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KISSは拳に  作者: 純一郎
6/12

KISSは拳に⑥

 肌がマットを擦る音が聞こえる。男達の耳は長年の床との摩擦によって潰れている。

「そうだ。三沢。相手は下から引きずり込んでくるぞ。絶対に足に挟まれるな」

 三沢はスパーリングパートナーに倒されると相手の足を掴足十字の体勢にもっていった。パートナーは三沢が力を込めるとすぐにタップした。

「どうだ?今のは?」

 パートナーは柔道元金メダリストの吉井だ。ブラジリアン柔術の起源は遡れば日本の古武道に由来する。柔道を経て独自の型となったのが柔術だ。柔術の祖とも言える柔道家とスパーをする事は柔術家の攻略に不可欠であった。

「いや、完璧ですね。まあ、僕はブラジル人程関節が柔らかくないのでなんとも言えませんが、普通の選手なら今の三沢さんにグランドで勝てる相手なんていないですよ」

 三沢より二つ若い吉井は肩で息をしていた。それに対して、三沢は呼吸を乱してはいなかった。連日のロードワークは彼に無蔵のスタミナをもたらしていた。

「それにしても、なんで柔術家に寝技で勝とうなんてするんですか。三沢さんなら打撃で秒殺でしょ?」

「なに言ってやがる。おまえだってこの前の試合、寝技使わなかっただろ?」

 吉井は前回の試合でボクシングの元日本チャンピオンとやり合い、見事パンチでKO勝利を収めていた。

 「そりゃ、意地って奴ですよ。パンチで勝ちたいじゃないですか。寝技しかできなと思われてるんだから。ちょっと熱くなったってのもありますけどね」

「俺も一緒だよ。意地だな。特に俺は一回負けてるからな」

 ジムに設置された電光の時計が三分を切ろうとしている。それがゼロにカウントされると10分の表示がカウントされる。総合の1ラウンド分の時間だ。

「さて、もう一本行こうか?」

「はい」

 ジムにゴングが響き渡ると、三沢は早いタックルで吉井からテイクダウンを奪い膝を揃えて腹の上に乗った。そしてそのまま腹のカーブを脛で滑ると、あっさりとマウントポジションをとった。

「なんすかこれ?」

 上になった三沢に吉井が苦しそうに聞く。

「必殺、マット滑り」

 三沢は拳を振り上げ殴るフェイクを入れてから、吉井の腕をとり腕十字を極めた。

「ギブギブ」

 タップですぐに手を離す。

「新必殺技ですか?」

「そうだ。とある個室で覚えた」

 ニヤついた三沢の顔を見ると、渋川の怒号がジム内に響いた。


 試合二週間前。三沢の試合をメインとした興業の記者会見が開かれた。イベントプロデユーサーを挟み、三沢と渋川、そしてサンチェスとそのトレーナーがホテルの金屏風の前に並んだ。

「えー四月の大会のメインイベントは、パンドラスミドル級王者、三沢真也選手と、ブラジリアン柔術アカデミー所属、ボドリゴ・サンチェス選手の試合に決定いたしました」

 激しいフラッシュがたかれる。サンチェスは余裕の表情でそれに応えて、ブラジル人らしく陽気に身体でリズムを刻んでいた。

「三沢選手は一度サンチェス選手とやって負けていますね。リベンジマッチとなるわけですが、意気込みはどうですか?」

 ストレートな質問が記者から飛び出す。

「そうですね、あまり意識はしてないですよ」

 すると、三沢のマイクを渋川が掴み取った。

「当然。やられたらやり返します。あれはデビュー戦だった。今では何戦もし、三沢はチャンピオンになっている。昔の彼と同じだと思わないでいただきたい」

「では、サンチェス選手。アブダビでの大会でも優勝して調子は良さそうですが、試合の展望は?」

「ラウンド1.KO。ワタシノカチ」

 サンチェスが笑みを崩さずに片言の日本語で言いきった。すると、渋川がそれに応える。

「なんじゃとクソガキが」

 フラッシュがさらに激しく瞬く。

(明日の一面は、サンチェスと先生の睨み合いだな)

 苦笑いを浮かべていると、格闘技の会見場に似つかわしくない女の声が飛んできた。

「前回の試合ですが、パンチで応戦すればもっと早く勝てたと思いました。なぜリスクを犯したのですか?」

 声の湧いた記者席に目をやると、薄い縁のない眼鏡をかけた女がテープレコーダーを掲げていた。格闘技の会見には珍しい女記者だ。

「お嬢さん。あの試合には意図があった。打撃で相手を疲れさせるってな。相手は勢いがある。無駄に応戦してラッキーパンチを食らうのは御免だからな」

 渋川は意外と紳士に女性記者の質問に応えた。記者は納得するように頷くと質問を返した

「なるほど。ではパンドラスでは対戦相手のほとんどが日本人でしたが、外国人とやる事への苦手意識があったのでしょうか?」

「苦手意識なんてないよ」

 すかさず三沢が口を開いた。皮肉交じりの質問に腹を立てたわけではない。女記者に興味を持ったのだ。眼鏡から垣間見える瞳が少年の様に真っすぐだった。

「では何故?」

「タイミング。コンディション、団体間の関係、ファイトマネー。様々な要素が折り合わないとやりたい相手と試合はできない。そういう業界だ。俺の場合はただその多くが日本人であっただけだ」

「つまり、今回の相手にも特別な意識はないと?」

「いや、なくはないさ。一回負けてるからな。だから、グランドで勝つよ」

 記者席が沸き上がった。誰もが柔術のスペシャリスト相手に寝技で戦うとは思っていなかった。しかし同時に渋川に頭を叩かれた。

「あほ。手の打ち明かしてどうするんだ」

 確かにグランド勝負を挑む事は奇襲と言えた。渋川の戦略の中には予想外のグランドでの勝負によって相手のペースを乱す目論見があった。しかし三沢はいとも簡単にそれを明かしてしまった。それが奇襲であると理解していたにも関わらず。

 自分でも不思議だった。女記者の眼差しに見つめられ自然と口が滑らかになってしまった。女の瞳には全てを射抜くような正直さがあった。三沢はその視線に絆されて口を滑らせた。女記者が、更に闊達な口調で続ける。

「寝技勝負ですか?それはリスクが高いですね。相手は柔術家。あなたはレスリング出身。意地を張るよりも、勝つ方が先決ではないですか?」

「ただ勝つだけじゃプロじゃない。客の喜ぶ試合をしなければならない」

「なるほど。プロ意識ですか」

 そう言うと女記者はレコーダーのスイッチを切った。

「他に質問は?」

 不機嫌そうな渋川が立ちあがった。

「それではこれで」

 三沢はまた渋川に叩かれると席を立った。

「まったく、何をいらん事をべチャべチャと」

「勝てばいいんだよ」

 会見場を出る時、三沢は女の姿を探した。女はレコーダーをサンチェスに向けていた。その腕はか細く長く、今にも折れてしまいそうに見えた。しかし、眼差しは相変わらず真っすぐで不思議な力があった。三沢はしばらく、その女の姿を忘れる事ができなかった。


 次にその女に会ったのは試合一週間前だった。格闘技雑誌の取材時に顔馴染みの記者と共にジムに現れたのだ。

「いや、すいません。この前はこいつがいらん事を聞いてしまって」

「構わないよ。喋ったのは俺だ」

 女は子供の様に不貞腐れて三沢の言葉に耳を貸さずにジム内を見渡していた。

「新人なんで、大目に見てやってください。鶴田って言います」

「鶴田?」

名前を告げられると女はバツが悪そうに少し俯いた。三沢も鶴田と言う名字に聞き覚えがあるような気がしたがすぐに思い出す事はできなかった。

「さて、試合前で時間もないでしょうからすぐに取材を始めさせてもらいます」

「ああ」

「では、今回団体を移籍した理由は?」

「そうだな。正直に言えばステップアップ。パンドラスの試合もレベルが高いと思っているが、やはり地上波のテレビ放送で試合ができると認知度があがるからな」

「では、パンドラスの王者としてのプレッシャーは?」

「そりゃあるさ。今でもパンドラスに愛着はある。負けるわけにはいかない」

 鶴田は取材中、三沢に一瞥もくれずにジムの練習生達を見つめていた。有望な選手でも探しているのだろうか?そう感じると三沢は少し嫉妬した。このジムで一番有望なのは自分だ。

「ちょっとあんた」

 ふいに三沢が鶴田に声をかけた。彼女は真っすぐな瞳をやっと三沢に向けた。心のどこかを射抜かれた様な感覚がまた彼を襲う。

「あんた、今日は静かなんだな」

「ええ。喋るなと言われてますから」

 鶴田は恨めしげにベテラン記者を睨んだ。

「いやあ、こいつが喋ると必ず事件が起こるんで」

「そうですか?他の記者と同じような事聞くよりましだと思いますけど」

 男性記者は舌打ちをして不快感を露わにした。気の強い女の態度が三沢には愉快だった。

「あんたおもしろいな。じゃあ俺が許す。何か聞きたい事はあるのか?」

 すると黒目がちな瞳を輝かせて鶴田が言った。

「ホントですか?」

「ああ」

 黒いストレートの髪を縛ると、鶴田はレコーダーを取り出して録音スイッチを入れた。ベテラン記者は機嫌を害したようだったが三沢にはどうでもいい。興味があるのは女記者の方だ。素人女に三沢が関心を惹かれたのは初めての事だった。

「では、格闘技をする上で普段心がけている事はなんですか?」

「そうだな、己に負けない事。練習中、練習じゃない時、格闘家はいつでも格闘家でなくてはならない。しかし日常生活には誘惑が多い。それに負けようとする自分を戒める精神力が大事だ」

「では、格闘家に必要な資質は?」

「努力できる事」

「では・・・」

 鶴田が次の質問に移行しようとすると、三沢はそれを遮って言った。

「じゃあ、次は俺に質問させてくれよ」

「は?」

「いいじゃないか。で、あんたはなんで格闘技の記者になったんだ?」

「なんですか急に。これじゃあ立場が・・・」

「いいから。なんで記者になったんだ?教えろよ」

 言いながら、三沢が自分に向けられていたレコーダーを取って鶴田に向けた。ベテラン記者は機嫌が直ったようで瞠目する鶴田を二ヤつきながら眺めていた。

「私は・・・そんな事あなたに言う必要ありません」

「おいおい。人にこんなに根掘り葉ほり聞くのに自分の事は喋らないのか?」

「私は仕事ですから」

「じゃあ、どうしたら教えてくれるんだ?」

「何言ってるんですか?私を口説くつもりですか?格闘家に興味はありません」

「なんだそりゃ?興味ないのに取材にくるのか?」

「いえ、それは・・・」

 鶴田が初めて困った表情を浮かべた。三沢は眼鏡越しではなく、直にその表情を見たいと思った。

「なあ、あんたんとこの雑誌に、これからずっと独占の取材権をやるよ」

 三沢はベテラン記者に言った。

「本当ですか?」

「ああ。その変わり、次の試合グランドで勝ったらこの子とデートさせてくれ」

「そりゃもうどうぞどうぞ」

 ベテラン記者は喜び勇んで同意した。

「ちょっと。何言ってるんですか?そんなの私は快諾していません」

「上司の命令だ」

「ふざけないで下さい。女だからってバカにしてるんですか!」

 鶴田はジムに響く大きな声で叫ぶとピンと背筋を伸ばしてジムを出て行った。

「ありゃ、だいぶ怒らせちゃったかな?」

「大丈夫です。社に戻って必ず説得してきますから。その変わり、さっきの話お願いしますよ」

「ああ」

 ベテラン記者は自信ありげに言うと鶴田の後を追っていった。すると後ろで話を聞いていた渋川に頭を叩かれた。

「イテッ!」

「あほ。試合前に女口説いとる場合か」

「ばれたか」

「当然じゃ。あんなでかい声でイチャつきやがって。さっさと練習に戻れ!」

「おす」

 ジム内のゴングが鳴ると、三沢はすぐに練習に集中した。

 彼は明らかに、鶴田と言う女に惹かれていた。何に惹かれているのかはよくわからなかった。何せ素人女は相手にした事がない。

 しかしとにかく興味があった。そしてどうしようもなく抱きたい衝動にかられた。玩具に駄々をこねる子供のように鶴田が欲しいと思った。

 しかし、試合一週間前に女に溺れるほど彼の精神は弱くはない。今、彼の本質的な欲求を満たすのはサンチェスにグランドで勝利した瞬間だけだ。その為に様々な誘惑を排除して練習に集中している。一瞬にして負けた前回の試合の悔しさを何度も練習中に思い出しては増幅させてきた。

 スパーリングパートナーの金メダリスト吉井を三沢は様々な寝技の連続攻撃で責め立てる。吉井は十分の間に五回もタップを余儀なくされた。

「完璧ですよ。三沢さん」

 吉井が懲り懲りだという表情で言うと三沢は打撃の練習の用意をしながら言った。

「完璧なんてことはこの世にない」

 三沢の才能の中核を満たすのは、この飽くなき追求心であった。

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