第十話 主人公を描く理由
いつまでもリビングで話をしていると不安にさせるので、麦茶を用意して急いで部屋に戻った。佳田さんは特に不振を抱いた様子はなく、本棚を眺めていた。
「この本棚に並んでるマンガとかCDって、おばさんのもあるよね」
「ああ、うん、半分以上は母さんのかな。押入れにもあるけど、マンガは時々読み返したくなるのだけ並べてるんだ」
「本棚って『その人の頭の中だって』言うよ。ということはケンジ君の頭の中の半分以上は、お母さんとの思い出ということになるね」
「だとしたら、新しい本を買って並べていくと、それだけ母さんとの思い出が薄まってしまうということかな? そう考えると、欲しいマンガや本はたくさんあるけど買うのをためらっちゃうな」
僕の言葉に佳田さんが微笑む。
「ケンジ君って本当に珍しい人だね。普通の高校生の男子ならお母さんのこと話したがらないのに、抵抗なく話せちゃうんだもん」
「いや、そういう時期もあったけど、僕の場合は人よりも遅くきて、一瞬でなくなっちゃったんだ」
「……そっか、わたしはまだまだ子供なのかな」
そこで佳田さんは麦茶を飲んだ。僕も真似して飲んだけど、同じ麦茶なのに彼女のグラスの方が美味しそうに見えた。それはでも、佳田さんの濡れた唇がそう感じさせたのだろう。
「あっ、そうだ、お線香あげなくちゃね」
そう言うと、靴と麦茶を持って部屋を出た。
佳田さんは部屋を出ると、玄関に靴を置いて、すぐに廊下の反対側に踵を返してリビングに入った。父さんが単身赴任していることは昨日話したので遠慮した様子がない。
小学四年生の時と一緒だった。歩き方からドアを閉める力加減まで同じで、見ているだけで懐かしくニヤニヤしてしまう。
「あれ?」
佳田さんが窓の外のベランダに目を凝らしている。
「ん?」
僕も同じ方向を見るが、特に何があるということはなさそうだ。
佳田さんは窓を開けてキョロキョロするが、最後は首をひねって諦めた。
「どうかしたの?」
「うん、気のせいかもしれないけど、外に人がいるように見えて、それが、たぶんだけど結愛ちゃんじゃないかと思って」
いやそれは、結愛は結愛でも、石川さんではなくて、僕が描いたキャラクターのユアの方だ。
「覚えてる? 四年生の時にクラスが一緒だったんだけど」
「石川さんでしょう? 覚えてるっていうか、中学も同じクラスだったよ」
「えっ?」
佳田さんが大袈裟に驚く。
「じゃあ、やっぱりわたしが見たのって結愛ちゃんなの? 家に来るっていうことは、付き合ってるっていうこと?」
「そんなはずないだろう。付き合うどころか、まともに会話したことがないまま卒業しちゃったよ」
「そうだよね。一瞬でも付き合ってると思った自分がバカみたい」
「それは言い過ぎだろう? いや、事実だけど」
「だって、わたしにとって石川さんは友達になりたくてもなれなかった人なのに、ケンジ君と付き合ってたら悔しいじゃん」
悔しがる意味が分からない。
「あっ、そういえば石川さんならちょっと前に偶然会って話したばかりだった」
「え? なんでいきなり?」
「近所のコンビニで万引きの濡れ衣を晴らしてもらった」
それを聞いて、佳田さんはバカ笑いするのだった。
こればっかりは事実だから笑われても仕方ない。
「あれだね、大人になって婦人警官になった同級生に偶然捕まる犯罪者みたいな感じかな」
「だから濡れ衣だって」
「それだけなら家に来ることもないから、やっぱり気のせいか」
ここでマンガを描いていることや、描いたマンガのキャラクターが目の前に出現する現象について打ち明けても良かったが、「線香をあげる」と言うのでタイミングを逃してしまった。
手を合わせている時間が長い。
こうなると邪魔をしないように気をつけることしかできない。
音を立てないように次の間のリビングへ移った。
佳田さんはまだ仏壇に手を合わせている。
これだけ長いと、彼女の目の前に母さんがいるように感じられた。
ふと、佳田さんの口元が何かをつぶやいた。
なんてつぶやいたかまでは分からない。
でもその後の彼女の顔はとってもすっきりしている。
それから立ち上がり、部屋の隅々を見渡すのだった。
「ちっとも変ってない。鏡台も、タンスの落書きも、ミシンが置いてある場所も、ひじ掛けのところが破れたソファも、テレビの位置も、食器棚の中もあの頃のまま。でも、ちょっとずつ小さくなってるんだよね。もしおばさんが生きてたら、おばさんも小さく見えたのかな?」
「きっと、『大きくなったね』って言いながら、頭をポンポンってすると思うよ」
「おばさん、わたしのこと許してくれるかな?」
急に佳田さんが真顔になった。そうだ、バカ笑いする顔の印象が強いけど、感情が見えない真顔の印象も同じくらい強く、それがこの顔だ。
「許すって、何かあったっけ? 悪いことした記憶なんてないけど」
「わたし、おばさんに髪を切ってもらったことがあって――」
「ああ、あれは母さんが僕の髪を切るついでに勢いでやっちゃったことだし――」
「違うよ。あれはものすごく悩んで、悩んで、ずっと悩んで、それでようやく決心して、おばさんに切ってもらったんだ」
※ ※ ※
そうだった。
今でこそ明るいイメージしかないが、転校してきたばかりの頃は違った。
初めて教室に入って来た時はうつむいたまま。
自己紹介をする声も小さくて、後ろの席の僕には聞こえなかった。
教室では大人しく、今のようにバカ笑いすることはない。
意図的に無視する人はいなかったけど、積極的に声を掛ける人もいなかった。
その様子を母さんに話したんだっけ。
それで佳田さんを家に呼ぶことになったんだ。
僕が親同士の会話を聞いている間、佳田さんは母さんのマンガを読んでいた。
それで帰りに母さんが「続きが読みたかったら、また遊びにおいで」と言ったんだ。
後で知ったけど、佳田さんはそのとき生まれて初めてマンガを読んだって言ってたっけ。
僕が美薗公園で友達とボール遊びをしている間も、佳田さんはウチでマンガを読んでいた。
ある日、家に帰るとリビングから歓声が上がった。
誰だろうと思ったら、声の主は佳田さんだった。
大人しい佳田さんが興奮していたからビックリした。
佳田さんは母さんと一緒にむかし録画した女子プロレスの番組を観ていた。
僕も強制的に見せられて、結果的に好きになったヤツだ。
それから嬉しそうな顔や、しかめっ面や、痛がる顔や、バカ笑いを見掛けるようになった。
どれも教室では見せない顔だ。
僕だけの秘密のようでドキドキしていたのを思い出す。
録画したオリンピックも一緒に見た。
彼女が目を輝かせたのはレスリングの吉田沙保里選手だ。
漢字は違うけど苗字の読みが一緒というのが彼女の自慢だった。
それからレスリングの真似をしたこともある。
勝敗は覚えていない。
オリンピックが終わった夏だった。
僕がいつものように坊主にして、彼女は長い髪をバッサリ切り落とした。
それ以来、ウチで一緒にプロレスを見ることはなくなった。
でも彼女の元気な姿は、教室の中で見られるようになった。
彼女の笑顔は、もう僕だけの秘密じゃなくなったけど、それで良かった。
今もそう思っている。
※ ※ ※
佳田さんが遠い目をする。
「知ってると思うけど、ウチのお母さんは昔からうるさい人で、全部自分の思い通りにしないと気が済まない人だったんだよね。
それこそ『好きな食べ物は?』って訊かれたら、『いちごって答えなさい』って命令されるのが当たり前のレベルで、好きな色とか、好きな数字も全部お母さんが決めてた。
テレビもお母さんが許可した番組だけで、マンガは全部ダメで、本は図書室にあるものだけで、音楽も選ばせてくれなかった。
そうやって育てられた子供がどうなるかって、私の場合は嘘を平気な顔をして言える子供になっちゃったんだよ。
嘘をつくのが平気になるとね、友達ができても、すぐにいなくなっちゃうんだよ。どんなに小さくても、女同士はすぐに分かるから。
でも皮肉なことに、わたしが嘘をついても、お母さんだけは騙せるというか、信じて疑わないんだよね。
図書室で本を読んでたって言えば、門限ギリギリでも怒られなかった。本当は家にいるのが窮屈っていうだけなのに。
この家でマンガを読んでた時も嘘をついてたんだ。ずっとお母さんは図書室にいると信じ切ってたと思う。
最初はマンガを読みたいだけだった。
でも家の中にあるマンガを全部読んでも足が自然とここに向かうのは、やっぱりおばさんと出会ったからだよね。
膝の上に座らせてくれたり、髪をとかしてくれたり、頬と頬をくっつけてくれたり、学校のことを話しただけで褒めてくれたんだ。頭をポンポンってしてね。
料理をしたことがないから、学校で調理実習が始まるのが怖かったんだけど、おばさんは包丁や火を使うことまで教えてくれたんだ。
料理で指を切ったり火傷したりするのは怖くなくて、それより知らないまま大人になる方が何倍も怖いからね、って言ってたのを覚えている。
気がつくと、おばさんには嘘をつけなくなってた。というより、みんなに嘘をついてしまう悩みを相談してたんだ。
それでおばさん、なんて言ったと思う?」
そう言って、思い出し笑いをする。
「なんだろうな? 僕なら『エイプリルフールだけにしとけ』とかかな」
佳田さんがニヤっとする。
「近い、さすが親子。おばさんは『嘘はいくらでもついていいよ』って言ったの。でも『人を傷つけないというのが条件ね』だって。
この言葉を聞いたのが、人生を変えた瞬間かな。だってすごい難しいんだもん。それで考えて、考えて、考え抜いて答えを見つけたんだ。
それはね、『嘘をつくなら、ちゃんと人を笑わせなければいけない』っていうことなんだ。できるかどうか分からないけど、やるだけやらないといけないって思ったんだ。
それで突然だけど、髪を切らなければいけないとも思った。理由は分からないけど、その方が笑ってもらえるような気がした。
でも切ってすっきりしたのはいいけど、お母さんが怒るだけじゃなく、お父さんも深刻な顔をするから、正直に言えなかったんだ。
それで家族揃っておばさんの元に行くことになったんだけど、事情を察したおばさんが『全部自分の責任です』って言って謝ったんだよね。
それを見て、正直に話さないのも悪いし、人に嘘をつかせるのも辛いし、人に謝らせるのも心が痛くなるって感じた」
思い出した。
僕は自分の部屋にいたけど、玄関でのやり取りは全部聞こえていた。謝る母さんと泣きじゃくる佳田さん。なぜ泣いていたのか分からなかったが、そういう気持ちだったのだ。
佳田さんが無意識にソファのひじ掛けの破れた部分をいじっている。なぜ破れたのか、長年の疑問が解けた気がした。
「それ以来、おばさんとはそれっきりになったけど、教室では過ごしやすくなった。『みっちは面白いね』って言ってもらえるようになったのも、髪を切ってからかな。
あっ、でもおばさんに謝らせちゃった次の日、わたし、懲りもせずにおばさんに会いに行っちゃったんだ。そこで『もう来ない』って約束しちゃったんだっけ。
それと最後にもう一つ大事な言葉をもらったんだ。それはね、『お母さんと友達になってあげなさい』だって。
その言葉でわたしは気分が一気に楽になった。他の親子は知らないけど、ウチのお母さんには、それがすごく必要だったんだ。
考えてみれば、転校が多いことで大変だったのは、仕事をしているお父さんや学校が変わるわたしだけじゃないんだよね。
お母さんも同じだけ大変な状況で、家の中で誰よりも寂しい思いをしているって思い至ることができた。
それで言いたいことを言うって決めて、ケンカもするようになったし、口を利かないこともよくあるし、泣かせちゃったこともある。
でも嘘はつかなくなったよ。今回の一人旅も、心配はしたけど、おばさんに会いに行くことはちゃんと正直に言えたからね。
あっ、でも三時間ごとに電話しないとダメなんだけど――」
そこでいきなり大股で立ち上がる。
「ああ、どうしよう、今日はまだ一度も電話してなかった。また泣かれちゃうよ」
そう言って、ドアに向かう。
「ちょっと待って! どこ行くの?」
なんとかドアの前に立つことができた。
「だから電話だよ。スマホがケンジ君の部屋に置きっぱなしだし」
「取ってきてあげるよ」
「いいよ、カバンくらい、自分で取ってくる」
「遠慮するなって」
「なに?」
そこで佳田さんの眼が完全に疑いの目つきに変わった。
「やっぱり誰かいるの? 浮気なら一発でアウトな挙動なんだけど」
「いないよ。いるわけないだろう」
「だったら、今すぐそこをどけて」
我ながら情けないとは思うが、こういう風に命令されて従うのが快感だったりするのだ。譲られた佳田さんは、そんなことは知る由もないって、当然か。
とりあえず僕が描いたキャラクターたちと遭遇するかもしれないので、佳田さんの後ろをついて行くしかない。
しかし僕の部屋には誰もいなかった。その場で彼女は母親に電話をし、僕はキャラクターたちを探すことにした。
といっても四人が身を隠せるような場所は浴室しかない。そこにいなければ外に移動したということになるが、残念ながら退散してくれなかったようだ。
文字通り、浴室の曇りガラスのドアに四人分の聞き耳がピタピタと引っ付いているのが、僕の立っている外側の位置から丸見えだった。
「なにしてるんだよ」
音を立てないようにドアを開けると、ミッチたち四人のキャラクターたちが一斉にしゃべり始めた。
「なにしてるじゃないでしょ」
「それはこっちのセリフだよ」
「成瀬君は何がしたいの?」
「お兄たん、本当にあの人のこと好きなの?」
彼女たちの前でそれを言明するのは抵抗がある。
「なんで言えないかな?」
「いまさら恥ずかしいとか言わないよね?」
「言えない程度の気持ちっていうこと?」
「セルナは、あのお姉たん好きだな」
僕が知らないうちに、いつの間にか彼女たちの中にも心の変遷があったみたいだ。
「反対に訊くけど、僕が佳田さんに好意を抱いても何も思わないの? これからの僕たちの関係性とか不安にならない?」
ミッチが笑う。
「そんなこと気にしてたんだ。わたしたちを誰だと思ってんの? ケンジ君が考えていることくらい、こっちは全部分かってるんだよ。気持ちに嘘をつける人じゃないことも知ってるんだから、ヘンな気は遣わなくていいよ」
チョコも余裕の表情だ。
「彼女と再会するまで、ちゃんとウチらと向き合ってくれたもんね。簡単に人を傷つけられる人じゃないことは分かってるんだ。でも自分の気持ちを誤魔化してまで気を遣う必要はないよ。それって結局、自分の人生を傷つけることになるんだから」
ユアは表情が変わらない。
「わたしたちを描いていく限り、これからも二次元と三次元の狭間で悩み続けると思う。そのたびにミッチやチョコちゃんとケンカになるかもしれない。それでもこの瞬間は、いま抱えている気持ちを大切にするべきじゃないかな、って私は思う」
「セルナも応援する。あのお姉たんとお付き合いすると、お兄たんと遊べる時間が少なくなるかもしれないけど、それでもいいんだ。その時は、あのお姉たんも含めて、みんなで遊べばいいんだもん。だからお兄たん、がんばって」
最後はセルナの邪気のないエールだった。
「みんな、ありがとう」
言葉にすると、泣きそうになる。
「感謝して泣くのは早いと思うけど」
ユアの忠告に、チョコが頷く。
「そうそう、ウチらだって本音を言えてるか分からないしね。ひょっとしたら虚勢を張ってるだけかもしれないんだし、特にミッチとか」
すかさず反論する。
「それは自分のことでしょ?」
「ハッ?」
「とぼけてもムダだから――」
「――もう、ケンカはやめて下さい」
セルナが注意するというのは新しい構図だった。
「ほらね、こうなると思ったんだ」
ユアの予言通りだ。
「セルナの言う通り、ケンカはよくないと思う」
その言葉でミッチとチョコの共通の敵が僕に切り替わってしまった。
「なに言ってるの? 元々は、はっきりしない性格のケンジ君が悪いんでしょう? 優柔不断っていうレベルじゃないよ。ヤキモキしても楽しめるっていうんじゃなくて、ひたすらイライラしちゃうんだよ」
ここでミッチからチョコへバトンタッチする。
「そうだよ、さっさと決めて、とっとと行動に移してくれれば、誰も文句なんて言わないよ。ケンジって何をするにしても、どこか他人事なんだよね。傍観者っていうのかな? 自分が主人公っていう意識がないんじゃないの?」
ここで再びチョコからミッチへバトンタッチした。
「それだ。主人公としての自覚がないから、何一つ自分で決められないんだよ。締まらない作品というか、つまらない人生にしているのは、自分のせいなんじゃないの? 主人公っていうのは、ここぞという大事な場面で重要な決断をしてくれるから主人公なんでしょ? ケンジ君みたいに逃げているだけだと、読者だって逃げたくなるよ」
二対一の変則タッグマッチに、僕は完全に戦意を喪失してしまった。それはでも諦めたということではない。僕が向き合わなければいけないのは、目の前にいる彼女たちではないからだ。
「分かったよ」
僕の決意を感じ取ったのか、ミッチとチョコは何も言わなくなった。まぁ、決意といってもたきつけられた感じは否めないけど、決意したのは間違いなく僕自身だ。
「お兄たん、ファイト~」
セルナに見送られて浴室を出た。
廊下に出るとリビングの方から料理の匂いがした。ずいぶんと懐かしい、母さんが生きていた頃の家の匂いだ。
「勝手に使わせてもらってる。もう少しでできるから、座って待ってて」
佳田さんがキッチンに立って料理をしている。背の高さといい、体型といい、髪の長さといい、後ろ姿が母さんそっくりだった。
華奢なのにプロレスが好きで、マンガを読んでバカみたいに笑う時があるなど、趣味や表情も母さんに似ている部分が多い。
でもそれは元々似ていたというより、ひょっとしたら佳田さんが母さんに影響を受けて似せていった結果が現在の彼女の姿なのかもしれない。
「時間があれば、もっとちゃんとした朝食を作れるんだけどな」
しゃべりながらだけど、ちゃんと手は動いている。
「予定があるの?」
「うん、昨日ユカリちゃんちに泊めてもらってるって言ったでしょ。それで今日はお昼からみんなで美味しいもの食べに行くことになってるんだ」
ユカリちゃんというのは小学校時代のクラスメイトだった花田さんのことだろう。
「北海道を出るとジンギスカンとか食べなくなるし、たまに思い出してスーパーでラム肉を買って家で焼いてみるんだけど、もの足りないというか、こんな味だったっけってなるんだよね」
「ああ、僕らは専用のタレの味と一緒に記憶してるからね。でも今ならネットで注文とかできそうだけど」
「とうきびもアスパラも全然違うよ」
「今の時期は特に違うだろうな」
「ほんと、ほんと。でも引っ越して分かることもあるから悪いことばかりじゃないかな」
出来上がった料理は、言葉通り簡素なものだった。トーストと生野菜と卵焼きと牛乳。でも僕にとっては特別な料理だった。
彼女の作る卵焼きは、母さんの作る卵焼きとまるっきり同じものだ。分厚くて、ふわふわで、焦げ目の入り方まで一緒だった。
「食べないの?」
食卓で向かい合った佳田さんが訊ねる。
「どうして、これを?」
「あっ、これ? おばさんが作る卵焼きが好きだから、教えてもらったんだよ。でも教えてもらった通りできているか自分では分からなくて、だからケンジ君に食べてもらいたかったんだ」
「見た目はそのままだね」
卵焼きに箸を入れると、その箸の通りも一緒だった。口元に運んだ時の匂いも一緒で、歯触りや舌に染み込んでいく味わいも、母さんの味と同じだった。
「美味しくない?」
「いや、あまりにも一緒で……」
「ごめん、そんな反応になると思わなかった」
泣きそうなくらい嬉しいのに、それがうまく伝えられない。そういう時は、やはりちゃんと言葉で伝えないといけないのだろう。
「ありがとう。美味しいよ。僕が作った卵焼きよりも何倍も美味しい」
そう言っても、佳田さんは喜んだ顔は見せてくれなかった。
「わたしこういうとこあるよね、なんていうか、『人の心に土足で踏み込んじゃう』っていうのかな?」
確かに今朝の佳田さんは、文字通り僕の部屋に土足で踏み込んできたわけだが――
「いや、本当に美味しいんだ。でもリアクションが上手にできないというか――」
「ほんとだよ、笑うなら笑う、泣くなら泣くってはっきりしてくれればいいのに。ほんと昔からハッキリしない性格だよね」
ミッチも同じことを言っているが、こちらが本物だ。
「それじゃあ、約束の時間があるから、わたし行くね」
「食べないの?」
「ほんと時間がないんだよ」
そう言いながら、立ち上がり慌ててエプロンを脱いだ。
「後片付けできなくて、ごめんね」
カバンを持って出口へ向かう。
僕が立ち上がると制するように、
「いいよ、いいよ、食べてて」
ここが、僕にとっての決断の時だった。
「あの――」
振り返った彼女の顔に、ありったけの勇気をぶつける。
「明日、時間ある?」
一瞬なのに、永遠のようにも感じられる間だった。
「ごめん、明日は元ちゃんに会って、それからユカリちゃんたちと遊園地に行くんだ。十人以上集まる予定でさ、小学校の同窓会をするみたいな流れになったんだよね。ああ、ケンジ君はクラスが違うから参加は無理かな?」
現実とは、こんなものだ。




