四
あの日以降、雫の生活リズムは大きく乱れた、と言ってもよいだろう。
何がなにやら分からないどころか、あれよあれよという間に引っ張り込まれてしまった部活は、雫の学生生活の中で初めて真面に入った部活動だ。
籐華学園でも、一応は中等部まで部活動は必須活動の一つとして取り上げられている。が、それはあくまでも一応、だ。
強制的に部活動に生徒を入れたところで、途中で嫌気がさして活動に参加しないという者もいるのだから、いっそのこと『帰宅部』というものを作ってしまい、そこに所属させてしまえ、という、何とも奇妙で奇抜な理事長の発案により、この学園では『帰宅部』と言う珍妙な部活動が存在する。
無論、その活動内容は、なるべく寄り道をせずに家に帰ること、という文字通りの部活動だ。
自分の周りにいた友人や知人の大半も、かなりの確率で帰宅部に所属していた。もちろん中等部時代の雫もまた、やりたい、と心から思えるような部活動が文系、運動系ともに無かったため、そこに所属していたのだが……。
高等部でも、同じように帰宅部以外の部活しか行わないだろうと、何となく思いながら進級したのだが、まさか二年になって部活に入る事になろうとは思わなかった。
それも、ふたを開ければ、全く思いもしなかった部に入る事になっていしまうとは。
そんな事をつらつらと思いつつ、雫は毎日通うことになった情報処理部の建物に足を踏み入れた。
仄かで安心させるように照らされる灯りは、ここを訪れる者達を歓迎するために色や光量を考えろ、と、試行錯誤の末に八年前から取り入れられた。と、あらぬ方向を見ながら飯山は雫に教えてくれた。
その所作に、誰が、とはあえて聞かなかったが、たぶん雫の考えていることは当たっているだろう。
溜息をつきつつ、小等部が使うような蓋のない下駄箱に近づき、今や見慣れたそこに手を伸ばす。
雫用にと与えられた下駄箱には、部員達から入部祝いだといって送られた可愛らしいスリッパが置かれいる。気を遣ってくれたのは嬉しいのだが、女生徒が自分と優誠だけというのは、一体全体どういうことなのだと、突っ込みとともに小さな嘆息がそれを見る度に漏れ出てしまうのは仕方のない事だろう。
だいたい、文系のクラブにマネージャーが必要だというのもおかしな話しだが、確かにこの部においてはマネージャーが必要なのだという事が、ここの所嫌になるほど体験として理解させられる。
さて今日はどんな仕事があったっけ、と、天井に視線を向けている雫の背中越しに、親しげな声がかけられた。
「あれ、高坂さん。今来たの?」
「あっ。えっと……」
昇降口をくぐってきた男子生徒の名を思い出せず、言葉に詰まった雫の様子に、高等部の学生服であるブレザーを羽織った少年は苦笑を浮かべる。
気を悪くした風もなく、少年は自分の下駄箱に靴を突っ込みながら名を告げた。
「俺の名前は、田村だよ。田村純一」
「すいません。まだ名前覚え切れて無くて」
素直にそう謝れば、気にしなくていいよ、との言葉とともに、田村は雫の方へ手を伸ばした。
きょとんと眼を瞬かせた雫に、今度はいたずらっぽく笑って田村は話しかけてくる。
「鞄持つよ」
「え?あの、でも、その、悪いですから」
「大丈夫だって。
それよりも、どう?慣れた?」
「その……まだです」
本音を漏らした雫の視線は、今だに手を伸ばしたままの田村へと向けられている。これ以上は迷惑かと思い、迷ったあげく鞄を田村へと渡して、ありがとうございます、と小さく頭を下げた。
そんな雫の態度と答えにクスクスと笑いを漏らしつつ、田村は当然のように、そうだろうね、と言葉をつなげた。
「慣れるまで、時間かかるよ。
特に、あいつの性格には」
あいつ、が誰を指すのかは、特定されずとも分かってしまい、雫は苦笑を浮かべてしまう。
確かに、鏑木優誠、という少女は、規格想定外の人物といえるだろう。
ただの中学生ではない、というのは、最初の出会いで分かっていた。そして、この部に引っ張り込まれて日々を過ごしていく中、更にその思いは強くなっていく一方でしかなかったのだ。
なにせ、部活において部長というのは一番の発言権を持つはずだが、この部では優誠の一言の方が何よりも大きく、鶴の一声、という言葉を思い起こさせるように強い発言を持ち得ている、という事実を間近で雫は見てしまっている。とはいえ、この部において一番の知識を持ち、誰よりもコンピューターの扱いに長けているのだから、それは当たり前と言ってしまえば当たり前のことだ。
そんな状況を真っ先に見せられて驚いたが、更なる衝撃が雫を襲うのには、さして時間をおくことなくやってきた。
部活棟がある敷地は、基本的に高等部と中等部が使用するため、大学に所属している生徒達がやってくることはない。だが、この建物には毎日のように彼等が訪れる。それも、優誠を目当てとして、なのだから、その実権が誰よりも強いのは明々白々の事実と言えよう。
誰に対しても、公平な態度で知識を披露し、時には教授するその態度は堂に入っているため、とても中学生とは思えない。まして、それが大学の先生陣にまでとなっていては、この娘は何者だ、という、一歩どころかかなり引いてしまう思いが強い。
とはいえ、それが誰をも贔屓していない態度故に、好感を持たれているのだろうとも感じられ、その部分においては雫は素直に尊敬出来る点と言える。もっとも、この感情は誰もが持っているのかどうかというところは、微妙なライン引きも出来るために、味方も多いが敵も多い、と説明された部分に納得してしまったのだが。
「でも、優誠って不思議ですよね」
「まぁねー。
あいつの性格は、慣れちゃえばああいうもんだって、自分を納得させるしかないし、あいつに助けられてる身としては、頭も上がらなくなるから、どうしようもないよ」
特に、テスト前は重宝するんだ、と小声で語られ、雫はぷっと吹き出してしまった。
そんな雫に対し、田村は大真面目な顔を向ける。
「ほんとだよ。だてに学年、全国一位ってわけじゃない。大学の先輩だけじゃなくて、先生方にまでその能力を買われてるんだ。知識量も半端じゃないし、中間や期末前はあいつにこの部の連中はほとんど教わってるし、先輩達もレポート提出間際に泣きついたりもしてるんだよ」
「……それ、本当ですか?」
何故か、脳裏にその光景が浮かんでしまう。
それら全てがあり得ると言えばあり得るのだが、信じられない思いの方が強く懐疑的な視線となった雫にむかって、田村は真剣な表情で大きく頷き、だから、と言葉を綴った。
「高坂さんも、何か分からないことがあったらあいつに聞けば一発で分かるよ」
「まぁ……そうですね」
僅かに返答が遅れたのは、田村の力強すぎる発言が、ここしばらくの雫の行動にも当てはまったからだ。
マネージャーとしてこの部室に訪れる事となった翌日、目の前に山のように置かれた資料に雫は困惑のまま、それをおいた優誠に視線を投げつけた。
『これ、必要な資料なんで覚えてください』
否やを言わせることなく渡されたそれらの数々は、情報処理に必要最低限な知識だけではなく、経理書類に関するものまで幅広く積まれていた。
何これは、と言いたくなる雫の先を取るように、優誠がぽんぽんとその山を叩きつけながら、にっこりとどす黒くも爽やかな笑みを浮かべる。
その表情は、見る者全てを黙らせるだけではなく、そのまま従わせるに十分な迫力を伴い、雫は引き気味にそれでも恐る恐る尋ねた。
『これって、情報処理が分からない人間には難しくない?』
『大丈夫です。分からなければ、誰かに聞けばいいんですし、うちのマネになったからには、それぐらいのこと覚えてもらわないと困りますんで』
でないと、また総合生徒会の連中に何言われるか、とぶつぶつと呟きながら、側にあった書類を軽くめくった後その上へ無造作な動作で置き、更に何か無かったかと周囲を見回す。
くらりとめまいを起こした雫だが、慌てて現状を確認するために食ってかかるような口調で優誠に問いただした。
『ちょ、待って!マネージャーの仕事って何するの!』
これでは周りにいる生徒と同じように、自分も情報処理部員として活動するのではないのか。それにどこをどうとれば、マネージャー等という肩書きの人間が必要になるのか。
当然と言えば当然の言葉に、優誠は不思議そうな表情で雫を見遣る。
『もちろん、ここにいる部員のスケジュール管理と、経理一般をやってもらいますけど』
『それをメインにしているんじゃ無かったの!なんで情報処理関係のことまで覚えなきゃいけないのよ!』
『そりゃぁ、必要だからです』
至極まっとうな顔で答えた後、あ、あとお茶くみと来客対応よろしくお願いします、と言い置いて優誠はその場から離れてしまう。それ以上の会話は必要ないと思ったのだろうか。優誠は手近のコンピューターの前に腰を下ろしてしまった。
呆然としたままそれらを眺めていた雫の肩を、誰かが気遣わしげに叩く。
そちらを見れば、疲れたように首を振る飯山の姿があり、これ以上は何も言うな、と言わんばかりの顔つきで、雫の顔を見つめた。
周りの生徒達も、同情と諦めろと言いたげな表情で雫を眺めており、力が抜けたように雫は椅子に座り込んで目の前の小山を見つめた。
そのてっぺんに置かれた本を一冊手にしてみれば、何のことやら分からない言葉の羅列と数字が並んでおり、頭をひねる雫に飯山が助けるように言葉をかける。
『それは、中間辺りで読んだ方がいいよ。まぁ、最初は情報処理関係よりも、経理関係の本を読んで欲しいのと、みんなのスケジュール管理、後はここに来る人たちの応対かな』
『……はい』
諦めの滲んだ声でそう答え、雫は差し出された本を手に取り、ページをめくり始めた。
そんな始まりを迎え、今は飯山に言われたとおりに経理関係の本をめくり、時折優誠へと指南を請いつつ書類を作成しているが、確かに、この部には皆のスケジュールを管理するのに必要な人間が必要なのだと、近頃は達観してマネージャー業をこなしている。
とにかく、この情報処理部の入っている建物にやってくる人間は、本当に多種多様なのだ。
大学部や小等部等の人間が、部長である飯山以外にも普通の部員に話しを持ってくるのだが、それが一日に何度もあるだけでなく、時間単位で決まっているのだ。これでは、誰かが時間の管理をしていなければ、一度にまるで違う話を持ち込んでくる人間がバッティングしかねない。
それらのタイムスケジュールを作る中で、頻繁に名前が出てくるのは、もちろんこの部の裏の部長である優誠だったが。
それらを思い返し、小さな溜息を履いた雫の胸元でしゃらり、と小さな音が上がる。
先に行く田村に見えないよう、首筋にかかる銀色の鎖を引き上げると、自分と同じ名を持つ深紅の雫型の石がきらりと光った。
まるで血のような緋色をするそれは、雫がこの部に入った翌日に優誠から渡されたものだ。
『お守りです』
それだけを告げて、なかば強引に渡されたもの。
一見すればただの石なのだが、それは言葉通り、確かに効力を発揮している不思議な代物だ。雫にとって当たり前であった異形のもの達が払いのけられ、まるでこの石を恐れるかのように視界に入ることはなくなった。それだけでも十分すぎるものなのだが、どうやらこのペンダントは他の者には見えないらしく、教師や風紀委員などに咎められることなく雫の胸元で揺れている。
「不思議な娘ですよね」
その呟きが聞こえたのだろう。前方の田村が苦笑をこぼした。
どうやら、今までの会話に対しての雫の感想ととらえたらしいが、それは全く見当違いの考えなのだ。無論あえてそれに触れず、雫はその石を再度制服の下にしまい込んだ。
「あぁ、高坂さんに聞こうと思ったんだけど」
「なんですか?」
「高坂さんの誕生日、もうすぐだったよね?」
「はい」
田村の疑問に雫は素直に頷き、何故そんな事を聞くのかと首を傾げる。
自分の誕生日が近いことが、何か引っかかっていただろうかと頭の中で部のスケジュールを開いてみるが、雫に関係することなど今のところは一切無い。というよりも、まだ入部して一月も経っていないのだから、関係することなどまるで無いために心当たりなど全くもって皆無なのだから、田村の問いかけの意味が分からず頭をひねるしかない。
そんな雫をおいて、そうかー、と呟いた田村が、雫に満面の笑みを向けた。
「誕生日周辺の日を楽しみにしておいたほうがいいよ」
「へ?」
「この部にいる人間には、必ず誕生日にサプライズがあるからね。
高坂さんは初めてだから、本当は内緒にしておいた方がいいんだろうけど、中間が挟まってるから早まると思うんだ、それ」
「サプライズ、ですか」
嫌な予感しかしない言葉に思わず顔を顰めてしまえば、田村は困ったように頬をひっかきつつ、あー、と表情と同様の声を出す。
そんな田村の言動に、ぷっと雫は軽く噴き出してしまう。
「忘れておきます。今のこと」
「そうしてくれると、有り難いかな」
そんな会話を交わしつつ、二人は目的の部屋の扉を開いて中へと入る。
ブーンという特有の機械音と、一定に設定されている空調が肌を刺し、部屋にいた何人かが二人を認めておう、と声をかけてきた。
雫のために、と用意された席に田村が鞄を置くのを見て、ありがとうございます、と軽く頭を下げて礼を言うと、雫は机の上に置かれている新たな資料や紙類へと手を伸ばす。
何枚もの領収書は、経費に計上出来るか否かを見極めなければならないものと、細かく仕分けしなければいけないものとが乱雑に混ぜられており、今日はこれがメインになりそうだと小さく頷く。
それ以外は、今日やってくる人物の名前と時間を書かれた予定表に、顔写真が添付されたよくやって来る新たな要注意人物などだ。
座り心地のよい椅子に腰を下ろし、雫は鞄からペンケースを取り出して机の一番下の引き出しを開ける。
経理用のルーズリーフを取り出そうと顔を下に向けた途端、にゅっと黒い影が視界に入った。
「高坂先輩、これよろしく―」
欠伸混じりの声に、眉間にしわを寄せて声の主を見上げれば、眠たげに目をこすっている優誠が領収書を差し出している。
溜息とともにそれを受け取った雫だが、その金額に目を入れた瞬間その場から立ち上がり絶叫を放った。
「なにこれぇ!」
「何って、領収書ですけど」
「そんなのは見れば分かるわよ!けど、こんな金額、認められるわけ無いでしょ!」
「え?でもそれ、必要経費ですよ」
全くもって悪びれずにそう言い切られるが、とてもではないが『必要経費』等といえる金額は軽く飛び超えているのだ。認められる金額では無いその紙切れを、ばん、と勢いよく雫は机に叩きつける。
その動作に、優誠が不思議そうに瞬きを繰り返し、そしてこれまた同じように首を傾げて雫の様子をしげしげと伺った。
頭痛を覚えながら、雫は再度領収書に書かれている文字を読み返す。
何度見たところで、それは変わらない。が、分かっていても、間違いであってほしいとの切なる願いが消えることはないのだ。
五桁の数字は、五以上の数がかかれ、でかでかと籐華学園内の書店の判子と印紙が押されている。普通に考えて、経費だといわれて、はいそうですか、と簡単に受け取れるものではないことは、いくら経験に乏しい雫とてよく分かることだというのに……。
どうやらこの後輩には、その辺りの常識が欠落しているとしか思えない。
雫の声音にただ事ではないと感じ取ったらしく、何だ何だと、慌てて飯山が雫の元へと駆け寄り、机の上の領収書を手に取ると深々と息を吐き出した。
「お前なぁ」
「はい?」
どうやら飯山が雫の代わりに言いたいことを言ってくれるらしいと察し、雫は疲れたように椅子に座り込むと、当初の予定通りに経理書類を作るべくルーズリーフを取り出して目の前に置く。
喧々囂々と目の前で行われるやりとりははっきり言って迷惑なのだが、自分が口を出した所で言いくるめられるのは分かりきっている。ならば、この場合飯山に丸投げした方が得策だ。
小さく溜息を吐き出した時だ、雫の首元からちりり、と小さな音と熱が産まれる。
思わず何事かと胸元を見たため、目の前で飯山の怒鳴り声をやり過ごしている優誠の瞳が、幾分か鋭さを帯びた視線で自分へと向いたことに気づくことなく、雫は音源へと手を伸ばしてそれを握りしめた。
熱と音の元となっているのは、小さな赤い石。触れただけでも分かるほどの熱を帯びたそれに、雫は不安げに赤い石を見つめる。
絶え間なく響く音は、まるで雫に警鐘を告げるかのようにだんだんと大きくなり、周囲に聞こえるのではないかというレベルにまで達している。ゴクリと喉を上下させて雫は周りを見回すが、案の定というべきか、その音はたった一人にしか聞こえていないらしく、渋面を浮かべて視線を向ける少女へと、雫は困惑の眼差しを向けた。
「あぁ、もう、わっかりましたよ。これからは気をつけます」
一方的に飯山との話しにケリをつけ、優誠は乱雑に髪の毛を引っかき回すした後、何かを小さくこぼす。
あまりに小さな言葉は、雫の耳にすら届くことなく空気に溶け込んだが、とたんに胸元の音はぴたりとやんだ。
突然のことに驚きに目を見開いて思わず優誠の方を見つめれば、なにやら難しい顔で雫を眺めていた少女が天井へと視線を向けた後、軽く肩をすくめて雫に何でもないという風に顔を軽く横へと振る。
だが、それがいかにも怪しげなものであり、雫が何かを言いかけようとするのだが、先手を打つようにして優誠が口を開いた。
「高坂先輩、明日ヒマですか?」
「へ?」
「飯山さーん。備品調達に高坂先輩借りてもいいですよねー」
「学校内だろうな?」
「……信用しろよ、少しは」
「信用出来ねぇんだよ!お前は!」
自分を置いてさくさくと進む会話について行けず、雫はただただ事の成り行きを見守りながら、ついこの間も同じようなことがあったな、などとぼんやりと思いふける。
そんな雫に、異論はないな、と言いたげに優誠が顔を向けてきたため、慌てて顔を縦に振ると、さも当然といわんばかりに優誠は再び飯山と話し出した。
どうにも、この後輩の言動はこちらの斜め上どころか一回転してからの斜め上に話しが飛んでいくため、どう対応したものかと毎回頭を痛めるしかない。とはいえ、これは何時もの事だし、この数日で雫も優誠の行動に対処するすべを身につけつつあるといえた。
それでも、先ほどの視線を考えるといかにも突飛な事ではあるが、この石の音と熱とに関係があると何とはなしに考えがつく。
いったい何だろう、と優誠の顔を見つめるが、何時もと変わらぬ表情を浮かべる少女に対して、それが何なのかは全くといっていいほどに理解出来ない。
「どうかしたのか?高坂」
「あ、いえ」
心配そうに声をかけてきた部員に、雫は慌ててその顔に笑みを貼り付けると自分の仕事へと戻る。
どうせ、明日になれば優誠から話しを振ってくるだろう。それだけは、確信として持てる事のために、雫は軽く息を吐き出して目の前のルーズリーフにシャープペンシルを走らせ始めた。
その時は、まだ知らなかった。
少しずつ事態が動き出している事に。
翌日、遅刻する事なく清々しい気持ちで登校した雫だが、席に着いた途端に寄ってきた数人の女生徒の姿に、内心で吐息をつく。
またか、という気持ちと、よくもまぁ、という気持ちが半々で彼女らを眺め、雫は用件など聞かずにはっきりと彼女たちへと断言した。
「優誠に対してのお願いは、あたしからは無理だからね」
「えぇー」
半ばがっくりとしたように肩を落として雫の周りに集まった彼女達は、それでも少しばかりの期待を込めた目線で雫を見つめる。
無理だ、と断言したのに、なぜ彼女達はこうもあの少女に固執するのか。理解出来ないでもないが、同性に圧倒的に好かれるというのは、こうまでやっかいなものなのかと、嘆息しか出ないのもまた事実だ。
「でも高坂さんは、あの、情報部のマネでしょ?」
「はぁ、まぁ」
一応の事実確認は、毎日のように行われているが、その顔ぶれは毎日変わっているのだから、この件に対して優誠へと愚痴の一つでもいって罰は当たるまいと思う。
そんな雫をよそに、集まった一人がぱん、と顔の前で手を合わせて雫へと頭を下げた。
「無理は承知でお願い!今度の試合の助っ人頼んでほしいの!」
「でも、一応あの娘、中等部ですけど」
「大丈夫!助っ人だし、年齢なんて黙ってればわかんないって!」
その言葉に、周りの少女達も大きくうなずいて、自分の手に握りしめていた封書をばさばさと雫の前に置きだした。
-あぁ、またか……。
朝からどっと疲れるそれらを見つめ、雫はその紙の束を纏めると机に引っかけてあった紙袋の中に詰めてしまう。
雫が情報処理部のマネージャーになったと高等部に知られてから、まるで窓口が出来たとばかりに一斉に各部-主に体育会系の-の女子部長が押しかけるようになった。最初の頃は、なぜ自分に言うのだ、という疑問を持ち、優誠へと訪ねた事があったが、あの人間離れした少女は、何度か高等部の助っ人に駆り出されてからこうなったんだ、と何でもない事のように、ネタ晴らしをしてくれた。
中等部に在籍している者が、高等部の助っ人などをしてどうするのだ、という思いもあったが、その疑問はすぐに部内の者から教えられた。
頭だけではなく、運動神経も抜群によい少女が参加すれば、その部には相手校に勝利する余裕と、チーム内の問題点の浮き彫りも指摘される、という事で重宝されているのだと言われ、もはやこの少女は何でもありなのか、と頭痛を覚えたものだ。
現実逃避とは分かっていても、つらつらとそんな事を考える雫の耳に、それでも諦め切れていない部長達は何とか雫の意識をこちらに戻そうと、畳みかけるようにして次々と言葉を放ってくる。。
「今度、どーしても必要なの。お願いだから、高坂さんからも頼んで!」
「はぁ」
必死の形相で頼む少女達に対して生返事を返しながら、雫はそれらが素っ気なく断られるであろう事を、この場で話してしまうべきかどうか軽く悩みながらも彼女達から視線をそらした。
どう頑張っても、彼女達の『お願い』が敵うことはない。理由は優誠の性格にあるのだが、彼女達がそれを分かっていると思いたいのだが、分かっていてもそれでも縋らずにはいられないのだろう。
雫の頭の中で、面倒そうに手を振りながら拒絶のオーラを背後に纏う優誠の姿が、何故かはっきりと浮かんでくる。
何しろ、優誠のスタンスは簡単なのだ。
面白ければ、とりあえずは参加する。だが、それら以外は潔いほどばっさりと切り捨てる。自分にとって利益があるか否かではなく、面白そう、という一点にのみ興味を引かれている少女は、一応はこれらの依頼状に目を通しているのだが、まず滅多な事ではそれらの依頼に首を縦に振る事はない。
そして……。
「しーずーくぅ」
猫なで声が耳に届く。僅かに増した頭痛とともにそちらへと瞳を向ければ、その手に可愛らしくラッピングされた袋を持って近づいてくる友人の姿が目に入った。
頭を抱える代わりに、雫はこれ見よがしに深々と溜息を吐き出す。
男子生徒よりも好感を持たれ、日々優誠へとプレゼントを贈る生徒は後を絶たない。何でだ、と突っ込みを入れたこともあるが、だって優誠ちゃん格好いいじゃない、と、訳の分からないことを言われ、少女達―友人以外の知らないクラスの人間もいるのだが―はそのまま雫に笑顔を浮かべてはいるが、凄みのある気迫とともに、絶っ対に渡してよね、とそれらを雫の机の上に置いていった。
自分は、あの少女の受け渡し窓口ではない、と、口に出して何度言ったか分からない台詞を、何度も言ってしまえば楽なのだろう。
だが、それらを言ったところでこの状況が好転した試しもなく、また同じやり取りが何度も続けば諦めの方が先に出てくる。そのため、ここの所はこれら一連の流れを右から左に聞き流す事を覚えてしまった雫は、彼女達の視線をなかった事にして一限目の授業の支度を開始する。
そんな雫の態度にもめげず、彼女達は口々に自分たちの要求を姦しいまでに告げていたが、それはホームルームのチャイムによって終わりを告げた。
ようやく人の流れが切れ、ほっと胸をなで下ろした雫の様子に、隣前の机に片肘をついて頬をのせたすずりが呆れ半分、といった口調で話しかけてくる。
「毎日大変よね、雫も」
「そう思ってるなら、助けてよ」
「冗談。まだ命は惜しいわよ」
雫の周りを埋め尽くす女生徒達の眼は、真剣すぎるほどに真剣だ。それこそ、突っ込みを入れた瞬間に、食らい付くさんばかりの攻撃を仕掛けるほどに。
だからこそ、周囲の人間は迷惑だという気配を微塵も見せず、ただただ黙って彼女達の行動を見ているだけで、それらの行動を止めに入ろうという雰囲気は微塵もない。雫にとって、この朝の行事は救いようのないほどの事態だというにも関わらず。
授業が始まる前から疲れ切るしかない台風をやり過ごした雫の耳に、教室に入ってきた担任教師の声が届く。
「あれ?」
不思議そうなすずりの声に、ノートを眺めていた雫が顔を上げた。
何時もならば五月蠅さを無視してまず出席を取るはずの教師が、今日に限っては生徒達を一瞥して静かにするように声を張り上げる。
何事かと皆の視線が自分に向いたのを確認した教師の口から、驚くべき内容が発せられたのは次の瞬間だった。
「今日は、転校生を紹介する」
その言葉に、室内にざわめきが広がる。
それはそうだろう。
この時期の転校生、ましてや途中編入など、籐華学園内では滅多どころか、あるはずのない事例と言ってもよい事だ。全国から集まっている生徒達は、親の転勤などという事があっても寮生として残る事が多く、よほどの事情がない限りは転校といった事がない。そしてその逆、編入してくる生徒達は、そのほとんどが帰国子女が多く、そのためだけのクラスが存在している。
だからこそ、それ以外のクラスに編入されるという事は、異例中の異例としかいいようがない事柄だ。
「雫、知ってた?」
「まさか」
すずりの小声に対し、困惑を隠せずに雫もまた声を潜めてそう答える。
興味以外の雰囲気しかない教室内に頓着せず、担任教師は廊下にいた生徒へと中入ってくるように促す。
途端に、女子生徒達からはうっとりとした目線が、男子生徒からは嫉妬めいたものが彼に向かって投げつけられた。
その顔立ちは、いっそモデルとしてスカウトを受けるのではないかというほどに整っており、すらりとした長身には無駄な筋肉が一つもついていない事が端から見てもよく分かる程鍛えられた体躯をしている。
異性からは魅了を、同性からはやっかみを受けるしかない外見の生徒は、教師の隣に立つとにこやかな笑みを浮かべて教室内を見回した。
途端、女子生徒達から黄色い悲鳴が上がる。
それに苦虫を浮かべつつ、教師は黒板に彼の名を義務的な動作で書き上げ、一つ溜息をついた後に再度静かにするよう注意の声を張り上げた後、隣に佇む転校生の名を告げた。
「阿久津遊馬君だ」
「阿久津です。よろしくお願いします」
しっとりと落ち着いた声が、教室内に響く。それだけだが、まるで恋い焦がれるような視線で女子の大半は彼の顔を見つめてしまった。
それは、雫の前に座るすずりも同じだ。
蕩けるような顔で、すずりは雫へと同意を求めるように顔を向けてくる。
「ねっ、ねっ、かっこよいよね、彼」
「あ、うん」
確かに、すずりの言うとおり、人を引きつける何かがあるのは認める。だが、雫は彼女達と同様の反応を返す事が出来ず、ただ顔がよいだけの少年、という感想しか抱けずにいるため、複雑な気持ちで阿久津と名乗った少年を見つめた。
何故だろう、と考えた途端、胸から下げられている石がちりり、と静かに振動を繰り返していることに気付く。
今までになかったその顕著な反応に、雫は誰にも気づかれる事なくそれを服の上から握りしめた。
これは、警告だ。
漠然とした感情だが、それは感覚としてはっきりと刻み込まれたもの。
一見無害そうに見える少年は、雫にとってとてつもない危険をはらんだ、近づいてはいけない存在だと石が教えてくれている。
今までならば、そんなものは単なる思い違いだと放り投げていたが、どうしても昨日の優誠の表情が忘れられずに、雫は不安な面持ちで少年に瞳を向けた。
瞬間、少年の視線と雫の視線がぶつかり合う。
ひゅっと、雫の呼吸がつぶれたように吸い込まれ、慌ててそれから逃げるように顔をそらした。だが、早鐘のように打ち付ける心臓は止まる気配を見せず、それを押さえつけるため雫は何度か深呼吸を繰り返した。
自分を見つめた少年の瞳は、その奥にねっとりとした、まるで獲物を見つけた捕食者のような光が宿っていた。勘違いだと言い聞かせようにも、その視線は自分だけに向けられたものだと、本能が語りかけている。
見つかった。
何とはなしに浮かんだ言葉がじんわりと雫の体に染み渡り、いつの間にか渇いた口の中を潤すべく、ゴクリと大きくつばを飲み込んだ。
本当に、この『お守り』は効くのだろうか。
その問いかけに、即座にこれでは無理だ、と言う結論が下る。
目の前にいる存在は、今まで雫が視てきたものとはまるで桁が違う。雲泥の差、と言う言葉がふさわしいその気配を感じ取り、雫は先程まで嫌気がさしていた後輩の顔を思い浮かべてしまう。
彼女ならば、この不安を払拭してくれる。
今この場にいてくれたならば、雫を守ってくれる。
確信とともに、何故ここにいてくれないのか、という八つ当たりでしかない感情が浮かんだ。
そんな雫の葛藤を知らずに、すずりが眉間に眉を寄せて心配そうに小声で声をかけてくる。
「雫?顔色悪いよ?」
「そう、かな……」
「保健室いく?」
その提案に、雫は少しばかり考えた後、小さく頭を横に振るとぎこちなく微笑んだ。
今だ何かを言いたそうなすずりだったが、目の前の転校生が気になるのかそちらに視線を向けて、熱心に教師の言葉に耳を傾け始める。
何故誰も気づかないのだろう。
彼はここにいていい存在ではない。いや、この世界にいるべきはずの存在ではない。
そう考えた途端、背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
石から響く音は耳朶を打ち付けるように大きくなり、今や火傷しそうなほどの熱さを持っている。
ここから離れたい。
そう願うが、足は重しをつけたように動くことが無く、ただじっとりとした時間だけが流れる。
「お前、どうしたんだ?」
不意に頭上から降ってきた声に、弾かれたように雫は顔を上げた。
悲鳴が出そうになるのを必死にこらえ、隣に立つ転校生に向けて雫は操り人形のような笑みを向けた。
いつの間に自分の側に来たのか分からず、混乱したままの頭で彼の歩みを視線で追っていると、廊下側に置かれた机に鞄を置いて椅子に腰を下ろす。
その所作はどこか優雅さを感じさせ、女子達の唇からほぅ、と感嘆の吐息が漏れ出た。
そんな彼女達の行動に苦さを感じつつも、雫は震えをこらえつつ何とか教科書を開こうとする。だが、指先がうまく動かず、ページが捲れずにいる事に唇をかみしめた。
落ち着こうとするのだが、そうしようとすればするほどに、かえって身体中の力が拘束されたようにぎちぎちと動かなくなっていく。
呼吸すらもうまく吐き出す事が出来なくなった時、ふっと目の前が暗くなった。
がたん、と、遠くから音が聞こえ、驚いたすずりの声が聞こえるが、それはゆっくりと遠ざかっていった。