KISSは拳に④
吉原のソープランド「雅」に入ると、ボーイが三沢に笑いかけた。
「三沢さん。最高の試合でしたね。マウントからのあのパンチ。興奮しました。相手のラッシュの時のガードが完璧で・・・」
格闘マニアのボーイは興奮気味に三沢の試合の解説を始めた。三沢はそれを遮る。
「沙耶はいるんだろ?」
下半身はすでにパンパンだった。試合から二日。会見やら取材でなかなか店に来る事ができなかった。しかし、三沢のアドレナリンが収まることはなく、欲求が膨らみ過ぎて後輩をスパーでボコボコにしてしまった。
「はい。当然出勤しております。こちらへ」
焦って小部屋に入ると、下着姿の沙耶が柔らかい身体で出迎えてくれた。
「真ちゃん。また来てくれたのね。ていうかおめでとう。勝ったんだって?」
「ああ。楽勝だったぜ」
「今日は特別サービスいっぱいしてあげる」
「ホントか?」
「うん。でも、サービス料はもらうわ」
「まったくしっかりしてやがる」
グランドで絡み合う男共とは違う、柔らかい手が三沢の服を優しく剥がしてゆく。
ソープ遊びはプロレス団体に入門してから覚えた。青春時代をレスリングに打ちこんだ彼は高校を卒業した時、まだ童貞だった。団体に入った後も厳しい練習の為、女の事を考える余裕などなかった。
プロレス団体の社長に初めてソープに連れられた時、女のやわ肌の素晴らしさを知った三沢は格闘技以外で初めてのめり込む様な感覚に陥った。
男とは違う女の柔らかさ。快感。放出した後の満足感。試合で相手を倒した時と似ている様な、全く異なっている様な爽快感。
練習生時代は給料がないのでなかなか行けなかったが、ジュニアでデビューして給料をもらうようになってからは毎月の様に通うようになった。しかし、総合を始めると渋川にソープ通いを禁止されてしまった。
「恋愛などにのめり込むよりましだがな、試合前は禁止だ。欲求を溜めろ。それでそいつを相手にぶつけろ」
許されたのは試合後のみ。しかも、渋川は対戦相手が決まると数カ月先であろうとソープに行く事を許さなかった。腰が入らなくなるのが理由だと言った。
まだ20代の三沢にとって禁欲生活は拷問だ。練習の最中に痴態が頭をよぎるとスパー中でも下半身が反応してしまう事がある。そんな時はどうにか対戦相手を思い浮かべて鎮めなくてはならない。
「ねえ。三カ月振りでしょ。すごいタマってそう」
沙耶が三沢のモノを弄びながら言う。コースは一時間だ。放出してしまいたい欲求は激しくあったが、久しぶりの楽しみをすぐに終わらせてしまうわけにはいかない。
「ああ。もう大変だったぜ」
すると、下半身に電撃が走った。
「うお!お前今、なにやったんだ?」
「ふふ。秘密のフィニッシュブロー」
沙耶は最近の三沢のお気に入りだった。少しきつめのルックスにでかい胸。腰が痩せすぎだったが抱きがいがあった。しかしこの業界が長いせいかテクニックに長け過ぎていて、三沢はいつも時間前にイってしまう。仕事を速く終わらせたがるところが玉に瑕だ。
「また変なテク覚えやがって」
「貪欲なの。私」
沙耶が三沢の上に跨った。
「これを待っていたんでしょ?」
ゆっくりと、沙耶が動き始める。マウントをとられて格闘家が喜びを感じる唯一の瞬間。
「待ってた。ああ。マジたまらないな」
さらに沙耶がデカイ胸を三沢の顔に押し付けた。三沢は必死にその胸を弄る。
「あん。真ちゃん。気持いい」
動きが激しくなる。三沢は胸の圧力で窒息しそうになりながら放出した。
その時にやっと試合に対する緊張感や不安が身体から抜けていった気がした。全身に力が入らない。
(今襲われたら、誰にでも負けるな)
心地良い脱力感に支配されながら、三沢は至福の時に浸った。
ジムに戻ると、汗とワセリンの混じった臭気が鼻をついた。ミットとグローブの弾ける音。身体とマットが擦れる時に生じる摩耗音。男達の身体から放たれる熱気が四季を感じさせない程に部屋の温度を上昇させている。
自分の身体に纏わり付いた女の匂いが蒸発してゆくのを感じた。一週間の休養の間、一日置きに吉原に通い詰めてしまった。粘りの効いた腰がすぐに回復するか不安だった。懸命に練習に勤しむ後輩の姿に、少し後ろめたさを感じる。
「おはようございます!三沢さん」
活きのいい声が聞こえた。後輩の郷野だ。郷野はプロレス団体に所属していた時からの後輩だ。団体消滅後、同じ様に行き場を失った彼を三沢が総合格闘技に誘ったのだ。
「おう。どうだ。調子は?」
郷野は数週間後に試合を控えていた。総合に転向後、郷野の戦績はふるっていない。勝っては負けての繰り返しで、今は二連敗中だった。次の試合は正念場だ。業界では、三連敗すると引退を囁かれる。
「バッチリですよ。つか、俺には後がないですから。やるしかないです」
「そうか。とにかく引き込むんだ。お前のグランドテクニックにそう勝てる奴はいない」
「うす!」
ロッカールームに入って着替えを始めた。鏡の前で身体をチェックすると張りが失われているのがわかった。鈍った身体をほぐしながらの今日の練習メニューを考えていると、鋭い声が背中に響いた。
「マリアには会ってきたのか?」
鏡越しにトレーナーの渋川が仁王立ちしているのが見えた。
「ま、まあ」
すると突然、頭を平手で叩かれた。
「アホ!一日置きにソープに通う奴がいるか!休養にならんじゃないか!」
「え?なんでそれを・・・」
「筒抜けじゃ」
三沢は瞬時に耳打ちした可能性のあるジム仲間を数人頭に浮かべた。あとでスパーリングで痛めつけなければならない。
「おい。次の対戦相手が決まった」
「早いな」
こんなに早く地獄の日々が始まるとは予想外だった。地獄の禁欲生活。
「一度やった事のある相手だ。ブラジリアン柔術家。ボドリゴ・サンチェス」
「なるほど」
その名前を聞いた瞬間、三沢の瞳に炎が宿った。
それはデビュー戦の事だった。寝技の対処を知らなかった三沢は、サンチェスのグランドに数秒でやられた。いつかリベンジしたいと思っていた相手だ。
「話題作りもあるだろう。パンドラスチャンピオン参戦。相手は一度負けている柔術世界チャンピオン。初戦からリベンジマッチだ」
「前と同じ様に、引き込んでくるな」
「ああ。寝かせたら長引く。上になっても、向こうは足が長く柔らかい。こちらが有利なのは打撃。タックルをカットし続ける。パンチで勝負する。寝かされたら動かずレフリーのブレイクを待つ。これが常套手段だが」
三沢の顔が紅潮してくる。常套手段?そんなもの糞食らえだ。やられた事を返さなくてどうする。
「それがスタンダードな手段。でも、やられたらやりかえさないと」
「つまり?」
言いながら、渋川も嬉しそうな顔をしている。
「寝技で勝つ。柔術家に寝技で勝ったら、それこそいい話題になる。それに、俺もあいつに恩返しがしたいしな」
打撃、寝技。この二つが一体となった総合格闘技では、自分の得意分野で勝負するのがセオリーだ。
ボクシング出身なら打撃。柔道、柔術あがりなら寝技。しかし、負けん気の強いこの師弟はそれをよしとしない。相手のフィールドで勝ってこそ最強。そして、どの分野でも一流なのが最高。それがこの二人の目指す道なのだ。
「よし。心意気は休暇してなかったようだな。すぐに着替えて来い」
「おす!」
渋川がロッカールームを出てゆくと、三沢は背中のマリアを鏡に映した。しばらくはまた、女のやわ肌から遠ざからなくてはならない。
微笑む背中のマリアを手で摩りながら目を閉じる。しかし数秒後、瞼を開けた三沢の顔は磔にされたキリストよりも厳しい表情に変わっていた。