一
駅に止まるなり電車からどっと溢れるようにして出てきた学生達は、皆一様に急いで乗り継ぎのためのモノレール駅へと走り出す。
かなり大きいと言えるターミナルではあるが、そこにはどこにでもいそうな、それこそかっちりしたスーツ服姿を見せる社会人は全く見えず、小学生から大学生という部類に入る人間だけが改札口から吐き出されくる。そのため、この周辺は彼らが通う学園のためだけに設置された駅、と言ってもよいだろう。
乗り継ぎ駅の間まで植えられている新緑の木々の合間からは、梅雨に入った時期とは思えぬほどの光が学生達を照らし出して、衣替えの季節は間近だと語っているようにも見える。
が、すでに遅刻ぎりぎりの時間帯に走り込みを行っている彼らにとっては、そんな些末な事はまるで関係のない事柄にしかすぎない。
必死になって駆け出している学生達の頭の中には、山手線のような形でこの区間を一周して走るモノレールのことだけだ。この先一本でもモノレールを逃してしまえば、もれなく生徒手帳に遅刻の判が押されるのは間違いない。無論それだけでは無く、もしもスタンプが貯まれば、風紀委員からのお呼び出しと教員からの反省文提出等々、時間を少しでも有意義に使いたい学生達にとっては、幾多の面倒事としか言えない物事が待ち受けているのだ。
付け加えて言うと、定刻通りに走り続けているモノレールは、定員数を車内に納めてしまえば、容赦なくドアを閉じるシステムを取っている。それ故に、生徒らの走る速度は全力疾走に近い形となり、切羽詰まった事態に彼等の顔が必死の形相になっているのはいた仕方のない事だろう。
この学園が設立されて以降、それはほぼ恒例というよりも、毎朝のよう見受けられる光景となってしまった。短いはずの乗り継ぎ区間の距離が、ほとんど短距離競走になっているそれは、学園の教師陣にとっては有り難くない形と頭痛の種の一つである。
けれど、余裕という文字を消し去った顔付きで走る制服姿の学生達とは対照的に、私服姿の大学生達はまだゆとりを持って知人と話し合ったり、中途に設置されている様々な販売店に足を向けていたりと、様々なスタイルで後輩達を見送りつつのんびりとした歩調でレンガ模様に舗装された道を歩いていた。
何とも対照的と言えば対照的な姿は、この学園に入学したての頃は驚いたような顔で見つめる者もいたが、それも過ぎれば生温い視線でそれを見送られるようになるというモノだ。
そしてそんな学生達を送り出す道は、学生街にしては少しばかりモダンであり、洒落た雰囲気を醸し出しているため、彼らが通う学園の名前を使用して『籐華通り』と命名されていた。
通りにはれっきとした、ではなく、商店街としては完璧すぎると言えるほどの様々な店が並んでいるだけではなく、一人暮らしや家族単位で生活するには十分な品揃えが揃ってしまうスーパーマーケットも駅からすぐ近くに設置されている。それは大規模なだけではない。
商店街としての機能を完全に整えられ、それらを活かすように周辺に学生寮だけでなく職員のための居住区がいくつも建てられている。
街と言うよりも一つの市街地、としても通りそうなレベルで運営されているそれら全てが、『籐華学園』の全てを現していると言ってもよいだろう
籐華学園。
その名は全国レベルでも有名なだけでなく、国がモデル校にと設定されるような形式を取る学園であり、幼等部から大学院までのエスカレーター方式を取りつつも、全国どこの地区にも付属校を作らず、広大な敷地内に世界レベルでの充実した設備や校舎等々を建立し、学園都市としても名高い地域の一つとなっている。
無論それらの立地条件を可能にしているのは、東京湾内に現在進行形で作られている埋め立て地のおかげと言ってもよい。
国による緑地化計画および発電計画の推進地として立候補にあがったのは、まず第一に東京湾岸に次々に作られていた埋め立て地だった。大不況の波にあたり土地の価格が下がり続けていた時期に、この学園の理事長は莫大な資金を充てて埋め立て地の多数を買い取り、国が立案し始めていたそれらの計画を先取りするように、買い求めた土地を緑地化だけでなく自家発電の独自開発という事業に成功した。
それと同時進行するような形で、発電エネルギーを媒体にして成長させた木々の合間を縫うように、それぞれ使われる各校舎や必要な設備を建て続け、あっという間に茶色の大地に緑と近代的な施設とを融合させると、全世界に向けて人種や年齢問わず生徒を応募する、という、当時だけではなく現在でも鑑みてみると、大規模すぎる無茶をやらかしたのだ。
結論だけを言うならば、それは何とか成功を引き起こす事が出来たのだが、無論一歩間違えなくとも大赤字どころか破産にしかならないような出来事であり、初期の理事会の面々はかなりの胃痛を覚えたという逸話さえ残っているのだから、ある意味この学園の理事長の太っ腹さは凄まじいと言えるだろう。
さて、世界有数の知名度を持ち、そして数々の功績を挙げている『籐華学園』だが、その華々しい名とは裏腹に、通っている生徒達は至って普通の性格と、そこそこの頭脳の持ち主が大多数を占めている。
そして、その中の一人に高坂雫も括られる。
朝から汗だくになりながら階段を駆け上ると、ホーム一杯の生徒達の群れにげんなりと溜息を吐き出しつつ、雫がちらりと時計に目を向けた途端に入り込んだモノレールに、押し込められるように中へと足を進めた。
「雫!」
どうにかこうにかモノレールへと乗り込み、遅刻しなくてすみそうだと安堵の吐息をついた雫が、声のした方向へと顔を向けると苦笑を浮かべた。
薄く額に汗を浮かべ、珍しいものを見たような顔で人混みをかき分けて近づいてきたのは、中学時代からの友人である高枝聖子だ。
「どうしたの、いったい」
「どうしたのって?」
「だって、いつもこの時間は学校にいるじゃん」
いつも遅刻ぎりぎりで校舎に走る込んでいる聖子にとっては、雫が同じ時間帯のモノレールに乗っている事自体が不思議な事柄らしい。
思わず苦笑を浮かべた雫だが、興味深そうに自分を見つめる聖子に軽く肩を竦めてみせると、在り来たりな答えを口にした。
「寝坊したの」
「うっそ!あんたが?」
「あのね、あたしだって寝坊ぐらいするわよ」
「ふーん」
納得のいかない表情だが、すぐに別の事を思い出したのか聖子が悪戯っ子のような笑みを浮かべて、雫へと身体を押しつけるように密着させる。
どうにも嫌な予感に駆られ、少し不機嫌そうに眉根を寄せる雫が、すぐに自分の耳に届いた言葉に溜息を吐き出した。
「そういえば、中間終わってからのあれ。
もう場所とか決まったから、後でみんなにメールとかしておくね」
「それはいいんだけど、大丈夫なの?今回のテスト、かなり範囲が広いよ」
友人の赤点経験を知っている雫にしてみれば、自分の誕生日会のセッティングにかまけて、またしても聖子が追試を受ける羽目になるというのは、正直笑えない事態としか言えないのだ。
けれど当の本人はそんな心配など無用とばかりに、けらけらと笑って雫の言葉を聞き流してしまう。
思わず溜息をついて視線をモノレールの床に落とした雫は、不意に顔を覗き込んだ聖子の顔に来たことに軽く息を吸い込んだ。
「な、なに?」
「んー。何か顔色悪くない?」
「そう?」
思っても見なかったことを言われ、雫は首を傾ける。
鏡で確認しようにも、あいにく満員の車内でそんな事が出来るはずもなく、ぺとりと自分の手の平を頬にあてて雫は小さく考え込んむ素振りを見せた。
無論聖子の指摘が正しいことは、はなから分かりきっているし、その原因も充分すぎるほど雫には察しがついている。
いつものこととはいえ、正直なところ疲れてしまうと言うのが本当のところだ。
どうしてこうあの『夢』を見た後は、体調から運まで悪いように出来上がっているのだろう。
浮かんだ思いと共に、ここのところ災厄ばかりが自分に向かって走り込んでいるように感じてしまうのは、自分の行動を振り返らずとも心当たりが多すぎるからだ。
小さな事を数え上げればきりが無いし、ましてや舌を打ち付けたくなるような厄介ごとまでが重なれば、あの『夢』は悪意ではなく、誰かが意図的に何かを弄くっているのではないかと勘ぐりたくなる。
結論がそんな最悪の所まで行き当たってしまい、思わず内心で盛大な息を吐き出してしまった雫だが、ちりりと首筋に走った奇妙な感覚に周囲を見回した。
「どうしたの?」
「……気のせいみたい」
そう言葉に出してはみたが、実際の所はその逆と言ってもよい。
何故か今日に限って、自分にしか見えない異形のモノの数がいつもよりも格段に多い。
それらがちらりと自分へと視線を投げつけてくるのは毎日のことだが、先程感じたモノはそんな単純な感覚ではなかった。
見つかった、そんな単語が頭の中で弾ける。
自分の考えだというのに奇妙すぎる結論に僅かに表情を顰め、雫はそれらを追い払うように小さく頭を振った。
いつもと何も変わらない。そう自分自身に言い聞かせ、雫は緩やかにスピードを落とし始めたモノレールの振動に身を任せる。
たったそれだけの事だというのに、自分の身体が少しずつ重くなっていくような錯覚を覚えてしまい、雫の眉間に深いしわが刻まれた。
不意にケタケタと、耳障りな笑い声が聞こえる。
人間に発することが出来ないほどの高音のそれに、思わず視線をそちらに向けた雫が、ふと同じように自分と同方向を見つめる少女の姿に気付いた。
艶やかな背の中心まで伸びた髪と、きっちりと高等部の制服に身を包んだ少女の姿に見惚れていると、不意に彼女が雫の方へと顔を向ける。
どきり、と、心臓が飛び跳ねた。
―うっわぁー。
正直に言ってしまえば、等身大の日本人形が現れたような気分に陥る。象牙のような白い肌にグロスやリップなど塗っていないと分かるのに、濡れたような朱色の唇がとても印象的な少女だ。
高等部制服の上着左ポケットの校章の色は、各学年ごとに違うように施されているために、それを確認したくて少しばかり雫は爪先を伸ばした。
一瞬だけ見えた色は、自分と同じ色。
「雫?」
「ねぇ、聖子。あの人、見覚えある?」
挙動不審な行動を見てだろう。雫の視線を追った聖子が、あぁ、と小さな声を上げる。
どこか苦笑気味の笑顔を浮かべる聖子に、雫は首を傾けてその先を促した。
「まぁ、部活やってない雫なら知らなくて仕方ないか」
「何よ、それ」
「あの人、高等部の生徒会副会長だよ。
倉田さえって言って、けっこう部活入ってる人間の間じゃ有名人なんだよね」
「高等部の?学園総合会とかじゃかなくて?」
雫の疑問は、もっともなことだ。
籐華学園には、幼等部から大学までの全ての学生達を取り締まるための組織として、学園総合会というものが存在する。
無論、それとは別にして各学校に生徒会は存在するが、権力の強さを見れば総合会の方が確実に大きいと言えよう。
部活動に関した問題を取り扱うならば、生徒会よりも総合会に話しを通した方が早いため、部活動の部長などはそちらの方面に事情を知っているはずなのだ。
「倉田さんはね、高等部の部活動関係者にはすっごい有名」
そう前置きをした後、聖子は自分の知る情報を雫に説明し始める。
聖子曰く、倉田さえの決定権は、高等部現生徒会長や学園総合会関係者達よりも遙かに高く、彼女の決定は誰にも逆らえないだそうだ。どのような経緯からそうなったのかは、誰もがんとして口を割ろうとしないために理由は分からないのだが、とにかく現在高等部の部活動の方針や予算、そういった諸々の事柄は、倉田さえが諾と頷かない限りは決して前に進むことはない。
ぽかん、としてその言葉を聞いていた雫が、再び彼女の方向へと顔を向ける。
もうこちらに関心がないのか、後ろ姿しか見えない一人の少女に、果たしてそんな事が可能なのかどうか疑問だが、少なくとも聖子が嘘をつく可能性もないのだから、本人に確かめる以外術が無かろう。
「ほんとに?」
今だ疑いが晴れぬ雫の言葉に、聖子は幾分か唇を尖らせて頷いて見せた。
どうにも納得がいかないのだが、それ以上友人を困らせても仕方がないと諦めた雫の視線が、再度視線を倉田の方へと向ける。
偶然、なのだろうか。瞳がかち合ったのは。
今まで誰にも見えないはずの存在が、彼女にだけ見えたというのだろうか。
もやもやと、形にならない感情が雫の心の中に生まれると同時に、モノレールが目的の駅へとゆっくりとした動きで止まる。
『高等部前。高等部前』
柔らかな女性の声が、頭上から聞こえる。と同時に、殺気だった気配が辺り一面に広がった。
扉が開くと同時に、押し出されるようにして外へと出た雫が一息つくまもなく、聖子の慌てた声が届いた。
「雫!速く!」
右手に巻かれている腕時計に目を落とせば、すでに遅刻ギリギリの時間を示している。
始業チャイムの十分前。
高等部前に設置されている駅なのだが、そこから校舎までは軽く十分はかかる距離があるのだ。当然、駅に到着すると同時に生徒達はダッシュで改札口へと向かい、そこそこに広いはずの改札口は黒山の人だかりが出来上がっていた。
「雫!何やってんの!」
押されるように形で前に出てしまった聖子の声に、分かったと答えをかけようとした瞬間、不意に手首を掴まれ雫は驚きで背後へと振り返る。
咄嗟のことと、何故この人物が自分を引き留めるのか、と言う疑問が頭の中でダンスを踊った。だが、疑問を口にする前にぎゅっと力強く手首を引いた倉田さえが、囁くような声を雫の耳元に注ぎ込んだ。
「あなた、死ぬわよ」
「……は?」
一瞬どころか、雫の頭の中で言葉を租借するのにかなりの時間を要する。
死ぬ?いったい、誰が?
その疑問に答えることなく、倉田はじっと雫を見つめると胸ポケットから一枚の紙を散りだした。
名刺サイズのそれを右手に押しつけ、倉田はそれが最後だというように唇を開く。
「死にたくなければ、中等部二年四組の鏑木優誠を訪ねなさい」
それだけを言い置き、倉田は颯爽とした足取りでその場から歩き出した。
呆けたようにその背中を眺めていた雫だが、頭上から聞こえた駅のアナウンスにようやく自分を取り戻す。
「あ、あの!」
何がなにやら訳が分からぬまま、雫は倉田に向かって大声を上げるのだが、当の本人はすでに改札を出てしまったらしくその姿はどこにもない。
途方に暮れるしかない事態に、雫は手渡された紙に視線を落とした。
オカルト研究会会長兼高等部生徒会副会長 倉田さえ。
今時の若者が持つような可愛らしさや派手さのない名刺には、ひどく事務的なまでの文字が簡潔なまでに役職とそのギャップの違いを並べているが、それはどこかひどく持ち主の性格を見事に表現しているように思われた。
「なんなのよ、いったい」
見ず知らずどころか、初対面の人間に、いきなり死ぬ、等という物騒な言葉を投げつけられるなど、今日の出だしは最悪以外の何物でもない。
握りつぶそうしてしまおうかと考えてしまうが、何故かそれを行ってしまうと告げられた言葉通りに自分が死んでしまいそうな気分に陥り、雫は苦虫を潰したような表情でそれを乱暴に胸ポケットに突っ込んだ。
気持ちを何とか切り替えなければ、と、手首の時計で時間を確認した雫の顔から血の気が引いていく。
「うそ……遅刻じゃない」
完全完璧に遅刻の判を押されるのは間違いない時間に、いつの間にか消えていた友人の存在も思い出した。
倉田に関わりたくなかったのか、それとも遅刻を恐れたのか、それとも両方なのか。とにかく薄情なことに、聖子はすでに学校に向かったに違いない。
「薄情者ー!」
思わず叫び声あをあげた雫がその場をダッシュで走り出したのは、言うまでもないことだろう。