序
異世界物ではなく、学園物が書きたかったのですが、どうにも斜め上方向に書き上げた作品です。
この中に出てくる最強魔女は、あらゆる作品に出ております。まぁ、使い勝手が良すぎるキャラクターですので、あちこちに出張出演してくれるのですが。
ラブコメ、とはちょっと違うかなーと思いつつ、一応自分が書いた作品ではラブコメチックな作品に仕上がりました。
かなり詰め込みすぎた感がありますが、面白ければ全て良し、ということで、幕開けです。
あなたは、悪魔と魔女、どちらが強いと思いますか?
どこかで、子供が泣いている。
それを認識した途端、泣いているのは自分なのだと気付いてしまう。同時に、いつもの夢なのだとぼんやりとした考えが頭をよぎった。
それが何時だったのか。それは覚えていない。
ただ、何かが悲しくて、切なくて、涙だけが流れていた時間。
忘れていた何かを必死に思い出そうとすると、決まって『彼』の声が聞こえてくる。
『泣くな』
どこか困ったような、それでいて苦笑を滲ませた声音。
見上げても、日の光を背後にしているためにその顔は全く見えず、ただ自分を宥めるためにくしゃくしゃと何度も頭を撫でられている。
自分よりも何倍も高い身長を屈め、同じ目線にまでしてくれているのに、その表所が分からない。
だぁれ、としゃくり上げながら問いかければ、微かに笑みがこぼさるだけで、何の答えも返らずにただただ自分の涙を止めるためだけに、優しく、何度も何度も自分の髪の間に指をくぐらせてくれるだけだ。
『どうした?』
どこか答えを知っているような口振りは、今ならば疑問に思えるものだが、あの頃の自分にとってはただ『知っている』と言うだけで安心をもたらすに充分なもの。
震える指先を空中に向けて何とか言葉をつなごうとするのだが、うまくそれは唇から放たれずに喉の奥で詰まったように止まってしまう。
それを見てだろう。あぁ、と小さく呟き、『彼』は自分の指の先にある『それ』に同じように視線を向けた。
『気にするな。ただの小物だ。
お前に危害を加える事はない』
当たり前のように平然とそう告げられ、思わずじっと『彼』を見つめてしまう。
子供は、嘘に敏感だ。
加えて言うならば、あの頃の自分は大人達の言葉に隠されている真実を見抜ける術を得ていた。
だからこそ、告げられた『彼』の言葉が偽りではないと確信できた。
だが……。
『不安か?』
襲われないときっぱり断言されても、自分の眼にしか映し出されていない醜悪な生き物達が、『彼』の言葉を覆さないとも限らない。
またしても大粒の涙が頬を伝い落ち始めると、些か『彼』は慌てたように自分を抱きしめた。
『大丈夫だと言っただろう。お前はオレの・・だからな』
よく聞き取れなかった言葉に首を傾げるが、それを気にせず『彼』はそっと自分の身体から腕を放し、もう一度ぽんと頭に手を置いた。
優しさが、温もりと共に自分の中に流れ込んでくるのを感じ取り、ようやく流れていた涙が止まる。
ありがとう、と言葉にするしようとするが、それを遮るように『彼』の指先が自分の唇に触れた。
『いいか、こいつらが見える事は人に言うんじゃない』
まっすぐな眼が、自分を射貫く。
余りにも真剣なその瞳に、何故と問いかける事すら出来ずにただ黙って頷いていた。
それを確認してだろう。安堵したように肩を落とした後『彼』は、今度は乱暴に自分の頭をかき回した。
『また、な』
ただ短くそう告げると、刹那の内に『彼』の姿が目の前から消える。
長く伸びる影と茜色に染まった空が、いつの間にか目の前一杯に広がっていた。
きょろきょろと辺りを見回しても、誰の姿もない。
ここは、どこだっただろう。
必死になってそれを思い出そうとするのだが、記憶の底にあるはずの目の前の『風景』は、この世のどこにもない場所だと頭が答えを出している。
出口の見えないトンネルにでも入り込んだような錯覚を覚え、身体が少しずつ硬直していくのを感じ取り、もう一度『彼』の姿を思い出そうとする。けれど、意志に反してその輪郭は徐々にぼやけてゆき、ただ自分の周囲の色だけが濃くなっていくだけだ。
もう一度あの瞬間を思い出したいと願いながらも、それを裏切るように『記憶』は薄れていく。
だめだ、と、強く思った瞬間、耳元で大音響が響き渡った。
「いつまで寝てるの、雫!」
その言葉と共に、瞼の間を縫って朝日が差し込んでくる。
いったい誰だ、と問いかける必要などない。余りにも聞き慣れたその声は、確かめるまでもなく母のものだ。
「まったく、遅刻するわよ」
呆れ以外の何物でもない母の口調に押されるようにして、枕元に置いてある時計に手を伸ばす。
寝ぼけきった頭でアナクロ時計の秒針を確認し、その数秒後悲鳴のような声を上げて高坂雫は布団を蹴り上げてるようにして起き上がった。
「何で早く起こしてくれないのよー!」
「何度も起こしたわよ。
ほんとうに、もう。高校二年生にもなって、目覚ましが鳴ってもでも起きないなんてどういう神経してるの?琴美なんてとっくに起きて学校に行ってるわよ」
ぶつぶつと小言を言いながら部屋を出て行く母の背中に舌を出し、慌ただしく寝ていた布団をたたむと壁に掛けている制服へ駆け寄る。
いつもの事とはいえ、あの『夢』を見た日は必ずと言っていいほどに、最悪の出だしから始まり、そして……。
部屋の隅へとちらりと視線を向け、雫は小さな溜息を吐き出した。
自分にしか見えない、異形のモノの群れ。
いつもはちらほらと数えるほどしかいないはずのそれらは、何故かあの『夢』を見た日は必ず大量と言ってもいいほどに自分にまとわりついてくるのだ。
知らず知らずのうちに大きく息を吐き出してしまい、雫は部屋の隅で蠢いているそれらから視線を外して壁の掛けてある制服へと手を伸ばした。
先程母親が残した言葉通り、時計の針は刻々と遅刻間際の時間に迫っている。
たとえ外見がグロテスクとはいえども、実害は全くないに等しいのだから今更それらに意識を向ける必要もない。だが、こうやって遅刻という現実に直面している点に関してしまうと、それなりに害はあると言っても良いのだろう。
いつもの事なんだから、と言い聞かせながら、雫はあたふたとブラウスの袖に腕を通して上着を引っ掴んだ。
勉強机の上に置いてあるカバンのふたを開け、本日の教科書類がそろっている事を一応確認した後、雫はふと可愛らしい絵柄の卓上カレンダーに目を向ける。
「中間まで、あとちょっとかー」
目前にまで迫ったテストに唇を尖らせるが、その数日後に友人達によって行われるイベントに思わず小さな笑みがこぼれた。
十七才の誕生日。
高校二年生という立場は非常に微妙な位置だが、まだ新学期が始まって二ヶ月。大学受験や様々な行事が目白押しになってくる後半に比べれば、比較的自由が許される期間に自分の誕生日がやってくるのは幸運な事だろう。
とにかくお祭り好きな友人の一人などは、すでに独り勝手に盛り上がりを見せているだけでなく、とっくの昔に誕生日会の予定はこうだ、と周りの都合も何のそのの勢いで場所やその日の時間割の手配を終えている。
「そっかー、あとちょっとなんだよねー」
こみ上げてくる笑みを押さえきれずにこぼしそうになった途端、ずくりと頭の隅で何かが蠢いた。
今まで気にもならなかったそれは、誕生日が徐々に近づくにつれて心の中でむくむくと大きくなっており、意識がそちらへと向けられる時間が多くなっている。
自分は、何かを、忘れている。
直感的な考えではあった。けれど、それがあの『夢』へとつながっていることは、考えるまでもなく理解していた。
いったいそれが何であったのかと考えそうになった途端、階下から母親の些か怒り気味の声が響いてきた。
「雫、ほんとに遅刻するわよ!」
「分かってるってば!」
反射的にそう返事したものの、今の今まで遅刻の刻限に迫っている事を忘れていたのだから、この場合は母の声に感謝しなくてはならないだろう。
とはいえ、それを素直に認めるのは少々癪に障ってしまうため、雫は僅かに顔を顰めながら足早に自分の部屋を後にする。
その様子を、一対の眼が部屋の隅で観察するかのようにぎょろりと動いた。