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第三話 彼女が不機嫌になる理由

 七月の最終週で気温が高いということもあり、結局ミッチはタンクトップとショートパンツで過ごすことにしたみたいだ。気温が高いといっても三十度を少し超えるくらいで酷暑や猛暑には程遠い。それでも暑さに慣れていない道民にとっては充分堪えるレベルの暑さではある。

 ベロを散歩させることになり家を出ることになったが、ミッチの露出の高さが気になった。胸元がルーズだと屈んだ時に隙間から上半身の一部が見えてしまう。ミッチの存在自体が僕にしか見えていない可能性の方が高いが、見える人がいたとしたら絶対に見せたくなかった。

 僕たち親子は森の中に住んでいて、家は小川の近くにあり、玄関の前には片側一車線の道路が一本ある。町の方に行けば僕が通う高校があり、森の奥に行けば野鳥保護区の原生林に繋がっている。

 夏休み前には遠足の小学生やマラソン大会に参加している中学生が家の前を通り過ぎていくが、休みに入ると洞爺湖方面へのサイクリングコースの方が賑わうので、家の周辺にはひと気がなくなる。

 小川はろ過水のように透明だった。濁りがなく、すくった水があまりにも無色なので半年くらい小川の水だけで暮せば透明人間になることも可能ではないかと真剣に考えたほどだ。全身を透明にすることはできないかもしれないが暗闇に同化するくらいの色にはなれそうだ。

「あっ、しゃっこいっ」

 ミッチがサンダルを脱いで小川に足を浸している。夏場といっても川の水は冷たいままだ。初めて出会った日なら真顔で僕を睨んでいたに違いない。それが今は太陽にも負けないような笑顔で僕の方を見ている。

「ケンジ君も入りなよ」

 このシチュエーションこそ僕が子供の頃から描いていた理想だった。海水浴には行ったことがないが女の子と水を掛け合うとキャッキャッするのは知っていた。小川に入るのは小学生以来だろうか? 

 いつでも入れるが近くに住んでいると入らないものである。靴と靴下を脱いでチノパンの裾を巻くっておく。濡れても構わない服装なので気にする必要はない。それよりも早く水を掛け合って遊びたかった。

「濡れるの嫌だから掛けないでよ」

「そんな子どもっぽいことするわけないだろう」

 小川の水を両手ですくい上げて掛けてやろうと思ったら止められた。久しぶりにミッチの真顔を見た。微笑む顔に慣れていたので注意されただけで怖く感じてしまう。結局すくい上げた水で顔を洗って誤魔化すことしかできなかった。

 この奇妙な違和感はいつから感じるようになったのだろうか? 笑顔を描く練習をして、困り顔や怒り顔もきっちりと描いたつもりである。実際にミッチはニコニコして、僕もそれを見て恋心まで抱いた。それなのに今は張り合いのない会話しかできていない。

 何が原因なのだろうか? いや、原因などあるはずがない。夏休みに女の子と二人きりで犬の散歩をしているのだ。これ以上、望んではいけないほどの幸せを掴んでいる。それで女の子のノリが悪いというだけで問題にしていたら、人生に平穏など一生訪れないではないか。

 とりあえず明日から四日間は学校で夏期講習があるので登校しなければならない。大手ゼミの有名講師による特別指導なので真面目に受けなければもったいない。オシャレしたミッチを描く時間はないが、ポケットサイズで描けば学校にも連れて行くことができる。


 僕の通っている私立高校は寮制高校で生徒の半分は親元を離れて寮生活をしながら勉強に明け暮れている。中でも特別進学クラスの生徒は道外からわざわざ入学してくる人もいるほど倍率が高い。しかし残念ながら僕は彼らよりも偏差値が二十以上も下の普通クラスにいる。

 同じ学校に通っているが、特進クラスの生徒とは会話どころか顔を合わせる機会すらない。だから階段教室で一緒に講習を受けても普通クラスの僕と目を合わせる人は誰もいなかった。そもそも普通クラスの生徒は夏期講習を受けないので場違いなのは仕方ない。

 教室の中は公立の進学校の生徒も参加していたのでパンパンに膨れ上がっていだ。少子化の影響か昔と違って地方の私立も落ちこぼればかりが集まる高校だけではなくなったが、それでも小学生の頃から勉強が出来る子は公立の進学校を目指すのがスタンダードだ。

 教室を見渡すとアチコチに懐かしい顔を確認することができた。小学校時代に友達だった鈴木元すずき げんがいる。中学校に上がってクラスが替わってから一切遊ばなくなったが、コンビニで偶然出会うと必ず声を掛け合うほどには良好な関係を維持している。

 もう一人は石川結愛いしかわ ゆあさんだ。石川さんとは特に親しいわけではない。中学時代の二年間を同じ教室で会話もせずに過ごしたというだけの仲である。それでも印象に残っているのは彼女がクラス代表として母さんの葬式に列席してくれたからだ。

 彼女にとってはその時たまたまクラス委員長をしていただけなのだが、僕にとっては心から感謝すべきことだった。石川さんに対して心残りに感じるのは式に参列してくれたお礼をまだ言っていないことだ。

 お葬式があったのが卒業式の後だったので会う機会すらなかったわけだ。この機会を逃すと死ぬまで礼をする機会は訪れないだろう。北海道の田舎町なので街中で偶然会うことも考えられるが、部屋に籠りがちな僕にとってはその確率がうんと低くなるわけである。

 お礼をするという至極まっとうな理由があるが、教室で大勢が集まっている状態で声を掛けるのははばかられる。僕は構わないが石川さんに迷惑を掛けてしまうからだ。これは自意識過剰ということではなく、異性に対してはそれくらい気を遣うのが当然だと思っているからだ。

 正直なところ自分に自信が持てないというのはあるかもしれない。教室の中で僕がもっとも勉強出来ないのに、それで他校の女子に声を掛けては「だから勉強が出来ないんだよ」と思われてしまいそうで怖いのだ。

 そもそも男として考えるのが良くないのかもしれない。夏期講習の場で石川さんを異性として気にしているのが情けなく感じる。この場にいる人たちは勉強しに来ているわけで、そこに進学校や進学クラスに行けなかった意識の違いを痛感させられるのだ。

 これは劣等感というよりも現状把握だ。自分に自信を持つことは大事だし、必要以上に自分を卑下することもない。自信を持ちすぎれば過信することになり、卑下しすぎると卑屈に歪んでしまう。だからこそ現状把握の作業に一生懸命になってしまうのだ。

 そんなことを考えている内に貴重な夏期講習の一コマが終わってしまった。石川さんに直接お礼を言うには夕方まで待たなければいけなかった。僕は苦手な古文しか受講していないが、彼女が校舎から出てこないということは、すべての科目を受講していると思われるからだ。

 僕には一コマ九十分の講習は一日一回が限界だ。大学生になれば耐えられるだろうが、現時点では念仏のようにしか聞こえなかった。夕方まで暇なのでミッチと話をしようと思ったが、制服のポケットを見ても、カバンを覗いても見当たらなかった。

 マンガから飛び出してきたとはいえ、ポケットから落下すれば怪我をするかもしれない。比率を考えると校舎の屋上から飛び降りるのと変わらないので即死もあり得る。そうなった場合、もう二度と会えなくなるかもしれないのだ。

 とりあえず捜せる場所は全て捜そうと思い校舎の中を歩き回った。男子トイレはもちろん、入りはしなかったが女子トイレの中にも声を掛けた。それでもいないので体育館にも行った。バレー部員がいたけど構わず捜し続けた。もしもボールが頭にでも当たったら即死するだろう。

 自分に置き換えたらバレーボールはクジラに相当するはずだ。空飛ぶクジラが見たければ自分が海の中に入ってしまえばいい。クジラを描く時に翼をつけなくても空を飛んでいる姿を描くことはできる。対象物を改良させる必要なんてないのだ。

 いつものように空想に耽っていると、いつの間にか夕暮れになっていた。階段教室は閑散としている。触ると椅子も冷たくなっているので講習が終わって随分と時間が経過したようだ。今からでは石川さんを捜せないし、ミッチが無事でもとっくに消えている時間だ。

 ということで、この日はお礼も捜索も諦めるしかなかった。家に帰ってからミッチの絵を描いたが、また同じような失踪が起こらないように今回はポケットサイズにしなかった。お留守番のミッチが寂しくならないようにベロを描くことも忘れなかった。


 翌日、目覚まし時計の音で起こされた。ミッチもベロも起こしてくれなかったわけである。それよりミッチ本人がちゃんと存在しているかどうかの方が気になり、急いで部屋を出ることにした。

 しかし廊下には出たものの、朝食を作る音も匂いもないため完全に魔法が解けてしまったと思った。ところがリビングに入るとミッチがベロにエサをあげていたのである。生存確認できたことで思わず抱きつきたくなったが、元気がない様子なのでそれができなかった。

「おはよう」

「おはよう」

 挨拶だけだが特に異変はないようだ。つまり機嫌が良さそうということもないし、不機嫌というわけでもないということである。一点だけ顔に表情がないということが気になったが、それは僕が笑顔を書き忘れたのでミッチに問題があるわけではない。

 それとは別に軽く気になったことがある。それは僕がトーストを食べる前にベロがエサを食べていたことだ。犬は序列を大切にすると聞いたことがある。それもあって主人である僕よりも先に朝食を食べるのはいかがなものかと思った次第だ。

 といっても、そんなことは学校に着いてしまえば忘れてしまうようなことだ。講習もしっかりと集中して受けることができ、あとは前日に言えなかった石川さんへのお礼をするだけだった。玄関ホールの階段に座り、古文の復習をして彼女を待つことにした。

 夕方になり講習を終えて出てきた時、石川さんは一人だった。セーラー服からブレザーに変わったが、四か月前に見た時と印象は変わっていない。長い黒髪は長いままだし、毛先を遊ばせている感じもない。背は女の子にしては高い方だけど、もう止まっているように思えた。

「石川さん」

 呼び止めなければ見向きもせずに通り過ぎていく感じだった。

「覚えてる?」

「なにを?」

「あっ、僕のこと」

「忘れっぽい性格に見える?」

「あっ、いや、そんなことないけど……」

 この感じが僕は苦手だった。石川さんはとにかく早口で、すぐに返事が返ってくるので会話をすると焦ってしまうのだ。まるでコンピューター相手に将棋やチェスをやっているようで、こちらが常に追い詰められた精神状態になってしまう。

「まだ、お礼を言ってなかったので、それで、どうしても言っておこうと思って、ああ、そうだ。母さんの葬式のことね。それで、あの、葬式に来てくれて、ありがとう」

「それを伝えるために待ってたの?」

「うん」

 石川さんが僕のことを不思議そうに見ている。闇よりも深い黒い瞳だ。真っ白い肌とのコントラストでモノトーンのマンガのキャラクターを見ている気になる。落ち着いた声もきれいなので声優になったらすぐに人気が出そうだ。

「成瀬君、朝の古文しか受講してないよね?」

「うん」

「それなのにずっと待ってたんだ」

「どうしても、それだけは伝えたくて」

 石川さんに黙って見つめられると怒られている気分になる。

「成瀬君のお母さんに会いに行ったのは、私もお礼が言いたかったから、ただそれだけ」

「え? あっ、それは……」

 口ごもる僕を石川さんは待ってくれなかった。

「また明日」

 それが石川さんの別れの言葉なのだろう。ハエのような男を寄せつけない見事な挨拶だった。自分がハエのようにあしらわれたわけだが、その勇ましいあしらい方に拍手を送りたいくらいだった。僕としてはお礼が言えたので、仏壇にいい報告ができるだけで満足だ。

 家に帰るとミッチの姿はなかった。父さんが仕事から帰ってくるまで当然一人きりなのだが、ミッチと一緒にいることに慣れてしまったせいか無駄に一人の時間が寂しいと感じてしまう。この無駄というのは本当に不必要で、意味を見いだせる無駄ではなかった。

 夜になるたびに消えてしまうのでは、学校が始まれば朝しか話をすることができなくなってしまう。そう、要するに寂しいというより不満というわけだ。例えば背景を夜にして、そこにミッチを描けば消えないような気もするが、そういう実験をするには時間がなかった。

 この日も制服姿のミッチとベロをそれぞれ一枚ずつ描いてお仕舞いだ。と思ったけれど、念のためミッチの分は微笑みいっぱいの顔を追加しておく必要がある。あとベロには首輪もつけておこう。


 翌日も目覚まし時計の音で起きた。今度はリビングにミッチやベロの姿もない。それでも学校があるので捜し回るわけにもいかなかった。今日は午後になればすぐに帰れるし、家に帰れば探す時間は充分にある。夏期講習も明日までなので、またゆっくりマンガを描く予定だ。

 学校がある時はトーストだけの食事で、これは母さんが死んでから変わっていない。料理は得意だけど、早起きして弁当を作るのは面倒なので、昼はもっぱら売店でパンを買って済ませている。夜は自炊する時もあればコンビニを利用する時もある。

 そんなことを考えてしまうのはミッチが作る卵焼きが食べたいと思ったからだ。お願いすれば作ってもらえるだろうけど、何かをしてもらったら、自分も何かしてあげたいと思うから、何もしてあげられないなら、何かを望んではいけないと勝手に帰結してしまう。

 卵焼きは自分でも作れる。お願いするようなことではないし、作ってくれないからといって失望することでもない。そう結論付けて、家を出て自転車にまたがった。小川の湖面は輝いていたが、ミッチの笑顔はもっと輝いていた。

 そう、彼女はベロを散歩させていただけだったのだ。これで講習が終わっても急いで家に帰る必要がなくなったということだ。学校に着いて、階段教室に入り、空いている席に座っていたら、声を掛けられた。

「おはよう」

 挨拶をしたのは石川さんだ。

「おはよう」

 僕が挨拶を返すと、隣の席に座るのだった。

 しかし、言葉を交わしたのはそれだけだった。

 彼女の方から言葉を掛けてきたが、それで僕に好意を持っているということにはならない。中学までの教室の中ならすぐに恋愛に直結しそうな行動も、相手が石川さんなら話は別だ。彼女にとっては、知り合いがいたからそこに座っただけ、ただそれだけだった。

「また明日」

「うん、また明日」

 これが石川さんと交わした言葉の全てだ。中学時代の二年間は一度も席が隣同士になったことがないので挨拶すら交わしたことがなかった。目を合わせたことがあっただろうか? と考えてしまうほど希薄な関係だったといえるだろう。

 そんなことを考えるのも校舎を出るまでだ。考える時間の短さが、僕と石川さんの距離に表れているということだろう。すぐに頭の中はミッチのことに切り替わった。お腹が空いていたということもあり、ミッチに美味しいものを作ってあげようと思いついた。

 食パンを切らしたので元々買い物をする予定だった。何を作るかはスーパーに行ってから決めればいい。要するにいつもと同じパターンということだ。大型スーパーには本屋さんもあるのでついでに寄って行く。本は生活費と別にお金を使ってもいいことになっている。

 夏なので、この時期にぴったりな作品が望ましい。クリスマスにディケンズの『クリスマスキャロル』を読むのと一緒だ。無難なところでタイトルに「夏」が入っていれば間違いないだろう。ということでロバート・A・ハインラインの『夏への扉』を購入することに決めた。

 本屋さんに長居しすぎたせいか帰りが遅くなってしまった。日が長い時期とはいえ、暮れかけたらアッという間に闇夜が支配する。特に僕の家の周りは街灯がないため、曇れば魔女が棲む森にしか見えなくなる。

 十年以上暮らしていても、夜の怖さだけは慣れることはできなかった。高校生にもなって恥ずかしいけど、夜中にトイレに行く時はいつも駆け足だ。急いで帰るには帰ったが、家に着いた時には日が暮れており、川辺にも家の中にもミッチの姿はなかった。

 今日はまともに会話すらしていないが、夏期講習は明日までなので、それが終わるまでの辛抱だ。終わってしまえばまた二人でゆっくり過ごすことができる。時間はたっぷりあるのだから焦る必要はなかった。


 翌日は何から何まで前日と変わらなかった。一人きりでトーストを食べ、学校へ行く途中に川辺でミッチの笑顔を見て、階段教室では僕の隣に石川さんがいて、挨拶以外の雑談がないところまで一緒だった。

 違ったのは僕が夏期講習の最終日だったということもあり「また明日」という別れの挨拶が「さよなら」に変わったくらいだろうか。「また、いつかね」なんて期待を持たせることを言わないのが石川さんの清々しいところだ。

 彼女とはその場で別れたが、教室を出ると今度は元ちゃんに声を掛けられた。人目を気にした様子で挨拶もぎこちない。何やら話したいことがあるようで「終わるまで待ってて」とお願いしてきた。僕が頷くと「じゃあ、美薗公園で」と勝手に待ち合わせ場所まで指定された。


   ※    ※     ※


 美薗公園は僕が五歳の頃まで住んでいた家の近くにある公園だ。僕たちはよくそこで水遊びをして日が暮れるまで遊んでいた。泥で山を作って、トンネルを掘って、そこに水を通す。水が開通しただけで世界を救ったかのように嬉しい気持ちになることができた。

 小学校に上がるタイミングで実習林の中に引っ越したけど、学区は変わらないので元ちゃんとの関係も変わらなかった。それでも遊びは水遊びから遊具を使った遊びに変化した。ブランコを漕いで靴を遠くまで飛ばしたり高鬼をしたり、いわゆる誰もが子供の頃によくやる遊びだ。

 それが小学生の高学年になるとボール遊びに変化した。遊び仲間も増えて、六人以上いれば野球をして、それ以下ならサッカーだ。お金があればコンビニで買い食いもしたし、なければベンチでずっと話をしていた。つまりあってもなくても困らなかったということだ。

 それが中学校に上がった途端に会話をしなくなった。入学当初は一緒に登下校していたが、クラスに新しい友達ができると顔を合わせることもなくなってしまった。どちらが悪いということではなく「付き合う友達が変わった」という他に言いようがなかった。

 それでもきっかけを作ったのは僕の方かもしれない。会話が弾まない日が続いたので、僕から「もう一緒に学校に行くのはやめよう」と言ったのだ。それが中学一年のゴールデンウィーク前だった。美薗公園の桜が咲いていた時期なので、今でもよく覚えている。

 僕の言葉を受けて、元ちゃんが何を思ったかは知りようがない。一緒に行くのをやめようと宣言した後も、たまに一緒に帰ったりしたので絶交というわけではなかった。結果的に元ちゃんは公立の進学校へ入学できたのだから、彼の邪魔にならなくて良かったと思っている。

 僕と同じクラスになっていたら、元ちゃんまで僕のように受験に失敗していたかもしれない。だから間違っていなかったのだ。勉強ができる子はみんな早歩きでどこかへ行ってしまう。僕は彼らの背中を見送ることしかできなかった。


   ※    ※     ※


「成瀬って特進クラスだったの?」

 元ちゃんが僕の苗字を呼び捨てにした。幼稚園の頃に知り合ってから初めてそう呼ばれた。

「いや、普通クラスだよ」

 地元以外の人なら進学校だと勘違いされるが、地元の人間なら普通クラスと特進クラスには雲泥の差があることを知っている。それより元ちゃんが僕の進路に興味すら持っていなかったことにショックを受けた。

 幼なじみだというのに会話が続かなかった。これもどちらが悪いというわけではない。仲が良かった頃の小学生時代にもよくあったことだ。でもその時は黙っていても、常に次の瞬間には何か面白いことが起こるのではないかとワクワクしていた。

 それが息苦しく感じるということは、魚が陸に上がるようなものなのだろう、つまり互いに住む世界が変わったのだ。もちろん大海を知る元ちゃんの方が魚だろう。僕は外の世界が塩辛いことすら知らない。

 それでも簡単ではあるが、母さんのことや一人暮らしのことや通っている高校について話すことができた。僕としてはそれだけで充分だった。元ちゃんは僕と違って九十分の講習を四コマ受けたばかりだ。疲れているだろうし、話ができただけで良かったと思わなければいけない。

 しかし元ちゃんが聞きたいのは僕の話ではなかったようだ。

「石川さんと会ってるの?」

「いや、講習で久しぶりに会っただけだよ」

「そっか」

 たったそれだけ。元ちゃんは石川さんのことが聞きたくて僕を美園公園で待たせたわけだ。そんなことならその場で訊けば良かったのだ。石川さんと僕が付き合っているとでも思ったのだろうか? そんなことは有り得ないじゃないか。隣で講習を受けるだけの間柄だ。

 自転車に乗った帰り道、いつにも増してスピードを出してしまった。それくらい怒っていたのだが、汗をかいて発散してしまうと、元ちゃんの石川さんに対する恋心に気づいて優しい気持ちになってしまった。

 あの、鼻水を長袖の袖で拭っていた元ちゃんが石川さんに恋をしている。僕も男なので仕方ないと思うしかなかった。背は僕より高くなり、目鼻立ちもはっきりしているので僕なんかより圧倒的にカッコイイ。いや、圧倒的ではないが、いくらかマシなのは確かだ。

 美形の石川さんともよく似合いそうだし、石川さんに拘らなければいくらでもカノジョができそうだ。それでも片思いしているということは、石川さん以外には考えられないということなのだろう。

 そんなことを風呂に入りながら考えていたら、ものすごく眠くなってしまった。ミッチを描かなければいけないと思いつつ机に向かったが、明日でもいいやという投げやりな思いが先行してしまった。

 買ったばかりの本もあるし、どうせなら一日かけて一気に読んでしまいたい。その方が気持ちが盛り上がる。そう思った瞬間ベッドに滑り込んでしまった。マンガはいつでも描ける、そう思って眠ることにした。


 翌日、やはりミッチの姿はなかった。描かなくても現れてくれると思ったが、やはり前日に描かないと出現してくれないようだ。そこで真っ先にミッチの絵を描くことにした。しかも今日はたっぷりと時間があるので、いつもよりバリエーションに富んだ姿を描くことができる。

 いい機会なので笑顔だけではなく泣いた顔も描いておこう。服装は大きめのTシャツにショートパンツがいいだろう。ミッチの年齢なら胸元の露出よりも生足の露出の方が健康的かつ健全だ。髪型はやっぱり切ったばかりのショートボブが好きだ。

 昨日までは大人しそうな笑顔ばかり描いていたが、やっぱりタイプはボーイッシュで元気が有り余るくらいの女の子が好きだ。ミッチを描くことで自分の好みのタイプを再確認することができた。

 やっぱり最初に描いていたバカ笑いする女の子が好きだし、涙を流してまで感情を見せてくれる子が気になってしまうのである。泣くと言ってもウソ泣きでは駄目だ。ちゃんと他人のために涙を流せないと魅力的には感じない。そこはシビアだったりする。

 ふと、石川さんのことを思い出した。考えてみると好みのタイプが何から何まで石川さんと正反対のような気がしたからだ。正反対だからといって嫌いというわけではなく、まったく惹かれないということに恋愛の面白さを感じた。


「ギブ、ギブ、ギブ、ギブ、ギブッ!」

 翌朝、僕は腕ひしぎ十字固めで起こされた。

 ミッチは怒っていたが、僕は嬉しくて堪らなかった。

「なにがギブだ。顔がニヤけてるだろうが!」

 ミッチが僕の関節を更に締め付ける。

「折れる、折れる」

 タップして難を逃れたが、やっぱり理想通り女の子はこれくらい元気な方が好きだ。それとプロレス好きとしては、きちんと加減を分かっているというのもポイントが高い。そんなことを考えていたら、今度は背後を取られてしまった。

「どうして怒ってるか分かる?」

 ミッチがヘッドロックの体勢で訊ねる。

「昨日、絵を描くのをサボったから」

「それだけだと思ってるの?」

「え? 他にもあるの?」

 女の子が不機嫌になる理由なんて考えても分かるはずがない。


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