頭の中身がすっからかんなのはよく分かった。

 けどねぇ、どうやったらそんな突飛というか、馬鹿げた思考に至るのか説明して欲しいんだけど」

「ふん。俺の高尚な考えを、下賤なきさま如きが分かるはずも無かろう」

「あ、何だろ。殴りたくなった」

「まぁまぁ」

 力強く拳を握り、唇を僅かに引きつらせながらそう漏らした優誠を、エイドは宥める気のない口調でそう止める。

 ぽかん、と、置いてけぼりになった雫だが、その優誠の言葉が現実へと引き戻させてくれた。

「ちょ!阿久津君!あたしはそんなつもりは無いって」

「今は無くとも、この先にあるのだから仕方の無い事だろう」

「あー、ほっんとに殴りたい。ってか、殴って記憶なくさせたい」

「ボコるのは結構ですが、一部の記憶だけをなくすのは不可能に近いですよ」

 優誠の意見に賛成したくなったが、エイドの言うとおり自分の記憶だけを消去させる事は不可能な事だと、雫とて分かりきってはいる。分かりきってはいるが、感情が納得する事を許すはずも無い。

「……ねぇ優誠」

「はい?」

「ぼっこぼこにしてくれる」

 ぽろりと雫の唇からこぼれた言葉に、優誠が一瞬きょとん、と眼を見開く。

 だが、すぐに満面の笑みを浮かべ、ボキボキと関節をならしながら阿久津達に向き直った。

 雫の言葉が聞こえていたのは、阿久津も同様だ。何を言ったのか分からない、と表情は語っているが、それさえも今の雫の神経を逆なでするのに十分すぎた。

「了解でーす!」

 後ろにハートマークが乱舞しそうな口調でそう答え、優誠は軽やかな足取りで二人に近づく。

 その様を揃って眺めていたエイドとサライが、僅かな苦笑とともに主に決定を渡した雫を見遣る。仕方が無い、と揃って描かれた顔は最初から止める気は無いらしく、雫に対してご苦労様、と言いたげな声がかけられた。

「ずいぶん大胆な事を言いましたね」

「そうでしょうか?」

「まぁ、あれの気持ちも落ち着くじゃろうから、儂らはかまわんけれどもな」

「……お二人は、止めないんですね」

「雫さんの決定ですしねぇ」

「そうじゃな。儂らが口を挟む事も無かろうて」

 素知らぬ顔でそう答えた一人と一羽に、雫は憮然とした顔を向ける。

 決定したのは自分だが、それをあえて口にしなくとも良いでは無いか、と思うのは、人としては当然の事だろう。もっとも、そんな事は自分の側にいる者達には分かりきっている事だが。

「それにしても……」

 その言葉につられたように、雫はエイド達から目の前で一方的な殴り合いとなっている場所へと移す。

 二対一という数の不利は、優誠にとっては全く関係が無いのだろう。時折ばちり、という何かを勢いよく弾く音が聞こえてくるが、これは阿久津達が優誠に対して攻撃しているようだが、それすら効果として目立って現れているわけでは無い。

「なんて言うか……一方的すぎるような」

「ま、優誠に敵う存在なんて、私たちが知る限りは片手で収まりますからね。非常識が服を着て歩いているようなもんですよ、優誠という存在は」

「そういうもんですか?」

「そういうもんです」

 きっぱりそう言い切られ、雫は小さく溜息を吐き出す。

 どちらにしろ、優誠に任せてしまったのだから、自分が手を出すべきでは無い。そう言い聞かせ、雫は頭上を見上げる。

 真っ青な空はこの場には余り似付かわしくないが、それでも自分の課せられていたものがなくなった分、何とも眼にはまぶしく感じられる。

「あー、いい天気だなー」

 現実逃避めいた雫の言葉に、阿久津の悲痛な叫びが被さった。

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