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第二話 二次元に恋をする理由


「ミッチ?」

「そうだよ、やっと気がついたね」

 目の前にいる彼女は、昨日僕がマンガを描こうと思って手始めに描き始めたヒロインのキャラクターだった。突拍子もない想像ばかりしていたが、やっと現実的な答えを探り当てることができたわけだ。

 霊感が強い人に幽霊が見えるなら、マンガが好きな人にキャラクターが見えてもおかしくないと思っていたので、すんなりとミッチを受け入れることができた。実写化されたミッチを改めて見ると、やはり死んだような表情に不満を抱く。

「ねぇ、もうちょっと可愛く笑えないの?」

「はぁ? それは自分に言いなよ」

 明らかに怒っている口調だが、顔は固まっている。

「僕のせいなの?」

「当然でしょう。こっちは笑いたくても笑えないし、怒りたくても怒れないんだよ。いや、怒っているけど怒った表情を作れないの。可愛く笑えって言うなら、可愛く描いてくれれば良かったんだよ」」

「やっぱり怒ってたんだ」

「ハハハッ」

 と、ミッチが大笑いした。

「いまのは、なに?」

 今朝から何度も見ているが、今回は飛び上るほど怖かった。

「わかってもらえたことが嬉しくて喜んだんだけど、表現方法が間違っていたみたい。というよりもケンジ君が悪いんだよ。せめて喜怒哀楽くらいは描き分けてよね。少しだけ表情を弛めるだけで喜びは表現できるのに、それをさせないのは拷問に等しいと思う」

 どこの世界に自分が描いたキャラクターにダメ出しを受ける漫画家がいるだろうか?

 ミッチの説教は続く。「真顔は仕方ないよ、顔を描く時の基本だもんね。でも、もう一つの顔がバカ笑いってなに? 普通は写真を撮る時のように微笑んだ表情を描かない? それが大口を開けて笑う姿を描くとかありえないよ。のどちんこを見せたい女の子がいると思う?」

 ここまでのミッチは、すべて真顔だった。

「でも可愛い子は、のどちんこも可愛いと思うんだ」

「そうかもしれないけど、のどちんこは基本をマスターしてからにして」

 真顔のミッチからは説得力を感じる。

「念のために言っとくけど、私、怒ってるんだからね。ケンジ君は怒った顔を見たくないから怒り顔を描かないんだろうけどさ、感情の基本となる喜怒哀楽に含まれているということは、それがすごく大切な感情だっていうことなんだよ。

 ちなみに、いま描いて欲しい表情はキリッとした凛々しい顔なんだ。怒ってはいるんだけど、それが相手に対して真剣で、一切の妥協を許さないの。そういう思いやりを感じる怒り顔なんだ。要求は高いけど、全部ケンジ君のためなんだからね」

 言うのは簡単だが実際に描くのは難しい。

 ミッチが解説を加える。「考えてみると怒り顔にも色んな種類があるよね。注意する人の怒り顔と、注意を受けてカッとする怒り顔では違うだろうし、冗談を言い合っている最中にする、わざとおどけた怒り顔と、その人が真剣に怒った時の顔は別人のような顔をするかもしれない。

 人間の尊厳を傷つけられた時の怒り顔は、それまでの人生が反映されるから当然キャラクターによって表情が変わってくる。激高する人もいれば静かな怒りを内に秘める場合もあって、それを逃げずに描かなきゃいけないんだよ。

 そうなると表情が先か性格が先か分からなくなるね。でも、それまで大人しかった人が涙や鼻水を流しながら怒り出すこともあるから、作者にだって意外に感じることが起こるんだと思う。そこは作り物と現実の垣根なんて無いんじゃないかな」

 ミッチは僕が生み出したキャラクターだけど、彼女の話す言葉は初めて聞くことばかりだ。一瞬だけ母さんを思い出したけど、内容は父さんが話す言葉に近かった。それにしても怒り顔だけでそこまで考えないといけないとしたら、マンガを描くって相当大変な作業だ。

 しかし振り返ってみると、僕が読んできたマンガはどれもキャラクターの表情とセリフに違和感のないものばかりで、ミッチに指摘されるまで気にも留めたことがなかった。それはどういうことかというと、読者に気づかせないほど絵が上手いということだ。

「ねぇ、いま何を考えていると思う?」

 ミッチと見つめ合うも、真顔なので彼女の気持ちまでは分からなかった。

「当ててみて」

「そんなこと言われても分からないな。さっきからずっとイライラしてそうだけど」

「哀しいな」

「そうは見えないけど」

 現に哀しそうに見えなかった。

「哀しい」

 真顔しかできないとはいえ、伏し目がちになるとか工夫はできるはずである。

「哀しくて仕方ないよ」

 そう言って、ミッチは大口を開けて笑った。

「アハッ、アハッ、アハッ……」

「いやいや、……それはブキミすぎる」

「なに言ってるんだよ、哀しみを通り越すと、笑うしかない状態になるんだよ」

 確かに説明を聞いてからミッチの顔を見ると泣き笑いしているように見えなくもない。

 ミッチが真顔に戻る。「哀しみって他人から一番理解されにくい部分だよね。キャラクターが我慢強ければ、そういうのを一切他者に見せないようにするだろうし、その場合はお気楽に見えてしまうこともある。

 人によっては同情を買うために哀しげな顔をする人もいれば、くだらないと思うようなことで人生を絶望する人もいる。『顔で笑って心で泣いて』を実践するヒロインは健気なところに、読者にしか分からない哀しみを描かなければならないから難しいと思う。

 涙を流せば、それだけでその哀しみがより深いものだということにはならないでしょう? 人に涙を見せないっていうのは、読者にも見せないという、強い意志の表れかもしれないんだから、やっぱり哀しみっていうのは本人しか分からないんだよ。

 元から哀しそうな顔をしていればギャップは生まれにくいし、泣いてばかりじゃ甘えた子供みたいに思われちゃう。お葬式で涙を流していないから冷たい人だなんて、勝手に決めつけちゃいけないの」

 そういえば母さんが死んでから一度も涙を流していない。


   ※    ※     ※


 母さんの通夜も葬式も火葬も一切涙を流すことはなかった。父さんだけではなく、周りの人の多くは僕が母さん子だって知っていたから、涙を流さなくても冷たい子供だって思う人はいなかったように感じる。

 全ての列席者と話したわけではないが、多くの人は泣かない僕を気丈に振る舞う強い子だと言ってくれた。実際はどうだったかというと、母さんの喪失に実感が湧かなかったというのが正直なところだ。

 母さんの死んだ顔を見ても眠っているようにしか見えず、翌日には目を覚ますような気がしたのだ。葬式の最中も隣に母さんが座っているような感覚があって、いつものようにリビングで一緒に映画を観ている感じだった。

 火葬に立ち会っても、それがマジックショーのように思えてしまって、灰になった母さんを見ても、突然どこからか現れてくるんじゃないかという期待が消え去らなかった。父さんに反対してまで引っ越しをしたくないと懇願したのは、それが主な理由だった。

 いつか帰ってくるんじゃないかという希望である。希望を持ってしまうと、人は哀しくなんかならないものだ。他人から見たら現実逃避に見えるだろうが、信じる力は何ものにも屈しないので、誰も僕をこの家から追い出すことはできなかった。

 高校に通っている間の三年間は引っ越ししないという約束だけど、僕は今でも遊びに出掛けた母さんがふらっと帰ってくるような気がしている。朝起きたら僕の大好きな卵焼きを作って、学校のお弁当として持たせてくれるんだ。

 もちろん「今までどこに行ってたの?」なんてくだらないことは聞かない。いつもと変わらない朝のように、「おはよう」と「いってきます」を言って、遅刻しないように慌てて家を飛び出すんだ。

 そんな僕を見て母さんは笑い、僕も照れ笑いを浮かべる。特別な言葉はなく、僕と母さんの会話はそれだけで充分だった。会わない期間がなかったかのように元の生活を取り戻すのだ。そんな日が来ることを何となく信じている。


   ※    ※     ※


 ふと、そんなことを思い出したけど、ミッチとは関係のない話だ。

「なに、笑ってんの?」

 ミッチは真顔だが、眼光は鋭かった。

「べつに笑ってないよ」

 これは本当のことで、自分では笑ったつもりはない。

「笑ってたよ、どうせエッチなことでも考えてたんだろうけど」

 それはたまたま視線を落としてミッチの胸元に目が行っただけだ。他人が勝手に自分のことを理解してくれると思ったら大間違いだ。それが男と女なら尚更である。しかし真面目なことを考えていたのに、どうしてミッチの胸に目が行ったのかは自分でもよく分からなかった。

「いいな、理由はやましいけど笑えるのが羨ましいよ」

「ミッチだって笑えるんだから笑えばいいだろう」

「またバカ笑いしろっていうの?」

「笑いたいって言うから」

「ハハハッ」

 大笑いしたミッチがすぐに真顔になる。その顔がやけに哀しげに見えた。

「こういうんじゃないんだよ。爆笑できればスカッとするけど、どちらかというと女の子はニコニコしていたいの。犬や猫を見て一日中笑っていたいんだよ。女の子が考える世界平和って、そういうことなんだよ」

 作者である自分が言うのもなんだが、発想の飛躍についていけない。

「あっ、いまバカにしたでしょう? でも違うんだ。これって単純そうな答えに見えて実は奥が深かったりするんだよ。難しいテーマほど分かりやすく説明できなくちゃ意味ないの。だってそうでしょう? 多くの人に理解してもらわないといけないんだから」

 ミッチの演説は続く。

「犬の散歩にも行けないような国には行きたくないし、猫がのんびり日向ぼっこできないような世界はダメなんだよ。それが分からないような人は、平和に導ける人ではないって自覚した方がいいね。

 でもさ、それが分かっていても、笑顔になれないんじゃ意味がないんだよ。可愛い犬や猫を見て真顔でいろなんて拷問だよ、拷問。ケンジ君は私に拷問を強いているっていうのを、ちゃんと自覚してる? してないとしたらサド侯爵じゃなくて、サタンのSだよ」

 それを途中から大口を開けて笑顔で言うものだから、ミッチの方がよっぽど悪魔に見えた。

「だったらミッチの笑顔を描いてあげようか?」

「ほんとに?」

 真顔だが喜んでいるに違いない。

「どうせ今日も一日中ミッチの絵を描いて練習しようと思ってたからね」

 早速、勉強机に向かうことにした。

「ハハハッ」

 それがミッチなりの感謝の言葉なのだろう。

 中学校を卒業するまでマンガ家になろうなんて大それた夢は持ったことがなかった。絵を描くのが好きでスケッチブック片手に写生しに出掛けることはあったけど、画家になりたいとも思ったことがない。

 小説も好きだし、音楽も好きだし、ゲームも好きで、スポーツも嫌いじゃないし、ダラダラ過ごすのも嫌いじゃなかった。そんな僕が数ある趣味の中からマンガを描こうと思ったのは、無性に描きたくなってしまったという他に言いようがない。

 いざ、マンガを描こうとしたけど一ページ目から筆が止まってしまった。本棚にあるマンガを参考にしてみたが、どうしても同じキャラクターを二度描けないのである。同じつもりで描いても双子が量産されていく感じで完全にホラーだった。

 そこで昨日は学校から帰ってきて、ミッチの真顔と大笑いした顔を同じように描けるまで何度も練習したわけである。真顔だけは目をつむっても描けるようになったつもりだが、身体をつなげるのは難しかった。

 それでも笑顔を描いてほしいと言われれば簡単にリクエストに応えることができる。ここにいるミッチは元気が良すぎるので、おしとやかに微笑む女の子にしようと思った。そうすればキツイ言葉でも可愛らしく感じられるはずだ。

「とりあえず出来たけど、どうかな?」

 ノートを凝視するミッチはベテラン編集マンのようだ。

「よく描けてる。けど、この顔は喜んでいるの? それとも楽しんでるの?」

「え? それって何が違うの?」

「訊いてるのはコッチだよ。描いたのはケンジ君なんだから当然答えられるよね?」

 改めて自分が描いたミッチの微笑みを確認したが、判別できなかった。

「それってそんなに重要なことかな? 喜怒哀楽の『喜』と『楽』の違いについて言ってるんだろうけど、誰もが一度は疑問に思っても、明確な答えがないから、みんな有耶無耶のまま忘れるだろう? つまりその程度のことなんだよ」

「普通の人ならそれでいいかもしれないけど、ケンジ君は物を作る側の人間だよね? 国語のテストを受ける人じゃなくて、問題を提供する立場なんだから。だったらその違いについて答えられるのが普通じゃない?」

「普通じゃないよ。答えがあるなら、とっくの昔に疑問を持つ人がいなくなってるはずだろう? 今でも疑問を感じるということは、それについて納得のいく答えを出した人がいないからなんだ。田舎の高校生が答えられる質問じゃないって」

「マンガを描きたいんじゃないの? だったら答えを出しなさい」

 いやいや、僕に対してだけ、やけにハードルが高いような気がする。

 今の僕は苦笑いを浮かべているが、この笑顔は喜でもなければ楽でもない。強いて言うなら哀怒だけど、ミッチには分かるまい。それでも僕は昔から考えることが好きだから、喜と楽についての答えくらいなら出せる気がした。

 まず捨てなければいけないのが、対照的な言葉で対になっているという考え方だ。『喜怒』と『哀楽』で分けたとしても、『哀喜』でも問題ない時点で、『喜』と『楽』の違いについて答えられていないからだ。

 そこで具体例を挙げてみる。僕にとって喜びとは褒められることであり、誕生日プレゼントをもらうことであり、美味しいものを食べることであり、いい音楽に出会うことであり、好きな女の子のことを考えることである。

 一方で僕にとっての楽しみとは絵を描くことであり、クリスマスプレゼントをもらうことであり、冷蔵庫にプリンがあることであり、お風呂で鼻歌を歌うことであり、好きな女の子のことを考えることである。

 つまり具体例を挙げても『喜び』と『楽しみ』に大した違いはないということになる。今までの僕ならここで挫折して考えるのを止めて問題を放り出していただろう。でもミッチと出会った僕は今までの僕ではない。

 そう、ミッチを描いて分かったのは、『喜び』には決定的に異なる二つの感情が同居しているということだ。それは似て非なる物と言ってもいいだろう。どちらも喜びに違いないのだが、根本的に異なる行動だ。

 分かりやすく言えば『ギブ・アンド・テイク』という言葉だ。能動的と受動的という言葉でも説明することができる。ミッチに似顔絵を描いて送る行為、つまり『ギブ』に人生の面白さが詰まっているように感じたのだ。

 それと同時に、似顔絵を見せた時に「よく描けてる」と言われた言葉が『テイク』になっていて、それが人生を潤す報酬のようなものになっていると気がつくことができた。どちらもギフトに変わりはないし密接に繋がっているが同じものではない。

 それが僕にとっての『喜』と『楽』との違いである。

「すごいね、やればできんじゃん」

 頭の中で考えていたつもりが、いつの間にか独り言になっていたようだ。

「うん。それはいいけど、なにしてんの?」

 ミッチに頭をナデナデされている。

「ギブだよ、ギブ。ケンジ君にとってはテイクでしょ?」

 それから遅い朝食として二人でモモ肉のハムを挟んだだけのサンドイッチを食べて、午後はミッチのリクエストに応じて色んな表情の顔を描く練習をした。気がついた時には部屋の中が薄暗くなっておりミッチの姿も消えていた。消えた理由まではわからなかった。


 翌朝、顔を舐められて起こされた。唇はもちろん、ホッペやマブタまで顔の至る所を舐められ続けた。閉じた口の中にベロを押し込まれ、こちらが抵抗しても嫌がっても、舐めるのを止めようとしないのである。

 その姿を見て、僕はそいつをベロと名付けようと思った。ベロはミッチが飼いたいと言っていた犬で、犬種はネット検索によると「ビーグル」と書かれてあった。詳しくないのでネット上の画像を元に絵を描いた。

 色んな犬種があるみたいだけど、ビーグルにしようと思ったのは特徴的な耳が気に入ったからだ。あのビローンと伸びた耳はまるでふかふかのイヤーマフラーをしているみたいでオシャレに見えたからだ。

 廊下に出るとフライパンによる演奏が聞こえ、見なくてもその上でウインナーが踊っている姿が想像できた。それだけで母さんが生きていた、あの懐かしい朝の光景を思い出すことができた。これで鼻歌が聞こえてきたら母さんが帰ってきたと思ったかもしれない。

 歯は磨いたけど、夏休みなので制服に着替える必要はない。昨日はTシャツにジャージ姿という、ダラダラした普段着で過ごしたけど、今日は大人が着るような白いYシャツとチノパンの組み合わせにしようと思った。理由は、なんとなくだ。

 ミッチが料理をしている姿を見ようと急いで支度をした甲斐あって、なんとか卵焼きを作る後ろ姿を見ることができた。卵焼きはタイミングが大事なので、かなり集中している様子だ。食べる前だけど、その姿を見て感想はシンプルに「美味しい」にしようと思った。

「おはよう」

 振り返ったミッチが微笑む。

「おはよう」

 たったそれだけのことが奇跡のように感じられ感謝せずにはいられなかった。それは当たり前のように毎日昇る太陽に、ふと、それがこの世界のあらゆる奇跡の源であることに気がついて感謝したくなる気持ちに似ていた。

「どうしたの?」

 ミッチの心配顔だ。昨日描いた表情と一緒だった。

「なんでもないよ」

「そう? ケンジ君の顔はまるで『当たり前のように毎日昇る太陽に、ふと、それがこの世界のあらゆる奇跡の源であることに気がついて、感謝したくなる気持ちに似ている』っていう表情をしているけど」

 ありえない会話だが彼女は僕が生み出したキャラなので、このような奇跡が起こるのだ。

「あれ? 昨日より背が縮んだ?」

「本当に? 自分じゃ分からないけど」

「昨日は女子プロレスラーみたいだったから」

「思いっきり趣味に走ったよね」

 そうだった。一緒にハムサンドを食べた時、「マヨネーズはいらない」って言ったから意識して身体のラインを細く描いたのだ。しかし適当に描いた体型だけでマヨネーズを拒否されるとは思わなかった。マンガならミリ単位で生活に影響を及ぼしてしまうということだ。

 家は平屋の一軒家で、狭いリビングダイニングキッチンしか家族の共有スペースはない。冬場の暖房費を思えばよく考えられているというのが分かる間取りだ。リビングの隣が両親の寝室だけど、敷居はあっても仕切りはないので暖かいまま眠ることができる。

 廊下に出ると浴室と僕の部屋があるだけだ。冬はリビングの熱を逃さないように遮断しているので吐く息が白い時がある。つまり外と変わらないということだ。夏場はひんやりとしており、冷房どころか扇風機すら回したことがない環境だ。

 ミッチとダイニングで朝ご飯を食べながら、結婚したら毎日こんなにも素晴らしい朝がやってくるんだ、と想像した。高校一年生で結婚について考えるのは早いかもしれないが、まだ女の子と付き合ったことがないので、結婚しないで別れるということが想像できなかった。

 しかし表情のバリエーションを増やしただけで、こうもキャラの性格が変わるだろうか?

 一緒のタイミングでワカメスープを飲んだだけなのに、思わず互いに照れ笑いを浮かべてしまった。それがトゥルー・エンドを迎えたゲームのエンディングみたいで満足しちゃうのだ。

 ミッチがベロにエサをやって、僕が洗い物をする。まったりしているが大満足である。出会って二日でハッピーエンドを迎えたわけで、これがマンガの話なら短すぎるが、リアルならこれ以上を望んではいけない状態だろう。

「ベロと遊んでたら、制服が毛だらけになっちゃった」

 僕は私服だけど、ミッチは制服のままだった。

「クリーニングには出せないけど、コロコロならあるよ」

「そうじゃなくて、私も制服じゃなくて私服に着替えたい」

 これは不覚だった。中学生になってから制服を着るようになったので、それ以降女子の私服姿を見掛けたことがない。だからミッチにも制服を着せたのだ。しかし夏休みで家にいるのに制服を着ているのは確かにおかしい。

「母さんの服があるけど、それは違うよな。どうしたらいいんだろう?」

「今日は我慢するとして、明日のために描けばいいんだよ」

「女の子の服なんて描いたことないって」

「だったら、買わなくてもいいから一緒に見に行こう」

「一緒に出掛けるのはマズいよ」

「お願い」

 昨日のミッチと別人のようだが哀しげな顔でおねだりされたら、男としては引き受けないわけにはいかなかった。それにしてもマンガを描くって女の子の服まで調べないといけないものなのか……。


「うわっ、巨人の国に来たみたい!」

 翌日、実験は成功した。前日にミッチの身長が縮んだことから身長も描き方一つで自在にすることができると確信し、昨日はベロの耳と同じくらいの大きさでミッチを描いたのだ。それならパーカーのポケットにミッチを入れて町に行ける。

 自転車の二人乗りは初めてだ。傍から見れば一人に見えるだろうが、下を向けばお腹のポケットに顔だけ出したミッチがいる。ポケットに女の子がいるというだけで自転車の運転が慎重になった。左右確認したことのない道までわざわざ減速して首を振った。

 国道沿いのショッピングモールまでは距離があるので駅前のデパートの女性服売り場を目指した。見た目はまだまだ子供だったが、それでも男子高校生が一人で歩くには抵抗がある。そこで買い物中の母親を待つ高校生を演じたが、チラ見で服を観察するのは難しかった。

 次に参考にしたのは線路の反対側にある屋内型遊園地だ。そこなら遊びに来ている同年代の女の子の服装をじっくり観察できる。一人で入場すると浮くので中には入らなかったが、髪型やバッグや装飾品なども含めてかなり参考にすることができた。

「あんまり真似をして描いてほしくないな」

 ミッチが口を尖らせる。甘えん坊に見えるけど僕の大好きな表情だった。

「でもファッションデザイナーじゃないから斬新なのは無理だよ」

「奇抜じゃなくていいの。そうじゃなくて、どうせ真似るならかわいいモデルさんが着ているような服を描いてほしいんだ」

 そこでしばし考える。

「だったらファッション雑誌を買った方がいいんじゃない?」

「それいいね」

 ということでティーン向けの雑誌を一冊買って家に帰ることにした。レジでお金を払ってから男が女性誌を買うのは恥ずかしいことだと気がついたが、ミッチと一緒だったのでまったく気にならなかった。

 気が大きくなったというわけではないが、ミッチと一緒にいると彼女のことを一番に考えるので、そのための犠牲、例えば遊園地の前で一人ぼっちで女の子を観察することで周りからブキミな変態に見えたとしても気にすることじゃないと思えてしまうのだ。

 家に帰る頃には日が沈んでいたので、この日もミッチは太陽と共にどっかに消えてしまっていた。それでも僕の頭の中はミッチのことでいっぱいだった。寝るまでに何枚もミッチの立ち絵を描いた。


 翌日はまるでファッションショーみたいだった。ノースリーブのサマーニットにロングスカート、白のパンツに肩掛けのパステルカラーのトップス、ロングのタンクトップにショートパンツ、麦わら帽子もよく似合い、サンダルもカラフルなものにした。

 僕が好きな服を勝手に選んでしまったので、どれも十五歳にしては背伸びしすぎだったかもしれないが、ミッチは大人コーデが気に入ったらしく、とても喜んでくれた。出会った初日は無表情だったけど、今度は微笑んで頭をナデナデしてもらえた。

 出会って四日目だけど、僕はもうすでにミッチのことが好きで好きでたまらなかった。元は二次元だろうと関係ない。三次元のリアル人間だって写真だけなら二次元だ。そもそもビジュアルと恋愛に相関関係などあるはずがないのだ。

 今はイケメン高校生にナリきったおっさんと美少女にナリきったおっさんがチャットで大恋愛をしてしまう時代ではないか。札幌と博多に住む見ず知らずのおっさん同士が時間や空間を越えて遠距離恋愛してしまうのだ。そう、恋愛感情なんて大いなる錯覚でしかない。

 それよりもマンガ家の描くヒロインの方が魅力的だ。そのヒロインには作家の思念が込められている。そのキャラクターに作家が出会った女性が投影されているとしたら第三者である読者が恋をしても何ら不思議じゃない。

 父さんが好きな鉄道アニメのヒロインにもモデルが存在しているわけだから、父さんは時空を超えてそのモデルとなった人を間接的に好きになったということだ。そう考えると目の前にいる人間しか好きになれない人など、とても偏狭だということが分かるだろう。

 僕はミッチが好きだ。自分が描いたキャラクターだとしても、その気持ちに偽りはない。この世に同性愛者が存在していることから、神様はこの世界を窮屈に作っていないということが分かるだろう? つまり人間は必ずしも生産的である必要はないということだ。


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